第46話 青ぷよ薬房標準製造手順書、第一版草案
「思考を伴う判断工程と火気管理を同時に行わないでください。生産中に経営問題を考える時間を設けるべきではありません」
「好きで考えてるわけじゃない。勝手に浮かんでくるんだよ」
「では浮かばないよう、考えるべき事項を整理します」
「そんなことができるのか」
「できます」
アイスは迷いなく答えた。
その時点で、嫌な予感はあった。
アイスが「できます」と断言する時、たいてい彼女はすでに何かを用意している。俺が質問したから答えたのではなく、こちらが質問するところまで見越し、机の下か鞄の中へ紙の束を隠している可能性が高い。案の定彼女は仕込みを終え、薬液を静置槽へ移して昼の休憩へ入ったところで、新しく設置された固定記録台の下から両手で抱えるほどの厚い紙束を取り出してきた。
「何だ、それ」
「青ぷよ薬房標準製造手順書、第一版草案です」
「第一版ってことは、増えるのか」
「改訂は必要です」
「聞く前から疲れるんだが」
紙束はこれまでアイスが使っていた個人記録よりも明らかに整理されていた。表紙には大きく〈青ぷよ薬房標準製造手順書〉と書かれ、その下に〈対象:スライム核基材を用いる回復系液相製剤〉、さらに小さく〈採取工程を除く〉とある。端には章ごとの色札がつき、最初の数枚には工程全体を示す図が描かれていた。
「採取工程を除く、って書いてあるな」
「はい。現段階で〈ロイド式スライム採取〉を第三者へ再現させるのは困難です。生体スライムの状態把握、核位置認識、外膜分離、損傷制御は、あなたのスキルへ強く依存している可能性があります。そこを無理に手順化し、未熟な人間へ真似させれば、素材品質が落ちるだけでなく、採取者と周囲の安全にも問題が出ます」
「じゃあ、俺の代わりは作れないってことか」
「完全な代替者を今すぐ作る、という目標そのものが現実的ではありません」
言い切られると、少し――いや、かなり重かった。
まるで俺がここ数日「もし俺が倒れたら工房ごと詰むのでは?」と夜中に布団の中でぐるぐる考えていた不安をアイスがどこからか拾ってきて、「こちらがお探しの悩みになります」とでも言いたげに机のど真ん中へ丁寧に置いたような気分だった。
「……なるほど。つまり俺が過労で倒れた瞬間、この工房は歴史に幕を下ろすと」
「そこまで悲観的な結論へ飛躍するのは、やめてください」
即答だった。
「ただし」
アイスは手元に置いていた手順書をぱらりと開き、いつもの抑揚の薄い声で続けた。
「あなたしかできない部分を、そのまま工房全体へ拡大して考える必要はありません。採取から販売までの全工程がロイドさん固有技能なのではなく、一部の重要判断が固有技能であり、その前後には他者へ移譲可能な工程が多数存在します。今回の手順書では、それらを三つに分類しました」
そう言って示された最初の図には、工程ごとに赤、黄、緑の印が付けられていた。
「信号機か?」
「概念としては近いです」
「赤で止まれ、黄で注意、緑で進め?」
「はい」
「分かりやすいな」
「ロイドさんでも理解可能なよう配慮しました」
「今すぐその配慮を撤回してくれ」
アイスは俺の抗議など最初から存在しなかったかのように、さらりと視線を手順書へ戻した。絶対に聞こえていたはずなのに、無視する時だけ妙に徹底している。
赤は、現時点ではロイド以外に任せられない工程。黄は、最終的な確認こそロイドが行うものの、準備や途中作業の多くを他者へ委ねられる工程。そして緑は、明確な基準を整え、数日ほど訓練すれば第三者でも問題なく担当できる工程――そう説明を受けながら図を見直すと、赤い印は意外なほど少なかった。
赤に分類されていたのは、生体スライムの状態判定、損傷を最小限に抑えた核採取、核膜を剥離する最終判断、核開放を始めるタイミングの見極め、薬液反応を止める最終判断など、工房の品質を左右する工程ばかりだった。どれも判断を一歩誤れば、高品質どころか素材一式や数日分の仕込みが丸ごと駄目になる可能性がある。つまり、工房全体から見れば確かに重要だが、実際に俺しかできない作業は、その中枢部分に限られていたのだ。
「……あれ?」
一覧を見た俺は思わず声を漏らした。
「思ったより少ないな」
