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裸足の妖精たち 春風編

作者: VeiledMonet

こんにちは、この小説を見つけてくださって本当にありがとうございます。

私、VeiledMonetは、主に社会問題を織り込んだジャンルを得意としています。そのうえで、恋愛、ファンタジー、コメディ、サスペンスなど様々なテーマを書いていきます。気に入ってくださったら、コメント等お待ちしております。

尚、個人的都合により、この作品は途中までとなっています。随時更新いたしますので、気長にお待ちいただけますと幸いです。

アネントルは神の守りし王国。

人々が飢え渇き苦しむとき、神は金色の鳥に身を変え、王国を覆う。

その羽毛は雲となり、涙は雨となり、瞳は太陽となって、人々を永遠に救うであろう。


しかし、人々よ、忘れることなかれ。

民が神を敬わず、あまつさえ自らの欲望に生きれば、神はお前たちを決して許さぬ。


                                              -創世記 一ノ章ー



 世界5大陸のうちで最も大きく、いくつもの国家が興亡するエトレア大陸。その南西、背後にオシュト山脈、目の前にテーム海を臨む天然の要衝の地に、アネントル王国はある。古来、遥か彼方より船で渡来したメディク系の人々が創始したとされる、大陸随一の大国である。

 山脈から湧き出る豊かな清水は地を潤し、この土地では農業が盛んであった。小麦に代表される作物は実り豊かで、小麦農家、パン屋、など何らかの形で小麦産業に関わっている者もかなり多い。そのため、アネントルでは現金だけでなく小麦によって徴税される制度もあり、農家の多くが現金と小麦を併用して納税をしていた。

 一方、沿岸部では貿易業が盛んである。近隣海域では奢侈品とされるサンゴや貝類が量産されており、伝統的細工業に携わる職人たちによって生み出される美しき品々は外国王室からも人気を博している。広大ながら、見晴らし良好な湾になった港では、海賊に襲われる心配もないため、多国籍な商人たちが大勢酒を酌み交わしていた。

 そんなアネントルの首都セアは王宮を中心に放射状の街が連なっている。その区域は明確だ。王宮とその周辺に上流階級。一部貴族は地方統治のためにここには住まわないものの、大半の王族と貴族が陣取っている。そして、その周囲に中産階級と市民。貿易業や農業で成功した者はより中心部に近いところに住むことができ、貴族と張り合いたいがために大きな屋敷を立てる者も少なくない。市民は集合住宅や手狭な一軒家に住み、比較的な裕福な者の家に小間使いとして働きに出たり、ものを売ったりして暮らしている。しかし、その区域より更に外側には、人口多数派の市民たちさえ敬遠する光景が広がっている。

 貧民層の街、スラム街だ。アネントルの公式統計によれば、スラム街で生活する人々はおよそ500万人。しかし無戸籍がまかり通るこの区域、公式統計などまったくあてにならないと指摘する専門家も多い。貧困、飢餓、性病、麻薬、殺人、暴行・・・。何でもあり、なのがこの街である。近年ではスラム街が市民街に食い込むように拡大しており、警察側でも緊張感が高まってきている。だが、スラム街を一斉撤去すればどんな暴動になるかわからない。それを理解している王国側も迂闊には手を出してこないし、そもそも、貧民層は労働力や性娯楽のために、陰で必要とされているのだ。売春街すら摘発されないのは、一部貴族が娯楽保持のために警察に圧力をかけているからだという物騒な噂まである。

 そのスラム街でも北地区アビュットの片隅に、サリネたち姉弟が住まう古家はある。

「サリネー!これも運んでくれないかい?」

「はい、ただいま!」

陽の光に透ける、白に近いブロンドヘアの三つ編み、キャラメルのような瞳の少女。着ている服は木綿でできた粗末なワンピースだが、解れ破れは丁寧に直されており、仕立ての器用さが伺える。その少女ーサリネは、運んでいた木箱を足元に下ろし、振り向いた。

「済まないね、お給料弾むよ・・・。」

雇い主らしき中年女性がサリネに謝るしぐさを見せる。サリネは唇の端を持ち上げ、にっこりと笑った。

「ありがとう、ジョシュアさん。でも、代わりにオミナ草が欲しいんです。昨日、市場で売り切れてて。」

「オミナ草?何でだね?まあ、金じゃなくていいなら。」

「ごめんなさい。実は昨日、エレンシアがテストで一番を取ったそうなの。それで、オミナ草のシチューが食べたいって言ってて。」

「あ~なるほどね。サリネは妹思いだね。わかった、ちょっと待ってな・・・ジェイク、オミナ草あったろ!?2束取ってきな!」

女性が大声を上げて間もなく、そばかすだらけの青年が小屋の戸口から顔を出した。

「んな大声上げなくてもわかんだよ・・・。」

「小声だったらお前、無視すんだろ。良いから、渡しな!」

「いいよ、俺が渡す」

ジェイクと呼ばれた青年はサリネのもとへ歩み寄り、手にしていたオミナ草を3束、彼女へ手渡した。

「エレンシアが一番だったんだって?すごいじゃないか。」

「そうなんです。あの子はほんとに頭がいいから、すごいの。」

「君も行けば良いじゃないか。まだ15だろ、あの学校15まで通えるんだし。」

「私は・・・良いんです。」

サリネの顔が僅かにかげる。その翳りに気づいてか、ジェイクは、しまった、という顔をした。女性がジェイクのみに聞こえるように「このあほ!」と呟く。女性を睨みつけたジェイクは、「じゃ、じゃあ俺仕事に戻るね」と作り笑いを浮かべ、そそくさと去っていった。

「ったく、あのあほ息子。サリネ、今日はもういいよ。お上がり。」

サリネはぱっと顔を上げる。

「えっ、まだ働けますよ。そろそろ荷車が来ますよね、搬入でも何でも。」

女性が、やれやれ、というように苦笑した。

「エレンシアを祝ってやりな。きっと、姉ちゃんが家にいる方が嬉しいよ。」

「あ、はい。・・・ありがとうございます。」

 女性は手をひらひらと振り、ジェイクが戻っていった方向へと歩いて行った。

 サリネはオミナ草の茎を真っ二つに折り、髪を結わえていた麻紐をほどいてその束を縛った。大切そうにワンピースのポケットへ仕舞う。そして大きく伸びをすると、夕陽を見つめ、踵を返して坂を上っていく。

左右に立ち並ぶバラック小屋やボロボロの古家からは、夕陽に照らされ、湯気が上がり始めていた。夕飯時である。



 サリネたちは、姉弟五人で古い集合住宅に暮らしている。元々は市民層の建物だったらしいが、スラム街が例年わずかずつ拡大するのに伴い、住人たちは家を放って去った。そのあとを、貧民たちが不法占拠しているのである。

 サリネが細い階段を上ろうとしたとき、「お姉ちゃん!」と幼い少女の声がした。見ると、白い修道服に身を包んだ女性二人に連れられ、数人の子どもたちが通りかかったところだった。叫んだのは、ふわふわとしたブロンドヘアの少女である。エレンシア。サリネの1番目の妹だ。子供たちの群れを飛び出し、まっすぐサリネの胸へと飛び込む。

「エレンシア、お帰り。」

「ただいま!今日早いんだね!ねえ、オミナ草、あった?」

「あったよ、これでシチュー作ろうね。」

 と、サリネは修道服の女性の一人と目が合った。女性は一瞬逡巡したかのように見えたが、会釈をして目を逸らしてしまう。サリネも会釈をするだけに留めた。

「ねえ、聞いて!今日ね、」

「はいはい、後で聞くから。取り敢えず、家に入ろうね。」

 サリネは幼い妹を抱え、人ひとり通るのがやっとな細い階段を一段一段慎重に上がっていく。先日近所では、建物が老朽化して階段が抜け、住民二人がけがをする事故があったらしい。万が一エレンシアがけがをしても治療するお金はないし、かといって階段を建て替えるなんてもっと無理だ。そんな心配をするサリネの頭に一つの選択肢がよぎるが、すぐに頭から追い出した。

 若干がたつくドアを開け、エレンシアを床に下ろしてやる。エレンシアはすぐに食卓の椅子へよじ登り、興奮した様子で話し出した。

「今日ね、讃神歌っていうのを歌ったんだよ!すごいんだよ、エレンはソプラノだったんだけどね、修道士さまが『エレンはお歌が上手ですね』って!エレン、ソプラノのリーダーやりたいなあ。」

「そうなの。すごいね、エレンシア。何でもできるのね。」

「うんっ。あ、ねえお姉ちゃん、明日お祈りに行こうよ。ミーシャちゃんも、リラちゃんも、お姉ちゃんに会いたいって!」

キッチンで、サリネのオミナ草をほぐす手が止まる。振り向いた彼女は、いつも通りの笑顔だった。

「ごめんねエレンシア。お姉ちゃんはお仕事があるから。」

「えー」とむくれるエレンシア。サリネは再びオミナ草をほぐし始めた。

と、そこへ食卓の隣のドアが開き、二人の少年が顔を出した。黒髪で色白な少年と、鳶色のくせっ毛の少年である。くせっ毛の少年が眉間にしわを寄せてエレンシアを睨みつけた。

