第51話 青い丸い生き物の絵
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その日の昼、レスタルムから荷を運んできた荷運び人のエルド・サーヴァンは、村の通り沿いに建つ薬房の前で足を止め、掲げられた看板を見上げながら、本気で道を間違えたのではないかと考えていた。
聞いていた場所は間違っていない。
村へ入る前に確認した地図も合っていた。
道中で出会った農夫へ尋ねた時も、「青ぷよ薬房ならあの先だ」と同じ方向を指された。
それなのに目の前にある建物は、どうにも薬を扱う店には見えなかった。
二十九歳になるエルドは、ライン川の船着き場と北西街道を行き来しながら荷を運ぶ仕事を生業としている。船で運ばれてきた荷を倉庫へ移し替えたり、街道沿いの宿場や村へ届けたり、その逆に集荷を行ったりと仕事内容は様々だ。荷の量や依頼内容によって収入は変動するが、景気の良い月であれば三千Rを超えることもある。傍から見れば悪くない稼ぎに思えるだろう。
しかし実際には、荷車の車輪や軸の修繕費、馬の飼料代、宿代、食費、道中で必要になる細かな備品代に加え、仕事仲間へ立て替えた金が戻ってこないことも珍しくない。帳簿の上では稼いでいるように見えても、手元へ残る金は思ったほど多くはなかった。
だからこそ怪我や病気は厄介だった。
三日前、雨上がりの荷下ろし作業中に足を滑らせ、濡れた荷台の上から崩れかけた木箱を支えようとして右脚を強打した。運悪く脛の部分が木箱の角へまともに当たり、その場では声が出るほど痛かった。
幸い骨は折れていない。
歩くこともできる。
仕事を続けることも不可能ではなかった。
だが腫れはなかなか引かず、朝より夕方の方が痛む。日が沈む頃になると患部がじんじんと熱を持ち、靴を脱いだ時には脈打つような鈍痛が続いていた。
放置して治るならそれでいい。
しかし悪化して長引けば、荷運びの仕事そのものへ支障が出る。
かといってレスタルムの治療院へ行く気にもなれなかった。
街の正式な治療院は確かに腕が良い。
だが診察だけでも数十Rは飛ぶし、塗り薬や飲み薬まで含めれば二百Rを超えることもある。さらに数日の安静を勧められれば、その間の収入まで失うことになる。
薬代より休業損失の方が痛い。
それが荷運び人の現実だった。
そんな時だった。
同じ仕事仲間の一人が、荷車を引きながら何気なくこう言ったのである。
「エルムホルン村に、安くてよく効く薬を出す妙な店があるぞ」
妙な店。
その言葉にエルドは半信半疑だった。
安くて効く薬など都合が良すぎる。
しかも妙な店と言われて信用できるはずもない。
しかし他に当てもなかったため、仕事のついでに立ち寄ってみることにしたのだ。
そして実際に目の前へ来た結果、その評価は半分正しく、半分間違っていたのだろうと思った。
確かに妙だった。
少なくとも見た目は。
建物自体は新しく整備されており、外壁も入口周辺もきれいに手入れされている。商売をしている店として不安を覚えるような様子はない。
問題は看板だった。
店先へ掲げられているのは、青い丸い生き物の絵だった。
それも薬草や薬瓶ではない。
王都や大都市で見かける薬房のように、治癒の杖や聖草の紋章が描かれているわけでもない。
ただ、ぷよりとした丸い身体を持つ青いスライムらしき生物が描かれているだけだった。
しかもその表情がまた微妙だった。
笑っているようにも見える。
溶けかけているようにも見える。
どちらとも判断できない絶妙な顔をしている。
その下へ書かれている店名も〈青ぷよ薬房〉だった。
薬房という言葉がなければ、子供向けの菓子屋か玩具屋だと思ったかもしれない。
少なくともエルドが知る限り、まともな薬房の看板ではなかった。
王都やレスタルムの老舗薬房であれば、格式を示すために金箔入りの看板を掲げ、薬師会認定の紋章や店主資格を目立つ位置へ配置する。歴史ある店ほど権威を前面へ押し出し、初めて来た客にも安心感を与えようとするものだ。
もちろん、この店にも必要な表示がないわけではない。
入口脇には新しい木札が掛けられており、商業登録済みであることや薬師会確認品取扱店であることもきちんと記されている。