「はい。ロイドさんは『全部自分でやらなければならない』と思い込んでいますが、実際にはそうではありません」
「いや、でも赤ばっかり重要なところじゃないか」
「中枢神経だけ本人が担当し、それ以外を補助者が支える構造です」
「工房を生き物に例えるのはやめろ。急に俺が脳みそ扱いされると責任が重い」
「現状、事実です」
「やめろ」
黄色に分類されていたのは、採取素材の受け入れ分類から始まり、核洗浄、膜処理の事前準備、粘液基材の濃度調整、媒体液との馴染ませ作業、段階ごとの加熱管理、薬草抽出液の投入、静置中の状態観察、試験採取に至るまで多岐にわたっており、どれも最終的な品質確認だけは俺が行う必要があるものの、実際の作業時間の大半を占める下準備や経過管理については、手順さえ整備すれば補助者へ十分任せられる内容になっていた。
そして緑。
そこに並んでいたのは、素材箱への番号付け、重量計測、洗浄水の準備、器具洗浄、瓶洗い、乾燥作業、濾過布の準備、規格瓶への充填、栓の取り付け、封蝋、ラベル貼り、完成品の保管、在庫記録、納品用の箱詰めといった、工房を回すうえでは欠かせないが、明確な基準さえ共有してしまえば誰でも担当可能な作業ばかりだった。
一覧を見た俺は、しばらく黙ったまま視線を紙面に落とし続けた。
「赤い工程だけを俺がやるってことか?」
「最終的には、それが理想です。もちろん現時点ですぐに実行するのは不可能です。黄色に分類した工程にも、まだロイドさん個人の感覚や経験則が多く残っています。しかし、それらを一つずつ言語化し、測定可能な数値へ置き換えていけば、将来的にはあなたがすべての作業を抱え込む必要はなくなり、重要な判断だけへ集中できるようになります」
「いや、でもな」
俺は手順書を指で軽く叩いた。
「核を洗うのも、粘液を馴染ませるのも、火加減を見るのも、結局いまは全部俺がやってるぞ?」
「今は、です」
「いや、その『今は』って言い方、なんか俺が近いうちに隠居する前提みたいで嫌なんだが」
「理想としては、労働時間を現在の三分の二以下へ削減したいと考えています」
「三分の二?」
「できれば半分です」
「半分!?」
「さらに十分の一まで圧縮できれば――」
「待て待て待て。俺を何だと思ってるんだ。仕事を奪われた工房主の末路を考えたことがあるか?」
「余暇が増えます」
「その余暇で何をしろと?」
「休養、睡眠、趣味、人間関係の構築」
「最後のやつだけ急に難易度が高いな」
アイスは軽く首を傾げた。
「理解できません」
「だろうな!」
そんなやり取りをなかったことにするように、アイスは手順書の最初の頁を開いた。
最初の項目には、〈素材受け入れとロット登録〉と書かれている。
そこには、驚くほど細かな規定が並んでいた。
採取したスライム核と粘液は、工房へ搬入する前に同一採取群ごとに番号を付与すること。採取日、採取場所、天候、周辺温度、スライムの種類、推定成熟度、採取者、採取後から洗浄開始までの経過時間を記録すること。核と粘液は別容器へ保管するものの、必ず同一番号を保持し、後から対応関係を追跡できる状態を維持すること。容器の識別には濡れても判読可能な焼き印木札を用い、紙札のみに依存しないこと。
読めば読むほど、どこか研究所じみている。
「……今までは、全部俺が覚えていたな」
感心半分、呆れ半分で呟くと、アイスは静かに視線を上げた。
「正確には、『覚えているつもりだった』です」
「おい」
「言い方に問題はありません」
「あるんだよ」
アイスは構わず続ける。
「複数の群を同日に採取した場合、どの粘液がどの核と同一個体群由来なのか、ロイドさんは正確に追跡できていませんでした」
「いや、多少混ざっても大して変わらないだろ」
「通常品であれば、大きな問題が発生しない可能性はあります」
「ほらな」
「ただし」
嫌な予感しかしない前置きだった。
「品質差が発生した場合、その原因を特定できません。王都向け試験品、新薬開発、高純度回復薬の改良などでは、採取群単位で履歴を追跡できる必要があります」
「……」
「仮に品質が向上したとしても、『たまたま良かった』では再現できません」
「……」
「逆に失敗した場合も、『何が悪かったのか分からない』という極めて非効率な状況になります」
