27.
「あ、終わってたんだ」
じいちゃんとの棋譜の研究がひと段落すると、和奏の演奏が終わっていることに気づく。
顔を上げると和奏と目が合う。
「ちゃんと集中できてたね」
「うん、僕も正直安心してる」
じいちゃんが死んでから将棋に集中できるのか少し不安だった。
しっかり頭にある二つの盤を別々の盤面で思考することができた。
「そうだ、ありがとう和奏。じいちゃんの為に弾いてくれて、凄く奇麗な演奏だった」
「それならよかったわ。私に出来る最大の弔いはピアノだから」
それから盤と駒を多目的教室に片付けてから帰路につく。
階段を降りていると葵と華凛に会う。
運動会で険悪だった組み合わせに僕は思わず警戒してしまう。
「あら、久しぶりね楓真」
「久しぶりだね葵も華凛も」
「運動会の時は助かったわ。おかげで華凛とも仲良くなれたし」
「……それはよかった」
まさかお礼を言われるとは思っておらず、返事が少し遅れる。
「それじゃ、また明日」
葵と華燐はそう言って去っていく。
僕は背中を見送った後、和奏の方を見る。
「運動会が終わってからみんな仲良くなったの。本当によかった」
和奏は安心した様子でそう口にする。
「元々クラスの女子は二分化してたんだけど、それもなくなったわ」
和奏は心底嬉しそうそう口にする。
その姿が本当に嬉しそうで、僕も嬉しい気持ちになる。
上機嫌な和奏の話を聞いていると、僕にも和奏のクラスの状況が分かってくる。
葵のように気の強い女子と気の弱い女子の間で溝があったようで、それが改善しているらしい。
和奏が話し終えたタイミングで僕は聞きたかったことを思い出す。
「そうだ、ピティナはどうだった?」
「うーん、そうだなぁ……」
僕の問いに含まれた意味は演奏の感想もあるが、どちらかというと他の奏者はどうだったかというニュアンスが強い。
僕はてっきり和奏が言葉に詰まったのは、相手にならなかったからだと思った。
なぜなら、銀賞である有馬心春という女の人は高校一年生だった。
年齢が全てではないが、小学四年生が高校一年生を負かしている点を考えれば異質さがわかる。
僕の瞳に映る和奏はライバルのいない寂しさではなく、困惑の色を見せている。
「私は今回のピティナをどう演奏するのか迷ってたの、前までみたいに淡々と求められている表現を愚直に弾いて、テストに答えるみたいに演奏するか、楓真がいる時みたいに聴いてくれている人に寄り添って、曲の意味を魅せる演奏をするか」
寄り添って弾いた方が聴きごたえのある演奏になるだろうが、コンクールというある種テストのようなものでは解答をなぞる演奏の方がいい時もある。
「私は結果の出てる表現の愚直さで勝負するつもりだったんだけど、前の演奏者の心春さんって人の演奏を聴いた時、勝てないなって思ってね」
「小春さんって銀賞の人?」
「そうそう、技術的なことを言えばE級なら上積みでF級なら真ん中ぐらい。私の方が上手く弾ける自信はあったけど、そんな考えを吹き飛ばす魅力があった。楽しそうで曲そのものが語りかけてくるような演奏を目にして私もこんな演奏がしたいと思ったの」
そう言う和奏は当時の様子を思い出して高揚しているのが分かる。
「今回のコンクールは楽しかったんだね」
「ええ!私自身の新しい可能性も感じたし、尊敬するピアニストにも会えたし満足ね」
「小春さんはライバルになりそう?」
僕が気になることを口にすると和奏は困ったような表情をする。
その表情を見てダメなことを理解したが、寂しそうな表情ではなく、理解できないような表情だった。
「なんというか、今回のケースは初めてでよく分からないの。怒りや恨みを向けられるわけじゃなくて、褒められる事ばかりで、その、どちらかというか崇拝に似た感じというか」
「す、崇拝?」
浮世離れした言葉が出てきて僕は思わず聞き返してしまう。
「私も言い過ぎな言葉だと思うけど、崇拝以外にピッタリな言葉が見つからなくて」
和奏も初めての経験で戸惑ってる様子だった。
少し気まずい沈黙が訪れたので僕が口を開く。
「まあ、それだけ良い演奏だったってことだね」
「それは自信を持って言えるわ!楓真にも聴いてほしかったもの」
それは是非とも聞きたかった。
今日聴いた鎮魂歌だけでも和奏の演奏は明らかに上達していた。
意識の変化と言えばそうだが、和奏の芸術性が定まったのだと分かる。
ピアノを楽しみ、観客に曲を強くイメージさせ、音で殴るような演奏になった。
自ら光を放つような演奏に変わったのだ。
「次のコンクールは事前に聴いてもらうわ」
「それは楽しみだね」
「ふふ、約束よ」
和奏はそう言って楽しそうに笑う。
僕は今後の和奏の成長を祈ると同時に恐怖を抱いている。
ただでさえ、他を寄せ付けない傑物が楽しみながら努力し続けたら、どんな化け物が生まれるのだろう?
