第三幕
かわっていくのはあなたの心
かわいていくのはわたしの心
救いなど求めたことはない。
理解など求めたことはない。
同情など求めたことはない。
ただ、二人で暮らしていければそれで十分だった。
けれどもあなたはそうではなかったんだね。
背中で息を細めていくあなたに愛しさを感じてしまう私をどうか許していただけないでしょうか。
ああ、こんなにも愚かだから救われないのでしょうね。私たちは。
カチリ、カチリと時針の回る音が脳裏に響く。得も言われぬ焦燥感がぴりぴりと肌を這いずり回る。
覚同士はお互いの心を読むことができる。声を介さずともお互いの考えを伝えることができる。しかし、同じ種族と言えども、深層心理までは知ることができない。つまるところ、私は彼女の苦しみを理解しているつもりになっているに過ぎなかった。
喜びも苦しみも共有していたはずだった。二人の歯車はいつから噛み合わなくなってしまったのだろうか。
ちらちらと降る白い雪が私の後悔とともに体に積もり、体温を奪い去っていく。それをどこか他人事のように見つめているこの私の心ももう妹には感じ取れない。
結果として、古明地こいしは第三の眼を閉じてしまった。自らの性質に重きを置く妖怪にとって、性質の放棄は絶対的な死である。そんなこと私が教えずともわかっていたはずなのに。自らの覚としての性質を放棄した彼女は刻一刻とその息を細めていった。
眼を完全に閉ざす前、こいしの心にある人物が巣食っているのが確認できた。それは我々と同じ種族である覚。それが、第三の眼を閉ざす直接の原因になった者なのかは定かではない。ただ、こいしからその人物の面影とともに流れ込んできたのはじんわりと心が温まり、満たされていく感情。
そう、それはまるで恋をしているかのような────
私にできること。それは、こいしが帰って来るときにできた雪上の足跡を辿り、その先で彼女に何が起きたのかをこの目で見ること。知らなければ納得ができない。そしてあわよくば、再度覚としての存在を確定させることができたなら。
自身の在り方の放棄。それは、並大抵の覚悟では成し得ないことだ。こいしにそのような覚悟が元々あったとは考えにくい。ならば、考えられることは二つ。何かに影響されてそのような覚悟を抱き、自らの手で眼を閉ざした。もしくは、外的要因によって強制的に眼を閉ざされた。
しかし、自分の意に反して眼を閉ざされたならば、眼を完全に閉ざす前にあのような感情が発露するはずがない。だとすれば、眼を閉じることについて少なからずこいしは望んでいたと考えるのが自然だろう。
今のこいしは存在があやふやな状態。存在が確定していない状態である彼女は存在が曖昧なままこの世から消え去ろうとしている。死後の魂すらも残らないだろう。そんなのあんまりだ。こんな思いも彼女のためではなく、完全に私のエゴだ。それでも、私はこいしに生きていてほしい。
いつか、その傷が思い出に変わるその日まで側にいるから。
一面の雪景色の中、私は歩みを進める。誰の心の声も聞こえない。ただ、自分の息遣いが鼓膜を震わせ、聞こえるはずのないしんしんと降りゆく雪の音が不安を掻き立てる。
「大丈夫だからね、こいし。お姉ちゃんが付いているから」
誰かに頼りたい。そんな言葉を吐き出しそうになる気持ちを誤魔化すように返答のないこいしを軽く背負い直す。
こいしの足跡を辿り、着いたのは寂れた洋館だった。周りを木々に囲まれ、ぽつんと佇むその姿は外見に反してあまり威圧感を与えては来ない。もちろん、屋根が雪に包まれていたということもあるだろうが。
私には全く見覚えがない。こんな僻地にある場所をこいしはどのようにして見つけ出したのだろうか。休憩なしにここまで歩いてきたため、疲労は限界を迎えていた。それはきっとこいしも同じだろう。
「少し休憩にしようね、こいし」
館内に電気は通っていなかったため、とても薄暗かった。窓からはところどころ外の光が差し込んでくるものの、快適とは言い難い。
外の白さに染まった目をじんわりと暗闇に慣らしていく。玄関を閉め、こいしを絨毯の敷かれた床に寝かせる。
安らかに眠る彼女の顔を見て私は唇を噛みしめる。もっと私を頼ってほしかった。一人で悩みを抱え込まないでほしかった。あなたが求める答えはあげられないかもしれないけれど、あなたは一人ではないと強く抱きしめてあげたかった。
私の何が不満だった? 私の何が足りなかった? 私は何をしてあげればよかった?
答えの出ない問いかけはぐるぐると頭の中で回り続ける。めまいにも似たそれが強まると同時に湧き上がる怒りで私は吐き気を催しそうになる。
けれども、それが何もできなかった自分に対する怒りではなく、思い通りに行動してくれなかったこいしに対するものであると知ったとき、自分のことがたまらなく嫌になって思わずこいしから目を背けてしまう。
結局、どこまでいっても私たちは一人なのかもしれない。この世に生まれ落ちた瞬間からそれぞれの箱に収められ、他者と同じ箱に入ることは許されない。その箱の中から交わすことができるのは声のみで、触れたと思ったものはすべてまやかしに過ぎない。それは友達になっても恋人になっても家族になったとしても変わらない。私たちが他者を本当の意味で知れることは永久にない。なればこそ、私たちが自分のことを第一に考え、自分勝手とも取れる行動を取るのは必然であるのだろう。
「暖まれる部屋がないか探してくるね」
私は震える声を寒さのせいにした。
手当たり次第に部屋を探してみると暖炉のある茶室を見つけた。急いでこいしを背負い戻ってくる。こいしを暖炉の目の前にあるソファに座らせた。机の上に置いてあったマッチを拝借したがどれも湿気を帯びており、擦れども擦れども着火するには至らなかった。
寒さに悴んだ指を擦りながらこいしの隣に腰を下ろし、息を吐く。これからどうしようか。そう考えている間に外の風が強まる音がする。これは足跡も消えて帰る道もわからなくなるかもしれないな。自嘲気味に笑う私はやはりどこか他人事のようで。
「ねえ、こいし。あなたにとってここで起きたことは出発点だったのかな。それとも終着点だったのかな」
こいしに着せた上着を二人で羽織り、体温を移すように寄り添う。
彼女の顔は相も変わらず穏やかで思わずこちらの表情も緩んでしまう。そうだ、私の中のこいしはこういう子だった。
「愛は与え合うもので、一方的な愛はただの迷惑なんだって私今更気付いたよ」
震える手で彼女の髪を梳く。
「ねえ、こいし。何だか私少し眠くなってきちゃったみたい」
返答は元より期待していない。
「すこしだけ……ね……」
徐々に瞼が重くなっていく。風がカタカタと窓を震わす振動音も遠くなっていく。自分が世界に溶けていくかのような感覚。
何もかもが白に染まっていく世界の中でおもむろに顔を上げたその時、
私は彼女の「救い」を見たのです。