序幕
みんな必死になって酸っぱいブドウを取り合う
取った者は甘い甘いと嘘をつきながら頬張る
周りは羨み、妬みだす
でもね、実はそのブドウが酸っぱいことにとっくにみんな気付いてる
本当にそのブドウが甘いかなんて始めからどうでもよかったんだ
何も特別なことはなかった。
覚の全員が生まれてすぐに第三の眼を開けるわけではない。なぜなら、個体差というものが存在するからだ。早く開眼できる者もいれば、なかなかそれができない者もいる。それぞれを優秀と呼ぶか、劣等と呼ぶかは私の与り知るところではないが、大抵の者はそうして徐々に眼を開いていく。他者の感情を知ることで相対的に自分の感情を知り、自我を確立させていく。
何も特別なことはない。
たまたま、私はそこに至るまでのスピードが遅かっただけのこと。遅れながらも周りの覚と何ら変わりなく、他者の心を読む妖怪となっていったのだろう。
ただ、不思議だと思うことがある。
それは眼を開き自我を確立させる前、言わば無意識に包まれていた頃の私がこうして今も存在していることだ。いや、確かに私はあの「眼を開いた日」に消えた。消えたはずなんだ。
思いつくのは眼を開き感情を持った私が何らかの外的要因によって眼を閉ざしたということ。そうして、眼を閉じていた過去の私が呼び起こされたのだ。彼女と私が同一の存在だという確証はある。以前は有していなかった心というものが私に残されているからだ。しかし彼女、「古明地こいし」が私に残してくれたものはその一点のみで、眼を開いていた時の記憶は私にはない。故に、今の私は彼女がどのような過程を経て眼を閉ざすに至ったのかは知る由もない。
それが些細な癇癪であったのか、はたまた未曾有の悲劇であったのか。そんなことは取るに足りないことだ。知ったところで今の私の何が変わるとも思えない。
まあ、大方の予想は付いている。周りの私に対する視線を見れば嫌でもわかる。忌避、侮蔑、憐れみ。覚たる私は、他の心を読むことができない生物に忌み、嫌われた。そして、それに苦しんだ私は眼を閉ざしたが、覚としての役割から逃げたことで今度は侮蔑、憐れみの目を向けられる様になったといったところだろう。ならば、どうすればよかったのか。その問いに対して納得のいく答えが得られることはきっと永久にない。
呼び起こされた私という側面は、嫌われて心を閉ざした悲劇の古明地こいしを演じた。その方が都合がいいと思ったからだ。憐憫の目で見られた私は、自然と距離を置かれて行動しやすかった。あんなに辛い思いをしたのだから、好きにさせてあげよう。できるだけ自由にしてあげよう。あのことを今は忘れさせてあげよう。
実際には心があるにも関わらず、無い振りをした。周りに私は辛くないと思い込み無理をしているよう見せた。そうすることで周りは私をさらに遠ざけた。さらに接しにくいようにした。
私はそうして周りから自分を遠ざけることで、自分自身も遠ざけていたのだろう。自分の知らない自分のことを考えないようにするために。
だが、「彼女」が残した心という置土産は私を苦しませ続けた。無意識に囚われながらも感情に囚われている私はその狭間で何度も何度も。無意識のみに包まれていたのならどれほど幸せだったことか。心を持ってしまった私は、無意識に陥っていた際に自分が為したこと、為せなかったことに苦悩した。
彼女のことを憎んでいるのかって? それはどうだろうね。
でも、あの日からただ一つ。古明地こいしという存在が救われないということだけははっきりしていたんだ。