第五幕
むせるように甘く
包むように柔く
はむように囁き
救うように手折る
「こいしは今どこにいるのかしら」
さとり様は膝の上で香箱座りをしている私を撫でながら、時々呟く。そうする時、さとり様は決まって目を閉じていた。きっと、ここではないどこかにいるこいし様に思いを馳せているのだろう。だが、心配している様子は見られない。ただ、おだやかな表情で椅子に座っている。その姿は姉妹というよりも、子どもの成長を暖かく見守る親のようだ。
その問いに対する返答が期待されていないことは、彼女との長年の付き合いでなんとなくわかっていた。だから、私は返事の代わりとばかりに一つ大きなあくびをする。そして、その様子を見て彼女は優しく微笑むのだ。誰に向けられたものでもないその問いは宙へ浮かび、やがて静寂に吸い込まれていく。
「(普段からこんな風に笑えばいいのに)」
だが、この笑顔を独り占めしたいと思う気持ちも同時に湧き上がる。さとり様は心が読めるから、そんな気持ちも全て伝わっているのだろう。けれども、彼女はそれに対して何も言っては来ない。そんな無反応が心地よくて、私は尻尾を軽く揺らした後もう一度眠りに就くのだ。
こいし様は明らかにさとり様を避けていた。ペットである私から見てもそう思う。こいし様は何でも無い風にしているし、実際無意識に包まれているから特に考えてもいないんだろうけど、無意識の底ではさとり様を避けているのだろう。避けている理由については、彼女が第三の眼を閉じたことに起因するのは想像に難くないが、その理由について私は知らない。でも、仮に知ったところで、私風情がアドバイスできる余地なんてないしね。そんなことで埋められるほど、あの姉妹間の溝は浅くないはずだ。
それでも、彼女が時折地霊殿に戻ってくるのは、きっと姉に対する申し訳なさからではないだろうか。私には物心ついたときから両親も兄弟もいなかったから、不謹慎かもしれないけれど、そんな切っても切れない関係が羨ましいなと思ってしまう。
私を撫でるのをやめたさとり様は机の上に置かれた淹れたての紅茶を一瞥し、シュガーポットへと手を伸ばす。やがて、水面へと落ちる音が二つ。かき混ぜられたそれらはくるくると。どちらが追っているのか、追われているのかわからなくなるまで踊りながら溶けてゆく。その様子を見てさとり様が何を思っていたのかについて私は終ぞ知り得ることはない。
ただ、今日に限って角砂糖を二つも入れるなんて珍しいなと思った。
「ねえ、お燐」
今度は明確な対象を持って尋ねられた。
「こいしは戻ってくると思う?」
「(必ず戻ってきますよ。だって、ここはこいし様の家なのですから)」
「そうね」
さとり様は安堵したように緩慢に目を閉じる。一瞬とも永遠とも取れる沈黙の後、彼女は再び口を開いた。
「こいしは今幸せだと思う?」
さとり様のためにも幸せだと言いたい気持ちはある。しかし、首肯することはできなかった。今のこいし様が幸せだと言える自信がないからだ。さとり様の前では嘘は付けない。例え、それが彼女を救うものだとしても。
「ええ、そう。こいしは幸せではない」
ため息交じりにそう呟き、椅子に深く腰をかける。
「あんなにも笑顔なのに。あんなにも楽しそうなのに。彼女は幸せではない」
確かにこいし様はいつも笑顔だ。無意識に包まれつつも無邪気に遊び回っている。気まぐれに現れて、気まぐれに消えて。一見すると、幸せそうに見える。いや、実際こいし様は幸せなのかもしれない。だが、どういうわけか私には彼女が幸せだとは思えない。その無邪気さが痛々しく感じてしまうのだ。現実から目を逸し、自分が幸せだと言い聞かせているような感じがする。だが、これは私の感想だ。私が勝手にこいし様の気持ちを想像しているに過ぎない。
そう思っていた。さとり様からその言葉を聞くまでは。こいし様が眼を閉ざす前を知っている彼女がそういうのであればそれは真実だろう。
では、何のために──
「何のために、こいしは眼を閉ざしたのか」
思わず息を飲む。それは触れてはならぬ禁忌。それだけはと自分の心の奥に秘めていたのに。どうしてこんな時に出てきてしまったのか。私は
ひどく後悔をした。きっと私なんかが触れていい話題ではないはずだ。
「そんなに恐れないで。大丈夫、それは彼女と接したことのある誰もが持つ疑問よ」
私を宥めるように撫でながら、ミルクピッチャーを手に取り、軽く揺らす。
