第18話 化身【Dios】
だが、メフィストは死ななかった。
首に噛り付いていた力がほどける。急激に空気が喉を通る。むせ返り呼吸をしながらメフィストは当然の疑問に行き着く。何が起こったのだろうか? その疑問の答えを確かめようと首を振り向かせようとしたその時、左肩に激痛が走った。
「ッ――――!」
見ると、左肩に穴が開いていた。
メフィストの左肩を抉ったその光撃は本来なら頭蓋を狙ったものだった。しかし、タイミング良く振り向かれたため左肩を抉るに留まったのだ。抉られた肩口の傷は紅く発光しながら蒸気し、再生を妨げる。その効果にメフィストは顔をしかめ、忌々し気に。
「あぁ、傷の再生が出来ないわ――――一体何が――――」
背後を振り返る。沈黙しているベヒーモス。先ほどまで犯す喜びに爛々としていた瞳は虚ろに染まったまま一切の色を失っている。メフィストは驚愕する。
「嘘……あのベヒーモスが死んでいる……」
七大悪魔の一柱【暴獣のベヒーモス】は確かに交尾の最中著しく気が緩み隙だらけになる。魔力を全て快楽魔術に次ぎ込むため無意識に纏っている魔力障壁が0になり、あらゆる攻撃に対し無防備になる。それだけの隙を晒しながら交尾に全精力を注入できるのは、この世のあらゆる物質よりも高い硬度を誇る己の毛の鎧を何よりも信用していたからだ。その毛の鎧をあっさり貫通され、脳髄を貫かれたベヒーモスは、即死であった。これが平時であったならこうも易々とやられはしなかっただろう。
己の弱点を的確に突かれたが故の、死。
おそらく幸福な死であっただろう。全雄の羨むような至上の快楽の中でイケたのだから……。
オペラツィオーン――名前が長すぎて覚えきれない、嫉妬の表情で戦場を監視していた悪魔憑の首を脇に抱える異貌の黒い肌の男が言った。
「おおう。凄まじい力だ。さすがは第18代目仏陀デーヴァ・マハーヴァイローチャナ様が直々に呼び出した天使なだけはある。酒池肉林の王ウンザオヴァ―もさすがにデーヴ.ァ様の法力には敵わなかったか」
「流石は歴代最徳を自負するお方、デーヴァ様だ」
「阿弥陀如来の教令輪身(如来が教導すべき衆生の性質に合わせて取る姿〝三輪身〝の一つ。如来本来の姿〝自性輪身〝阿弥陀如来。善なるモノを諭し導く菩薩としての姿〝正法輪身〝金剛利菩薩。悪を為さんとするモノを懲らしめ分からせる忿怒尊としての姿〝教令輪身〝大威徳明王。如来はこの三形態を衆生に対して使い分ける)【大威徳明王】へと化身するとは……」
「もとより我らが塔主。その法力を疑っていたわけではないが……」
「まさかあの大威徳明王様へと化身なさるとは……デーヴァ様と出会って早50年、しかし今日程デーヴァ様に驚かされた日はない。これ程の力を我々に隠していたとはやれやれ人の悪い、いや、デーヴァ様のことだから何かしら深い思慮があってのことだったのであろう」
「我等仏の救いを待つしか能のない虫けら共でもデーヴァ様に付いていけばきっといつか涅槃に辿り着けることだろう」
「うむ。間違いなし」
戦場を見渡せる小高い丘。そこに集う五つの影、五大悟天だ。
第19代目仏陀(予)梵天のブラフマン。
涅槃を司る僧戦士、地天のプリティヴィー。
愛と末法の尼戦士、月天のチャンドラ。
裁きと焔の僧戦士、焔摩天のヤマ。
仏塔最強の僧戦士、大黒天のマハーカーラ。
デーヴァとウンザオヴァーの決戦を目の当たりにし、それぞれデーヴァに対して異なる感情を抱く。あるものは畏怖を、あるものは嫉妬を、あるものは恋慕を、あるものは崇拝を、そしてまたあるものは友情を――。
(しかしあんシャウラとかいう男、とんでもない傑物であったな……)
オペラの首を黒い大地に投げ転がしながら五大悟天のリーダーダルマンは思う。東方より訪れた若者。シャウラ・レヴォリュシオン。彼がいなければデーヴァは今も仏塔に座ったままであっただろう。五大悟天の誰もが動かせなかったデーヴァの腰をあの若者はひょいと現れてひょいと動かしてしまった。それがどれほど凄い事なのか、五大悟天の誰もが理解している。ポツリ、とブラフマンの口からシャウラへの感嘆が零れる。
