第四幕
勝手に意味があると推測してしまう 思わずにはいられない
この世界では意味がないことは許されない
記憶の中の姉はいつも私の身を案じてくれていたように感じる。だが、私はそんな姉とは距離を空けて接していた。なぜなら、私には眼を閉ざす前の記憶がないからだ。以前どのようにして姉と接していたのか、これからどういう関係を築いていくべきなのかがわからない。要するに距離感がわからなかったのだ。もっと言えば、私は姉を信頼できなかった。
そんな感情の機微を察してか、姉は必要以上に距離を詰めては来なかった。ただ、「今日は何か楽しいことはあった?」とか「何を見て、どういう風に思ったの?」と言って、あくまで聞き手側に回り私との距離感を保っていた。姉から何かを指示されたことはなかったように感じる。いつも私のことを見守っていてくれた。そんな優しさが私には怖かったのかもしれない。
どうしてここまで私の身を案じてくれているのか。そんなこともうとっくにわかっているはずなのに。姉妹だから。そんな明々白々の事実を私はどうして信じられないのだろう。
姉妹でなかったならば姉は私の身を案じてくれないのか。ありもしない妄想が日々私の身を蝕んでいく。姉妹という繋がり。それは継ぎ接ぎの古明地こいしが拠り所にしていくにはあまりに細すぎる糸だった。もしも、眼を閉ざす前の記憶がないと伝えたならばどういう反応をするだろうか。
あの人はおそらく、「こいしはこいしだから」と今まで通り受け入れてくれるだろう。そこまで想像できるのに信じ切ることができないのはどうして
なのだろうか。
優しさを感じる度に私の胸は痛くなる。
「心配をかけてごめんなさい」その一言がどうして言えない?
優しさに対する謝罪。いつか面と向かって言おうと思っている。
だからこそ、
「──────お姉ちゃん」
だからこそ、夢の中であろうと
息絶えた姉の姿を見るのはあまりにも耐え難かった。
姉の亡骸を抱きかかえ、こいしは暖炉の火を眺めていた。すっかり冷たくなってしまった彼女が温もりを取戻すように。パチパチと燃える火がこいしの瞳の中で揺らめく。
これは夢。だからこんなことをしても無駄だ。そうわかっている。いや、「夢だから」かもしれない。これは私なりの罪の贖い方。現実世界では避けてしまうから、私はこんな方法でしか彼女を慰めてあげることができないんだ。
『古明地さとりは死んでいた』
こいしは声が聞こえてきた背後に視線だけを向けて睨みつける。
「いつまでこんな悲劇を演じさせるつもり?」
『急いては事を仕損じるよ』
「飽きたと言ってるの」
『そう? 私には盛り上がってきたように感じるけどね』
「話にならない」
『それはあなたが私に対して心を閉ざしているからじゃない? 理解しようとする心が無ければ理解なんてできるはずもないよ』
「お前は私でしょ?」
『あなたは自分に対してすら心を開いていない』
「……」
『だからこそ、自分の変化に気付こうとしない。思うべき疑問から目を逸らす』
「くっだらない。知らない方が幸せなんてこと山ほどあるし」
『この状況でそれを言うのは強がりだよ。だって、現に苦しんでるでしょ? 知らないことに苦しんでいるあなたが言うのはただの強がりにしか聞こえないな』
「だったら、お前は私に対して心を開いてるっていうの?」
『私に心があったらの話だけどね』
「は? なにそれ。眼を閉ざす前の私は心が無かったって言いたいの?」
『少なくとも、あなたが想像しているようなものはね。そんなものがあったなら、あなたはこうして生まれていないよ』
心があったら眼を閉ざした私は生まれていない? どういうことだ。目の前のこいつは心があって苦しかったから眼を閉ざしたはずだ。心がある故に他人の心に苦しんでいたはず。
『ねえ、どうして古明地こいしは救われないことを望んだんだと思う?』