けれどもそれらはあくまで“脇役”だった。
通りを歩く者の目を最初に引くのは登録札ではない。
青い丸い生き物だった。
看板への不安や違和感を抱いている人間が自分だけではないことは、店先の様子を見れば分かった。
薬房の前にはすでに何人もの客が並んでおり、開店からそれなりの時間が経っているにもかかわらず列は途切れていない。収穫用の籠を腕へ提げた農家らしい女が順番を待ち、その後ろには使い込まれた革鎧を身につけた若い冒険者が二人並んでいる。さらに腰へ手を当てながらゆっくり立つ白髪の老人の姿もあり、エルドの前には村の印章が焼き付けられた木札を持つ中年男がいた。誰もが気軽な買い物のために来ているようには見えず、それぞれ何らかの事情を抱えて薬を求めている様子だった。
入口の脇には整理券箱が設置されていた。
箱の上には三種類の札が整然と並べられており、それぞれ色によって用途が分けられている。白い札には〈購入のみ〉、青い札には〈症状・用途相談〉、緑の札には〈村内受け取り〉と書かれていた。文字だけでなく簡単な図案も添えられているため、読み慣れない者でも間違えにくい。
エルドはしばらく札を見比べた。
本来なら薬だけ買って帰りたい。
けれど自分の怪我に何が必要なのか分からない。
治療院へ行くほどなのか、塗り薬で済むのか、それとも休養が必要なのかさえ判断できなかった。
結局、迷った末に青い札を手に取る。
少なくとも、どの薬を買うべきか分からない人間のための札なのだろうと思ったからだ。
列は見た目以上に滑らかに進んでいた。
客の数は多いのに、なぜか待ち時間の長さを感じない。
かといって、帳場の向こうで店員たちが機械的に客を追い立てているわけでもなかった。呼ばれた客はそれぞれ数分ほど話をしているように見えるし、時には薬瓶を手に説明を受けている姿もある。それなのに列は滞らず、気付けば数人分も前へ進んでいる。
その理由は、自分の順番が近づくにつれて少しずつ見えてきた。
前方に並んでいた若い冒険者の一人が、高純度回復薬を二本欲しいと注文した時だった。
日に焼けた肌に革鎧をまとった青年は、慣れた様子で商品名を口にした。常連なのか、迷いのない口調だった。しかし帳場にいた赤髪の店員は、棚から薬を取り出そうとはしない。
代わりに、怪我をしているのか。
誰が使う予定なのか。
今の体調はどうか。
同行者は何人いるのか。
どのくらいの期間、外へ出る予定なのか。
そんな質問を一つひとつ丁寧に重ねていく。
尋問というほど堅苦しくはないが、必要な情報を漏らさず拾い上げるような聞き方だった。
やがて話を聞いていたエルドにも事情が分かってきた。その冒険者は差し迫った怪我人を抱えているわけではなく、依頼帰りの道中で何かあった時のために予備として持っておきたいだけらしい。
それを聞いた店員は、高純度品を売る好機だと考えるどころか、一般向けの回復薬で十分だと説明し始めた。効力の差や使用場面まで具体的に挙げながら、「その用途ならこちらの方が無駄がありません」と穏やかに勧めている。
価格表を見る限り、高純度回復薬は一般品の倍近い値段だった。一本売るだけでも店に入る利益は大きいはずで、二本まとめて買うという申し出ならなおさら断る理由はないように思える。
それにもかかわらず、店員は高価な商品を押し付けるどころか、用途に見合った安価な薬を勧めていた。
その光景に、エルドは思わず目を瞬かせる。
薬屋とは、客がより効く薬を求めれば、それに応じて高価な品を薦めるものだと考えていたからだ。
実際、レスタルムで薬を買った時には似たような経験が何度もあった。
傷の治りが早い。
薬効の持続時間が長い。
純度が高く副作用も少ない。
そうした説明を並べられれば、多少値が張っても必要経費だと思って財布を開くしかない。薬の良し悪しを判断できるほどの知識を持つ客は少なく、多くの場合は薬師の言葉を信じるしかないのだから。
だが、この店ではその常識が通用していないようだった。
客の不安につけ込んで上位品を売るのではなく、本当に必要な範囲で済ませようとしているように見える。
