20.
「ふう、とりあえず一次は突破か」
二日目の一局目を無事勝利した僕は外に出て一息つく。
狭まっていた視界が広がり、周りの景色が見えるようになる。
「うぅ、ぐす」
入り口に視線を向けると涙を流した男の子が出てくる。
顔に見覚えがあったので記憶を思い返すと昨日の二局目に対局した相手だった。
その様子から察するに三敗したのだろう。
初日は三連敗しない限り失格にならないが、四局目にもなれば失格者は増えてくる。
あまり見ていたい姿ではないので移動する。
そして理解する。
真剣勝負に勝つということは相手の未来を潰すという行為なのだと。
奨励会試験は年に一回しかない。
つまり試験に落ちれば来年までチャレンジはできない。
この一年間という期間はあまりにも長い。
三敗の内一敗は僕によるもの。
つまり僕が間接的に未来を阻んだのだ。
「真剣勝負に慣れるってこういうことか」
普段の対局とは異なり殺し合いだ。
僕は初めて真剣勝負というものを理解する。
だが自然と嫌悪感や抵抗感はない。
むしろ満足感があるのがわかる。
生きている感覚がある。
「勝てばいいんだ。敗者にならなければいい」
僕の心はそう感じた。
本気で打ち込んだことに対して、本気の相手がいる環境。
それが奨励会なのだ。
僕も早くその世界へ身を投じたい。
「そうしたら、少しは近づける」
和奏と康誠が大人っぽく見える理由がわかった。
この命懸けの世界で生き残ってきたからだ。
もう一回が許されない世界。
僕は死線に足を踏み入れたのだ。
そしてその認識が甘かったのを僕は後々痛いほど知ることになる。
そんことをつゆも知らない僕はスマホをフリックする。
「とりあえず、一次突破っと」
僕は母さんよりも先に和奏へと連絡していた。
するとすぐに既読がつくが、返信までにタイムラグが生じる。
僕よりも和奏の方が入力は早いのにだ。
「おめでとう楓真!二次試験も頑張って!」
昨日のことを考えると電話をかけてくると思ったが文章だった。
「それもそうか、昨日のままの僕なら電話したら安心する可能性が高いか」
また気を遣われてしまった。
だから次は僕が行動する番だろう。
そう思って僕は電話をかける。
「も、もしもし?」
「ごめん急に電話かけちゃって、今大丈夫?」
「うん私は平気よ」
僕は和奏の返事に安心して言葉を続ける。
「僕理解したよ真剣勝負を、自分の未来を懸けて戦っているって。今まで認識が甘かった」
正直に言えば倉敷王将戦の休憩時間に響也と指した一局の方が大変だった。でも真剣勝負っていうのはそういう意味ではないのだ。
自分の頭に銃が突き付けたれた環境こそ真の真剣勝負だ。
「もう僕は絶対に油断も慢心もしない。全てを懸けて真剣勝負に臨むから」
「ふふ、昨日までは自信なさそうだったのに。男の子の成長は早いものね」
和奏は楽しそうな口調になってそう言うと次の瞬間トーンを一つ下げる。
「泣いて帰る子でも見た?」
その言葉に僕の心臓は跳ねた。思わず周囲を見回してしまう。
「その反応的にあってみるみたいね」
「近くで見られてるのかと思った」
「私が真剣勝負を理解した時がそうだったからね」
「……なるほどね」
今、考えてみれば和奏に負けた人数は相当多いだろう。泣いている人なんて何十人と見ている可能性が高い。
「本気の相手と戦うのってこれ以上ない幸せなことなの。これだけは絶対に忘れちゃいけないわ」
「そうだね、身に染みてわかったよ」
「ふふ、それなら明日も大丈夫そうね」
「大丈夫、少なくとも慢心はしないよ」
僕がそう答えると和奏は安心したように息を吐く。
「それなら言えるわ、一次試験突破おめでとう楓真」
「……ありがとう和奏」
僕は振り絞るようにお礼を言った。危うく安心しそうになりそうなぐらい嬉しかった。
まだ一次試験とはいえ、結果を出して賞賛してくれる人がいる。
それが和奏である事実が何よりも嬉しい。
「おかげさまで二次試験も頑張れそうだよ」
「ふふ、それはよかった。それじゃあ、そろそろ切るね。長話は全部が終わってからね」
通話が終わり、僕は母さんの待つカフェへと向かう。
そして和奏とは異なる、激しい賞賛を受けてから家に帰った。
この日は少しの高揚と読めない明日の不安を抱えながらベットに入った。
寝付きは悪くなく、あっという間に二次試験当日になる。
