26.
「それじゃ、和奏に聞いてみてな」
「……そのつもり」
僕がぶっきらぼうに答えたのが面白いらしく、笑われる。
「それじゃ、また明日な!」
「うん、また明日」
僕は裏門で康誠と別れると、再び旧校舎に戻って四階まで上がる。
音楽室の手前にある多目的教室の前に着くと、僕は一度深呼吸をする。
半月だけ会っていないだけなのに、緊張している自分がいる。
普段通りを心がけて多目的教室に入る。
そこには箒の先に顎を乗せ、瞳を閉じて季節の音を口ずさむ和奏がいる。
長く綺麗な黒い髪が揺れる様は神秘的で足を止めて見惚れてしまう。
しばらく時間が経つと、こっちに気づいた和奏が水色の瞳を向ける。
今まで見た中で一番澄んだ水色の瞳は、僕を捉えた途端にジッとしたものに変わる。
「来てたなら声かけてよ」
「楽しそうだったからさ」
「楽しそうなのは認めるけど、待つ事そのものは楽しくないからね」
和奏は微笑みながらそう言うと、箒を手渡す。
僕は箒を受け取って普通に軽口を言えたことに安心する。
「奨励会合格おめでとう楓真。そして約束守ってくれてありがとう」
「和奏もピティナE級金賞おめでとう。しっかり結果を出してくれてありがとう」
お互いに賞賛の言葉を送ると、一段落したのだと分かり、肩の荷が降りる。
「ふふ、やっと直接言えたね。全然鹿児島から帰ってこないんだもん」
「ごめん、いろいろあってさ」
「いいのいいの、それよりおじいさんには勝てた?」
僕はこの問いにどう答えるか迷っていた。
「負けた」と答えるのは簡単だし、嘘はついてない。
だが正しくもない。
僕の中で最も印象深く、魂に刻まれた対局はあの日のじいちゃんとの対局だ。
このことを話さないのは和奏に失礼なことだと思う。
「あまり耳にいい話じゃないんだけどさ、僕のじいちゃん死んじゃったんだ」
「……え?」
楽しそうだった和奏は一瞬で困惑と混乱の色に変わる。
「僕が引っ越す頃にはかなり悪かったみたい。僕も知らなかった」
「そ、そう」
話を聞いている和奏の表情が本当に暗くて申し訳なくなってくる。
それでもやっぱり和奏には知っていてほしい。
「だ、大丈夫なの楓真は?」
「もちろん悲しいけど、大丈夫。じいちゃんは僕に宝物をくれたから」
僕はそう言うと病院での対局の話をする。
最後にプロとして指してくれたこと、話せるだけ話したことを話す。
僕に目指す道を示してくれたのだと。
「いいお爺さんね。心から尊敬するわ」
最後まで真剣に聞いてくれた和奏はそう口にする。
それを聞いて僕は誇らしい気持ちになる。
「だから僕は大丈夫。慢心も油断もしない」
僕は和奏にそう宣誓する。
奨励会の一次試験では心配させてしまったが、これからはさせるわけにはいかない。
「それなら安心ね」
和奏はそう言うと嬉しそうに笑う。
僕も釣られて笑ってしまう。
「大人っぽくなったね楓真」
「そうかな?康誠にも言われたんだけど」
「表情とか雰囲気が落ち着いてるんだよね。それに余裕を感じる」
和奏に言語化されたことで腑に落ちる感覚がある。
奨励会に受かり、じいちゃんにプロというものを教わってから子供であってはいけないと思っていた。
日常でも過度にはしゃいだり、変なミスをしないように気をつけていた。
「特に笑い方が、セーブしてるのかな?目が据わってる感じからそんな気がするの」
「そう……かも」
僕は自分が笑っていいのか分からないでいる。
与えたもらってばかりな僕に笑う権利なんて――
「無理に感情を抑える必要はないわ。大人になるってそういうことじゃないと思うの」
「でもさ、僕は何も返せてないんだよ。奨励会に受かった時だって母さんに心配させたし」
「洋子さんもおじいさんもそんなお返しは望んでないと思うわ。二人は楓真にやりたい事をやらせたいからやっているだけで、そこに見返りもお礼も求めてないと思うの。それが楓真の家族だと私は感じるもの」
和奏の家庭環境を踏まえるとこの言葉は非常に説得力がある。
僕の家族が将棋を指すことを強制したわけではない。
だからこそ、無償の愛だからこそ何かを返さないといけないと思ってしまう。
「私が洋子さんとおじいさんの立場だったら、楓真が努力してる姿を見れるだけで十分よ。それに心から笑ってる姿が一番見たいもの。楓真は違う?」
「僕も、そう思う」
僕がそう言うと和奏は優しい笑顔で頷く。
それを見ると緊張して強張った心が溶けていくのを感じる。
「ありがとう和奏」
僕は一切の憂いのない笑顔を向ける。
てっきり喜びの感情を向けられると思ったが、動揺を向けられる。
「う、うん……どういたしまして」
「変だった?」
「うんうん、素敵な笑顔だったわ」
和奏は慌ててそう口にする。
手を左右に振る動作などから嫌なニュアンスはないことが伝わってくる。
「さ、早く掃除を終わらせましょ」
和奏はそう言うと反対を向いて箒を動かす。
僕は様子が変だとは思いつつも掃除を再開する。
一度大きく息を吐いて周囲を見ると秋の訪れを感じる。
換気のために空いた窓から夏の匂いを僅かに含んだ秋風が、虫の音と一緒にカーテンを揺らす。
多目的教室に入った時には感じなかった感覚だった。
「ああ、こんなに綺麗だったんだ」
僕がそう呟いている間、和奏は片手で箒を動かしながらもう一方の手で胸を押さえていた。
奨励会試験の前の楓真の笑顔は子供らしいものだった、だが今見せた笑顔は屈託があるのに大人っぽかった。
元々楓真は不意に大人っぽい行動を見せることがあった。
欲しい言葉をくれることや、決意のある表情は頼もしかった。
それでもこんなに胸の鼓動が速くなることはなかった。
高揚や興奮とは別の感情。
まだそれを理解するには経験も年齢も不十分だった。
お互いに感情の整理が終わりると同時に掃除も終わる。
音楽室に移動して和奏はピアノを、僕は将棋を始める。
ただ僕は将棋を真面目に指すのは久々で何をするか迷う。
その間に和奏はピアノを弾き始める。
演奏される曲はゆっくりとしたテンポでどちらかというと暗い調律。
音量も大きくはなく、重厚な雰囲気だ。
音楽室を流れる時間がゆっくりとなり、照明が暗くなる感覚になる。
ろうそくの光で照らされているような感覚。
そして終わりのない感覚に襲われる。
だが恐怖はない。
むしろ穏やかな気持ちに悲しさがある感じ。
「あ、そういうことか」
和奏が弾いている曲は鎮魂歌だ。
ラテン語でレクイエムと言われる鎮魂歌は死者の霊を慰め、その安らかな眠りを祈るために歌われる歌や音楽のことだ。
和奏の演奏を聴いているとじいちゃんとの思いでや対局を思い出してくる。
僕は何をするのかを決める。
じいちゃんとの最後の棋譜を並べ、研究する。
暗い音楽が続くのは悲しみが無くなることはないのを示しているのだろう。
それでも残された人は悲しみ抱えて前に進まないといけない。
棋譜を並べると病院でじいちゃんと指した風景が浮かんで、思わず泣きそうになる。
実際に手を動かし、俯瞰的に見るとじいちゃんの読みの深さを思い知る。
いつかこの次元に達することを目指して僕は歩みを続けるんだ。