順番を待つ間、エルドは前に並んでいた中年男の会計にも自然と目が向いた。
男は村の印が焼き付けられた木札を差し出し、生活用回復薬を一本受け取る。
帳場で告げられた金額は八十Rだった。
その数字を聞いた瞬間、エルドは反射的に店頭へ掲げられた価格札へ視線を走らせる。
そこには同じ薬の一般販売価格として百八十Rと記されていた。
差額は百R。
日雇い仕事なら一日分の稼ぎに匹敵する額であり、決して見過ごせる数字ではない。
胸の奥に小さな引っ掛かりが生まれる。
同じ棚から出された同じ薬なのに、客によってここまで値段が違うのか。
正直なところ、不公平ではないかという思いが一瞬よぎった。
誰が買っても同じ商品なら、同じ値段で売るべきではないのか。
そんな疑問が頭をかすめる。
ところが価格札の横には、その差額が生まれる理由や制度の目的まで含めて、かなり細かい説明文が掲示されていた。
村内価格は生活扶助枠として設定されており、病気や怪我の際に最低限必要となる薬を地域住民が継続的に入手できるようにするための仕組みだという。
対象となるのは村の登録者と、一定期間以上利用実績のある近隣住民のみ。
さらに利用者ごとではなく世帯単位で管理されており、薬の種類ごとに月間購入上限まで定められていた。
加えて、外部販売による利益を制度維持費へ回していること、帳簿による購入履歴の確認を行っていること、転売や名義貸しが発覚した場合は利用資格の停止だけでなく再登録にも制限がかかることまで明記されている。
ざっと目を通しただけでも、思いつきで始めた割引制度ではなく、長く運用することを前提に組み立てられた仕組みなのだと分かった。
要点だけを拾っても、その意図は十分に伝わってくる。
村人だから無条件で安いのではない。
生活に欠かせない薬を、必要な人へ必要な量だけ安定して届けるための制度なのだ。
だからこそ好きなだけ買えるわけではなく、安価な薬を大量に仕入れて他所で売りさばくような真似もできない。
利用者を守るための優遇であると同時に、制度そのものを守るための制限でもあるのだろう。
エルドは説明文を読み進めながら、思っていた以上に細部まで管理されていることへ小さく感心した。
列へ並び始めた頃に抱いていた印象が、少しずつだが確実に変わっていく。
看板は相変わらず妙だった。
薬房らしい威厳もなければ、老舗らしい格式も感じない。
初めて見た時の胡散臭さすら完全には消えていない。
それでも実際の運営を見れば見るほど、この店は客の不安や無知を利用するのではなく、それらを減らす方向へ仕組みを整えているように思えた。
整理券の分類もそうだ。
用途に応じた聞き取りもそうだ。
必要以上に高価な薬を売らない姿勢も、村内価格の制度も同じだった。
奇妙な看板の裏側には、妙なほど筋の通った考え方があるのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、帳場の奥から番号を呼ぶ声が響いた。
青い札に記された数字だった。
エルドは手の中の整理券を改めて確認し、胸の内に残るわずかな緊張を吐き出すように小さく息をついてから、ゆっくりと帳場の前へ進んだ。
帳場へ立ったエルドに対し、赤い髪を後ろでまとめた店員――ミーナは、いきなり怪我を見せてほしいとは言わなかった。
まず彼女が口にしたのは傷そのものについての判断ではなく、そこに至るまでの経緯を丁寧に辿るための質問だった。怪我をしたのはいつなのか、その時はどのような作業をしていて、どんな形で足を傷めたのか。受傷してから現在まで症状は悪化しているのか、それとも変わらないのか。普通に歩ける状態なのか、体を動かした時だけ痛むのか。熱は出ていないか、傷口は開いているのか塞がっているのか、膿や出血は見られないか。傷の周囲から嫌な臭いがすることはないか、痺れや感覚の鈍さといった異常はないか。さらに、これまでに薬や湿布、民間療法の類を試したことがあるかまで、一つひとつ確認していく。
