ファーストキス合戦(十字架の女神 外伝)
グリーンフレードム国 王都アルバス城 庭園
ある静かな休日、国王ジュリアンは公務から解放され、久しぶりに家族との穏やかな時間を過ごしていた。
広々とした庭園には、柔らかな日差しが降り注ぎ、草木の緑が美しく映える。
テーブルの上にはティーセットが整然と並び、金色の縁取りが施された陶器のカップと、焼きたての茶菓子が並んでいた。
妻のマディラはまだ幼いクリスティナと一緒に座り、ほのかに甘い香りが漂うお茶を手にとり、一口飲んだ。
その時、まだ2歳くらいの姫が突然「あっちで遊びたい!」と言い出した。
彼女は「まだ食べ終わっていないわ」と焦り気味に声を上げたが、すぐに使用人が近づき、「殿下の遊び相手は私どもが務めます」と静かに申し出た。
マディラは少し安堵し、彼らに子供を任せることにした。
こうしてテーブルには、彼女とジュリアンの二人だけが残った。
美しい庭園の風景を眺めながら、彼は静かにカップを持ち上げ、一口お茶を飲んだ。
「最近、公務が立て込んでいて、なかなか君や子供と過ごす時間が取れなくて、少し寂しく感じていたよ。」
王妃は微笑んで頷く。
「私も、あなたが忙しいのはわかっているけど、たまにはこうして一緒にのんびりできると嬉しいわ。今日は本当にいい天気ね。」
彼は周りの庭の風景を眺め、深呼吸をした。
「確かに、こんな穏やかな日は久しぶりだな。昔もこんな静かな時間を過ごせたことがあったかな……君と二人きりで。」
しばらくの沈黙の後、ジュリアンはふと笑みを浮かべ、昔の話を切り出した。
「たまに、不思議な感覚になるんだよ。いつくらいぶりかと思った時、人間界にいた時まで遡る」
マディラは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。「それは、ずいぶん昔の話ね。」
二人の記憶は、十代の頃に遡った。
彼が日本でマディラを発見した当時、すぐに国に戻れるかと思いきや、彼女の能力を封じ込める力がほころびかけているにも関わらず、その先に進めない。
結果、異国の地で、二人は同じ屋根の下で数年間平和に過ごすことになった。
庭の穏やかな午後、木々が風に揺れ、遠くから鳥のさえずりが聞こえる中、マディラはカップを手に取り、ふと遠い昔の記憶を思い出したかのように、ぼんやりと呟く。
「蒼君、元気かな」
ジュリアンは、妻が中学時代の同級生の名前を口にした事に少し眉をひそめ、彼女を見つめる。
「あいつは、そんなに特別な存在?君にとって」
彼女はカップの縁に軽く指を沿わせ、しばし思い出に浸るように微笑む。
そして、視線を彼に戻して言った。
「特別っていうよりは……印象的よね。転校生として突然現れて、火の玉元気印みたいなムードメーカーになって。水の風水師なのに」
彼女のその微笑みは、穏やかな庭の空気に溶け込むように軽やかだった。
カップを口元に運ぶ彼女の目には、かすかに懐かしさが滲んでいた。
「あいつがあれで火の術使いだったら、暑苦しくて敵わないよ」
ちょっとうんざりしたような表情をして、そう返事をするジュリアン。
彼女がふとした拍子に転校生を思い出すのだろうけど、今こうして彼女と共にいるのは自分だという事実が、彼の心に静かな安堵を与えている。
庭の静けさの中、王と王妃はゆったりとした会話を楽しんでいた。
ふと、王は何かを思い出したかのように微笑みを浮かべ、少しいたずらっぽい表情で王妃に目を向けた。
「そういえばさ……君がそんな風に彼を思い出すのって、ひょっとしてファーストキスが彼だから?」
マディラは少し驚いた顔をして、「そんなこと言ったかしら?」と首をかしげた。
「私、彼が初めてだなんて言った覚えはないけど?」
王は軽く笑いながら、「確かに、言葉にしてそう言ったわけじゃないかもしれないけど、以前キスしたって言ったろ。」
王妃は苦笑いを浮かべ、「まあ、そんなこともあったわね」と軽く肩をすくめた。
ジュリアンは少し黙った後、視線をテーブルに落とし、深呼吸してからおもむろに話し始めた。
「実はね……君のファーストキスが彼じゃないこと、僕は知ってる。」
マディラは驚いた顔で彼を見つめる。「え?どういうこと?」
彼はいたずらっぽい笑顔を浮かべながら、視線をそっと王妃に戻した。
「実は、中学一年の頃……君がリビングでうたた寝してた時、こっそり君にキスをしてたんだ。」
王妃は一瞬驚いたが、すぐに笑い出した。「なにそれ!そんなこと、私全然覚えてないわよ!」
王は肩をすくめながら、詳細を語る。
「だろうね。君、リビングのソファで国語の教科書を読んでたみたいだけど、ぐっすり寝てたからさ。
僕はあの時、風邪をひくからって起こしていたけど、よっぽどつまらない話だったのか熟睡してて。
そんな君がかわいくて、つい……って感じかな。」
王妃はまだ笑いをこらえながら、返事をする。
「まさか、そんな大胆なことをするなんて。全然知らなかったわ。」
そして、軽く首をかしげながら、ふと真面目なトーンでマディラは問いかけた。
「そういう貴方はどうなの?私にそんなことを聞くなんて」
「え?」
王妃は一瞬黙り込み、考え込むようにカップを口元に運び、質問をする。