「おいエレンシア、うるさいぞ。リズが起きちゃうだろ。」

「ルーカス、ジョニー、帰ってたの。」

「ジョニーは親方に帰されたんだって。レニ貝をいくつか無駄にしちゃったらしいよ。僕は学校が早めに終わっただけ。」

黒髪の少年が淡々と告げる。ジョニーと呼ばれたくせっ毛の少年は、むきになって言い返した。

「違ぇよ!だってあのキリ、使いにくいから!」

 レニ貝はアネントル近海で採れる奢侈品の材料である。小粒ながら、虹色に輝く貝殻が非常に美しく、アネントル主要海貿易品の一つだ。しかも、塩分濃度や養分などの生育条件が整っていなければ、貝殻の表面にベージュ色の斑点が現れてしまい価値が落ちるという、非常に繊細な貝でもある。サリネの1番目の弟であるジョニーは、貧民支援に積極的な市民である親方の工房で、細工職人見習いとして働いていた。一定年齢になれば住み込みで働くのが職人の決まりではあるが、ジョニーは異例の幼さで弟子入りしたため、毎日帰宅することを許されている。

 しかし、いかな器用な子どもといえど、大人と同じように工具を扱えるわけではない。

「やってるうちに親方が『もういい』って言ってきて、それで見向きもしてくれないんだぜ。ふん。」

サリネは静かに鍋を火にかけ、いくつかの野菜をまな板から鍋へ滑り込ませた。その傍ら、ジョニーに呟く。

「ジョニー、ちゃんと謝らなかったんじゃない?」

「へっ?」

「ジョニーはたまに頑固なところがあるからね。うん、僕もジョニーが謝らなかったからだと思う。」

黒髪の少年、ルーカスがそう付け加えた。

「は?だって初めて使ったんだぜ、あのキリ。失敗して当たり前だろ。」

「でも、レニ貝、いくつかだめにしちゃったんだよね。あれを手に入れてるのは親方さんなんだよ。人のものを壊したんだよ、ちゃんと謝らなきゃね。」

「・・・・・・ちえ。」

しぶしぶ自分の非を認めるジョニー。微笑んだサリネは、ミルクを鍋に加え、ゆっくり混ぜた。

「姉さん。」

ルーカスだ。くりくりとした利発そうな目がサリネの背を見つめている。

「うん?どうしたの、ルーカス。」

「明後日、教堂で炊き出しがあるんだって。僕、行ってくるね。」

 サリネは悲しそうに微笑み、小さくうなずいた。

 エレンシアやルーカスが通う学校は、レジェス教リウセン派の修道士たちによって運営される慈善団体のものだ。スラム街の10歳から15歳の子どもたちが通える、貧民層救済のための教育施設なのである。ジョニーは例外的に働きに出ており、隣の部屋で寝ているのであろうまだ3歳のリズは就学年齢に達していない。そして、サリネは頑なに学校に行こうとしていなかった。それどころか、レジェス教そのものを拒んでいた。

 鍋がコトコトと音を立てる。蓋を開けてその様子を確かめたサリネは、暖炉から鍋を取り上げ、テーブルにあった鍋敷きの上に置いた。弟たちが歓声を上げる。蓋を開けて現れたのは、とろみのついた純白のシチューだった。ところどころ覗くオミナ草の新緑が瑞々しい。

「ね、ね、もう食べていーい?」

「どうぞ。」

サリネが優しく促す。と、エレンシアは手を胸の前で組み合わせ、すっと目を閉じた。

「天上天下唯一の我らがラーナ、今日も私たちに天地の恵みを与えてくださることに感謝致します。」

レジェス教の食前の祈り文句だ。教堂や学校で教え込まれているのだろう。

一方サリネは、食卓に手を重ねておき、目を閉じる。その祈り文句は、エレンシアとは異なっていた。

(天上天下唯一の我らがアミュール、どうか私たち一家が飢え、渇き、苦しむことのないよう。切にお祈り申し上げます。)

ぱっと目を開ける。その時にはもう、弟と妹たちがシチューにありついているところだった。その豪快な食べっぷりに苦笑し、サリネは立ち上がる。

「あれ姉さん、食べないの?」

「リズに粥をやらないと。起きたときに泣いちゃう。」

 毎食必ず弟たちと食前の祈りを捧げるサリネだが、病弱な末妹のリズの食事も作らなくてはならない。リズは睡眠過多で胃腸が弱く、3歳になるというのに、近隣に住む同年代の子どもたちと比較して一回り小さかった。咳もよく出るし、神経質で手がかかる。

 しっかり粥も準備していたサリネは、深皿に注いで隣の部屋へ運んだ。小窓から差し込む、この日最後の僅かな陽光に照らされて、古いベビーベッドがある。かつて、廃品のなかからサリネたちの父親が拾ってきたものだ。サリネはじめ、ジョニーたち弟妹も皆、幼いころはこのベビーベッドの上で寝てきた。今は、そのなかに黒髪の幼女が眠っている。

「リズ。ご飯だよ。起きられるかな?」

「うあ・・・?」

リズはぱちりと目を開け、不機嫌そうに眉根を寄せる。かかっていた毛布を小さな足で蹴っ飛ばし、寝返りを打った。そのまま四つん這いでサリネを見つめる。

「ごはん?」

「そうだよ。はい、リズのお粥。」

鈍色のスプーンで掬ってやり、1匙をリズの小さな口に入れてやる。リズの眉根は寄ったままだが、粥の味は気に入ったらしい。口を精いっぱい開けて、「もっと」と促す。

「はいはい、せっつかないの。喉に詰まるよ。」

一口ずつ与えてやる。リズは完食するのに時間がかかるうえ毎度完食するわけではないが、栄養を充分取らせるために、サリネは出来るだけリズに食べさせるようにしていた。しかし、粥だけではやはり足りない。

(来週から海辺での仕事を探すか・・・。上手くいけば、漁師さんから雑魚を貰えるかもしれない。)

大小さまざまな魚介類が揚がる港では、貧民を短期で雇って仕分けや梱包の作業をさせる漁師も存在する。本来穢れの象徴として食品に触れるのも嫌がられる貧民だが、闇で雇うなら、安価な労働力として持って来いなのだ。サリネは機械的にスプーンを動かしながら、世話になっている闇口入屋のことを考えていた。

完食したリズがげっぷをする。サリネは再びリズに毛布をかけてやり、空になった深皿とスプーンを持って部屋を出た。



「じゃあ姉さん、おやすみなさい。」

「おやすみ、ルーカス。また明日。」

 勉強を終え、ルーカスが隣の部屋へと入っていった。

 一人残されたサリネは灯油ランプを自分の傍らへと寄せ、開かれた本を照らす。隣国リジアで話されている商業語、リジア語の解説書だ。アネントル語と文字は似ているが、文法の一部が大きく異なる。よって難易度は高いが、港で職を得るにあたって、リジア語ができると雑用依頼が得やすい。そのため毎晩、この時間にサリネは語学の勉強をしていた。ちなみに、解説書は近所の住民が譲ってくれたお下がりである。

夜も冷え、長く暗いなかで勉強をしていると頭が痛んだ。首を回したサリネは、ふと顔を上げる。

コツ、コツ、コツ。

誰かが玄関ドアをノックしていた。

(こんな夜更けに・・・。強盗?警察・・・はこんな時間に来ないよね。来る理由もない。)

 だが、窓から明かりが漏れているだろうから、恐らくサリネが起きていることはばれている。サリネの行動は素早かった。弟妹が寝ている隣の部屋のドア下に手を滑らせ、小さな閂をしっかりと通してロックする。続いてドア上のタペストリーを一気に下ろしてドアを隠した。それから玄関の隙間から外を覗く。

 途端にサリネはしかめっ面になった。しぶしぶといった様子でドアを開ける。そこに立っていたのは、白いシャツに黒いローブを纏った初老の修道士だった。しわがある顔に、穏やかな笑みを浮かべている。

「こんばんは、サリネさん。こんな夜遅くにすみませんね。」

「こんばんは・・・ルロイさん。」

彼の名はルロイ。レジェス教リウセン派の修道士である。同時に、ルーカスとエレンシアが通うレストアーラ慈善学校の校長だ。

「汚い家ですが。どうぞ、お上がりください。」

 客人を玄関に立たせたままというわけにも行かず、サリネは彼を招き入れる。ルロイもすぐに帰るつもりはないのか、招かれるままに中へと入った。

 サリネはシンク下の戸棚をまさぐり、やっと欠けていない綺麗なコップを出した。そこに水を注ぎ、壁際で日干ししていた薬草の束から適当なものを見繕って入れる。それをそのまま、食卓に腰掛けるルロイの前に置いた。

「どうぞ。粗末なものですが。」

「いえいえ、ありがとう。この薬草は、イビデンですか?疲労回復に効くという。」

 流石は応急医師も兼ねるレジェス教修道士である。貧民が使う薬草にまで詳しいのであった。

「はい。それより、どうなさったんですか。こんな夜更けにスラム街を修道士さまが一人で歩いていたら、夜盗に襲われますよ。」

「はは、ご心配なく。用心棒を一人連れてきていますから。それに、昼間来てもあなたはお仕事でいらっしゃらないでしょう。」

サリネのこともわかっているらしい。

「ああ、で本題ですがね。あなたの弟妹、ルーカスとエレンシアを、寄宿学校に入れませんかというお話です。」

「・・・いつかは言われると思っていました。」

ルロイが再び微笑む。

「そうでしょう。姉であるあなたならご存じでしょうが、あの二人は素晴らしい。特にルーカスは、我がレストアーラ慈善学校始まって以来の秀才ですよ。エレンシアはまだ幼いが、リーダーシップもあるし讃神歌も上手い。ジョニーには苦労させられたものですが。」