質問は決して矢継ぎ早ではなく、相手が答え終えるのを待ちながら順序立てて続けられ、その態度には焦りも押しつけがましさもなかった。まるで診察というより、散らばった情報を丁寧に拾い集めて整理しているような印象で、エルドは自然と警戒心を解いていく。聞かれた内容に答えているうちに、自分でも怪我の状態を改めて振り返っているような気分になりながら、彼は素直に質問へ答えていった。
怪我をしたのは三日前のことだった。
その日はいつも通り荷運びの仕事に出ており、倉庫へ運び込まれた木箱を荷車から降ろしている最中、不意に足元の位置を誤ってしまった。重い荷を支えながら体勢を崩した拍子に、積み上げられていた木箱の角へ脛のあたりを強くぶつけ、その衝撃で足を傷めたのだという。
傷そのものは見た目ほど深刻ではなく、皮膚が少し擦れて赤くなった程度で、大きく裂けたり血が止まらなくなったりしたわけではなかった。出血もすぐに収まり、傷口も今ではほとんど塞がっている。
ただ、問題はその後だった。
ぶつけた箇所は日を追うごとに腫れが目立つようになり、触れると熱を持っているのが分かる。もっとも、その熱は傷の周囲に限られており、体全体が熱っぽくなるような発熱はない。膿が出ている様子もなく、傷口から異臭がすることもなかった。
また、足先の感覚に異常はなく、痺れや感覚の鈍さも感じていない。歩くこと自体は問題なくできるため、仕事も続けようと思えば続けられる状態だった。しかし荷物を持った時や長く歩いた後には鈍い痛みが増し、完全に治っているとは到底言えない状況でもあった。
エルドが思い出しながら一つひとつ答えていく間も、ミーナは途中で口を挟むことなく静かに耳を傾けていた。気になる点があれば短く確認を入れるものの、それも話の流れを遮らない程度で、結論を急ぐ様子はまったくない。
やがて必要な情報が十分に揃ったと判断したのか、彼女は手元の記録へ軽く目を落とし、小さく頷いてから口を開いた。
「腫れが強いので、回復薬だけで無理に仕事へ戻ることはお勧めしません」
その言葉に、エルドは思わず眉をひそめた。
痛みが引けば仕事へ戻れる。
薬とはそういうものではないのか。
荷運び人にとって重要なのは、怪我を完全に治し切ることよりも、まず明日の仕事へ出られる状態を確保することだった。数日休めば収入はそのまま減り、生活にも響く。だからこそ薬に求めるのは治療そのものより、働けるだけの回復だったのである。
「高純度のを飲めば、早く治るんじゃないのか」
それは飾り気のない、現場で働く者なら誰もが抱きそうな率直な疑問だった。エルドにとって薬の価値は分かりやすい。値段が高いものほど効果が強く、効果が強いものほど回復も早い。多少の無理をしてでも仕事へ戻らなければならない立場だからこそ、その考えは半ば常識として身についていた。実際、仲間内でも「高純度品を使えば数日分の休みを買える」といった話は珍しくなく、彼自身もそう信じていたのである。
ミーナはその考えを頭ごなしに否定しなかった。むしろ理解していると言わんばかりに静かに頷き、落ち着いた声で答えた。
「回復は早まる可能性があります」
短くそう認めたあと、彼女は少しだけ間を置き、相手が言葉を受け止める時間を与えてから続ける。
「ただ、内部で出血していたり、骨に細い傷が入っていたりする場合、表面の痛みや炎症だけが先に軽くなってしまうことがあります。そうなると本人は治ったように感じてしまいますが、実際には傷んだ部分が十分に回復していないこともあります。その状態で重い荷物を運んだり、長時間歩き回ったりすると、傷口をさらに悪化させたり、治るまでの期間を余計に長引かせたりする可能性があります」
説明は淡々としていたが、その内容には経験に裏打ちされた重みがあった。脅そうとしているわけでも、不安を煽って高額な商品を売りつけようとしているわけでもない。ただ起こり得る事態を順序立てて説明しているだけだと分かるからこそ、かえって説得力があった。
「今日は一般用を一本お渡しします。帰ったらなるべく足を高くして休んでください。それから明日になっても腫れが引かない場合や、熱を持つ範囲が広がる場合、歩いた時に強い痛みが出る場合は、薬だけで様子を見るより治療院で診てもらった方がいいと思います」