「それって、あなたにとってのファーストキスだったの?」
ジュリアンは、まさにその通りだと思って頷こうとしたが、彼女の表情が何かを隠しているかのように感じた。
「まあ……そうだけど。それがどうかしたの?」
今度は王妃が不敵な笑みを浮かべ、そして少しだけ意味深なものに変わった。
「でもね……それをファーストキスってカウントするなら、私もひとつ告白しないと。」
ジュリアンは不思議そうな顔で王妃を見つめる。
「何を……告白するの?」
彼女は少し楽しそうに、しかしどこか愛おしそうに彼を見つめて言った。
「実は、あなたにキスをしていたの、同じように。あなたが学院の課題をリビングでしていたけど、とても疲れたのか書籍を抱えながらソファで寝てたから。」
今度は王が驚く番だった。「え?いつ??」
王妃は目を輝かせながら言った。
「小六の頃、私たちの世話係の叉夜が買い物で出かけて、家に二人っきりになった時。
ふと、あなたが白雪姫に見えて。
あの話は王子様のキスで姫が目を覚ますけど、もしもあなたが私の運命の騎士だったら目が覚めるのかな、と、こっそりキスをしたのよ。
そう思いながらも、やっぱりあなたが目を覚ましたら気まずいので、そっと唇を重ねただけだから、当然起きなかったし。」
ジュリアンは、ちょっと顔を赤らめながら、当時のことを何か思い出していた。
「僕、その時の事をちょっと覚えているかも。
課題で煮詰まっていたから、普段は自分の部屋で作業していたけど、珍しくリビングに持って行ったんだよ。
そしたら、今度は眠くなってうたた寝したんだけど、なんだか自分の顔に吐息を掛かるのを感じていた。
それでも眠すぎて目が開かないものの、キッチンに叉夜がいるのが、物音を聞いてわかって。
当時は、叉夜が、僕が寝てしまったか確認をしに来たのかと思ったけど。
彼女は何もしていないって言うし、なんだか気味が悪い体験だった……あれは君だったのか!」
ジュリアンは彼女の告白に驚きつつも、「あの当時、かなりシャイだった君がそんなことをするとは。」と言葉を付け足す。
すると彼女は当時のことを思い出し、淋しそうに微笑みながら、思い出すように言葉を続けた。
「あの時は、学校生活は以前よりは良くなって、本当の家族ではないけど一緒に生活してくれる人がいて。
ただ、明るい未来が見えていたわけではない。
だから、この先、本当に幸せになれるのか、何か心の拠り所が欲しくて。
当時貴方のことが好きだったからしたというより、神社でおみくじをひくように、おまじない的な感覚ね。そんなのをカウントしていいのかわからないけど」
王妃は軽く肩をすくめ、カップを持った手をそっと膝に置いたが、その表情から笑顔は消えていた。
当時は、彼の自分に対する気持ちに気づかず、マディラはただの寂しさから行動しただけだった。
王はしばらく彼女を見つめた後、ふっと笑みをこぼし、静かに口を開く。
「結局はこうして今一緒にいるんだから、やっぱり運命の相手なんだよ。」
それを聞いた彼女の表情は柔らかくなり、そして懐かしさに包まれていた。
過去の記憶がよみがえり、初めてのキスがまさかこんな形で重なっていたことに、二人の心は懐かしさと共に繋がっていく。
「そして僕たちは、動機はどうであれ、お互いに知らないうちにキスをしてたってことか」
マディラの顔に微笑みが戻り、「そうね。あの時、なんであんな発想になったのか思い出すと、笑っちゃうんだけど。」と優しく答えた。
その時、「パパーっ!」と言いながら、クリスティナが二人に向かって掛けてくる。
「おっと、おチビさん。またとんでもない仕上がりになったね」
そう言いながら、ジュリアンは、姫が自分のズボンに突撃する前に抱き上げて立ち上がる。
彼女の手は泥だらけで、その手で黒いタイトズボンを握られると、いくら普段着とはいえ汚されると使用人に嘆かれそうだった。
「申し訳ございませんっ」
姫の遊び相手だった使用人が、慌てて駆け寄り、幼児をジュリアンから受け取る。
「君の分のお菓子はとってあるよ。早く手を洗っておいで」
そう言いながら彼はクリスティナに手を振り、それに合わせてマディラも同じく手を振る。
姫は、お菓子が食べれると聞いてご機嫌で、両親に手を振られて、真っ黒な手を見よう見まねで振り返す。
そして、二人はお互いに見合わせ、クスッと笑いながら、再び静かな庭の時間を楽しむ。
過去の秘密のキスが、今こうして二人をより一層強く結びつけているのを感じながら。
この話は、ふと、二人のファーストキスは誰だったんだと思ったので書きました。
マディラ(日本名:真唯佳)は、サロモン(蒼)でも良かったのですが、ジュリアン(彬)が涼子っていうのは、なんとなく微妙だと思ったのです。
その時、すっごく昔の原稿に、保健室で彬が真唯佳にキスをするみたいな案があったけど本編でボツにしたのを思い出し、それを復活させつつ、膨らませた形です。
第一部「邂逅」から、「離別」の前半が人間界での学校生活が出てきます。
「過去」は、そもそも血の繋がりの無いこの二人が、なぜ同居を始めたかの話なので、この外伝にはあまり関係ないです。
涼子が一番出てくるのは、ep.18 過去 5とep.21 不協和音 1です。
叉夜は、人間界にいた時の二人の世話係です。