ジョニーはかつて、弟子入り前に学校に通っていたものの合わず、そのまま辞めてしまっていた。

「考えさせてください。」

「やはり、我々の教えは気に入りませんか。」

「・・・・・・。」

サリネは答えない。手を組んだルロイは、語りかけるように話し出した。

「お母さまのお教えが大切なのはわかります。しかし、神は天上天下、ラーナのみなのですよ。弟妹たちにも、我々の教えに従ってもらった方が幸せなのではないですか。」

「いいえっ。」

サリネがぱっと顔をあげ、まっすぐにルロイを見つめる。しかしすぐに顔を逸らし、呟いた。

「・・・私の神は、一生、アミュールのみです。」

主神アミュールを世界の創始者とする一神教、ソーラ教。それが、サリネの信仰する教えである。

アネントルはかつて王から民までソーラ教を信仰していた。伝統の工芸品や舞踊にも、その色が濃く出ている。しかしおよそ200年前、外国との交易が盛んになったことをきっかけに、レジェス教が伝来する。当初は交易を有利にするために一部商人や貴族が進行していただけだった。しかしそのうち、王族にも信仰者が出てきて、現在では国民の半数がレジェス教信仰者である。

そんななか、スラム街の住民には比較的ソーラ教信者が多かった。サリネの亡き母もソーラ教信者だった。ここ20年程レジェス教リウセン派修道士会がスラム内部に入り込み、改宗する者も増えているが、まだ多数派はソーラ教である。

「まあ、お気持ちはわかりますが。しかし、例えば、今私が上がってきたあの階段。もうだいぶ老朽化していますよね?もし我々と一緒にラーナを敬い奉るのであれば、あれも修道士会の正式な慈善予算で修理しますよ。近隣の方で何件かお話がまとまっていますので、是非ご一緒に。」

「以前も言いましたが、私は修道士会からの援助を受け入れようとは思っていません。ルーカスとエレンシアをあなたがたの学校へ通わせ続けているのは、それがたとえ母と私の信仰に違えるものでも、あの子たちのためになると私が判断したからです。」

サリネは淡々とルロイに告げる。

「とにかく、考えておきますから。」

「是非、良い方向で検討してくださいね。あなたの仰る通り、我々の教育はあの二人にとってチャンスなのですからね。」

 ルロイが立ち上がり、襟元を正す。知的な青い目がまっすぐサリネを捉えた。

「亡きご両親の借金を一人で返し、弟妹の面倒も一人で見ている。あなたはとても優しい方です、サリネさん。しかし忘れないでください、我々もまた、あなたたち姉弟のことを思っているのですよ。」

 サリネは唇を噛んだ。無言で玄関ドアを開き、ルロイに帰るよう促す。ルロイは寂しそうに微笑むと、一礼をしてドアから出ていった。外で二、三人の話声がし、すぐに遠ざかっていく。

 サリネはふうっとため息をつき、ルロイの残したコップを片付けた。

(わかってるけど。・・・ごめんね、お母さん。)

 レジェス教に改宗すれば、サリネや弟妹の生活も少しは楽になるだろう。サリネの母も、最初は「悪魔の誘惑」として改宗を忌み嫌っていたが、生活が悪化するにつれ、そのようなことも言えなくなっていった。それをわかっているからこそ、彼女の死後、サリネは独断でジョニー、ルーカス、エレンシアを慈善学校へ通わせたのだった。もしルーカスとエレンシアが寄宿学校で優秀な成績を修め、高給職に就くことが出来れば、家族は貧苦から抜け出せる。あさましいと思いつつそれに期待するほど、サリネたちの生活は切羽詰まっていた。

 ふとイビデンの甘い香りが鼻をつく。それがすうと粘膜を鳴らした時、サリネは、涙が溢れそうな自分に気づいた。

 アビュットの夜が、更けていく。



 サリネは早朝、誰かの声で目を覚ました。

 ごわごわした毛布を除けて薄いガウンを羽織り、寝室を出て玄関へ向かう。昨夜と今朝、連続の来客は珍しい。半分寝ぼけながらドアを開けたサリネは、一気に目を見開いた。

「わ、わ、わ?え?」

 変な声が出る。そこに立っていたのは、しわ一つない浅葱色のシャツに、上等なビロード仕立てのネイビージャケットとパンツを着こなした、あからさまに上流階級の使用人男性だったのだ。

 当然、サリネにそんな知り合いはいない。

「どど、ど、どちらさまですか・・・?」

「初めまして、サリネさまでございますね。私はジョン・ドゥーさまの使用人で、アレン・タリアータと申します。本日は、サリネさまとお取引を致したく参上いたしました。」

「取引・・・?はっ!」

サリネはアレンを押しのけるように玄関から身を乗り出す。階段の下にアレンの連れらしき使用人風の男性二人、そしてその向こうに、大勢のやじ馬が集まっていた。好奇心、心配、嫉妬。様々な目線がサリネに向けられている。

 スラムの情報網は広大だ。昼には、懇意にしている港の闇口入屋にまで「サリネが上流階級とつながっている」というあらぬ噂が広まってしまうだろう。そうすれば、港での違法職を得ることは絶望的だ。リズのために魚を得ることも出来やしない。

「ちょ、ちょっちょちょ、こちらへっ!早く!」

サリネはアレンを室内に引きずり込んだ。アレンは動じる様子もなく入室する。

「そこ、そこの椅子に座っててくださいっ。今お茶を出します。」

「ああ、お構いなく。我々は、あなたをお迎えに上がったのですよ、サリネさま。」

「私を、上流階級の方が・・・?何かの、間違いでは?」

「いえ、あなたで間違いございません。」

アレンは丸めた羊皮紙を取り出し、さっとその内容に目を通した。

「三年前に事故で亡くなった御父上、そして一年前にご病気で亡くなった御母上の間にお生まれの計四人の弟妹さまとお暮らしですね。長男ジョニーさまはリジトンの細工職人に弟子入り中、次男ルーカスさまと次女エレンシアさまはレストアーラ慈善学校の生徒であり、お二人とも大変優秀でいらっしゃる。末の三女リズさまはご病弱で、慢性の咳と発育不全。なお、ご両親には借金があり、サリネさまが筆頭となっていくつかの仕事を掛け持ちつつ、返済していらっしゃると。」

サリネの顔が青ざめる。何故、部外者がここまで知っている?情報網はあるとはいえ、スラム街の住民は連帯意識が強い。おいそれとサリネたち一家の情報を上流階級に流したりしない筈だ。

「間違いございませんね。」

アレンが念を押す。サリネは、心ここにあらずといった様子で頷いた。

「けど、何故、そんな。」

サリネが問いたいことをわかっているのかいないのか、アレンは話し出した。

「我が主人、ジョン・ドゥーさまは、この王国で最も優れたアネンティ舞踊の舞い手です。貴族ではございませんが、国王より名誉勲章を授与された素晴らしいお方。そしてサリネさまは、そのお方の見習い練習生として選ばれました。」

「練習生、というのは、アネンティ舞踊の?」

「はい。アネントル伝統の権威ある伝統舞踊です。」

「何故、私が?生まれてこの方、アネンティ舞踊を踊ったことも、その・・・ジョン・ドゥーさま、にお会いした覚えもないのですが。」

「それは私も存じ上げません。ですが、命令です。あなたには、練習生となるためにこの書面にサインを頂きたい。」

アレンが羊皮紙と万年筆を食卓へ置く。サリネは首を振った。

「ダメです。私には返さなくてはならない借金があるし、それに弟や妹も。」

だが、アレンは思いがけないことを口にする。

「御心配には及びません。練習生として過ごす一年間、給料は出ますから。それからご令弟さま方、ご令妹さま方は、こちらでお預かりいたします。こちらが、給与裁定と受け入れ先の紹介資料です。」

サリネは半ばひったくるように、アレンの提示した薄紙を取った。給与は、普段サリネが懸命に稼ぐ額のおよそ三倍。受け入れ先として記されていたのは、避暑地として有名なロッズ地方にある別荘だった。

「こ、これは・・・。こんなにいただけません!」

普段の貧苦も忘れ、サリネは思わず素っ頓狂な叫び声をあげた。

「それだけの期待があなたにはかけられているんです。失礼ながら、貧民の素人に当代最高のアネンティ舞踊の舞い手がついて一年間教えてくださり、そのうえ破格の給与と生活保障までつけてくださるんです、かような良い話は二度とないかと。」

じっと見つめてくるアレンを横目に、サリネは困惑しつつ考えた。

(何この話、美味しすぎる。でも、美味しい話には気をつけろってお母さんも言ってたし・・・。ひょっとすると、騙されて売春宿に売り飛ばされるんじゃ。)

と、「姉さん」と声がして、サリネは驚いて振り返った。寝室のドアから、ルーカス、ジョニー、エレンシアが顔を出している。ルーカスが歩み出て姉を見つめた。

「行きなよ。こんなチャンス、きっと二度とないよ。僕たちなら大丈夫。エレンシアとリズは僕が守るから、姉さんは自分のことだけ考えて。」

ジョニーが「おいっ俺は!?」と叫ぶが、ルーカスは無視して続ける。

「姉さん、いっつも僕たちのことばかりだったよ。大丈夫。大丈夫だから。」

常に冷静なルーカスが、何度も「大丈夫」と呟いている。それが彼自身に向けたものであると気づいたとき、サリネの視界が潤みゆがんだ。

「ありがとう、ルーカス。ありがとう。」

覚悟を決めたサリネは、万年筆を手に取った。昔母に習った拙い文字で、「サリネ」と記す。

「失礼ながら、姓もお願いできますか。」

「いえ。スラム街の住民に、姓はありませんから。」

「これは、失礼。では、これで契約成立ということで。少々お待ちください、連れの者にご令弟方とご令妹方を迎えに来させます。」

羊皮紙をアレンに渡したサリネは、深呼吸をした。

「ほんとにありがとう。でもね、ジョニー、ルーカス、エレンシア。何か嫌なことがあったら、すぐに逃げてここに戻って来るのよ。私はいなくても、オルおじさんやミーシャちゃんちに頼んで置かせてもらいなさい。きっと助けてくれるから。」