「まさかデーヴァ様のあん重い腰を上げてしまうとは……今でも信じられんわい」
「まぁそれも納得だ。何せ奴は我等が五大悟天になる為に長い修行の果てに突破した【五苦業】(水死の業、虫篭の業、色狂の業、痛死の業、降魔の業)をたった一日の内に突破してしまったのだから」
「レジーナ感激……(うっとり)」
「恐ろしき力、デーヴァ様が救世主と断じただけのことはある」
「そう……だな……」
俯き、言葉少ななバガディーン。ダルマンはそんなバガディーンに声をかける。
「どうしたバガディーン。やはりディーヴァ様の告白がまだ心の内で棘と化しているか」
「……すまないな。俺が間違ってる。ディーヴァ様はいつだって正しい。だから俺の方が間違っているのは分かっているんだが……」
「そうじゃバガディーン。お前は間違っておる。いい加減棘を消しんさい。ディーヴァ様はいつだって我等が天であらせられるぞ。ディーヴァ様を疑うとは苦行が足りぬ証拠。生きて帰れたら儂と苦行室で一緒に汗でも流そうか。そしたらお主もすっきりするじゃて。まぁ気持ちは分かる。儂も告白を聞いた時、心臓が物理的に止まるほど驚いたからの。……じゃがいつまで引き摺っておる。ディーヴァ様が今化身なさってまで我らの命救うため悪魔と戦ってらっしゃる。見届けよ。運命を共にせよ。バガディーン。それがお主の今するべきことじゃて」
「だが、俺は」
「いいかバガディーン。お前は間違っておる。まぁよく聞け――――」
ダルマンはバガディーンに語りだす。シャウラが訪れた日の出来事を思い出しながら――――。
「凄いね、シャウラ。君には救世主の資格がある」(デーヴァ・マハーヴァイローチャナ)
「 」(ダルマン・ブラフマン)
「やはり、見込んだ通りだよ、救世の相が浮かんでいるだけのことはある」
「 」(ダルマン・ブラフマン)
絶句。二の句が継げない。他の五大悟天も同様だった。七人のリーダーとして、ダルマンは何とか言葉を絞り出した。額から汗がだくだくと流れている。
「【五苦業】を、超えおった……」
「どうです。あなた方が私に課した苦行は全て超えました。約束通り、私に力を貸してくださいますね」
「う、うむ。約束だ。僧伽を10人ばかり、だったな。それならば我等五大悟天から誰か一人を連れていけ。そのものとそのものの配下がそなたに付き従う。実力は確かだ。誰でも選ぶとよい」
「選ばせて、くれるのですか?」
「ああ、そうだ。不満か?」
「いえ。では、彼女を」
「レジーナか」
「はい」
レジーナ・チャンドラがシャウラの前に進み出た。地面に膝を突く。浅く頭を垂れ恭しく述べる。
「月天のレジーナ・チャンドラ。今よりシャウラ様に篤お仕えしましょう」
「ありがとう。これからよろしく頼む」
「はっ」
胸に手を当てレジーナはさらに深く頭を下げる。
ダルマンは一つ頷くとシャウラに確認をする。
「さて、これで約束は果たせましたかな?」
「はい。まさか五大悟天の力を借りれるとは……これほど頼もしい助力を頂けた幸運、決して無駄にはしません」
(ああ、ああ! レジーナ感激! 頼もしいだって……。シャウラ様が……)
レジーナは苦業をものともしないシャウラの姿に心の底から惚れ込んでしまい(頼まれたら何でもしちゃうくらい)そのシャウラに間接的に褒められたことで内心すっかり舞い上がってしまっている。もう、死んじゃってもいいくらいに。
(ああ、ああ、幸せだわ。これからしばらくの間二人一緒に過ごせる。二人は苦難を分かち合う内にお互いを強く意識するようになる。そしてある夜二人はとうとう――――)
とろけるような恍惚に心浸るレジーナ。このまま行けば結魂だって夢じゃない。そう思っていたその時、冷や水を浴びせるかのような一声がレジーナに叩きつけられた。
「待って、僕が行こう」
「そっ(んな……)」
「何? チャンドラ」