「……お前、たまに俺の心を遠慮なく刺してくるよな」
「事実を述べています」
「その事実が痛いんだ」
俺は手順書を見下ろした。
そこに書かれている内容は、どれも間違っていない。
間違っていないのだが――。
「せめて『卓越した職人技』とか、もう少し格好いい言い方をしてくれ」
「再現性の低い属人的運用です」
「言い換えがさらにひどくなったな」
ハルトが手順書を横から覗き込み、しばらく無言でページを追っていたかと思うと、何か思いついたようにふっと顔を上げた。
「受け入れ番号と保管棚番号を対応させれば、在庫側でも追跡できますね。箱に同じ番号札を二枚付けて、一枚は箱に残し、もう一枚は帳簿へ綴じる形にすれば、どの素材がどの棚へ移動したのかも追いやすいと思います」
「その案を採用します」
アイスは一秒たりとも悩まず、まるで最初からその項目を書き込む予定だったかのような速さで、手順書の余白へさらさらと追記した。
「採用早いな」
「合理的ですので」
「会議って普通、もう少し議論とか確認とかあるんだぞ」
「議論の必要がない案でした」
「お前の会議、たまに処刑執行より早く結論が出るな」
アイスは聞いているのか聞いていないのか分からない顔のまま、次の頁を開いた。
タイトルは〈素材状態の分類〉。
そこから先は、それまでの保管や搬入の手順整理とは少し毛色が違い、長年職人たちが「見れば分かる」「触れば判断できる」と口伝や経験則で受け継いできた感覚的な技術を、一つずつ分解して観察項目へ落とし込み、誰が確認しても同じ結論へ近づけるよう数値化と基準化を進める作業が延々と続くらしかった。
スライム核についても例外ではなく、色、透明度、表面亀裂、魔力膜の残存状態、粘液付着量、核温度、弾性といった複数の要素を個別に確認し、それぞれを記録したうえで総合評価を行う方式になっている。
まず色は青白、淡青、濃青、灰濁の四分類に分けられ、単純な見た目の違いではなく、採取時期や内部状態の推定にも利用するらしい。
透明度については光へ透かした際に中心部まで視認できるか、輪郭のみ確認できるか、それとも内部がほとんど見えないかによって三段階評価を行うと記載されていた。
表面亀裂は、なし、微細、明瞭、使用不可の四段階で判定し、わずかな傷であっても後工程での品質低下要因になるため見落としを避けるよう注意書きまで添えられている。
魔力膜についても均一、部分欠損、過剰付着、判定保留と細かく分類されており、単に膜があるかないかではなく、その状態そのものが重要な評価対象になっていた。
さらに弾性については、専用の薄皿へ載せた際に生じる自然な沈み込み量と、その後どれだけの速度で元の形状へ戻るかを測定して判断する方式が採用されているらしい。
そこまで読み進めたところで、俺の視線はある一文に引っ掛かり、思わずその箇所で止まった。
「……核を押すなって書いてあるな」
「はい」
アイスは当然のように頷いた。
「指で押して確認する人間が現れる可能性を考慮しました」
「そんなことするか?」
俺は思わず笑った。
いくらなんでも、そんな雑な確認方法をする人間はいないだろう。
そう思ってハルトとユナへ視線を向ける。
すると二人とも、まるで天井近くに珍しい虫でも飛んでいるかのように、すっと視線を逸らした。
……あ。
「する可能性があるんだな」
「……初めて見る素材なら」
ユナが小さく言った。
「硬さを確かめたくなる人はいると思います」
「やったことあるな?」
「……少しだけ」
「やったんだな」
「壊れませんでした」
「結果論だ」
ハルトも軽く咳払いをした。
「私も最初は少し」
「お前もか」
「職人は素材に触れて覚えるものですから」
「その理屈で全部許されると思うなよ」
するとアイスが淡々と補足した。
「押した場合、魔力膜が傷つく可能性があります。傷が微細であっても品質評価に影響するため、接触による判断は推奨しません。ですので、皿の上で自然に変形する量を見る方式へ変更しました」
「つまり俺たちの好奇心対策か」
「その理解で問題ありません」
「俺たちが危険生物みたいな扱いなんだが」
「実績がありますので」
反論できなかった。