「姉ちゃんは?」

「え?」

ジョニーの言葉にサリネが尋ね返す。

「姉ちゃんは嫌なことがあったら、逃げられる?ここに戻ってこれる?」

「・・・大丈夫。私は、きっと戻って来る。・・・あ、ちょっと待ってて。」

サリネは部屋の隅にかかっていた、鹿柄のタペストリーを引きはがした。その奥に、ちいさなくぼみと革袋が現れる。

「これ、お母さんが作ったの。」

革袋のなかで鈍色に輝いていたのは、五つのレニ貝のペンダントだった。

「いつか渡してくれと言われて、預かってたの。それが今ね。ほんとは、ソーラ教の教えで成人の儀を済ませたらいつかって意味だったらしいんだけど。」

一人一人の首に下げてやる。最後の一つ、リズの分はルーカスに預け、サリネは自らのペンダントを見せた。

「これは、私たち家族しか持ってないんだよ。たとえ苦しいことがあっても、いつか、これを持って五人で集まりましょ。いい?約束だからね。」

エレンシアが涙目で頷く。ジョニーとルーカスもこらえるように強く頷いた。

「お待たせしました。ジョニーさま、ルーカスさま、エレンシアさま、リズさま、こちらへ。サリネさまも。荷物は特に必要ないですからね。」

時間だ。サリネは隣室からリズを抱え上げて連れてきた。ドアにしっかりと鍵をかけて階段を下ると、大勢の野次馬のなかに、豪華な一等馬車が二台、佇んでいた。サリネが弟たちに別れのキスをしてやっていると、野次馬のなかから声が聞こえた。

「ちょっと待て、おい、待てよ!サリネ!」

「ジェイクさん?」

そばかすの青年、ジェイクが人込みから飛び出してきた。後方で母親が「お前、このあほ、やめなっ!」と叫んでいるが、彼は気に介す様子もない。はずむ息の狭間を探すように肩を上下させ、すがるような眼でサリネを見つめる。

「サリネ、どういうことだよ。何で行っちゃうんだ?」

「あの・・・新しく仕事を紹介してくださる方がいるって。そこで働くことになりました。」

「んな上手い話あるわけないだろ!絶対こいつら人買いだ!サリネがび、美人だからって・・・」

ジェイクがサリネの両肩を掴んだ。

「なあ、ずっとここで暮らそうぜ!他のところに行っても良いことはない。俺達にはサリネが必要なんだ。ずっと、サリネの笑顔に勇気づけられてきたから。食いもんないし、金ないし、荒れてばっかりだったけど、サリネが皆を笑顔にしてくれたから・・・!」

野次馬たちから「そうだそうだ!」「サリネを返せ!」と声が上がる。サリネは逡巡したのち、ジェイクの両手を肩から外した。

「みなさん、ありがとう。でも私、もう決めたの。きっと一年で戻って来るから、その時には、また仲良くしてほしい。できるかな?」

誰かが「勿論だ!」と声を上げる。

「・・・くそ、しょうがねーなあ!」

「おい、サリネの旅立ちだぜ!」

「そうよ、応援してやりましょ!」

サリネは周囲を見回した。みな、幼いころから付き合ってきた知り合いばかりだ。口々に歓声と応援をあげている。

「ありがとう、みなさん。私、きっと戻って来る。」

と、ジェイクに中年男性がヘッドロックをかけた。

「そんときゃ、きっとサリネはもっと美人だな!な、ジェイク!」

「何でそれを俺に言うんだよ!」

ヘッドロックをし返そうとして見事に返り討ちに遭っているジェイクと男性のやり取りを見て、サリネは小さく噴き出した。

「サリネさま。参りましょう。」

アレンが声をかける。サリネが一番に出立するらしい。慌てて馬車に乗り込み、窓の外を見た。

「ありがとう、みなさん!また、また会いましょう!絶対だよ!」

人々の声に見送られ、馬車がごとりと音を立てる。サリネは、ひと際大きく手を振る弟妹達に手を振り返し、窓の奥に引っ込んだ。そのあとはもう、決して振り返らなかった。



馬車は険しい山道を弾みながら登っていく。

馬車に乗り込んで既に数刻、サリネもアレンも何も話さなかった。先刻、周辺国との交易路が交わる地方都市ジュリスを通り、休憩時に「お疲れではないですか」「いえ、ありがとうございます」と話しただけである。御者二人は話しかけてすら来なかった。

「ほんとに給与もらえ・・・あっ!」

心の声が口に出てしまったらしい。慌ててアレンの様子を窺うと、アレンもこちらを見ていた。

「ご心配なく。私は気にかけませんので。」

そういう問題じゃない。サリネが羞恥に顔を赤くして手でぱたぱた仰いでいると、アレンが再び口を開いた。

「と言いましても、先ほどから何度か呟かれておられましたよ。」

「え、嘘、本当に!?私何か言ってました!?」

「ふっ」

サリネは呆気に取られる。終始無表情だったアレンが、笑ったのだ。

「ええ、色々と。ジョニーさまはまだおねしょの心配があるとか、やはりお気に入りのワンピースは持ってくるべきだったとか。」

「うわあ・・・忘れてください・・・。」

「ご心配なく。気にかけませんので。」

アレンはすうと無表情に戻る。沈黙になるかと思われたが、アレンが再び口を開いた。

「サリネさまは、ご近隣の方々と仲がよろしいのですね。」

「え、そ、そうですか?」

スラム街では、周囲と協力しないと生きていけない。それはサリネの無意識に根付いていることであり、違和感など抱きようもなかった。

「あでも、みなさん小さいころからの知り合いなんです。互いに支えあうと、自分も相手も嬉しいじゃないですか。アレンさんは、そんなことなかったんですか?」

「アレンで構いませんよ。・・・そうですね、私の家は周囲とは牽制しあう関係でしたので。」

上流階級の使用人とはいえ、名家や旧家の出なのだろう。その苦労をうっすら感じさせる雰囲気だった。

「あの、ところで・・・今、どこに向かっているんですか?」

サリネは、ずっと抱いていた疑問を口にした。

「王宮のエゼフ離宮になります。」

「離宮!?それって、王族が別荘や療養所としてご利用なさるところじゃ・・・。」

「ええ、通常はそうですね。しかし今私たちが向かっているのは、以前離宮として利用されていた建物となります。50年前に新しい離宮が建てられて放置されていたものを、我らがジョン・ドゥーさまが国王さまに願い出て、つい1ヶ月前に下賜されたのですよ。」

聞けば聞くほど、ジョン・ドゥーは凄い人物らしい。しかし、上流階級の話と無縁で育ってきたサリネには、その名前にさっぱり心当たりがなかった。

「ああ、見えてきました。あの建物が、サリネさまが一年間暮らすことになるエゼフ離宮です。」

アレンがサリネの向こうの窓を指さす。鬱蒼とした森の狭間から、時折見える白い建物。遠目にも、その大きさと荘厳な装飾がわかる。丁度傾いた太陽の光が、離宮に見惚れるサリネの髪に差した。

「すてき!流石は王族の離宮・・・!」

「見るのは構いませんが、窓から落ちられませんよう。」

身を乗り出しすぎたサリネを、アレンが静かに諭す。と、馬車が大きく揺れ、サリネは慌てて窓から引っ込んだ。

「この辺りは結構涼しいんですね。」

「標高が高いですからね。王族の避暑地としては人気だったんですよ。」

サリネは不思議そうにアレンに尋ねる。

「何で新しい離宮を建てたんでしょう。ここでも、充分過ごしやすいのに。」

アレンは淡々と尋ねた。

「鹿狩りをするには斜面が急過ぎるそうですよ。それから、潮風が届かないそうで。」

「そんな理由で・・・うちなんか、崩れそうな階段修理することも出来ないのに。」

サリネは少し頬を膨らませる。と、弟妹たちの顔が脳裏を過ぎり、目頭が熱くなった。

(いけない、しっかりしなきゃ。)

馬車は平坦になった道を登り、離宮の前に横付けした。ドアを開けようとしたサリネをアレンが手で制し、先に降りてから回ってサリネ側のドアを開けてくれる。

「あ、ありがとうございます。」

「サリネさま。あなたは今から、自分がスラム街の少女ではなく、貴族令嬢だと思ってくださいませ。私もそのように致します。」

「あ、はい・・・。」

「では、参りましょう。」

アレンはサリネの手を取り、階段を一段ずつ丁寧に上がらせてくれた。普段駆け上がりも二段飛ばしもやっているサリネは、足を踏み外しそうになりながらついていく。更には、荒れた手を優しく持ち上げるアレンの白手袋に少し緊張してしまった。