「ン、ゴホン……ディーヴァ様、私に行かせてください。彼は私たちが提示した条件を見事に果たしてみせ、正当な対価として私の助力を要求しているのです。その要求を無視するとあらばそれは裏切りも同じ。デーヴァ様の命と言えどもそれは流石に…………」
「君、死ぬよ」
「なっ――」
「君だけじゃない。他の五大悟天が行っても死ぬだろう、例えマハーカーラでもね」
絶句。五大悟天は言葉を発することが出来ない。デーヴァ・マハーヴァイローチャナの予見は今まで外れたことが無かった。だから、行けば本当に死ぬのだろう。
「僕が行く。僕一人で並の僧伽10億人分の法力があるだろう。それでいいかな?」
「涅槃西ブッダガヤ仏塔の塔首である第18代目仏陀デーヴァ様の助力とあらばこちらに不満などあろうはずがない。私は構いません」
「なら、決まり」
「待ってください。死ぬとはどういう意味ですかデーヴァ様」
「そのままの意味だよダルマン。そういう運命が見える。あまりにも危険すぎるんだ。彼を待ち受ける運命は。だから僕が行く」
「ならばこそここは私が! そんな危険な運命にデーヴァ様を関わらせる訳にはいきません!」
「くどい」
能面のような無表情でレジーナにそう告げるデーヴァ。だがその言葉にはその場にいる者全てを沈黙させるだけの力があった。レジーナはたじろいだ。
「僕は君たちを死なせたくない――――それだけなんだ。分かるね?」
「は、はい。デーヴァ様はそういうお人です。だからこそ私たち五大悟天はデーヴァ様の元に帰依したのですから――」
レジーナの脳裏にデーヴァとの出会いの瞬間が再生される。家族を失い、当てもなく大地を彷徨い歩いていたレジーナをデーヴァは拾い上げ、仏塔の一員としてくれた。あの日デーヴァに出会わなかったら今頃自分は糞悪魔にレイプされたあげくどこぞかに打ち捨てられて死んでいただろう。デーヴァに死ねと言われたら死ぬ覚悟がレジーナ、いや五大悟天には備わっている。だが、自分たち如きのためデーヴァが死地に向かうというのは、耐えがたいことだった。
「デーヴァ様。私に、いや、私でなくてもいい。五大悟天の誰かに随行を許可してください。デーヴァ様に危険が迫った時には、その者がデーヴァ様をお救いします。ですから――――」
「【化身】を使う」
レジーナに衝撃が走る。いや、五大悟天全員にだ。デーヴァの言葉が電撃のように脳裏を貫き思考を停止させる。シャウラは【化身】という言葉が何やら重い意味合いを持つ言葉であることを五大悟天の様子から察し、その意味をデーヴァに尋ねる。
「化身とは」
デーヴァは答える。
「秘術さ」
シャウラは尋ねる
「秘術とは」
デーヴァは答える
「秘密さァ」
シャウラは沈黙する。
「秘密の秘術さァ」
「デーヴァ様。そこまでする価値があるのですか? その男に【化身】を使うほどの価値があるのですか? 私にはそうは思えませぬ。どうか考え直してください」
「ダルマンよ、そこまでする価値があるから私が行くのだ。この男には救世の相が宿っている。きっといつかこの世を救うだろう」
「救世の相、か。しかし我等五大悟天にとっての救世主はデーヴァ様、あなたなのです。どうかお考え直し」
「僕には」
デーヴァが泣いていた。赤ん坊のように顔をクシャクシャにし、べそをかきながら、何度も何度も呟く。「僕には僕には僕には僕には僕には僕には僕には僕には僕には――――」
「デーヴァ様――」
「僕にはこの世界を救えなかった」
仏塔に住む者達は皆心のどこかでデーヴァを超越者のように思っていた。それは五大悟天も例外ではない。だが、そこにいるのはどう見てもただの凡物だった。五大悟天は動揺する。デーヴァは吐露を続ける。血を吐きつくすかのように。
「何もかも消し飛びそうだ。何もかも千切れそうだ。生きてるだけで精一杯だ。もういいだろ。もう地上を離れても。これ以上体に鞭打てと言うのですか? 何も知らずに、何もわからぬままあなたの言う通りに生きてきていつしか仏陀などと呼ばれるようになっています。しかしそれは誤りです。私もまた地獄を這いつくばる凡物の一人に過ぎません。何もかも砕けそうだ。立っていることすらつらい。存在することすら赦し難い。涅槃を夢見て今日まで耐えた。いつまで地上を彷徨えばいいのですか!? この地獄にあなたも生きてみるがいい!!!! 私を救ってくれ!!!! 愛と真実と赦しを下さい!!!!!!!!!!!」
