第二幕
見えてきたのは落ちてくる空
聞こえてくるのは明日への祈り
散っていくのは記憶の断片
あの夏の日の匂いがした。
それはどこか懐かしく、切なくなるような匂い。夏と冬。どちらを先に経験をしたのかは覚えてはいない。でも、冬の温かさを知ったのは、夏の切なさを知ってからだったと思う。夏は私にとってどこか悲しい季節だった。特別な理由はない。そう思うとすれば、それはきっと私が夏を好きだったからじゃないかな。
浮上した意識が捉えたのは、まず音だった。水のせせらぎ。奏でられる命の音。この世界の息遣い。
少しの肌寒さを感じ、瞼を開ける。オレンジの空。疲れの見え始めた草木が風に揺れる。敷き詰められた小石。遠くに見える山々は何も語らない。空の色を垂らした川は夕日を滲ませ、眼前を通り過ぎてゆく。一瞬の迷いなしに絶え間なく流れ行くそれは、誰かを求めてのことか。それとも諦めて身を任せてのものか。夕暮れ時の川辺。そこに立ち尽くしたこいしは空を見上げながら静かに息を吸う。
空と川。それ以外は影に包まれ、輪郭のみ目で辿ることができる。何も変わらないように見えて、全てが変化してゆく。循環。それがこの景色の全てだった。
こいしは川へ近づきしゃがみ込む。水面に映る顔はひどく疲れた顔をしていた。無関心な振りをして、全てを諦めきれていないが故の表情。
私はこの期に及んで何かに期待している?
腰を下ろしながら顔を上げ、静かに息を吐く。帽子を深く被り直しながら情報を整理する。それと同時に浮かんでくるのは数々の疑問。眼を閉ざす前の私が言っていた「彼女」とは誰なのだろうか。その存在が私が眼を閉ざした原因なのだろうか。知りたくもなかった自分の過去に思考が集中する。本当に私は嫌われただけで眼を閉ざしたのだろうか。私が眼を閉ざしたのには何か重大な事実が隠されているのではないか。
手持ち無沙汰にこいしは手近にある石を手に取り、川に投げ入れる。当然流れを堰き止めることはできなかった。止まることなく流れ行く。何も変えることができずにいる色も知らないちっぽけな石。ただ川の底でいつの日か救われる日を待つ。こんな石に生まれた意味などあるだろうか。
そこまで思い、こいしは川の中へ手を伸ばす。理由はない。ただ、きまぐれに石の運命を弄ぶ。自分で運命を変えることのできない憐れな石。見下ろす彼女の視線は石の側からはどう映っていたのか。
彼女の手が水に触れようとした突如、強い風が吹き荒れて思わず目を閉じてしまう。
『私たちはどこにも行けない。私たちは何も変えられない』
こいしに覆いかぶさった少女は耳元で睦言を囁くかの如く優しく語り始める。蕩かすような甘い声にこいしは気を取られてしまう。
『ならば求めるものは一つだけ。生きたいと思うほど、死にたいと思うほど私たちは救いを求める。救いは案外身近にあるもの。散々駆けずり回った探しものが実は近くにあったなんてことは別に物語の中だけの話ではないのよ。傲慢にも矮小にも私たちはそれに気付いていないだけ。例えそれが自らの内にあるものだとしてもね』
少女は肩から腕、そして手へと滑るように触れていく。まるで恋人に甘えるそれと同じように。そこでこいしは我に返る。少女の腕を振りほどき、立ち上がって彼女の方へと身を向ける。
『ねえ、思い返してみてよ。あなたにとっての救いって何があったのかな?』
振りほどかれてもなお、少女はにやにたとした笑顔を貼り付けこちらに問いかけてくる。
「私にとっての、救い……?」
『そう、あなたにとっての救い。あなたにとっての生きる拠り所』
縋ることを諦めた私に救いなんてあるはずがない。こいつは何を言っている?
「そんなものあるわけ──」
『あるよ』
でたらめだ。まやかしだ。こんなやつの言うことを鵜呑みにしてはいけない。何一つとして救いなど得られたことはない。
「……それで? それがあるとして、この問答に何の意味があるの?」
『意味なんて初めから付いているものじゃない。自分たちで付けるものなんだよ』
「減らず口を」
そこでこいしは初めて周囲が暗闇に包まれていることに気付く。目を閉じていた短時間で世界が切り替わったかのような錯覚に陥る。この世界が現実のものでないと眼の前の光景が、意識が、経験が警鐘を鳴らす。ごくりと生唾を飲み込む。
「何が目的だ」
『暗いところって落ち着くよね。自分の汚さを隠せてさ』
問答は無意味と思い知る。
やがて、少女はくるくると回りだす。
『どうせ真っ黒な命ならば、跡形もなく消し去ってしまいましょう。どうせ長続きしない恋ならば、こちらの方から手折ってしまいましょう』
うっとりとした表情で。何かの詩を引用するように。
『どちらも、今宵はよく燃えることでしょう』
回ることをやめた少女の口元は弧を描く。言い切ると同時に空からぽつ、ぽつと雨が降り始める。それは、一つ二つと数える間もなく、世界を塗り潰すほどに強く。
一つ、それが異なるとすれば、色を持っていたこと。黒色の雨は肌を、地を、川を黒く染め上げていく。水量はかさを増し、川はたちまち轟音を纏い、表情を一気に変えてしまう。先程の穏やかな表情など一片たりとも残さずに。
こいしは黒い雨が服を濡らし尽くしても、勢いを増す川が迫ってきても空を見上げたまま動かない。怯えの色を隠せないその瞳は今も小刻みに震えていた。
黒い雨は、文字通り夜空が崩れ落ちてきたものだった。ならば、その先。夜が隠してきたものは何か。
『自分を隠せる夜はとても落ち着いた。闇夜に不安を感じたことはなかったんだ。それどころか、静寂すらも心地よかった。本当は怖かったんだよね。全てを照らしていく陽の光が。曖昧を許さない、朝が』
崩れていく夜空の向こうから、陽の光が顔を覗かせる。それは、夜の終わり、朝の訪れを予感させた。
「や、めて……」
こいしは頭を抱え、座りこむ。
呼吸が苦しい。胸に手を当て、逸る鼓動を落ち着かせようとする。
「私が、何をしたって……!」
喘ぐこいしの目を少女は手で覆う。
『全てのことは一つに繋がっている。原因があるなら結果があり、結果があるなら原因がある』
指先ですぅと瞼をなぞられる。
『あなたが救われない理由、それは
────あなた自身が救われないことを望んだから』
手放される意識の果てで彼女は確かにそう言ったんだ。
また、笑えない朝が来る。