薬の飲み方だけでなく、その後に注意すべき症状や受診の目安まで具体的に伝える口ぶりは、単なる販売員というより患者を気遣う治療補助者のようだった。
話を聞き続けるうちに、エルドは次第に妙な違和感を覚え始めていた。
目の前にいるのは薬を売る店員のはずだ。にもかかわらず、彼女は薬だけで全てを解決できるかのような言い方をしない。むしろ薬で対応できる範囲と、専門の治療が必要になる可能性のある範囲をきっちり切り分け、その境界線を分かりやすく説明している。
さらに言えば、高純度品を勧めるどころか、必要以上の使用を避けるような話までしていた。症状によっては治療院へ行くべきだという助言まで出てくる。
レスタルムで商売をしている薬屋なら、ここで高価な高純度回復薬を勧めても何ら不自然ではない。むしろ客の不安を理由に上位品を売り込む方が利益になるはずだ。高純度品は一本売れるだけでも一般用とは比べものにならない利益を生むと聞く。
それなのにミーナは、利益より先に怪我の状態や今後の経過を気にしているように見えた。売るための説明ではなく、必要な判断をしてもらうための説明をしている。その姿勢が、エルドにはどうにも商売人らしく映らなかったのである。
「高い方を売らなくていいのか」
気付けば口からそんな言葉が出ていた。
ミーナは少しだけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「必要なら売ります」
その答えは迷いがない。
「必要でない時に高い薬を勧めると、次に本当に必要な方へ回らなくなりますから」
その返答は穏やかなものだったが、エルドの耳には妙に強く残った。利益や売上の話ではなく、薬そのものを限られた資源として扱う考え方が滲んでいたからだ。まるで商品を並べる店員ではなく、品質や在庫、そして誰にどれを渡すべきかまで含めて管理する立場の人間が口にするような言葉だった。
エルドはそこで改めて、店内に入った時に目にした価格札のことを思い出した。
一般用回復薬は百八十R。
日々の稼ぎで暮らす荷運び人にとっては、決して気軽に払える額ではない。財布から硬貨を取り出す前に一度は計算し、今日買うべきか明日に回すべきかを考える程度には重みがある金額だ。
黒パンなら六十個近く買える。
一人で食べるならかなりの日数をしのげる量であり、安宿に泊まるなら四泊どころか場所によっては五泊近くできることもある。仕事が途切れた時の備えとして考えれば、決して小さくない出費だった。
だが一方で、法外な値段というわけでもない。
レスタルムの薬屋で同程度の標準回復薬を買えば、おおよそ百五十Rから二百R前後が相場だ。品質が噂通りであるなら、むしろ百八十Rという価格は高すぎず安すぎず、利用者にとっても店側にとっても妥当な落としどころに見える。
少なくとも、怪我人の足元を見て吹っ掛けているような印象はなかった。
説明の内容も価格設定も、どこか妙に誠実なのだ。
そんなことを考えているうちに、ミーナは話を終えたにもかかわらず、すぐに棚へ向かって商品を取りに行こうとはしなかった。
代わりに彼女は帳場の脇に設けられた小さな窓へ手を伸ばし、そこに掛けられていた木札を指先で軽くつまむと、慣れた動作でくるりと裏返した。
それだけだった。
声を張り上げることもない。
奥へ向かって誰かを呼ぶこともない。
しかし、その静かな合図だけで十分だったらしい。
数秒もしないうちに壁の向こう側からごとり、と木箱を動かすような音が聞こえてきた。工房側にいる誰かが木札の変化に気付き、すぐ反応したのだろう。
さらにしばらく待つと、帳場横に設けられた受け渡し棚の店側が音もなく開かれる。
中には青い瓶が六本、整然と並べられていた。まるで最初からそこへ置かれることが決まっていたかのように、間隔まで揃えられている。
どれも同じ形に見えるが、そのうち一本には白い紙札が添えられている。
ミーナは慣れた手つきで紙札を取り上げ、瓶の首に施された封蝋へ押されている番号と見比べた。
確認はほんの数秒で終わる。
数字が一致していることを確かめると、その内容を販売帳へ丁寧に書き込んだ。