電車に揺られながら2次試験の概要を思い出す。
奨励会試験二次試験、一日で奨励会員と3局指し、一勝すれば合格だ。
対局相手の会員は基本的に六級の人で、まれに五級の人とあたり、その場合は香車落ちのハンデとなる。
香車落ちの対局は奨励会で行われることが多く、受験者は慣れていないことが多い。
僕としてもあまり香車落ちは指したくない。
そして二次試験の最大の特徴として、対局相手である奨励会員は例会としてみなされることだ。
例会とは奨励会の昇格をかけた対局のことで、二次試験の一勝は同じ階級の奨励会員に勝った時の一勝と同じ価値になる。
たがら対局相手の奨励会員は本気で勝ちにくる。
自分の未来を切り開く一勝になるからだ。
奨励会試験は二次試験が一番の関門と言っていいだろう。
そんなことを考えていると、奨励会の最寄りにつき電車を降りる。
そして歩き始めると見覚えのある人物に会う。
倉敷王将戦で一局目に対局した将太だった。一次試験の時には見なかった。
「げぇ」
僕と目が合うなり、嫌そうな顔を向ける。
「将太も試験受けてたんだね」
「俺は二次試験からだ、倉敷王将戦で優勝してるからな」
後から調べたことだが、小学生名人戦や倉敷王将戦といった大会の全国大会優勝者は一次試験が免除されるらしい。
将太が全国大会で優勝していたことを、倉敷王将戦の情報をシャットアウトしていた僕が知るわけもなかった。
「お前は余裕そうだな」
「そうかな?結構不安なんだけど」
「は、そんな表情で言われても説得力がないな。まあ、あんだけ強かったら二次試験ぐらいわけないか」
僕の印象では将太は自信家に見えたのだが、実際は違うのかもしれない。
「奨励会員は別格だ。去年は何もできなかった。お前との対局みたいにな。だから次は例会でお前に勝つ」
「はは、それならお互いに受からないとね」
「あぁ、また置いていかれるわけにわいかないからな」
将太の言葉に僕も頷く。
お互いに響也に置いていかれるわけにはいかない。
その気持ちを抱いて奨励会に入る。
中を見てみると一次試験の時にはいなかった人が多いことに気づく。
将太のように全国大会で結果を残した人や、研究会で有力な人が一次試験を免除される。
「えー、これから二次試験を始めたいと思います」
定刻となり司会の人の進行に合わせて二次試験が始まろうとしている。
僕の対局相手は六級の人で平手での対局となる。
相手は小学六年生の男の子。
一次試験でも小学六年生の人と対局したが、明らかに雰囲気が違う。
表情が大人びて見え、殺気のようなオーラを出している。
対局相手と向かい合った瞬間、明らかに受験生の表情や仕草が硬くなるのがわかる。
それは僕も例外ではなく、緊張感に襲われる。
「なるほど、ここからが本番か」
僕はそう心で呟くと姿勢を正す。
「よろしくお願いします」
一斉に頭を下げる音が鳴ると、ピィピィ、という音を皮切りに対局時計の音が鳴り始める。
時を刻む機械音は嫌でも焦らせにくる。
この対局の先手は僕、飛車先の歩兵を突いて居飛車を宣言する。
こっちの指し方の基盤は見せた。さあ、お手並み拝見といこう。
対局時計を押して相手に手番を渡す。
相手は一度目をつぶって、カッと目を開くと飛車先の歩兵を突く。
お互いに飛車先の歩兵をもう一度突くと、僕を角道を開け、相手は角の横に金を添える。
僕は角を右斜め上に置いて飛車先の歩兵を突かれるのを防ぎ、相手が角道を開けたのに合わせて銀を突き、角換わりが成立する。
ここからの展開はお互いが玉を囲んで、じわじわと変形していくことが多いが、今回は違うらしい。
囲いが終わる前に浮かされた銀に合わせて角を置かれ、急戦の模様になる。
この角打ちは手筋としてはそこそこ見る形だ。
ただ角を打つことで狙われる駒が必然と増えることから難しい指し方だといえる。逆に角が幅を効かせることから、攻めやすいとも言える。
もちろん僕は角を見ないといけないので守りに注意しなくちゃならないが、相手程考えることは多くない。
だから早めに角を打つのは個人的には考えることが多くて指したくはない形だ。
受験生だからこの形を指したのか、普段からこの形を指しているのか知らないがチャンスだろう。
将棋は守ることも重要だと知った僕にとってこの形は得意な形だ。
飛車との両取りと王手に気を付けて指し進める。