と、不思議なことが起きた。正面玄関そばに起立していた、スーツ姿のマネキン人形が独りでに動き出し、ドアを開けてくれたのだ。

「ひわっ!?」

「ああ、サリネさまがご覧になるのは初めてでしたか。彼らはプーペ。我らがジョン・ドゥーさまの魔法で動く、人形使用人です。」

「これが、魔法・・・!」

サリネですら聞いたことがあった。アネントルの上流階級の人々の一部は、魔法を操る。特に物理魔法が多く、物を動かしたり、性質を変えたりするらしい。とはいえ、それはあくまでも御伽噺だと高を括っていたサリネの心臓には負荷がかかった。

「えと、こちらの使用人の方々はみなさんプーペなのですか?」

「いえ、執務統括は人間の執事が行っております。私のようにお嬢様方のお世話をするものは、やはり人間でないと不都合が出ますし。」

「なるほど。」

荘厳なドアを通って中へ入ると、ワインレッドの絨毯と、飴色のクラシカルな家具が二人を迎えた。壁には複数の牡鹿の剝製と、大小さまざまな絵画が飾られている。絵本で見るような奥の中央階段を上がり、サリネたちは二階の長い廊下へと着いた。

「こちらに並んでいる部屋が、練習生のみなさまの宿泊部屋となっています。一人一部屋で、サリネさまのお部屋はこちら、202です。」

アレンがドアを開け、サリネは引き寄せられるように入る。中は思ったより広く、天蓋付きのキングサイズベッドと猫足のドレッサー、デスク、ローテーブル等一通りの家具が揃えられていた。全体がモカ色でまとまっており、可愛らしい。部屋奥のレースカーテンを左右に引くと、山々の谷間から、首都セアを望むことができた。白い王宮と、レンガ色の懐かしい街並みが目に入る。

「お気に召しましたか?」

「はい!ほんとに美しくて・・・まるで夢みたい、私がこんなところで暮らせるなんて。」

サリネはうっとりと窓ガラスに手をついた。

「それは良かったです。ところで、あと二時間ほどで、早めの晩餐を摂る予定です。他の練習生のみなさまもそこでお集まりになりますので。そののち、ジョン・ドゥーさまがお会いになります。」

いよいよ、練習生たち、そしてジョン・ドゥーに出会うのだ。サリネは若干緊張してきた。と、重要なことに気付く。

「あの、アレン。その・・・私、このような汚い格好で晩餐会には行けません。」

サリネの格好は、つぎはぎだらけのワンピースのままであった。

「ご心配なく。こちらにお召し物を準備しております。」

アレンはベッド横のクローゼットを開けた。そのなかには、ドレスから寝間着まで様々な衣装が揃っていた。しかしなぜか、その全てが青を基調としている。

「わあ、すてき!」

「私がお手伝いするわけにも参りませんので、すぐメイドを呼んで参ります。」

「あ、いえ、大丈夫です!自分で着替えられますから。」

「いえ。あなたはもう、ただの少女ではないのですから。」

呼び鈴を押したアレンは、「メイドに着替えと入浴の手伝いを終えさせて、一階へお越しください」と言い残し出ていった。



「お待たせしました・・・。」

「とても良くお似合いです。」

タキシード姿のアレンが微笑む。

大理石の浴場でふんわりとシュウィン草の香るシャンプーで洗髪し、三日ぶりの入浴を終えたサリネは、メイドとともにディナードレスを選んだ。

夜の訪れを思わせる深みのある水色の生地に、シュウィン草と同じ、霞むような水色のレースが重ねられ、植物を模した繊細な刺繍が施されている。腰回りにレースリボン、裾は膝下からプリーツがふんわりと広がり、全体的に美しいマーメイドラインになっていた。深めのV字に開いた胸元には、レニ貝のペンダントが輝いている。

「こんな服、初めて着ました。踏んづけそう。」

「それをサポートするために私がおります。参りましょう。他の練習生のみなさまも、もう大半が集まっていらっしゃるようです。」

階段を下り、一階の踊り場の裏側へ回ると、大きな扉があった。再び両脇のプーペが動き出し、慇懃にドアを開けてくれる。その向こうには長いテーブルと、左右に8つの席、奥に1つの一際豪勢な席が用意されていた。左右のいくつかの席には、既に少年少女たちが着いている。

「ごきげんよう、と。」

アレンが囁く。サリネは、昔読んだ絵本であったようにドレスの裾を軽くつまみ、持ち上げて「ご、ごきげんよう」と言ってみた。すぐ近くに座っていた紫色のドレスの少女が「ごきげんよう」と返してくれる。

「お座りになったら?」

「あ、はい。ありがとうございます。」

アレンに目を向けると、彼は頷き、右側の奥から二番目の席に導いてくれた。

サリネが座ると同時に扉が開き、新たな練習生が現れた。緑色のハンカチーフとネクタイを身に着けたタキシード姿の少年と、黄色の花を模した刺繍をふんだんに施した伝統衣装らしき着物をまとった少女である。

「こんにち・・・あ、ごきげんよう。」

「みなさま初めまして、ごきげんよう。」

これで七名が着席した。あと、二名が来ていない。と、暖炉の上に掛けられた大きな時計が鳴り始めた。

ボーン・・・ボーン・・・

と、突然扉が乱暴に開き、真っ赤なドレスを纏ったミディアムヘアの少女が現れた。サリネは呆気に取られる。

「あ、ああ、遅れた!こんにちはっ。」

ばたつく少女を、彼女の付き人であるらしい男性がサリネの右隣へと案内した。

ボーン・・・ボーン・・・

鐘が鳴り終わったタイミングで、白髪の老年男性が進み出る。

「みなさま、御目にかかれまして光栄です。私はこの邸宅にて執事を務めております、ディル・フォン・アンセムと申します。今夜は皆様がお集まりになる初めての夜ですので、晩餐会として交流の場を設けさせていただきました。王国随一の腕を持ったシェフによる、歓迎の料理をお楽しみください。」

台詞の終了と同時に傍の扉が開き、ワゴンを押したメイドが登場した。

「アミューズ・ブーシュ(突き出し)は、アディス近海で採れたベルフィッシュのすり身のムース、白ワインとクレア草のソースを添えております。アペリティフ(食前酒)には、成人なさっている方々にはベリーニ(ピーチネクターでワインを割った軽いカクテル)を。他の方々には、グナード産炭酸水「太陽の泉」をご用意致しました。」

アネントルでは16歳から成人、飲酒可能となっている。15歳のサリネの前には、銀色の泡が輝く炭酸水が置かれた。表面には柔らかなピンクのエディブルフラワーが浮かび、輪切りにされたレモンがシャンパングラスの縁に添えられ、艶々とした黄色を惜しげもなく見せびらかす。

(こ、これは美味しいのかな。泡が出てる水とか、飲んだことない。)

恐る恐るグラスに手を伸ばす。と、視界の隅で、紫色のドレスの少女がカクテルグラスを掲げた。

「今日の出会いに、乾杯。」

「乾杯。」

見たこともない黒い礼装の少年と、グレーのジャケットを羽織った少年が続く。サリネと他の少年少女たちも、若干遅れる形で「かんぱい」と続けた。

「恥ずかしい、そのまま飲むとこ・・・あっ!」

また口に出してしまっていた。全員の視線が集まる。紫色のドレスの少女が微笑む。

「慣れませんか?」

「あ、はい。すみません、こんな格式高そうなところへ来たのは初めてなんです。」

「あら、そう。どちらのご出身なの?」

「アビュットから。」

途端、少女の笑みは作り笑いのようになった。

「・・・そう。遠いところからいらしたのね。」

「ちょっと。」

サリネの右隣に座っていた、真紅のドレスの少女が苛立ったように声をあげる。

「あんた、スラム街出身なら何か文句あるっての。」

「まあ、いえ、そんな。私はただ・・・」

「嘘つけ。ああ、気分悪っ。」

部屋に沈黙が下りる。アレン達使用人も何も言わない。と、今度はオフホワイトのジャケットの少年が口を開いた。鳶色の瞳と髪が優しそうな印象を与える。

「良ければ、自己紹介をしませんか?私はシルル・ド・ワンズ。海港都市セブネの出身です。」

「では僕も。ガレス・フォンディだ。出身はアミタ。宜しく。」

黒髪の少年が続いた。セブネは、セゼンやシュレーカーに次ぐ三大海港都市の一つである。洗練された物腰からも、シルルの育ちが良いことが伝わってきた。アミタは対照的に、スラム街のなかでもブラック・ストリートとして有名な南地区で、アネントル随一の治安の悪さが特徴である。だが姓を持つあたり、ガレスはあまり貧しい層ではなかったのかもしれない。

