第二十二話(1)
朝からイライラする。
昨日の会議で、あの資料を見せられてから、ずっとだ。
どうしてヒカリは、自分の身に降りかかる危険にだけは、あんなに鈍感なんだ?
何もわかっていない。
何もできない自分に、イライラする。
レミラン帝国の貴族にとって、秋という季節は特別だ。
なぜなら、一年で最も大きな祭典である「収穫祭」が執り行なわれるからだ。
収穫祭は、大きく三つの部門に分かれている。
まず最初に、皇室の庭園で行われるのが「秋空の茶会」だ。
茶会の主催者は皇妃で、高位貴族の令嬢達が招待を受ける。
次に行われるのが、皇太子が主催する「秋霖の矢」と呼ばれる狩猟大会だ。
狩りの腕に自信のある貴族の青年達が、定められた森で狩りをし、獲物の大きさで順位をつけ、最も順位の高かった者に勲章が贈られる。
最後に行われるのが、皇帝が主催する「秋雨の剣」と呼ばれる剣術大会だ。
城下街にあるコロッセオで開催される大会は、騎士であれば身分に関係なく出場できる。
観客には、狩猟大会での獲物が振る舞われ、コロッセオの周りには出店が立ち並び、毎年大いに盛り上がる。
この剣術大会でも優勝者には勲章が贈られる。
全ての騎士の夢であり、目標の一つだ。
そんな収穫祭の開幕を飾る茶会に、ヒカリは招待されたという訳だ。
公爵令嬢という身分にも関わらず、エイヴィルは今まで一度も茶会に招待されていない。
今回が初めての参加だ。
まあ、あの警告文を見る限り、呼ばれなかったことには納得はできる。
だからこそ逆に、今回招待されたということが不気味なんだ。
思い出したくもないが、二ヶ月前の舞踏会でのヒカリの行動を考えると、皇太子を溺愛しているという皇后が、ヒカリに友好的であるはずもない。
さらに、ヒカリを刺した犯人こそまだ特定されていないが、この事件に皇室が何らかの形で関わっていることは間違いないだろう。
敵陣に手ぶらで乗り込んでいくようなものなのに…何でヒカリはあんなに自信満々なんだ?
舞踏会とは違って、茶会へのパートナーの同伴は認められていない。
代わりに令嬢達は、護衛騎士を一名同行させる。
つまり、今や騎士でもない俺に、一緒に行く資格はない。
もちろん同行する護衛騎士たちも、茶会に参加することはできない。
少し離れた場所で茶会を見守ることになるが、ここで指をくわえて待っているよりは遥かにましだ。
何より、皇室にはあの男がいる。
それなのに、よりによってあのドレスを選ぶなんて…
廊下をウロウロしていると、静かにエイヴィルの部屋のドアが開いた。
「ノア様!公女様のお支度は、間もなく終わります」
イザベラが、満面の笑顔で出てきた。
「別に、あいつの支度を待っていたわけじゃないからな」
「もちろんでございます」
イザベラは、ニコニコと笑顔を崩さない。
はぁ。
お見通しってことだな。
ヒカリは、目を輝かせたマリア嬢につれられて、朝から準備に勤しんでいる。
俺があれだけ言ったのに、ヒカリはきっと、あのドレスを着てくるんだろう。
その意味を深く考えもせずに。
昨日、固まるジェレミーの分まで大騒ぎして反対したのに、結局俺の意見は却下された。
でも、俺だってまだ諦めていないからな。
一番にヒカリのドレスを批判して、着替えさせなくちゃならないんだ…
再び、ドアが開く。
ヒカリがゆっくり出てきた。
ドレスの裾を持ち、薄い氷の上を歩くように慎重に。
ふらつくつま先を見つめ俯く瞼は、藍色の瞳のほとんどを隠している。
美しすぎて、目が離せなかった。
その瞳に俺が映ったとき、心臓がもつだろうか。
不安で、鼓動が速くなる。
「マリア、これヒールが細すぎない?歩くの恐いんだけ…ど…」
ヒカリがゆっくりと顔を上げ、キョトンとした愛らしい表情で俺を見上げた。
柔らかい日差しを背に受け、細く艷やかな髪が透き通って見える。
まん丸な瞳は深く潤い、俺の姿をとらえると、少女のように細められた。
俺の予感は当たっていた。
自分の心臓の音が、ヒカリに聞こえてしまう気がして、思わず一歩後ろへたじろいだ。
「ノア?っわ!」
そんな俺に驚いたのか、ヒカリが不意によろけ、俺は反射的にヒカリの両肩を支えた。
「お、おぃ…」
何て華奢なんだろう。
こんなに小さくて、可愛らしい生き物が、この世に存在しているなんて。
このまま抱きしめてしまいたい衝動を、必死に抑えこんだ。
「気をつけろよ。ほら」
身体を支えるため不意に腰に触れると、ヒカリの身体がピクリと反応した。
「ノア、手が冷たいよ」
「…」
(クソっ…)
せっかく、ヒカリの素肌に触れられたのに。
沸き上がった欲情が、一瞬で消え去った。
ヒカリが身につけているドレスに、いや、アメジストのような紫色の瞳に、睨まれた気分だ。
細い腰のラインを引き立てるマーメードドレスの生地は、ラベンダー色の見事なシルクだ。
首周りから胸元、手首にかけては薄紫色のレースが贅沢に使われている。
髪はアップにまとめられ、緩やかに巻かれた後れ毛が、大きく開いた背中に艶やかに影を落としている。
こんなにも、エイヴィル・デ・マレに似合うドレスを仕立てられる者は、他にいないだろう。
それが、自分以外の男だということが、許せない。
「宝石がたくさんついてて、ドレスってこんなに重たいんだね。ほら、この前のドレスは…」
皇太子に贈られたドレスを着て、ヒカリが楽しそうに笑っている。
怒りで、話が頭に入ってこない。
「だったらそんなの着なければいいだろ。だいたい、外でやる茶会に、そんなに背中の開いたドレスで参加するやつがあるか」
その白い肌のなめらかさを知っているのは、自分だけであってほしい。
「もー、お母さんみたいだねノア」
「お、おかっ」
予想外の返答に、頭が真っ白になった。
年下は恋愛対象外発言を挽回しないとならないのに、今度はお母さんだと!?
