第十四話(1)
夜風が吹き抜ける。
私の視界に掛かる、黒い艷やかな髪の隙間からでも、紫色の瞳が微かに揺れたのが分かった。
エイヴィルと皇太子が、婚約ですって?
私は、風が収まるのを待って、ゆっくりと話しはじめた。
「皇太子殿下。嘘はいけません」
皇太子は目を丸くした。
「嘘ではない」
「殿下。いくら私が記憶をなくしているからといって、貴族社会における婚約が、どういうものかくらい分かります。いえ、皇太子殿下の婚約者という立場が、帝国の女性にとってどれほど価値があることなのか、と言ったほうが正しいですね」
「…」
「記憶を失った人間に、まず初めに何を説明しますか?私だったら、その人間が何者なのかを説明します」
「…」
「あなたは、エイヴィル・デ・マレ。今年で18歳になる、公爵家の一人娘。父親である公爵との二人家族で…」
私は、まっすぐ顔を上げる。
「ここレミラン帝国の、皇太子殿下の婚約者なの…と。」
沈黙を、少年のような笑い声が掻き消す。
「はははっ。エイヴィル、君は相変わらず聡明だな」
相変わらず…聡明?
公爵邸の悪女ではないエイヴィルを、皇太子は知っているということ?
皇太子の笑い声が、煙のように夜空に消える。
「大人しく騙されていれば良いものを」
空気がガラリと変わった。
私は、本能的に間合いを取る。
「まあ良い。そなたが皇室へ来た時点で、私の目的は達成された」
「どういう事ですか」
「私から逃げ回り、他の男の後ろに隠れてばかりいたそなたが、やっと姿を表したのだからな」
「…」
「このあと、私達二人の婚約を発表するつもりだ」
「な…」
エイヴィルは、やはり皇太子を避けていた。
その理由は定かではないけれど、この婚約を受け入れてはいけないのは分かる。
「とても私と婚約したがっている様には見えませんけれど?」
じりじりと後ろに下がる。
「先程、貴族社会における婚約が、どういうものか知っていると言っていたではないか」
「皇帝陛下は、私のことをあまりお好きではないようですが?」
「父上が?」
「私が殿下の遊び相手に選ばれたのを、却下されたのは陛下だとお聞きしました」
「そんな事もあったな。だが、関係ない」
トンっと、背中が行き詰まると、皇太子が片腕をつき、耳元で囁く。
「そなたは私の妻になるんだ」
声に、切なさが乗る。
命令するような、懇願するような。
近すぎて、皇太子がどんな表情をしているのか見えない。
「お断りした場合、何が起こりますか?」
「ノア・ウェールズ」
ノアの名前を呼ばれ、背筋が凍る。
「赤い薔薇を一輪贈るとは…次はあの男にしたのか?」
声に怒りが乗る。
「なんのことてしょう」
「女が男に赤い薔薇を贈れるのは、一生に一度だけだ」
え!そんな風習があったの…?
何で誰も、そんな大切なことを教えてくれないのよ。
「…」
「…なぜ私から逃げる?」
「え?今何と?」
「…」
突然手首を握られ、引っ張られる。
男の力だ。
「殿下!おやめください」
腰が痛み、踏ん張りが効かない。
「殿下!…っつ」
差すような痛みが蘇る。
皇太子の指先が戸惑うように揺れ、皇太子が足を止める。
額に汗をにじませながら、私は振り向いた皇太子を、睨みつけた。
そんな私から、皇太子は目を背けることなく見つめ続ける。
「私を恨んでもよい」
「えっ」
「来るんだ、イヴィ」
「…」
そんな切ない顔で、愛称で呼ばないでよ。
私は、労るように速度を落とし、手を引く皇太子に、逆らえなかった。
どうすればいいの。
エイヴィル、あなただったら。
エイヴィル・デ・マレだったら、どうする。
まただ。
華やかにドレスアップした令嬢の、笑顔が引きつる。
仕方ないよな。
手袋をしていても、俺の指が足りないことは、手を合わせれば分かるから。
驚いたり、気味悪がったり、顔に出るのは仕方のないことだ。
「不快に思わせてしまい、申し訳ありません」
「とんでもないことでございます。戦場での勲章と同じにございます」
令嬢たちは、決まって笑顔でこう答える。
あいつを除いては。
「ノア、この指は敵に切られたの?」
真っ赤な顔を俺の左手に近づけ、まじまじと観察している。
傷口に触ったり、関節を曲げてみたり、切り口の角度を確認したり。
「お前、気持ち悪くないのかよ」
「え?何で?…あ、ごめん。嫌だった?」
ぱっと両手を離し、ヒカリはとろんとした目で謝罪をする。
「全然。俺は気にしてないからな」
ヒカリは大切そうに、俺の左手を両手で包んだ。
「痛かったよね」
「当たり前だろ」
「辛かったね。ずっと利き手として頑張ってきたのにね」
「…」
「ノアが器用な男で良かったね。安心して右手に任せなね」
「…お前、俺の左手に話しかけてんのか?」
「うん。あはは」
こいつ、相当酔ってるな。
軽くため息を付く。
「ノア」
「何だよ」
「ノアは騎士になりたくてなったの?」
「あ?そんなの…」
気まぐれだよ…?暇つぶしでやってただけだ…?