続いて、緑色のハンカチーフを差した少年が挙手をする。

「次俺ね。サム・ルーシュ。出身はアネントル本土じゃなくて、リノワ島なんだ。よろしくー。」

リノワ島はアネントルの南西の海に浮かぶ遠隔離島だ。海賊の拠点の一つだったことから掃討作戦が行われ、以前はアネントルの国土だったが、数年前に自治領になった。

「私はコゼット・ルルム・フォン・アリアナ。アリアナとお呼びくださいまし。出身はエデンで、両親は公爵です。」

「ルルムとは、アリアナさまはあのルルム公爵令嬢ですか?」

「エデンって、セアにある上流階級御用達の高級住宅地じゃねえか。すげっ。」

シルルとサムが驚いたように言う。紫色のドレスを纏った少女、アリアナは、くすりと笑った。

「あら、大したことではございませんのよ。」

サムと黄色い伝統衣装を纏った少女が感心したような表情を浮かべる。セブネは薄く目を開いたが、全く動揺していないかのように再び目を閉じた。

と、黄色の伝統衣装の少女が慌てたように話し出した。

「あ、では次、私行きます。えとっ、リ・ランファです。出身は・・・シナです。」

「シナですか?シナご出身の方には初めてお会いしましたよ。是非、お話を伺いたいです。」

シルルが目を輝かせて少女に話しかける。彼女は恥ずかしそうに目を逸らした。

「あ、いえ、あまりシナのことは覚えていないんです。幼いころにこの国へ来たので。」

「ああ、そうなんですか。」

「シナは、東方の蛮族と聞きましたけれど。あなた、そのお召し物もシナのもの?今夜は晩餐会ですから、正式なディナードレスをお召しになれば宜しいのに。」

アリアナがファー付きの豪勢な扇で口元を隠し、不満そうに呟く。少女は目を伏せ、自分の身に着けている衣装を悲しげに見つめた。その胸元は幾枚かの彩色布で重ねられており、繊細な錦糸で織り入れた小花柄があしらわれた檸檬色の羽織りを足元まで垂らしている。さらさらの黒髪には金糸雀色の牡丹を模した髪飾りが差されており、丸眼鏡にかかる女郎花色の房飾りもふわりと揺れて、物憂げながら麗しげだ。

(可愛いと思うけどな、私は・・・。)

「いつまで黙ってらして?青いドレスの貴女と、赤いドレスの貴女。それから灰色のテールコートの貴方も。」

「あ、すみませんっ。私はサリネと言います。アビュット出身です、よろしくお願いします!」

続いて、灰色のテールコートを纏った白髪の少年が口を開いた。

「ルイスだ。宜しく。」

(え、それだけ・・・。)

サリネはぎょっとして左斜め前のルイスをまじまじと見つめた。他の練習生たちも同じことを思ったらしい。シルルとサムは苦笑し、アリアナは眉根を寄せた。

と、キッチンへ続く扉が開き、ワゴンを押したメイドが二名登場した。

「オードブルをお持ち致しました。トーストスティックとロギ鷲パテのディップでございます。」

「ありがとう。」

アリアナがすました表情で礼を言い、続ける。

「シェフに伝えて頂戴、アミューズ・ブーシュのムースは大変美味しかったわ。ところで、シェフの名前は?王国随一って聞いたけど。」

「そのようにお伝えします。シェフはティシモ・アルベールと申し」

「ティシモ・アルベール!?って、お、王宮料理人の一人じゃない・・・料理長サン・デーフォンの一番弟子の!」

サリネは聞きなれない名前に目を瞬かせたが、目を見開いたシルルも知っているらしい。メイドが微笑みを顔に張り付けたまま答える。

「はい。現在は我らが主人、ジョン・ドゥーさまの専属料理人として、お嬢さま方のお食事を準備させていただいております。」

「一体何者なのよ・・・。」

アリアナは不審そうな顔で扇を返した。

メイドが一枚ずつ練習生たちの前に皿を並べていく。見たこともないような美しい盛り付けに見惚れていたサリネだったが、隣の真紅のドレスの少女が自己紹介をしていないことに気付いた。恐る恐る話しかけてみる。

「あの、自己紹介は・・・。」

少女は不審そうに顔をしかめた後、ため息をついて話し始めた。

「アンネ。アンネよ、出身はエルビア。」

エルビアは、アビュットの隣、中央地区だ。当然スラム街であるが、その拡大に伴い一部市民地区を吸収して出来たアビュットと、何百年も前から貧民地区であったエルビアでは歴史の重みが異なる。アビュットには、エルビア出身であったり、または先祖がエルビア出身であったという者も多い。彼らがその居住領域を拡大したことで出来ているのが、現在の北地区アビュットや南地区アミタなのだ。

「エルビア・・・!私、お隣のアビュット出身なんです!近いですね。」

「聞いてたよ。私、アビュットには行ったことないけど。つかさ。」

アンネは栗色のボブヘアをふんわりと揺らし、サリネに顔を寄せた。

「あの、紫色のドレスの女。なんかうちらのこと馬鹿にしてて、やじゃね?」

アンネが視線で指したのは、アリアナだった。慣れた手つきでフィンガーボウルに指をつけ、オードブルに取り掛かろうとしている。

「アリアナさんですか。」

「さん付けで呼んでるんだ、真面目だねえ。あいつ多分こんなかで一番年上っぽいんだよね。でも、気を付けた方が良いよ。」

サリネがどういう意味かを尋ねる前に、再びメイドが現れる。彼女がワゴンに乗せ、一人ずつの前に置いていったのは、雪のような粉を被った、真っ白な白パンだった。

(これが白パン?何て綺麗なの。ああ、弟たちにあげられたらいいのに。)

恐る恐る指でつまむ。普段サリネが口にしている黒パンよりずっと柔らかく、不意にサリネの指が吸い込まれそうだった。慌てて皿に戻すと、粉がはらはらと舞う。ちらりと横目で見ると、アリアナやシルルは造作もなくちぎって口にしている。以前からそれに慣れている手つきだった。

(私はこの人たちと、これから二年間。何度も恥ずかしい思いをすることになるんだろうか。)

誰も口を開かない。交流のための晩餐の割には重苦しく、料理の味もあまりわからなかった。しかし料理の歯ごたえやスパイスのかすかな刺激が、いかに上質なものかを物語る。

いつの間にか大半の者がパンを食べ終わっている。そこへドアが開き、今度は二名のメイドが登場した。ワゴンの上には、磨き上げられた銀色のクロッシュに覆われた大皿が鎮座している。

「お待たせいたしました。こちら、メインディッシュの国産アロウ牛のステーキ、エレメの実と香草のソース添えでございます。付け合わせは、季節のアイヴォン種のマッシュポテトです。」

アロウ牛肉はアネントルの高原で飼われているアレ牛のなかでも、優良な雄牛からしか取れない稀少性の高い牛肉で、緻密な赤身が特徴である。無論、牛肉すら目にしたことのないサリネには、それを品質を保ったまま離宮まで運び上質なステーキにすることがどれほど贅沢なことか、想像もつかなかった。アイヴォン種のジャガイモは比較的市民層でも手が届く価格帯だが、春先の新ジャガイモを手に入れるのは至難の業とされる。

サリネはそこで、固まってしまった。ステーキの食べ方がわからない。ガレスが真っ先に手にしたナイフとフォークを見て、真似をしようと手を伸ばす。

「ちょっと、サリネさん。」

アリアナだ。マナー違反でもしてしまったのか、とサリネは身を一層固くする。

「ナイフは右で、フォークが左よ。こうやって持つの。」

「あ、え?あ・・・・・・。ありがとうございます。」

アリアナは返事をしないまま、優雅に両手を操り、ステーキを一片、口にした。サリネも見様見真似で肉にナイフを当てるが、皿に当たって派手な音を立ててしまい、両手をびくりと震わせた。どうにも真似できそうにない。

と、アンネが眉根を寄せて呟く。

「は、偉そうに。ここに来てるくせに。」

サリネは一瞬、その言葉の意味がわからずフリーズした。しかし、当のアリアナには効果抜群だったらしい。かっと顔を赤くし、何か言いたげに口を開ける。だがプライドがそれを制したのか、指を震わせたまま再びステーキに向き合った。空気が張り詰める。なぜか無関係の筈の黄色い衣装の少女まで肩を強張らせていた。

そんな絶妙のタイミングで、アンセムが話し出す。

「皆様、料理はお楽しみいただけているでしょうか。晩餐とは申しましたが、これはあまり堅い席ではございませんのでお気になさらず。そこでなのですが、皆様にはこれより余興を楽しんでいただきたく存じます。」

アンセムがちらりと前方へ目をやった。と、キッチンとは逆側の扉から、数名の男女が姿を現した。

サリネが驚いたのは、そのいずれもが大変美しかったからである。男性は程よい筋肉がしなやかに全身を覆い、軽く日焼けした肌に黒檀のような髪を刈り上げ、爛々と輝きつつも知的な瞳が目を惹く。女性はしなやかで雪のような白い肌、絹糸のように艶めく髪、神秘的な目線が同性ですら惹くような魅力を放っていた。そして男女ともに一目で上質とわかる真っ白なベールと衣装を纏っており、エキゾチックな魅力を備えつつ、どこか懐かしさを感じさせた。

そして、全員が裸足だった。

サリネだけではなく、その場の多くが彼らの美しさに息をのんだ。アンセムが紹介する。

「彼ら彼女らは、我が国伝統のアネンティ舞踊の舞い手でいらっしゃいます。そしてまた、ジョン・ドゥーさまの門下生でもあられます。」

一人の女性が口を開いた。

「お初にお目にかかります。私たちは、ジョン・ドゥーさまに師事する門下生一座、ローズ座でございます。本日は一座を代表して私たちがアネンティ舞踊を披露いたします。どうぞごゆるりとお楽しみください。」

ベールを被った芸者たちが音楽を奏で出す。どこか切なくも美しいその調べにのせ、女性たちがしなやかに腕を動かし始めた。宙へと白く長い腕を伸ばし、柔軟に体のラインを辿っていく。やがて音楽がスピードを落とし、女性たちがくらくらと倒れるように腰を落とすと、男性たちがその間を器用に縫い、女性たちに手を添えた。八人の男女が互いに絡み合うように、しかし決してぶつかることなくくるくると舞い、一同の目を奪う。時折意味ありげに目線を交わしながら、複雑に手足を動かし、回り、跳ね、まるで八人で一人かのようにまとまった舞を披露した。

