はじめに
私は昭和五十年に大阪のある町で、複雑な家庭環境の中に生まれた。
母方の祖父母の家で、祖父、祖母、母、兄、母の姉、その息子二人、
そして婿養子ではない、言わば“マスオさん”状態の父の九人家族。
伯母は、旦那(私の義理の伯父)の家が徒歩数分の場所にあったが、
大半は祖父母の実家で暮らしていた。
それは、別に夫婦関係が破綻していたというわけではない。
祖父と祖母は仲が悪く、ケンカばかりしていた。
祖父が若い頃は、毎日のように酒を飲んでは酔っ払って家に帰り、
管を巻いて大変だったらしい。
だから伯母と母が祖父母の家に残ったのは、祖母のワガママだった。
娘が二人とも家を出てしまうと、大嫌いな祖父と二人きりになって
しまう。
それがイヤだったから、娘をずっと手元に置いておきたかったのだ。
またそれは、対祖父用戦力だけではなく、祖母が自分の手足となる、
いわば“奴隷”や“しもべ”的な存在を確保したいためでもあった。
こうして長女(伯母)は近所に住む旦那と、そして次女(母)は、
家に来てくれる旦那と結婚した。
そして晩年は、祖母の思惑どおり、年老いて大人しくなった祖父に
対し、娘二人を味方につけた祖母軍のほうが強くなっていった。
実は祖父母には、長男がいる。
私の母の八つ年下で、戦後間もない昭和二十三年生まれ。
貧しくて食糧難の時代を生き抜いた祖父母一家は、長男がちょうど
多感な年頃のときに、両親が毎日のようにケンカを繰り広げていた。
聞くところによると、祖父は浮気もしていたらしい。
そんな光景にショックを受けて、長男は統合失調症、いわゆる精神
分裂病になってしまった。
現在もなお、病院に入院中だ。
一人息子がそのような病気にかかってしまったこともあり、祖母の
孫に対する愛情と憎悪は異常なものがあった。
孫は四人全員が男で、自分の長男と重ね合わせていたに違いない。
初孫は伯母の長男で、私より十五歳も年上のいとこ。
しかし、その初孫も、小学生の頃に病気になってしまう。
このことは、祖母をかなり神経質にさせたのだろう。
病気が治った後でも、祖母はいとこを学校へは行かせなかった。
小学校はなんとか卒業できたものの、中学校は三年間、ろくに出席
していないらしい。
なので中学校側も、卒業させるわけにはいかないという姿勢だった。
しかし、卒業式の日に中学校に押しかけ、無理矢理卒業させた。
その後、高校にも通わず、職にも就いていない。
まともな社会生活は営んでいない。
もちろん独身のままだ。
父親(私から見たら義理の伯父)は他界し、母の姉(伯母)ももう
七十歳を超えている。
伯母が死んだら、どうするつもりなのだろう?
「だから自立できるように、今は一人で何でもやらせている。」
と伯母は言うが、私はどう考えても手遅れだと思う。
二人目の孫は伯母の次男で、私より十歳年上のいとこ。
勉強好きということもあり、高校、大学と順調に進学した。
そして祖父と同じく、国税局で働いている。
しかし、真面目すぎたがゆえに、祖母の理不尽な言動に影響を受け、
実社会とのギャップについていけず、ノイローゼになってしまった。
そして常に訳の解らない独り言を発しては、家族に絡んでくる。
私は彼がノイローゼになってしまったことにいち早く気づいたので、
精神病院に通院させることを提案した。
しかし、私が一番年下というだけで、話を聞き入れてもらえない。
むしろ、年上に向かってなんて事を言うのかと怒られる始末。
年齢さえ上であれば、その者がいくら間違ったことを言っていても、
年齢が下の者が従わなければならない。
祖母の教えは、年齢こそがすべてだった。
上が正しいことを言って、正しいことを教えてくれるのなら良いが、
祖母の言うことはいつも奇天烈で、間違ったことばかりだった。
ましてやヒステリックで、家族に非難されようものなら、家の中に
庭の土を撒き散らすなど、どうしようもない存在だった。
三人目の孫は母の長男で、私より五歳年上の兄。
鉄道が大好きで、時刻表が愛読書だった。
とにかくワガママで暴れん坊。
なので、兄なのに精神年齢は自分より低いと感じていた。
そして、とっつきにくい印象を持っていた。
そして私は四人目の孫。
母の次男だが、言わば四人兄弟の末っ子みたいなものだった。
末っ子の私は、先ほども言ったように、“年上の言うことは絶対”
という我が家のしきたりに、常に抑圧を感じていた。
私の思いは、いつもやり場がなかった。
なので、私はイライラすることが多く、癇癪もちと言われた。
よく『樋屋奇応丸』を飲まされた。
小学校入学直前に、かんの虫に効く薬で有名な和歌山県橋本市まで
行った事もある。
当然、“行かされた”が正しい言い方であるが…。