なりふり構わぬ絶叫。そこに第18代目仏陀としての威厳は粒ほどもない。
「人は皆刑期が終わるのを待つだけの罪人だ。人は存在すること自体が間違っている。地上から死に絶えた方がマシだ。人族の絶滅。そのためならばどんな犠牲も厭わない。人は――――」
デーヴァはよろよろとふらつき歩く。シャウラの前で止まるとガシっとその手を掴み、瞳を見つめ、
「――――生まれてきたこと自体が間違いなんだ。君なら分かってくれるね? シャウラ」
「その通りです。人は生まれてきたこと自体が間違いだ。一人残らず滅ぼさなければならない。それが私の信念です。デーヴァ様とは相通ずるものを感じます。この出会いはきっと運命なのでしょうね」
「ああ、ああ、君はこの世の真理を悟っている。それこそが真理なんだ。人間は滅亡しなければならない」
「デーヴァ様! なにをおっしゃっているのです! 俺と初めて出会った日デーヴァ様は涙ながらにその理想を語られた。いつか自分は全ての人類を救ってあげたいと。そのためならどんな犠牲でも払うと。あの言葉は嘘だったというのですか!?」
「嘘じゃないよバガディーン……。いつか分かる日がくるよ。人類を救うことと人類を滅ぼすことはイコールだとね」
「糞がッ!!!」
バガディーンは地面を強か蹴りつけるとデーヴァに背を向けその場に居座った。反発は抱けど、話の行く末は聞き届けなければならない、そんな二律背反がバガディーンにそのような行動を取らせたのだ。バガディーンは激情家ではあっても感情に流される愚か者ではない。
「落ち着けバガディーン。デーヴァ様は真理だ。言葉の裏に秘められた深い思慮を読み取れ。神託を下されたのだ私たちは。疑うな。篤く信じよ。それが我等仏塔に集いし者の使命だ」
「ダルマン、俺はあの日の言葉を信じて今日までデーヴァ様に従ってきた。あの言葉は俺の存在原理でさえあった。俺はデーヴァ様の為なら何でもした。幼い子供も殺めた。あどけない聖女も犯した。殺した。悪魔の力を備えろと命じられれ発狂寸前の地獄の中降魔の業を完遂した。それはあの日デーヴァ様が語られた素朴な夢を現実にしたいという強い想いがあったからだ。だが俺の献身はたった今デーヴァ様に踏みにじられた。俺の心はデーヴァ様にレイプされた。だけど俺はまだデーヴァ様を信じたい。何故ならば俺が世界でたった一人心の底から愛した人、それがデーヴァ様だったから……だから心を落ち着かせるための時間をくれ。俺は今、最悪の気分だ。だってデーヴァ様が……」
「お前が男ながらにデーヴァ様のことを深く愛しておったのはこの仏塔におったものなら皆知っておる。だから、今は何も言うまい。だが、最後には賢明な判断を下すことをお前に代わって仏さまに祈っておるよ」
「余計なお世話だ……」
沈黙するバガディーン。涙を溜めながら。綺羅めくものが頬を伝い地面に一粒垂れ落つる。
「バガディーンには考える時間が必要みたい。私はシャウラ様が語る真理をデーヴァ様も真理だと言うのなら、きっと本当に真理なんだと思います。私は一生デーヴァ様に付いていきます。その先に地獄が待っていようと――――涅槃に衆生を送るための地獄ならばいくらでも落ちましょう。だって他者に涅槃を与える者は地獄を歩む定めにあるんですもの――――(そうだ地獄に落ちろ。レジーナ・チャンドラ。それがお前を救う唯一の方法なのだから)――――泣きたい。シャウラ様。胸を借りてもよろしいでしょうか。自分を立て直すためです」
「ああ、構わない。それが君の救いになるのだ。拒否することなど私に出来ようものか」
「ああ、ああ、シャウラ様……私を救ってお願い……」