音楽が止まり、八人は思い思いの姿勢で止まって見せる。

思わず、練習生全員が拍手をしていた。

「皆様はこの舞を凡そ十年かかって体得されました。」

アンセムが説明を加える。サリネが一瞬で現実に引き戻され、「え、十年?」と呟いた。アリアナが素っ頓狂な声をあげる。

「十年ですって?私たちが指導を受けるのは、たった二年ではなくって!?」

「ええ。二年で、ローズ一座のみなさまと同じレベルまで引き上げさせていただきます。」

練習生たちがざわめいた。

「冗談ではないわ!いくら私たちが選ばれた存在とは言えど、休日返上で練習に勤しむような趣味はなくってよ。この私を愚弄するおつもり?」

「滅相もございません、コゼットさま。」

「執事風情がこの私をファーストネームで呼ぶことは許さなくってよ!」

先程までの優雅さはどこへやら、アリアナの剣幕にサリネは唖然とした。同時に、そこまで豹変しなくても、と思ってしまう。

「気分を害したわ。物好きなお方にお会いする時になったら呼んで頂戴。」

アリアナは扇を手に立ち上がり、結い上げた豊かな黒髪を左右に揺らして食堂を出ていった。そのあとを、付き人が小走りで追っていく。

「うーん・・・何もあそこまで怒らなくても。」

サムが手を頭の後ろで組む。シルルがさらりと答えた。

「上流階級は周囲が自分より格下の場合、尊重されないとその席を中座することも構わないからね。彼女にとっては、相当馬鹿にされたものらしい。何か事情があるんだろう。」

「まあ、そうだろうけど。短気だなあ、あの箱入りお嬢様。・・・あんたも大変だね、ファーストネームでお呼びしたくらいでキレられるとはね。」

サムがアンセムに同情の視線を送る。アンセムはネクタイを軽くつまんで直し、冷静さを保ったまま呟いた。

「ありがたきお言葉。ですが、ご気分を害してしまった私に非がございますので。」

優秀な執事感を前面に出しているアンセムの言葉にサムは首をすくめた。

「さて、お時間が押してしまいました。これよりデザートと致しましょう。」

アンセムがさっと手を振るや否や、一座がざあっと引き上げていった。代わりにメイドたちが一皿一皿のデザートを手に登場する。

「わあ・・・可愛い!」

サリネは思わず声をあげた。

薄く焼いた卵色のクレープを何層にも重ね、斜めに切ることで、美しい断面を見せるミルフィーユに、のびのびとしたショコラソースの曲線で描かれる、今にも躍り出そうな大魚。大魚の頭に二本の角が生えていることから、建国神話の第六章五節にある「エリードと近海の主」のオマージュだと思われた。


建国者イヴ1世の娘婿、エリードは、絶世の美女であったというイライナ王女を娶ったが、故郷であるオルドス地方で反乱がおこり、その首謀者であるというあらぬ疑いをかけられてしまう。その嫌疑を晴らすためにイヴ1世が出した条件は、神の加護を得て、二本角を持つ凶暴な近海の主サビュを倒すことだった。期限は一週間だったため、六日間神に身を清めて祈り続けたエリードだったが、一向に神の御言葉を頂くことが出来なかった。仕方なくサビュ退治に出かけたエリードは、そのサビュを良いように操り暴れさせる、自分とそっくりな姿の悪魔に出会う。それは、嘗て彼が修行と洗礼によって追い出した悪心が具現化した姿だった。反乱の首謀者も、この悪魔だったのだ。「お前ならイライナ王女以外のどんな女性も虜に出来る」「イヴ1世の権力が欲しくはないか」悪魔の甘い言葉に誘われるエリードだったが、その煩悩を断つため、悪魔に立ち向かった。しかしサビュと悪魔に同時に立ち向かうのは困難を極め、遂に心折れかけたとき、エリードの心に一人の姿が思い出される。それは、最愛の妻イライナとライゼンの花が咲き乱れる庭園で交わした、「必ず帰ってくる」という誓いだった。しかし満身創痍、エリードは涙を流しながら、妻への愛と、約束を違える謝罪を叫ぶ。それを天界から眺めていた神は、富でも権力でも栄誉でもない、妻との約束のために朽ち果てんとした男に最大級の加護をお与えになった。エリードは息を吹き返してサビュと悪魔を討つ。しかしサビュの妻子からは、操られ横暴になった夫の退治を感謝されつつも、もとは穏やかで威厳ある主だったサビュを討ったことへのわだかまりを告げられる。サビュの二本角も、一本は、夫の加護を願って妻が贈ったものだった。また悪魔からは、イライナを愛していたことだけは真実であったと聞き、自らの愛と欲の境目の付け方に悩む。都に帰ったエリードはイライナと式を挙げ、晴れて強く賢い真実の王となって国を繁栄させた。しかしサビュと悪魔との闘いのことは忘れず、生涯殺生は慎むと誓う。


妻への一途な愛、約束を守ることの大切さ、愛と欲の境目、そして殺生の意味。教訓は多いため、貧民層の間でも漏れなく語り継がれる名話である。ちなみにこの神話に基づき、今でもライゼンは夫婦の約束の花となっており、航海に出かける船乗りや商人の妻はよく、夫にこの花を渡すという。渡されなければ、夫婦喧嘩の真っ最中か、アネントルの人間ではないというくらい、メジャーな習慣だ。

「あの、これは、何という魚なのでしょう?」

シルルが微笑む。

「おや、リ殿はご存じありませんか。これはアネントルの神話に出てくる、サビュという大魚で、昔この近海を治めていたとされる伝説の主なのですよ。アネントルの三代目の国王エリードが退治したという逸話が残っています。」

「まあ。」

「もし宜しければ、あとでシナの伝承等お聞かせ願えれば・・・。」

シルルは顔を輝かせながら話しかけている。異国の話に関心があるらしい。好奇の視線を向けられて、伝統衣装の少女は困ったように笑みを浮かべた。

サリネはそんななか、デザートをじっと見つめていた。

晩餐の最後に出されるデザート、その意匠に伝説の大魚。上流階級の凝らしそうな趣向である。しかし見事に描かれたサビュの瞳は、ショコラソースに当たったシャンデリアの照光の加減で、どこか潤んでいるようにも見えた。




晩餐が終わり、練習生たちは付き人ともに二階へと案内された。呼び戻されたアリアナも、不貞腐れた表情で同席している。そんなアリアナの出すぎすぎすとしたオーラだけではなく、単純にこれから「ジョン・ドゥー」へ会うという緊張感が、自然と皆の口を重いものにしていた。

サリネも例外ではない。ここまで案内された過程と、出された料理が正体もわからぬ師への畏敬をより一層深いものにしていた。

無用に絢爛な前面から見ていたので気づかなかったが、流石は王族の元離宮、奥行きはあるらしい。サリネはこんなに長く広い廊下を歩いたことがなかった。既にワインレッドのカーペットを踏むヒールが足を痛めつけ、非常に歩きにくい。だが皆の手前、表情に出さぬよう歩いていく。特に、アレンには悟られたくない。心配をかけたくなかった。

「皆様、ご静止ください。」

アンセムが足を止める。一際大きく豪華な扉の横にプーペが二体直立していて、アンセムがすっと手をあげる。何をするかと見守る一同の前で、アンセムはプーペの額に当てるかのように手をかざした。それをもう一体のプーペにも行う。と、プーペたちが同時に動き出し、扉を左右から引っ張った。重苦しい音とともに扉がゆっくりと開いていく。

(開けない程扉を重くすることもないでしょうに)とサリネは思ったが、気が付いた。この離宮には、あまり人を置いていない。給仕のメイドも同じ顔ぶればかりが働いていたし、付き人はサリネたちの傍を離れられない。それでいてあれだけスマートに仕事をこなすのだから、少数精鋭を地で行く人選のようだった。そして、アンセムも老体でありながら有能そうだが、重い扉を一人で開けるだけの労力はないのだろう。

かつて王族の離宮であった頃は、もっと大勢の人がいて、難なく扉を開け閉めしていたに違いない。

さて、アンセムが先に中へと入っていく。あとにアンネが続こうとしたが、付き人に止められていた。

中からアンセムの明朗な声が響く。

「練習生のみなさまをお連れしました。」

そこで初めてアンネの付き人がアンネの入室を促す。アンネは他人の指図を受けることに不機嫌そうだったが、好奇心が勝るのか、さっさと中へ入っていった。その次に涼しい顔をしたガレスが続き、サリネは三番目に入った。

奥の豪奢な椅子に腰かけた人物を見た瞬間、あっと声を上げそうになる。

勲章や飾り紐をふんだんに使用した厚手の黒い燕尾服が包む、がっしりとしつつしなやかな体躯。組まれた長い脚はグレーのパンツに覆われ、すらりと高い背の頂には燕尾服と同じ厚手のシルクハットが載っている。しかし最も目を引いたのは、その者の顔を一面に覆う、仮面だった。

いや仮面ではなく、マスクと言うのが正しかろう。鳥の嘴のように先端が突き出し、目の部分には空洞のように真っ暗な丸ガラスがはめられている。全体的にマスクは灰色で、左右対称に走る縫い目が機械的でありつつ不気味だった。まるでーーー。

「カラス人間・・・。」

サリネが内心思ったことを、隣に来ていたサムが呻くように代弁してくれる。が、本人の、しかも師となる人物の前でその発言はまずかろう。幸い、誰からもお咎めはなかった。聞こえているかは微妙だが。