俺のことを、全く男として意識していない…。
「このままだと傷跡が見えちゃうし、もちろんショールは羽織っていくよ。ノア?」
はっ。
絶望するのは後にしろ、ノア!
「それでも駄目だ!舞踏会であんな事があったのに、皇太子に贈られたドレスを着ていくなんてあり得ないだろ!その気があると思われても仕方がないくらい、軽率な行動だって分かってるのか!」
昨日と同じ様に、大声を出してしまった。
ヒカリの前だと、紳士的な振る舞いがどうしても出来ない。
「ウェールズ卿がおっしゃっていることはごもっともです」
ヒカリの後ろについていたマリア嬢が、静かに口を開いた。
その表情に、いつもの笑顔はない。
「でしたら…」
「ですが、ウェールズ卿は御令嬢だけのお茶会がどういう場か、ご存知ありませんよね」
「何が言いたいのですか」
マリア嬢が、鋭い視線を真っ直ぐこちらへ向けて答えた。
「お茶会は、戦場なのです」
何をいうかと思いきや。
「ははは。年の近い麗しき御令嬢方が集まり、優雅にアフタヌーンティーを楽しむ場が、戦場なはずありません。とにかくそのドレスは…」
「ウェールズ卿。公女様には、必ずこちらのドレスでご参加いただきます」
今までに感じたことのないマリア嬢の圧に、思わず言葉を失った。
「このドレスが必ず、公女様の鎧となるでしょう」
心地よい、馬の蹄の音が響く。
二度目の馬車での外出。
前回と違うのは、窓の外が明るいことと、車内に一人きりだということ。
私は馬車の窓を開け、顔を外に出す。
秋晴れの、乾いた風が心地良い。
長い黒髪が、馬車の側面を這うようになびく。
ノアがあまりにも背中の傷跡を気にするので、結局髪は下ろすことになった。
「公女様、お顔を出されると危険です」
馬に乗ったカーライル卿が、馬車に横付けしながら声をかけてくれた。
マントがはためく。
この前の礼服とは、少し違う。
冬服なのかな?
「カーライル卿。今日も素敵です」
「…ありがとうございます。顔を中へお戻しください、公女様」
カーライル卿は、ドレスアップした私の姿を見て絶句したかと思えば、真っ赤な顔で無理して褒めてくれた。
その後なぜか不機嫌になって、馬車まで先に行ってしまったのだけど…。
(ジェレミーの感情の変化にそこまで気付けるのは、俺とおまえだけだよ)
ノアが言うとおり、他の人が見たら、ずっと無表情の騎士様に見えるのかもしれない。
カーライル卿は、真っ直ぐ前を見つめて、時々聞こえる領地民の歓喜の声を浴びながら進んでいく。
感情のコントロールが出来る人は、凄く大人に見えるな。
私の方が年上なのに、自分にはない部分が多すぎて、少し悔しいくらい。
それに比べて…。
ふと、母親のように小言を言うノアの姿を思い出し、思わず吹き出してしまった。
「公女様。今誰のことを…」
「はい、何ですか?カーライル卿」
蹄の音で、よく聞こえない。
「…いえ。何でもございません。失礼いたしました」
程なくして馬車が静かに止まると、ゆっくりと扉が開かれた。
「公女様」
完璧な騎士が、私に左手を差し伸べる。
私は、いつものように右手を差し出す。
カーライル卿は、右腰を受傷した私を支えるために、いつも右側に付いてくれていた。
それは、傷が癒えた今でも変わらない。
正しくは、舞踏会の日のノアのように、女性の左側に男性が立つ決まりらしい。
カーライル卿は、そんな慣例よりも、自分で決めたことに忠実でいられる人。
理由のわからない「常識」が存在するこの世界では、稀有な存在だ。
(きゃぁ!皇太子殿下と二人きりになられたのですか?でもまさか、お隣に座ったりしてませんよね?良かったです。男女が二人きりで隣合って席に着くということは、婚約する意思があるという意味になりますから)
まさか、隣に座るだけで婚約したいって意味になるなんて。
まあでも、それよりもっと凄いことしちゃったけど。
マリアにはまだ、恐くて打ち明けられていない。
目の前に、舞踏会の日に見た大理石の階段が姿を現した。
「よし」
私は、階段に片足をかけた。
一段ずつ、階段を踏みしめながら、高ぶる気持ちを整えた。
ここから先は、女の戦場。
あの日々を思い出せ、水野警部補!
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書斎のネズミと愛を読む〜引きこもり令嬢ですが冷徹侯爵のお眼鏡にかなったようです〜
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