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湖神の末裔  作者: 双鶴


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第2話 二つの諏訪、二つの後継

 天文十一年十二月。諏訪湖には薄い氷が張り始め、山々は白く雪をかぶっていた。


 高島城が落ちて半年。

 諏訪の地は、まだ戦の傷を癒しきれてはいなかった。


 焼け落ちた城下の家々、荒れた田畑、戦で夫や父を失った家族。

 だがその一方で、諏訪大社の境内には、少しずつ人々の祈りが戻り始めていた。


 諏訪の民にとって、諏訪大社は「生きる理由」であり「心の拠り所」である。

 その神事が再び動き出すことは、諏訪の再生そのものを意味していた。


 そして今日――

 諏訪大社上社本宮では、諏訪の未来を決める大きな儀式が行われようとしていた。


 諏訪大祝家の御子、頼忠が「大祝」に就任するのである。


 


 諏訪大社上社本宮の御社殿は、冬の冷気の中でも厳かな空気に満ちていた。


 御神体の前には、宮坂信定と守矢頼真が並び、

 その後ろには諏訪衆の重臣たちが控えている。


 さらに今日は、武田家からの使者も列席していた。

 諏訪はすでに武田の支配下にあり、諏訪大祝の就任は武田家にとっても重要な政治儀礼である。


 昌房は、まだ幼い頼忠の手を引いて歩いていた。


 頼忠は六歳。

 だが、その瞳には不思議な静けさと強さが宿っていた。


 昌房は心の中で呟いた。


 ――この御子こそ、諏訪の未来。


 御社殿の奥には、諏訪御前の姿もあった。

 晴信の側室であり、諏訪一族の娘である彼女は、

 諏訪と武田を結ぶ唯一の“血の橋”である。


 そしてその隣には、彼女の子――武田勝頼が立っていた。


 勝頼は七歳。

 武田の血と諏訪の血を併せ持つ少年は、幼いながらも凛とした雰囲気を漂わせていた。


 諏訪御前は、頼忠と勝頼を見比べ、静かに微笑んだ。


 「……二人とも、諏訪の未来を背負う御子です」


 その声は、母としての優しさと、政治を知る女の覚悟が混ざっていた。


 


 宮坂が声を上げた。


 「諏訪大祝家の御子、頼忠様。前へ」


 昌房に手を引かれ、頼忠は御神体の前に進んだ。


 宮坂は厳かに告げた。


 「本日より、頼忠様は諏訪大社上社の大祝となられる。

  建御名方神の御子として、諏訪の神事を司り、

諏訪の民の心を守る御役目にございます」


 頼忠は小さく頷いた。


 六歳の子が理解できる言葉ではない。

 だが、その瞳には、何かを受け止めようとする強さがあった。


 守矢が続けた。


 「諏訪の武は、武田家の御子・勝頼様が担われる。

  諏訪の神は、頼忠様が継がれる。

  これより、諏訪は“武”と“神”の二つの柱にて立つ」


 その言葉に、諏訪衆の重臣たちは深く頷いた。


 諏訪惣領家の後継は勝頼。

 諏訪大祝家の後継は頼忠。


 この二つが揃って初めて、諏訪は“諏訪”として存続する。


 


 儀式が終わると、諏訪御前が頼忠の前に膝をついた。


 「頼忠様。今日からあなたは諏訪の大祝。

  諏訪の神を守り、諏訪の民を導く御役目です」


 頼忠は小さく首を傾げた。


 「……叔母上様。私は、なにをすればよいのでしょうか」


 諏訪御前は微笑んだ。


 「祈りなさい。

  そして、諏訪の民の声を聞きなさい。

  それが大祝の務めです」


 頼忠は真剣な顔で頷いた。


 その様子を見ていた勝頼が、そっと頼忠に近づいた。


 「頼忠。わしは武田の家で武を学ぶ。

  だが、諏訪の血も継いでおる。

  ゆえに……諏訪のことは、共に守ろうぞ」


 頼忠は勝頼を見上げた。


 勝頼は、頼忠より一つ年上。

 だが、その言葉にはすでに“武家の子”としての責任が宿っていた。


 頼忠は静かに微笑んだ。


 「はい。共に守りましょう」


 諏訪御前は二人を見つめ、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 ――この二人が並び立つなら、諏訪は滅びない。


 それは、母としての願いであり、

 諏訪一族の娘としての祈りでもあった。


 ***


 儀式の後、諏訪衆の重臣たちは密かに集まっていた。


 宮坂が静かに言った。


 「……頼忠様は大祝となられた。

  諏訪の神威は、これで守られた」


 守矢が頷いた。


 「勝頼様は武田の御子。

  いずれ武田の軍を率いられるお方。

  諏訪の武を担うのは勝頼様でよい」


 昌房が言った。


 「だが、諏訪の“魂”は頼忠様にある。

  諏訪の神威は、頼忠様が継ぐべきもの」


 宮坂は声を潜めた。


 「……諏訪神軍は、頼忠様のために温存する。

  武田に差し出すことはせぬ。

  このこと、決して外へ漏らすな」


 重臣たちは深く頷いた。


 諏訪は、武田に従う。

 だが、諏訪の神威は武田に渡さぬ。


 そのために――

 頼忠は守られ、育てられ、いずれ諏訪神軍を率いる存在となる。


 


 その夜、頼忠と勝頼は、諏訪湖のほとりに座っていた。


 冬の湖は静かで、月の光が水面に揺れている。


 勝頼が言った。


 「頼忠。わしは、武田の家で強くなる。

  だが、諏訪のことは忘れぬ。

  母上様が申された。

  “諏訪は神と武の両方で守られる”と」


 頼忠は湖を見つめたまま言った。


 「私は、祈ります。

  諏訪の民が泣かぬように。

  戦が来ぬように」


 勝頼は笑った。


「ならば、わしが戦を止める。

  頼忠が祈り、わしが戦い、

  共に諏訪を守るのだ」


 頼忠は勝頼を見上げ、静かに頷いた。


 「はい。共に守りましょう」


 その言葉は、幼い二人の約束だった。


 だが、その約束は――

 やがて戦国の嵐の中で、二人の運命を大きく揺さぶることになる。


 諏訪湖の水面が、月光を受けて静かに輝いていた。


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