はっ。
異世界から来た、しかも酔ってる女にまで見栄を張るのか、俺は。
「…そうだよ。憧れてた。騎士という仕事に。子供の時は、単純にかっこいいからっていう気持ちだったけどな」
「うん」
「アカデミーに入校して、ジェレミーや仲間たちに出会って、互いに強さを求めて競い合って…」
「…うん」
「真剣に向き合ったんだ。騎士という仕事に。誇りを持ってた」
「そっか」
そう。あのころの俺は、必死に騎士であろうともがいていた。
そんながむしゃらだった過去の自分を、侮辱し続けなくては心を保てない、弱い男なんだ、俺は。
「ノアは、強いね」
「…っバカにしてんのか!?」
思わず声を荒げてしまった。
でもヒカリは、満足気に微笑んでいる。
「えへへ」
「何だよ!」
「怒ったね、ノア。自分のために」
「…」
「ノアさ、私の部屋にその顔で入ってきたの、覚えてる?カーライル卿のために」
「あ、あの時は、お前が…その…」
「うん。カーライル卿の今までの努力を、私が台無しにしちゃうんじゃないかーって、思ってたんだよね」
「まあな」
「その時ね。人のために、本気で怒れるノアは、いいヤツだなって思ったんだ」
「…」
「だけどノアは、自分のことだけは全然庇わないじゃん」
「え…」
「自分のことは、蔑ろにしてる」
「…」
「ノアはさ、ノアだけは、騎士になろうと努力してた、自分を認めてあげないと駄目だよ」
パァン
物凄い力で、頬を殴られた。
違う。
あの時、ジェレミーの頬を殴ったのは俺だ。
血が噴き出る左手で、思いっきり。
何で今、それを思い出したんだろう。
騎士への未練は捨てないとならないものだと思っていた。
未練を断ち切れない自分は、未熟なんだと、そう思っていた。
「自分の人生を捧げてきたものが、突然奪われた時、腐らずにいられるだけでも凄いことだよ」
ヒカリの瞳は、深く、濡れている。
真っ直ぐに、俺だけを見つめて。
「…お前は?」
「え?」
「お前だって、ケイサツ?じゃいられなくなっても、腐ってないだろ」
「はぁ?」
涙目のまま、鼻先が当たるほどの距離で突然メンチを切られる。
「お、おい」
「泣いちゃったでしょうが!私は!子供みたいに!たった今!見てましたよね!?」
「あ、ああ。そうだな」
「きっと、こんな変な世界で、このまま一人ぼっちだったら、ぐずぐずに腐ってたから!」
「おお」
「ノア…ありがとう。腐らずにいてくれて。私を見つけてくれて」
ヒカリは、満面の笑みを俺に向けた…と思ったら…
「うわああああん。ありがとぉおおおお」
「また泣くのかよ!」
「ふふ」
「ウェールズ卿、何か良いことがありましたか?」
目の前で、こちらを見上げる令嬢が、頬を赤らめる。
「失礼。あまりに愛らしかったもので」
「まぁ」
うつむき微笑む、麗しい淑女。
そう。
淑女は、声を上げて笑ったり、泣いたりしない。
だけど、俺を満たしてくれるのは…
ザワっ。
急にフロアが騒がしくなった。
あたりを見渡すと、バルコニーに皇太子が姿を現した。
隣には、俯いたヒカリがいる。
緊張した表情だ。俺の知らない顔。
皇太子が手を上げると、楽団が演奏を止める。
「みな、楽しんでいるようだな」
貴族たちは皇太子に正対し、敬礼をする。
「よい。顔を上げてくれ」
ヒカリ…。
目線を合わせてくれない。
じっと、斜め下の方を見ている。
ダラダラと汗をかき、瞳が細く揺れているのが、ここからでも分かる。
何か考えているのか?
一体、皇太子に何をされたんだ?
フロアに足止めされていた事が悔やまれる。
いや、たとえ自由に動けたとしても、皇太子を追い、ヒカリを連れ出すだけの力は、俺にはない。
左手を握りしめる。
「今宵、皆に伝えたいことがある。公女、こちらへ」
「…」
ヒカリは眉間にシワを寄せ、ジリジリと時間をかけて皇太子に近づく。
「あっ」
皇太子は、ヒカリの腰を抱き寄せた。
「あいつ…」
思わず駆け出す。
駆け出してどーする。
何ができる。
でも、身体が勝手に動いた。
「ここに宣言しよう。チェザレイ・マエル・レミランは、エイヴィル・デ・マレを私の…」
時間が止まったんだと思った。
足は動かないし、音も消えた。
会場に居る全ての人間が、目を見開き、石像のように固まっている。
この瞬間、目を閉じているのは、皇太子にキスをしている、ヒカリだけだ。
水音をたて、唇が離れる。
二人の表情は見えない。
沈黙を、ヒカリが終わらせる。
「殿下。これ以上、皆さんにお知らせすることがありまして?」