つくづく和奏はピアノを弾くために生まれてきたのではないかと思わされる。
「そうだ、楓真の次の対局っていつなの?」
「初めての例会が10月の頭にあるよ」
日程で言えば校外学習の前にある形だ。
「確か1日で三回指すのよね?目標は?」
「全勝と言いたいとこだけど、三局目の疲労度がわからないから少なくとも一局目と二局目は落とさないようにしたいかな」
「そうね。全部勝つ方がいいけど、まだ楓真は慣れてないし力を入れるタイミングを決めておくのはいいことね」
僕は保険を口にした形だが和奏は納得したように頷く。
弱気な発言だっただけに指弾を受けると思ったが、好意的に受け取られて驚いてしまう。
「何か変なこと言った?」
「いや、てっきり、全部勝ってこい。ぐらい言われると思って」
「それが理想だけど、体力の問題はどうしても存在するからね。リハーサルで完璧に弾けても本番じゃ疲れて弾けないなんてことは、いくらでもあるもの」
「本番と練習の違いか」
「そう、明らかにストレスと緊張が違うからね。特に将棋だと精神的疲労が発揮できる力に直結するでしょ?」
「そうだね」
何かに打ち込んだことのある人なら、本番と練習の違いは痛いほど分かるだろう。
練習は本番のように、本番は練習のように。
よく言われる言葉だが実行するのは難しい。
逆に本番だからこそ力を発揮できることもあるだろう。
「といっても、昇格にはどこかで三勝する必要があるんだけどね」
「そうなの?」
「6級から1級までの昇級条件は、6連勝、9勝3敗、11勝4敗、13勝5敗、15勝6敗。のどれかを満たすこと。六連勝を続ければ四年間でプロになれたりするけど、現実味は薄いね」
実際に四年間でプロになった棋士も存在するが、トップもトップの人だ。
「なるほど、じゃあ中学生で楓真がプロになることもあるってことか。そうなれば私は一気に置いていかれることになるね」
将棋という競技は年齢はあまり関係なく、十代でタイトルを取る人だっている。
僕もそれを目指さないといけない。
「私がプロに最速でばれても大学生ぐらいだし、結構差をつけられちゃうかな」
「和奏が追う側になるように努力するよ」
「ふふ、言ってくれるわね。楽しみにしとくわ」
和奏は笑いながらそう言うと、僕の肩を軽く押す。
和奏は夏休み前と比較してもっと楽しそうに見え、僕も自然と笑ってしまう。
「また明日ね!」
「うん、また明日!」
今朝までの心配が消えた僕は軽い足取りで家に帰る。
部屋に戻ってしばらく将棋を指した後、母さんが帰ってくる。
「ただいまー、学校どうだった?」
「おかえりー、夏休み前と一緒で普通だったよ」
僕がそう言うと母さんは急に愉快そうに笑い始める。
「あらあら、成長したんじゃない楓真」
そう言う母さんは心底嬉しそうだった。
「そうみたい」
母さんにとって僕は何歳になってもずっと子供のままなんだろう。
僕に出来る恩返しは成長した姿を見せることなんだと理解した。




