第一幕
始まる前から終わりを求めてる
無音。
その部屋の中心に置かれた、お世辞にも座り心地がいいとは言えない錆びた鉄製の椅子に古明地こいしは座っていた。周囲は暗く、部屋の距離感が上手く掴めない。背後に一つだけ点灯している明かりは部屋全体を照らすには至らない。その悪意とも取れる配置が意図されたものであるのか、そうではないのか、知る術はない。
こいしの座っている椅子以外その部屋に置かれたものはなく、床には絨毯が敷かれているのみ。
浅く息を吐く。
また、知らない場所だ。このようなことは今までになかったわけではない。無意識下で行動し、気付いた時には知らない場所であったことは今までにも往々にしてあった。今回もその回数の一つに過ぎない。そう、思っていた。いや、そう思い込ませていたのかもしれない。自分がどうしてここにいるのか、その都度考えて頭を悩ませていては身が持たない。何も変わらないただの意味のない日常だ。そう、思い込むことにしていた気がする。
目線を前に移すと壁一面が鏡になっていることに気が付く。両端にはそれぞれ開けられたカーテンが纏められていた。鏡を使用していない時はこのカーテンで覆っているのだろう。なら、開かれている今は鏡を使用しているということ。だが、何のために。
逆光のため薄っすらとしかわからないが、鏡には同じように椅子に座る自身の姿が映し出されていた。
静寂。
やがて、こいしは口を開く。
「そうしていつまで私の真似事をしているつもり?」
冷ややかな目でそう言い放つ。すると、鏡の中の少女はその言葉に耐えきれなくなったのか、吹き出すように声を漏らす。
『真似じゃないよ。だって私はあなた自身なんだから。あなたがすることは私もするし、あなたがしないことは私もしない』
とても、とても甘ったるい声だ。耳に蜜を流し込まれたかの如くドロリと思考を甘く溶かしていき、所々の高音は他方に注意を逸らせないようにしているかの如く脳を揺さぶってくる。向けられた不快な感情の数々がこちらの神経を逆撫でしようと手を伸ばしてくるのがわかる。
「で、私にどうしろっていうの?」
少女はくすくす笑う。
『あなたが知らないことを私が知っているわけないじゃない』
「ここでのんびりとおしゃべりしているのがお望みってわけ?」
『うーん。それもいいんだけど……』
笑顔のまま目を閉じおもむろに顔を天井に向け始める。どこかに思いを馳せているようにも見えるその姿は、明らかにこの場には似つかわしくない。そして、ゆったりと目を開ける。
『ねえ、自分のこと不幸だと思ってる?』
「……?」
『希望、まだ持ってる?』
「お前がそれを言うか。生きていない時間を、自らの罪を私に背負わせたお前が」
『あはっ。あはははは! そっか、あなたは罪と呼ぶんだね。それを』
この場に古明地こいしが二人いるのなら、考えられることは唯一つ。こいしの目の前に座っている少女は、眼を閉ざす前のこいし。
「降りかかる感情に耐えかねて全ての責任を私に押し付けたあなたはさぞ身軽でしょ? それこそ、思わず笑みが零れてしまうほどにね」
『……』
ここに来て少女は初めて黙り込む。だが、依然として張り付いたような口元の笑みは得も言われぬ不気味さを醸し出していた。
「とても、とても弱い女。妖怪としての自らの役割を放棄し、逃げ出した。ねえ、今度はこっちが教えてもらう番。この眼の開け方を教えてよ。今みたいにその顔が笑えるか見ててあげるからさ!」
『…………この眼を開ければ救われると思っているんだね』
そう言って少女は右手で自身の第三の目を愛おしむように撫でる。こいしは違和感を覚えた。その眼が閉じていたからだ。
この目の前の女は眼を開いていた頃の古明地こいしのはず。ならば、なぜ閉じている……? 現在、主となる人格の肉体の第三の眼が閉ざされているから、その姿が反映されているのだろうか。
『なんだ。あなたまだ希望を捨てていないんじゃない』
少女の口角が三日月のように吊り上がる。
『そっか。それなら、うん。それならまだ、始まってすらいなかったんだ』
こいしは眉を顰めた。目の前の少女はやけに余裕を持ち合わせているように見える。周りから向けられた感情に耐えかねて眼を閉ざした存在だとはとても思えない。眼を閉ざしたあの日一体何が起きていた? 何か重大な事実が隠されている気がする。そう、思わせるほどの。
「あの日お前はどうして眼を閉ざした?」
『今は綺麗と愛されている蝶だって、耐え難い揺籃の時を経ている。自らが構築した蛹の中でいつか愛される姿を夢見るの。でもね、愛される見た目になれる保証はない。自分が蝶であったのか、蛾であったのかは殻を破ることで初めて知ることができる』
「……自分が愛される存在になれると思っているの?」
少女の笑顔が途端に柔らかくなる。
『思ってないよ。だからこそ、夢を見るの。「私」が希望を持つ夢を』
言葉を聞き、こいしは勘付く。その目が蔑みを孕むものへと変化するのにそう時間はかからなかった。
「お前、初めから救われることなんて望んでいないな」
少女はゆらりと首を傾げる。それと同時に鏡が音を立てて罅割れていく。端から中央へ。あるいは、中央から端へ。ピシピシと。あるいは、ミシミシと。鏡の中の世界は分裂し、細分化されていく。
そのいずれの世界でも少女は決して笑みを崩さない。
細かくなった一つ一つの世界は自らの重さに耐えかねて崩壊を始める。世界の崩壊をこいしはまっすぐと見据える。鏡の後ろは壁になっていたらしく、中央には扉が姿を現し始めた。
やがて、部屋には再び静寂が訪れる。おもむろに立ち上がるこいしの耳元で、風が抜けるように囁く声が通り過ぎた。
『それが彼女のたった一つの願いだもの』