基本的に僕から攻めることはしない。
相手に合わせて指し、隙を伺いつつ角を狙っていく。
淡々と進んでいるように見えて、多角的な読みが存在している。
一次試験で対局した誰よりも強く、怖い。
だからだろうか、僕の頭がどんどんと冴えていくのがわかる。
今、僕の頭の中には二つの盤がある。
僕視点と相手視点の二つだが、実質一つと言っていい。
それが変化していくのがわかる。相手の視点を無くし、僕の視点だけで盤面を認識する。
そして余った一つの盤で別の変化した盤面を思い描いていく。
同時に盤を動かして読みを深めていく。
単純に計算して二倍の速度で手筋を検討できる。
無敵のような万能感が僕を支配する。
加速した思考の中で、相手の読みを上回っていく感覚になる。
持ち時間を見ると僕の方が七分多くの時間を持っている。
これは僕より相手の方が思考する時間が長いからだ。
相手が思考している間に次の手を考え、その先を検討する。
まだ序盤の段階だが、小さい有利を築けている。
40手目、中盤に差し掛かる合図である、飛車先の歩兵が突かれる。
それに合わせて角を打って攻防を睨む。
僕にある選択肢は受けるか、相打ち覚悟で龍を作るかの二択だ。
パッと見ただけでは龍を作った方が綺麗に見える。
だがどちらの択も読み進めているが龍をつくるのは不利になりそうだ。
僕の囲いのほうが脆いのもあるが、龍を作っても持て余しがちになる。
飛車先の歩兵を突かないで、手薄な銀を守る。
その瞬間、相手の手が止まる。
その仕草を見て殴り合いを読んでいたことがわかる。
別のパターンになったことで、相手は時間を使っていく。
僕は不要になった龍の変化の盤を切り捨て、目の前の盤を二倍速で検討していく。
この展開でも嫌な形は存在するので、対策を考え、盤石の構えを作る。
五分間思考した末、相手は駒を動かす。
ただその手は考え済みで即座に指して、出番を渡す。
すると相手は再び考える姿勢になる。
自信を持って指していた印象だけに、ここで手が止まるのは予想外だ。
もしかしたら、僕が即座に指したことで迷いがでたのかもしれない。
理由はわからないが、好都合だ。
さらに読みを深めて三分後、相手は銀を打つ。
そしてこの手は僕が嫌った一手だ。
次は僕が考えるフェーズになる。
といっても僕は次に指す手は考えてある。
だが自信を持っていない。
だから確信を得るために読みを進める。
二つの盤で高速で手筋を考える。
導き出した回答は最初の位置にいた玉を左上に跳ねる。
この手を要約すれば玉の頭を守りつつ、攻撃面では何もしない。相手に次の行動を促す一手だ。
今の形は僕視点だと攻めても旨みが薄く、急ぐメリットがない。
そしてこの先の展開を見据えると、玉を跳ねた方が相手は攻めにくい。
僕がこの手を指すまでに要した時間は20分。
持ち時間は逆転して、僕の残り時間は25分となった。
たが焦りはなく、時間も十分にあると感じる。
ここから先、時間を大きく使うことはないだろう。
相手が開戦したパターンも、囲うことを選んだパターンも指し方を決めている。
玉の頭が攻めにくくなったことで、囲うと僕の角打ちが攻めで効果的に刺さる。
かといって開戦もしたくない形だろう。
不利を背負うことが確定した以上、傷口を薄くするか、肉を切らして骨を断つかの二択だ。
しばらく考えた末、開戦が選ばれた。
僕はさらに気を引き締めて向かい打つ。
駒の交換を済ませ、歩兵をと金にする代わりに銀を渡す。
角を打ち、駒を剥がして龍を成らせる。
相手も負けじと角を取り、打ち込んでくる。
だがこのトレードの代償は大きく、僕の方が持ち駒が強い。
攻め急がずに銀で受けつつ、有利を広げる。
先に待ち時間が無くなったのは相手で、秒読みの鐘が鳴る。
僕の持ち時間は5分を切り、じわじわと時間に追われる感覚になる。
「焦るな、ここで龍を下げないと二手損する。龍に合わせて受けられたら攻め手がなくなる」
僕は焦る自分にそう言い聞かせて、龍を少しずらす。
相手に一手渡したように見えるが、無理に攻めたら盤面は修復不可能な傷を負う。
急がば回れというやつだ。
大丈夫、この形が一番いいと結論が出ただろう。
既に打ち直しはできないのに対局時計を押す手に迷いが見える。
その迷いを振り払うように少し強めに対局時計を押す。