「こちらは本日午前のロットです。栓を開ける前に、濁り、栓の浮き、封蝋の割れがないか見てください。開封後はその日のうちに使い切ってください。半分だけ残して翌日に回すのは勧めません」
「一本を二回に分けるのは駄目なのか」
「開けると空気と雑菌が入ります。どうしても分ける場合は清潔な場所で栓を戻し、日陰へ置いて数刻以内に使ってください。それでも効果と安全は保証できません」
受け取った瓶は、エルドが想像していたものよりずっと質素だった。
高価な薬と聞けば、金箔を使った飾りや凝った刻印、いかにも値段が高そうな装飾が施されているものを思い浮かべる。レスタルムの薬房には、瓶そのものへ金線を巻いたり、王都製であることを示す紋章を誇らしげに押したりする店も少なくない。客へ品質を伝えるためなのか、あるいは価格に納得させるためなのかは分からないが、高額な薬ほど見た目も派手になる傾向があった。
その点、この薬は驚くほど飾り気がない。
透明な瓶の中に満たされた青い液体。
瓶の首へ結ばれた白い紙札。
封蝋へ押された管理番号。
目立つ要素はそれだけだった。
装飾らしい装飾は見当たらず、薬そのものと管理情報以外は徹底して省かれているようにも見える。
もっとも、何も印がないわけではなかった。
瓶の側面には店印が押されている。
そこに使われていたのは、店先の看板にも描かれていた例の丸い青いスライムだった。
最初に見た時は子供向けの絵かと思ったが、瓶へ押された印章はずっと簡略化されている。輪郭は単純で、遠目でも判別しやすい。薬房の紋章として考えると妙だが、商品管理の印として見れば意外なほど実用的だった。
会計の順番になると、エルドは腰の革袋から銀リア貨を二枚取り出した。
支払う金額は百八十R。
ミーナは慣れた手つきで硬貨の刻印を確かめると、背後の引き出しを開け、そこから銅リア貨を二枚取り出した。
「二十Rのお返しです」
差し出された釣銭を受け取ったエルドは、これで会計はすべて終わりだろうと思い、薬瓶を鞄へしまう準備をしかけた。
けれどミーナはそこで手を止めず、薬瓶を丁寧に差し出すのと同時に、もう一枚の小さな札を添えるようにして渡してきた。
それは手のひらにすっぽり収まる程度の厚紙で、簡素な見た目に反して内容は驚くほど細かい。表面には一回あたりの服用量や服用間隔、食前食後の目安、保管時には直射日光や高温多湿を避けることなどが読みやすく整理されて記されており、さらに服用後に発疹や息苦しさ、強い吐き気などの異常が現れた場合の対処法まで簡潔ながら漏れなくまとめられていた。
ここまで丁寧に説明を書き残すものなのか、と感心しながら札を裏返したエルドは、思わず何度か瞬きを繰り返した。
裏面に並んでいたのは、よくある商品の宣伝文句でもなければ、新商品の案内や次回購入時の割引情報でもない。
そこに記されていたのは、
エルムホルン村治療所。
レスタルム薬師会相談窓口。
といった、薬の使用後に異常が出た場合や、症状が改善しない場合に相談できる連絡先だったのである。
普通なら販売した店への問い合わせ先だけを書いて済ませても何ら不自然ではないし、多くの店は実際そうしている。
それなのに、この薬房は自分たち以外の第三者機関や治療所の窓口まで明記していた。
責任を他へ押し付けるためという印象はまるでなく、むしろ客が困った時に確実に助けを求められるよう、あらかじめ逃げ道ではなく助け舟を用意しているように見える。
薬を売るだけなら必要ないはずの手間だ。
それでも当然のように行っているところに、この店の考え方が表れている気がした。
その実直さと誠実さに、エルドは少しばかり感心すると同時に、評判の理由を垣間見たような気持ちになる。
会計を終えたあとも、彼はすぐには店を出なかった。
せっかく評判の薬房まで足を運んだのだ。薬を買って帰るだけでは少し惜しい気がして、もう少しだけ店内の様子を見ておきたいという好奇心が湧いていたのである。
改めて周囲へ目を向けてみると、客が立ち入れる空間は最初に感じた以上にこぢんまりとしていた。
壁際に設置された商品棚も必要最低限の大きさしかなく、薬瓶が山のように積み上げられているわけでもなければ、高価な商品を目立たせるための豪華な陳列があるわけでもない。