そうだ、先程こいつが言っていた。遠のく意識の中ではっきりと聞き取った。私が救われない理由は、私自身が救われないことを望んだから。私が救われないことを望んだという記憶はない。ならば、そう望んだのは間違いなく眼を閉ざす前の私だろう。だが、どうして。どうしてそんな道を望んでしまったのだろうか。
「……そんなこと興味ないわ」
『嘘。知りたいと思っているはず。無意識にいたはずの自分がどうして出てきてしまったのか。どうして、こんな責め苦を背負わされなければならないのか。でもね、安心して。そういう疑問を抱くのは当然のこと。目を背ける必要はない。あなたは真実と向き合うことで、これからの道を初めて自分の意思で選択することができるの。ありのままの真実って残酷かもしれないけど、受け入れてしまえば案外心地いいものよ』
「知った風な口をきかないで。確かに、私はお前のことを理解できないかもしれない。けれども、お前も私のことを理解できやしない。……理解できるものか」
『ううん、知っているよ私は。ずっと近くで見てきたからね』
「……?」
少女の白い歯が顔を覗かせ、ちろちろと揺れる暖炉の火が反射する。
『ごめんなさい、言えてないんでしょう?』
「────」
その言葉に血の気が引いていく。暖炉の火にあたっているはずなのに寒気を感じる。さとりの亡骸をそっと床に寝かせ、ゆっくりと立ち上がりながら少女に向き合う。
「お前、古明地こいしか?」
『当たり前じゃない。何を言って────』
「眼を閉ざす前の、古明地こいしか?」
『……あはっ』
ぬかっていた。自分以外の私がいるならば、それは眼を閉ざす前の私だと思いこんでいた。私は眼を閉ざす前の記憶を持ち合わせていない。ならば、眼を閉ざす前の私が今の私の記憶を持っているはずがない。
私の記憶を持っているこいつは誰だ。顔も姿形、服装も全く同じ。唯一の違いがあるとすればそれは、帽子を被っているかいないかの違い。鏡に映っていたこいつが私でないことはその違いで気付いた。だけど、あれ
────この帽子、いつから被っていたっけ。
『あなたが自分の影に気付いたのは古明地さとりと会う前だったから、今のあなたがその帽子について知らないのは当然ね』
「お前、私の思考を読めるのか……!」
『どう? 「読まれる側」の気分は』
第三の眼を閉じた私の心は姉も読むことができなかった。絶対不可侵だと思っていた自らの領域が侵されていたことに恐怖が喉までせり上がってくる。
こいつの正体が何者であるか。会話の流れでなんとなくはわかった。こいつはおそらく私の影だ。だが、こいつが本当に私の影であるのならば、自分の心を読まれることにここまで忌避感を覚えることはないだろう。私の中にある違和感。これはなんだ。
『ほうら、盛り上がってきた』
少女はくすくすと笑う。見下す目線がこちらの神経を逆撫でする。
『私はね、眼を閉ざす前のあなたに帽子にされてしまったのよ。そんなことができてしまうほど、彼女には表と裏が無かった』
影……帽子……。なるほど、最低のセンスだ。だがしかし、私が気になっているのはそこではない。
「私が古明地さとりと会う前とはどういう意味だ」
古明地さとりは私の姉だ。生まれたときから彼女は私の姉のはず。ならば、「会う」という表現はいささか不適切ではないか。こいつは何かを重大なことを隠している気がする。
『そのままの意味だよ。古明地こいしが古明地さとりに会う前』
こちらの思考を読めているのに、重大な事実を詳らかにしてこない。あくまでも私が口にしなければ答えないつもりか。
「古明地さとりと古明地こいしは生まれた時から姉妹のはず。会うとはどういう意味を指している!」
少女はとぼけたように首を傾げる。
『そもそも私────あなたたちが姉妹だなんて前提で話してないけど?』
私の中で何かが崩れる音がした。