さらにページをめくると、今度は核の用途区分に関する章が現れ、そこには単なる分類表ではなく、実際の運用を前提としたかなり詳細な振り分け基準が整然とまとめられていた。通常品へ使用可能な核、高純度品候補として優先保管する核、追加検査や研究確認が必要な核、そして廃棄または外用試験専用として扱う核まで、それぞれの区分ごとに色や透明度、魔力膜の状態、亀裂の有無など複数の評価項目を組み合わせた判定条件が細かく書き込まれており、誰が見ても同じ結論へ辿り着けるよう工夫されているのが分かった。
俺は思わず感心しながらページを追った。今までは箱を開けて核を取り出し、一つずつ目で見て、時には手に取って状態を確かめ、その場の経験と勘を頼りに仕分けしていたが、この方式なら明らかに亀裂のあるものや灰濁しているものは受け入れ段階で先に分別できるし、高純度候補もまとめて別管理できるため、後から探し回る必要もなくなる。しかも用途ごとに保管場所まで整理できるなら、必要な素材を探す時間そのものが大幅に減るはずだった。
つまり――。
「俺、全部の箱を開けなくていいのか」
ぽつりと呟くと、アイスは静かに頷いた。
「はい」
「本当に?」
「はい」
「最初から最後まで全部見なくていい?」
「はい」
「なんだろう」
俺は手順書を見ながら首を傾げた。
「急に暇人へ近付いた気がして不安になってきた」
「正常です」
「正常なのか?」
「長期間、過剰労働状態だった人間によく見られる反応です」
「診断された」
次の項目は、〈核洗浄〉だった。
ページを開いた瞬間、俺はわずかに眉をひそめた。というのも、この工程は俺の中で「説明できないのに問題なくできてしまう作業」の代表格だったからである。これまで俺は、水桶へ核を沈め、指先へ伝わる滑り具合や表面の感触、粘液が剥がれる時の抵抗感を確かめながら、余分な粘液や汚れた外膜だけを薄く落としてきた。文字にすればたったそれだけの話でしかない。実際に誰かへ説明しろと言われても、「なんとなくだ」「触れば分かる」「見れば分かる」としか答えられない、職人あるあるの極地みたいな工程だった。
ところが手順書の中では、その「なんとなく」が容赦なく解体されていた。
使用する洗浄水は井戸水をそのまま使わず、八度から十二度の範囲へ調整すること。核一個あたりに対する最低必要水量を定めること。粗洗いと仕上げ洗いで水を分けること。洗浄時間は長すぎても短すぎても品質へ影響するため、砂時計を使用して管理すること。洗浄後の核は規定時間以内に次工程へ移し、長時間空気へ晒さないこと。どの項目も細かく、そして妙に納得できる内容ばかりだった。
俺はしばらく無言で頁を見つめた。
「……水温まで測るのか」
「測ります」
アイスは当然のように答えた。
「冬と夏では井戸水の条件が異なります。冷たすぎる場合は膜が硬化し、逆に温かすぎる場合は粘液成分が緩みすぎます。品質を安定させるなら管理すべき項目です」
「いや、それは分かるんだが」
俺は手順書の一文を指差した。
「俺、そんなこと意識してなかったぞ」
「意識していませんでした」
アイスは頷いた。
「ですが実行していました」
「どっちなんだ」
「無意識です」
さらりと言われた。
嫌な予感しかしない。
「あなたは冬場、朝一番の井戸水をそのまま使用していません。釜の近くへ置いてある桶から、汲み置き水を少量混ぜています」
「……」
「夏場は逆に、日向へ置かれた桶の水を避けています」
「……」
「さらに洗浄時間も、概ね一定です」
「……」
「ほぼ無意識ですが」
俺は黙った。反論しようとして口を開きかけたものの、頭の中へ浮かんできたのはアイスの指摘を裏付ける記憶ばかりだった。確かに寒い冬の朝、井戸から汲み上げたばかりの水を触ると核の表面が妙に締まりすぎる感覚があり、そのままでは扱いづらいからと釜の近くに置いて少し温度の落ち着いた水を混ぜていたし、逆に真夏の日差しを浴びてぬるくなった桶の水は何となく信用できず、わざわざ日陰に置いたものを選んで使っていた。洗浄時間についても同じで、砂時計など使っていなかっただけで、核を洗う時の手の動きや確認の順番は毎回ほとんど変わらず、結果として作業時間も大きくぶれていなかったはずだ。理屈を組み立てて判断していたわけではなく、触れた時の違和感や経験から来る感覚に従っていただけなのだが、こうして一つずつ言語化されると、俺は管理しているつもりなどまるでないまま、実際には品質を維持するための管理を自然と行っていたらしい。