レジーナがシャウラの胸に顔をうずめる。豊満な胸がシャウラの胸に押し付けられ形をシャウラ型に歪める。シャウラはレジーナの背に手を回し優しく声をかける。
「安心しろ。この地獄にあって私の傍は常に安全地帯だ。何故なら私は誰にも負けたことが」
ただただ隠れてその虐殺現場を見過ごすしかなかった生涯最悪の邂逅。シャウラの脳裏に黒死焔山の姿が浮かんだ。
「ないかふぁ、ないからだ。すまんな、ちょっと噛んでしまった。どうやら、柄にもなく緊張しているようだ。ふぅ、君が可愛いすぎるせいかな……(咄嗟の言い訳)」
「ズキュン♡(心を射抜かれた音)」
「シャウラ君。そろそろ行こうか。このままここで話していても埒があかないからね。まだ五大悟天は力不足だ。チャンドラは置いて行ってくれ。チャンドラ離れて」
「はい、デーヴァ様。シャウラ様、あなたに仏の加護があらんことを祈っています……」
シャウラの胸から顔を離すレジーナ。頬を紅く染め上げ潤んだ瞳。呼気は乱れ胸元は上下する。官能的な気配を全身から漂わせたその姿は誰が見ても恋する乙女。ダルマンはシャウラに嫉妬した。あのレジーナをここまで骨抜きにするなんて羨ましい、と。
「それでは投じましょうか。この身を荒ぶる運命の最中にと」
「うん、投じよう」
こうしてシャウラはデーヴァ・マハーヴァイローチャナを連れて涅槃西ブッダガヤ仏塔を出立した。
全ては【黒い死神】黒死焔山、そして【裏切の聖女】セィラ・ホリィを抹殺せんがため――――。
ダルマンはあの日のことを思い出す。そしてバガディーンに告げる。
「確かに私とてあの日のデーヴァ様の告白には戸惑った。デーヴァ様は怒りも悲しみも超越した生き仏だと思っておったからな。しかし、冷静に考えればデーヴァ様もまた人の体に受肉し、この地獄のような地上を彷徨う悲しみの使徒、地獄の子羊の1人に過ぎぬのかもしれん。ただ、我等を安心させるため超越者の振りをしていただけなのかもしれん。だが、それが何だ。私たちはただ大樹の恩恵を授かるだけの虫けらか? 違うであろう。我らはデーヴァ様という大樹を支える大地。育む土壌。潤す雨。そよぐ風。温もる日射し。優しき草原。そして果実。ただデーヴァ様に依存し甘えた生を送りたいのなら五大悟天である必要なし。デーヴァ様と同じ目線に立ち、その目に映る世界を広げていくのが我ら五大悟天の使命。今のお主は全てが自分の思い通りにならないと気が済まない幼稚な駄々っ子そのものよ。なぜ、デーヴァ様がお前の理想通りである必要がある? バガディーン、お主は本当にデーヴァ様と同じ目線に立てているか? 自分の至らなさをデーヴァ様のせいにしていないか? まずはそこから自問してみるがよい。さすればデーヴァ様が真理であることが分かる。賢きお前に戻れるよう仏さまに祈っているぞ。五大悟天【大黒天】のバガディーン。もっとも忠義熱き男よ」
「……俺だって」
バガディーンは呟く。
「本当は、デーヴァさまが正しいことくらい分かっている。もうこの世は救われないってことくらい……」
「その通りだ。この世はもう救われない。尋常な方法ではな」
バガディーンは葛藤していた。しかし、迷っていた訳ではない。自明の残酷を受け入れがたかっただけなのだ。それを受け入れたバガディーンの目に、涙と、信仰の光が、再度光った。デーヴァと運命を共にする覚悟を、他の五大悟天と同じく固めた。もうこの場を動かない。ダルマンは満足げに頷き、戦いへと視線を戻す。
大威徳明王とベヒモスの闘いは決着がつき、次の標的メフィストとの闘いが始まった。
大威徳明王は一方的にメフィストを攻め立てる。為す術もなく大威徳明王に蹂躙されるがままのメフィスト。魅了の秘術も性別を超越した仏には通じないのだ。一見、何の不安要素もなく大威徳明王の勝利に終わりそうな闘い。大威徳明王の額から一筋の光線がレーザーのように照射されメフィストの翼を断ち切っていく。この世のものとは思えない絶叫が遠く見守る五大悟天の元まで届く。
「ふん、いい気味だ……」
愉悦を漏らすマハーカーラ。
他の五大悟天も口にこそ出さないが同じ気持ちだった。