第245話「削ぎ落とされた街の輪郭」
久世恒一が資料室の窓を開けると、夜明け前の冷たい空気が室内に流れ込んできた。
街灯の光が、湿ったアスファルトの上にぼんやりとした輪郭を落としている。
その光の届かない路地の奥は、まるで最初から存在しなかったかのように深い闇に包まれていた。
柿崎はすでに席に着き、新しく用意した真っ白なノートを開いていた。
彼女の指先は、万年筆の黒い軸を静かに、しかし均等な力で握っている。
まだ一文字も書かれていない紙面が、室内の薄暗い明かりを静かに反射していた。
「昨夜、駅の向こうの古い民家が一つ、空き地になっていたわ」
柿崎は窓の外を見つめたまま、感情の起伏を交えずに呟いた。
「壊されたのではないの。ただ、誰もそこに誰が住んでいたかを思い出せなくなったのね」
久世は手元にある夢記録の束を整え、引き出しの奥へと収めた。
説明を試みる記述はすべて、世界の厚みをかえって薄くしてしまう。
ただ、起きた事象だけを正確に記述する。その沈黙に近い作業だけが、この資料室の正しさを支えていた。
世界が自らを削り落としていく速度は、人間の意識の隙間をすり抜けていく。
何も語らない無言の空間が、資料室の壁際にある古い棚の数を少しずつ増やしていた。
久世は新しく届いたインク瓶の蓋を開け、静かにペンの先端を浸した。
観測層:第4層 記録単位:局地消失記述 対象:生活圏(境界外縁)
備考:存在強度の低下に伴う、物理的建築物の非破壊的消失の確認。
記録主体:Archive 状態:稼働中