相手の盤になっても僕は思考を続ける。
気を緩める時間なんて1秒もない。
目の前の盤を見つめていると、対局時計がピピピという音を連続で鳴らす。
「じゅうびょー」
気の抜けた機械音と共に文字通りの秒読みに入る。
持ち時間が一桁になり、思考を急かしてくる。
残り三秒になると、相手は攻めの為に金を打つ。
そして対局時計を何度も強く押す。
バンバン!という音が鳴るが気にならない。
間違いが起きないようにするのは当然のことだ。
僕の持ち時間が減っていくのを確認してから、思考を開始する。
相手に指された手は僕の方が一手速く詰ませることができるはず。
受けられたパターンは時間のかかる手筋になるので、そっちにリソースを吐いていた。
二つの盤面をリセットして僕の寄せと相手の寄せを考える。
「ピィピィピィ」
機械音に反応して対局時計を見ると秒読みになっている。
それから45秒思考した後、攻めの一手を放つ。
僕の方が速いという結論だが、正直不安は残る。
対局時計を押して番を渡すと、静寂が訪れる。
緊張感のある静寂で、テストの返却を待つ気持ちだ。
「……負けました」
静寂を破ったのは相手の敗北宣言だった。
その声を聞いた瞬間、全身の力が抜けるのがわかった。
だがすぐに体勢を整える。
「ありがとうございました」
僕は相手にそう言って、改めて肩の力を抜く。
視野を広げ、周りを見るとほとんどの人が対局を終えていて、この場にいないことに気づく。
だが何人か残ってこっちを見ていることがわかる。
固まっていることから知り合いだということが察せられ、奨励会員だと予想する。
なんとなく居心地が悪かったので、場を後にする。
部屋を出る前に振り返ると対局相手に駆け寄ってるのがわかる。
後から知る話だが、相手は僕に勝てば昇格となる対局だったらしい。
少し考えれば察せれそうだが、今の僕にそんな余裕はなかった。
「なんで、嫌な予感がするんだ?」
しかも和奏と同じどうしようもない感覚だ。
面接は形式的なもので落ちることはほぼない。
今度こそ成し遂げたのに素直に喜ばせてもくれないらしい。
「おい、大丈夫か?」
不意に後ろから声をかけられたので振り向くと、将太がいた。
「大丈夫、体調が悪いわけじゃないから」
「……負けたのか?」
「いや、勝ったよ。将太は?」
「俺は負けた」
「そっか、でもまだ一戦目だし、次に切り替えればいいよ」
僕がそう言うと将太は表情を曇らす。
「お前達はすごいよな、あんなに殺気を向けてくる歳上に一切怯まず指して勝っちゃうんだから」
「気持ちはわかるけど、そんなことどうでもよくない?」
もう少し綺麗な言葉を使おうとも思ったが、不要だと判断した。
「今回の対局は絶対に勝たないといけない。こっちが相手を殺してでも勝たないといけないんだ。先に進んでいる人間に気持ちも負けたら終わりだよ」
「……そうだな」
「ま、僕も最初は怖かったよ。でも自分の将棋に集中したら何も感じなくなったんだ」
僕はそう言うと立ち去ることに決め、口を開く。
「次は奨励会で指そう」
「あぁ、必ず」
将太の実力だけを見れば奨励会員相手でも勝てるだろう。
あとは気持ちの問題で、今の表情を見る限り期待してよさそうだ。
そんなことを考えていると奨励会の外に出ていた。
冷房の効いた室内を出て、真夏の太陽の下に出たというのに悪寒がする。
決して体調が悪いわけではないのに眩暈がする。
本来なら和奏に連絡しようと思っていたのに、真っ先に母さんのもとに向かう。
「だ、大丈夫!?顔色悪いわよ」
「うん、体調は平気」
「そ、それじゃあ……」
「勝ったよ。あとは面接だけ」
僕がそう答えると母さんは壁にもたれかかり、胸をなでおろす。
「二日前も言ったけど勝ったなら、勝ったらしくしてなさい」
「ご、ごめん」
「これでじいちゃんにいい報告をしに行けるわね」
「鹿児島に行くの?」
「あれ?言ってなかったかしら、明日の飛行機よ」
それはなんとも急な話だ。
でもそんなこと些細な問題だ。
「ねえ母さん。じいちゃん、元気だよね」
「……ええ、元気よ」
母さんは普段と変わらない口調と表情で答えたが、僕には噓だとわかった。
母さんは噓をつくのが得意だが、繕う間がある。
和奏の時もそうだった。
この嫌な予感からは避けられないことが痛いほどわかった。