「なんか急に気持ち悪くなってきたな」
「なぜですか」
「自分の行動を他人から説明されると怖い」
「観察しましたので」
「お前の観察能力、時々犯罪者のそれなんだよ」
アイスは聞こえていないふりをして次の項目へ進んだ。
「洗浄工程は、ユナさんへ移譲できる可能性が高い工程です」
その言葉に、ユナがぴくりと反応した。
今まで静かに話を聞いていた彼女が、少し目を見開き、驚いたように顔を上げる。
「……私が、核を洗うんですか?」
声には驚きと緊張が半分ずつ混じっていた。
「最終的な膜分離はロイドさんが担当します。しかし最初の粗洗い、規定水温の準備、表面汚れの除去、洗浄後の番号管理までは訓練可能です。いきなり実用品で行うのではなく、まず使用不可核、あるいは研究用の低価値核で練習を行います」
「失敗しても問題ない素材から始める、ということですね」
「はい」
ユナは再び手順書へ視線を落とすと、そこに並ぶ工程や注意事項を一つも見落とすまいとするように丁寧に読み進め、途中で何度も最初の項目へ視線を戻しては内容を照らし合わせ、頭の中で実際の作業手順を組み立てているようだった。彼女は元々慎重な性格だ。勢いだけで「できます」と答えることはなく、自分に何ができて何がまだできないのかを冷静に見極めたうえで判断する。そのため今も、単に作業内容を理解しようとしているだけではなく、もし自分が担当した場合にどこで失敗する可能性があるのか、どの工程に注意を払うべきなのかまで含めて真剣に考えているのが表情から伝わってきた。やがて十分に内容を飲み込んだのか、彼女は胸の内に溜めていた緊張を少し吐き出すようにゆっくりと息をつき、その後で静かだが確かな意思を感じさせる動きで頷いた。
「順番が決まっていて、見ていただけるなら……覚えたいです」
その返答を聞きながら、俺は妙な気分になっていた。
核洗浄は、工房を立ち上げたばかりの頃からずっと俺自身が担当してきた工程だ。朝早くから水桶の前に立ち、核の状態を一つずつ確認しながら洗い続けるのが当たり前で、それを誰かへ任せるという発想は本当に一度も浮かんだことがなかった。忙しい日でも、体調が優れない日でも、「これは俺の仕事だから」と当然のように抱え込み、他人の手を借りる選択肢そのものを最初から除外していたのである。
それに、俺の中にはどこかで「核洗浄は俺にしかできない」という思い込みもあった。実際には誰かに教えようとしたことすらないのに、勝手にそう決めつけていたのだ。経験が必要だから、感覚が重要だから、説明できないから――そんな理由を並べながら、自分でも気付かないうちに仕事を囲い込んでいたのかもしれない。
だが、こうしてアイスが工程を細かく分解し、手順書として整理したものを見ていると、その考えは少しずつ揺らぎ始めていた。
核を洗う作業のすべてが特殊技能というわけではない。泥や付着物を落とすこと、余分な粘液を取り除くこと、水温や時間を管理すること、洗浄後の核を適切に保管すること――そうした部分は、正しい手順を覚え、経験を積めば十分に習得できる作業だった。もちろん注意は必要だが、それは何も核洗浄に限った話ではない。
本当に重要なのは最後の部分だ。
膜をどこまで残すのか。
どこから先を削るのか。
核ごとに微妙に異なる状態を見極め、品質を左右する最終判断を下すこと。
そこにこそ経験と感覚が必要であり、俺が責任を持つべき領域がある。
逆に言えば、それ以外の工程まで全部自分で抱え込む必要はなかったのだ。
そう考えた瞬間、長い間気付かないうちに肩へ積み上がっていた荷物を少しだけ下ろしたような感覚があった。重さそのものが消えたわけではないが、誰かと分け合えるのだと理解しただけで、身体も心もずいぶん楽になる。
そして同時に、別の考えも頭をよぎった。
今まで全部を自分一人でやろうとしていた俺のほうが、むしろ不自然だったのではないか。
工房を大きくしたいと思いながら、仕事は自分の手の届く範囲に閉じ込めたまま。人を育てる必要性を理解していたつもりで、実際には育てるための仕事を渡していなかった。もし俺が倒れたらどうするのか、もし別の作業で手が離せなくなったらどうするのか、そんな当たり前の問題から目を逸らしていた気さえする。