並べられている品数そのものも決して多くはなく、その日の販売分だけを整理して配置しているような印象を受ける。
豪華さや品揃えの豊富さを誇示する店ではない。
むしろ、整理整頓の行き届いた作業場をそのまま店舗として開放しているような、無駄のない実務的な空気が強かった。
店舗の奥には工房があるようだが、そこは厚めの壁によってきっちりと区切られている。
受け渡し棚が開いた瞬間でさえ内部の様子はほとんど見えず、どんな設備が置かれているのかも分からない。
それでも向こう側に複数の人間が働いていることだけは自然と伝わってきた。
時折、壁越しに声が聞こえてくるからだ。
番号を読み上げる男の声。
水温の数値を報告している女の声。
聞き慣れない専門用語を次々と並べながら何かを確認している若い女の声。
そして、その直後に聞こえてくる、
「もっと分かる言い方をしろ」
という、どこか疲れを滲ませた男の声。
そのやり取りを耳にしているうちに、エルドの頭にはこれまで考えたこともなかった一つの発想がゆっくりと浮かび上がってきた。
薬というものは、優れた薬師が一人で作り上げるものだと思っていた。
閉じた工房の中で天才が秘薬を生み出し、それを客へ売る。
そんなイメージがあった。
ところが、この店は違うらしい。
材料を洗う者がいる。
分量を量る者がいる。
帳面へ記録を書き込む者がいる。
異常がないか何度も確認する者もいる。
そうして出来上がった薬は、一人の手で完成するのではなく、多くの手を渡りながら少しずつ形になっていくのだろう。
壁の向こうで交わされる短いやり取りだけでも、その光景は不思議と想像できた。
誰か一人の才能に頼り切るのではなく、工程ごとに役割を分け、それぞれが責任を持って支えている。だからこそ品質が保たれ、同じ薬を安定して作り続けられるのかもしれない。
エルドはそんなことを考えながら、改めて店内を見回した。
青ぷよ薬房。
名前だけ聞けば拍子抜けするほど軽い。
初めて耳にした時は冗談か何かだと思ったし、看板に描かれた丸い青スライムも薬房より菓子屋の方が似合いそうに見える。
しかしその印象とは裏腹に、この店で行われている仕事は驚くほど堅実だった。
薬瓶一本にも管理番号が振られ、説明書には細かな注意事項が並び、相談先まで丁寧に記されている。記録も確認も徹底されていて、客の手へ渡るまでにどれだけの手間が掛けられているのか、素人のエルドにも何となく伝わってきた。
評判が良いのも当然なのかもしれない。
派手な宣伝や豪華な装飾ではなく、積み重ねた仕事そのものが信用になっているのだ。
エルドは薬瓶を慎重に鞄の奥へしまい込み、店を後にした。
足を引きずるたび、脛の奥ではまだ鈍い痛みが主張してくる。
もちろん治ったわけではない。
それでも不思議と気分は少し軽かった。
宿へ戻ると、言われた通り薬を飲み、椅子へ腰掛けたまま足を高くして休む。
劇的な変化はない。
痛みが一瞬で消えることもなければ、立ち上がった途端に走り回れるようになるわけでもない。
だが時間が経つにつれ、身体の内側からじんわりと温かさが広がり、張り詰めていた腫れの感覚が少しずつ和らいでいった。
夕方になる頃には足首も朝より動かしやすくなっている。
噂に聞く奇跡の薬ではない。
飲めば即座に治る万能薬でもない。
無理やり身体を動かす力ではなく、本来備わっている回復力を静かに後押ししているような効き方だった。
エルドは翌朝まで仕事を休んだ。
目を覚ました時には昨日より楽になっていたが、腫れはまだ残っている。
結局、当初の予定通りレスタルムへ戻り、治療院へ寄ることにした。
薬代として百八十Rを支払い、そのうえで診察代も必要になる。
金額だけ見れば決して安上がりではない。
得をしたとも言い難かった。
それでも、薬を買ったことを無駄だったとは思わない。
むしろ頭に残っていたのは、高価な薬を勧めることもなく、無理をするなと繰り返していた店員たちの言葉だった。
少なくともあの店は、売るためだけに話しているようには見えなかった。
だからこそ、その忠告をもう少し信じてみようと思えたのである。