「こいしはね、憧れから眼を閉ざしてしまったのよ。ある感情を知りたいと思ってしまった。それがあまりにも綺麗なものだったから自分も味わってみたいと思ってしまった」
そこまで聞いて私は疑問に思った。知りたいのならもっと見たいと思うのが普通なのではないか? 知りたいから眼を閉ざしたというのはどういう意味だ。
「彼女はあまりにも純粋すぎた。いい意味でも悪い意味でもね」
そう言ってさとり様がミルクを垂らす。澄み渡る茶色が白く濁っていく。その様子をさも満足げに眺めていた。
「気持ちというものは、伝染する。あなたにも身に覚えがあるでしょう? 小さい子どもが笑っているのを見ると微笑ましくなる。前向きな人と一緒にいると前向きになれる。それが気持ちの読めるさとり妖怪ならどうかしら。呼吸をしているだけで様々な者の気持ちが雪崩込んでくる。ましてや、生まれたときからそうであったなら。自分の意思を持つ前にそうであったならば。当然、周りの感情によって自我が形成されてしまう。周りの感情に影響されながら成長していくことに関しては、第三の眼を持っていない者も同じ。けれども、絶え間なく周りの心が流れ込んできた彼女には、自分の意思で考える暇が与えられない。周りの心を知るばかりで、自分の心を読む隙がないのだもの。でもね、こんなことはさとり妖怪の中でも例外。他のさとり妖怪は他者の心を読み、自分の心を読み、自我を確立させていくの」
楽しげに語る彼女に違和感を覚える。身内の不幸をこんな風に語れるか……?
「周りの感情に絶え間なく晒され続ける環境にいた彼女にはそういった時間が与えられなかった。つまり、彼女は生きとし生ける者の業。誰しもが心の底で思っていることの具現化。そんな作り物の心で唯一憧れたもの、自身の在り方さえもを投げ捨てて味わってみたいと思ったもの。私が古明地こいしであったなら。そう想定して何十回、何百回とシミュレートした結果、ある一つの結論に至ったの」
かき混ぜたスプーンを持ち上げた手が空中で止まる。雫が垂れて水面に落ち、波紋を作る。だが、私の視線は次の言葉を紡ぐその唇へと縛り付けられていた。
「────それは、紛れもない絶望」
紅茶を口に含み、喉奥へと流し込んでいく。その様子があまりにも緩慢であったため、体の奥から迫り上がる緊迫感との懸隔さに脳が痺れていく。
カップから口を離した時にはさとり様の顔から表情は消え失せていた。
「ここまでは私にも推測ができた。けれども、彼女がどうして絶望に憧れたのか、どのようにして目を閉ざしたのか。そして、絶望をしたその先で彼女が何を望んでいたのかについてはまるでわからない。でもね、全ては彼女のシナリオ通りに進んでいるの。私たちはわからないまま彼女の手のひらの上で今も転がされ続けている。ねえ、お燐。私は私として真実を追い求めたい。それが無理だというのならせめて、あなたも一緒に来てくれませんか?」
是非など答えるまでもない。
「記憶のない自分が絶望をしたのなら、それを観測する記憶の連続した自分がその場にいなければ絶望という名の希望は成立しない。そう、これは自暴自棄の片道切符ではない」
私の首にかけるその手は小刻みに震えていた。指の先から彼女の心境が直に伝わる。けれども、ゆっくりと慈しむように。そっと花を手折るように柔く。それだけで十分だ。私は私の価値を知ることができたのだから。
深紅色を携えた双眸が私を見つめる。一つの銀河を内包しているかのような瞳は、見続けていると意識が囚われ、体が動かせなくなるような妖しさを放つ。そして、私はその奥で燃え盛る炎を確かに目にしてしまった。
ああ、そういうことか。
そこで初めて私は古明地さとりという存在を理解した。この姉妹は初めから崩壊していたのだ。
────さとり様、あなたもずっと苦しんでいたのですね。
その言葉が届いていたのかどうか私にはわからない。彼女はただ、微笑みながら涙を流す。
「私たちは過去からは逃れられない。どれだけ目を背けたとしてもね。全てをまっさらな状態にして一からやり直せるなんて、都合の良い御伽話に過ぎない。私たちは過去を背負わなければならない。過去と向き合わなければならない時は遅かれ早かれ必ず訪れるのだから。でもね、お燐。それはどのようなものだったとしてもありのままに受け入れて、そこに留まり続けろという意味ではないの。それがどうしようもなく重いもので償いきれない罪であったとしても、救いを求めること。それ自体は誰もが許されるべきことだと思わない?」