ユナが「覚えたい」と言ったのは、単に作業を増やしたいからではないだろう。工房の一員として役に立ちたいという気持ちがあって、そのために挑戦しようとしているのだ。
ならば俺も、自分だけで抱え込むのではなく、任せるべきところは任せることを覚えなければならない。
そんなことを考えながら、俺は静かに息を吐いた。
「……もしかして俺」
思わず呟く。
「今まで無駄に働いてたのか?」
「かなり」
アイスが即答した。
「もう少し悩め」
「事実です」
「即答されると心が痛い」
慰めるという文化をこいつへ教えるべきかもしれない。
たぶん無駄だろうけど。
たとえ何日かけて講義したところで「事実を正確に伝えることが最優先です」と真顔で返される未来しか見えないし、結局のところ俺の精神的被害だけが増えそうな気がする…
そんな微妙に釈然としない気持ちを抱えたまま、俺は手順書の次の頁へ視線を移した。
次の項目は、〈粘液基材の前処理〉だった。
採取したスライム粘液は、そのまま媒体液へ投入するのではなく、まず異物を除去し、水分量を揃え、粘度を一定範囲へ近付ける必要があるらしい。粘液ごとの個体差を減らし、後工程での品質変動を抑えるための準備工程というわけで、ここまでは俺にも十分理解できる内容だった。
問題は、その次に書かれていた内容である。
アイスは説明を始める前に、机の下へ手を伸ばし、いつの間に用意していたのか分からない見慣れない器具を取り出した。
それは銀製の小さな杯だった。
掌に収まる程度の大きさしかないが、表面は丁寧に磨かれていて鈍い光沢を放っており、縁の厚みや全体の均整も妙に整っている。さらに底部には細い穴が一つだけ開いていて、普通の容器として使うには明らかに不便な構造をしていた。
見た目だけなら高級な酒器や貴族向けの工芸品と言われても納得できるほど上品な作りで、少なくとも薬房で粘液を扱うための道具には見えない。むしろ応接室の飾り棚に置かれていても違和感がないくらいだった。
だからこそ、俺はその杯を見た瞬間に嫌な予感を覚えた。
どうせまた、アイスが当たり前の顔で新しい測定器具を作り出したに違いない、と。
「なんだこれ」
「粘度測定器です」
「どこで手に入れた」
「作りました」
またか。
最近こいつは当たり前のように工房設備を増やしている。
そのうち工房の隅から謎の測定機械が生えてきても驚かない気がしてきた。
「使用方法は単純です」
アイスは杯を持ち上げた。
「一定量の粘液を入れ、すべて流出するまでの時間を測定します」
「……」
「速すぎれば薄い」
「うん」
「遅すぎれば濃い」
「うん」
「適正範囲へ調整します」
俺はしばらく器具を見つめた。
そして納得した。
「ああ、なるほど」
今まで俺が感覚だけを頼りに判断していたことと、本質的には何も変わっていないのだ。木べらですくった粘液をゆっくり持ち上げ、その先端から垂れ下がる糸の細さや伸び方を眺め、どの程度の長さまで保つのか、どの位置でぷつりと切れるのか、器へ落ちるまでの速度は速いのか遅いのか、そうした細かな変化を総合して状態を見極める。薬師や職人なら誰でも一度はやる、ごくありふれた確認方法であり、俺も長年それで十分だと思っていた。だが問題は、その判断基準が全部俺の頭と経験の中にしか存在しないことだった。同じ粘液を別の人間が見ても、俺と同じ結論へ辿り着ける保証はなく、「このくらいが適正だ」という感覚そのものが共有できない。つまり再現性がなく、結局のところ俺にしか分からないのである。
「つまり俺の『なんとなくこのくらい』を数値に変えたわけか」
「その通りです」
アイスは珍しく満足そうに頷いた。
「誰が確認しても同じ結論へ到達できる状態を目指します」
俺は再び銀の杯を見下ろした。
職人技という言葉は聞こえがいい。
長年の経験で培われた技術と言えば格好もつく。
けれど裏を返せば、本人がいなくなった瞬間に再現できなくなるということでもある。
そしてどうやらアイスは、その問題を一つずつ解体しながら、俺自身より先に青ぷよ薬房の未来を考えているらしかった。