しかしサリネは、あのマスクに見覚えがあった。いや、アネントルの国民であれば、王族層から貧民層まで誰もが知るものである。周囲の皆も、それに気づいている。


凡そ二十年前。アネントルを始め周辺諸国にて猛威を振るい、甚大な被害を出した、感染症の防護マスクである。当時の国王は若干6歳、国の傾きを止める術を知らず、ただ摂政である王太后に国の行く末が任せられた。だが彼女も所詮は権力欲しさに病床の先王を騙し、幼子を王位に押し上げて金を貪っていた身である、民衆の不満爆発を恐れた王族から王位交代の声が上がり、王太后は精神的負担もあって失脚。元老院の話し合いを経て、優秀な官僚たちが改革に乗り出した。その後、4年続いた大流行は下火となり、更に8年も経てば幼子だった王も統治者として返り咲いた。それが現王である。

しかし被害は計り知れない大きさだった。官僚たちを始め、重鎮やその親族にも犠牲者が出た他、何より苦しんだのは衛生環境もろくに整っていなかった下町の住民たちだった。街には孤児や放浪者が溢れ、この時のスラムの拡大率もかなり大きかったそうだ。そのような状況下にあって、活動したのが医師たちだった。王族貴族の命が優先された時代ではあったが、それでもやはりスラムにも医師はいたもので、彼らは感染を恐れながらも懸命に救助活動を行った。その際、当時の王宮医学者であったソネット・エンデシェールが発明したのがあのカラスのようなマスクである。

一見嘴のような先端には、当時感染症の各種症状に効くと信じられていた薬草と、魔除けの花々が詰め込まれていたという。そんなことをしたら薬草の匂いで気分が悪くなりそうだが、死ぬよりかまし、というか、それだけ医師たちも必死だったのだろう。ちなみに、王族貴族の治療の際にはこれらのマスクは使われなかった。ただ、スラムの不浄を避けるためのものだったのだろう。

現在は自然消滅したその感染症のことを、人々はあまり意識していない。だがその流行は、先の王太后が無茶な政治を行ったことによる神の怒りの現れだと、まことしやかに語られ続けている。


サリネも、幼い頃に駄賃稼ぎ(とは言っても、市民層向けで、貧民の幼子にはタダで見せてくれることが多かった)の芝居屋が見せてくれた絵を覚えていた。あの時は全く遠い昔話にしか思えなかったが、今目にしているのは、まさにそのマスクの実物である。置いていたとしても恐らく博物館くらいにしかないであろう、既に処分を命じられた過去の遺物が、何故王国一だというアネントル舞踊の舞い手のもとにあるのか。そして何故、かの尊いお方はそれをつけているのか。サリネが尋ねられるほど気軽な雰囲気ではなかった。

いつの間にか全員が揃い、プーペは扉を閉めていた。アレンを含む付き人たちはサリネたち練習生の背後に控えている。ここからは、練習生のみでジョン・ドゥーとやらと向き合わねばならないらしい。サリネの首筋がすうと冷えた。

「我が館へようこそ。我が名はジョン・ドゥー。この館のオーナーであり、お前たちの師となる者だ。」

サリネは一瞬、その声に聞き惚れた。スラムでは普段、安酒や肺炎にやられた成人男性の声しか聴く機会がないものである。

しかし、その言葉を聞いた大半の練習生の顔には、疑いの色が浮かんだ。彼はそう名乗るが、「ジョン・ドゥー」とは、都合の悪い者が自らの本名を隠して名乗る男性偽名である。女性は「ジェーン・ドゥー」だ。

「何故自分がここへ連れてこられたか、皆わかっているだろう。ここでは、お前たちにアネントル舞踊を教授し、二年間の教育をする。そののち、市井への帰還を許そう。勿論、卒業試験を落ちた者はその限りではない。首位の者と落第者以外は、無事帰還できる。」

全員の頭に疑問符が浮かんだ。首位はどうなる?

「首位の者は、王族貴族が観覧する国立劇場にて、プリンシパルとして舞う。」

練習生たちが息を呑む。サリネも信じられない様子で首を振った。


アネントルでは、市民層にも芸術教養をつけさせることを目的に一般劇場を公開しているが、国立劇場には、たとえ富裕層でも簡単には入れない。入場するには、それに相応しい身分と教養、美貌、そして財産が必要である。それをもって国王に招待された者のみ、最高の公演を観覧することができるのだ。そこで舞う者たちも並大抵ではなく、若く美しくも、才能を備えた選りすぐりの舞い手しか舞台へ上がることを許されない。ましてやプリンシパルと言えば、下賜や援助の話が山と積みあがる、いやそれだけでは表せない王都の華だ。つまりは、正体不明の男がたった二年しか教育しない素人の舞い手に目指させる代物ではない。


しかしそれが真実であれば、卑しき身分であるサリネにすら出世の道が開かれるのは事実。きっと、世間が金や花や品を山と積んで口説き落としにかかってくるだろう。


ぼんやりと夢想の世界に入りかけたところで、アリアナの鋭い声がそれを遮った。

「お待ちなさい。そんな権限を持つあなたは一体何者?大体、来客の前でまでマスクを取らないなんて随分とお高く留まったものではないの。」

お高く留まってんのはお前だ、というアンネの皮肉が飛んできそうだが、当の彼女は内心で呟くに留めたらしい。

「コゼット・ルルム・フォン・アリアナ。紫の使徒。」

ジョン・ドゥーが静かに呟く。アリアナはぴくりと眉を吊り上げた。

「ご自分の立場を見返してはいかがかな。実家に帰れる身分かね。」

アリアナの顔がさっと青ざめた。アンセムへ向けた怒りとは違う、大きな屈辱と、そして焦燥。

サリネには訳が分からない。

「何故そのことを知って・・・。」

「ルルム公爵は随分と無理をしたものだ。ここまで高飛車で世間知らずな長女まで売らねばならない程金を借りていたとはな。所詮成金貴族、エデンの屋敷もはりぼてか。」

「止めて。止めて!その口をっ、・・・。」

アリアナが黙る。サリネも、何となく状況を理解した。生粋のお嬢様といったこの少女が何故借金まみれのサリネとともに席を並べているのか甚だ疑問だったが、どうやら彼女にも事情があるらしい。

アリアナが黙ったところで、今度は何とルイスが口を開いた。

「ジョン・ドゥー殿。貴方の目的はどこにおわすのですか。」

先程までの不愛想な雰囲気とは売って変わって、随分と丁寧な口調である。アリアナは忌々しそうに扇で顔を隠した。

「私は、ただお前たちに舞踊を教えるだけだ。」

「そうですか。」

ルイスは、それ以上追及しなかった。

黙りこくった主人の代わりに、アンセムが巻物を縦に広げる。そこには、一日のスケジュールが事細かに記されていた。

「皆様には、朝5時起床、夜10時就寝を徹底していただきます。その間のスケジュールは以下の通りです。あとで付き人に同じものを渡しますので。」

随分みっちりと詰まっている。サリネにとっては朝5時起床は苦痛ではないが、夜10時就寝はいささか早すぎる気もした。普段なら語学の勉強をしている時刻だ。

「なお、違反者にはそれなりに処罰もございますので。」

アンセムが淡々と告げる。処罰ってなんだ、という冷めた空気になるが、そこは秘密らしい。

「細かいことは付き人にお尋ねください。」

こうして、案外あっさりと面通しが終了した。あんな格好をした変人だが、あれで結構忙しいのかもしれない。それとも、単に人と話すのが嫌なだけか。どちらにしても、国立劇場なぞ入ったこともないサリネには、あの変人が当代最高の舞い手であろうが何だろうが確かめようもないことだった。


部屋へと戻る途中、サリネには少し余裕が生まれた。他の練習生と話してみたくなったのだ。

丁度隣にいて、年も近そうな伝統衣装の少女に声をかける。

「リ、さんでしたっけ。素敵な服ですね!」

「あ、ありがとうございます。」

「失礼だったらごめんなさい。おいくつですか?」

「えと、17です。」

サリネは目を見張った。背の低さと童顔が相まって、サリネと同年齢か、それ以下に見えていた。完全に見誤りである。

「え、あ、ごめんなさい!同い年くらいかと。」

「いえいえ。」

少女がくすくすと笑う。

「正直な方ですね。黙っていれば、ばれないのに。」

「あ、はあ・・・。」

「私、ほんとはリがファーストネームではないんです。ランファとお呼びください。」

「え?でも・・・。」

サリネはしどろもどろになる。確か、リ・ランファと。

「私はシナ出身なんですが、シナでは姓を先に、名を後につけるのが習わしで。西のみなさまには、よく逆に思われるのですが。ちなみに、敬語でなくていいんですよ。」

「そうなんですか。では、ランファ。よろしくね。」

「こちらこそ、サリネ。」

顔を見合わせ、微笑みあう。

良かった。ランファとは、何とか、上手くやっていけそうだ。

何故シナ出身の彼女がここにいるのか尋ねたかったが、かなりデリケートそうなので止めておいた。

と、そこへアンネが話しかけてくる。

「しかしかなり感じ悪かったね、あの女。自分で夕食食べないって言ったくせに。」

あの女とは、言わずもがなアリアナのことだ。先程、空腹を訴えた彼女は、付き人へ命じて食堂へと戻っていった。

「何なの、ほんと。どこのお嬢様か知らないけど、感じ悪いったら。ねえ、そこの男子たち。さっきあいつの家になんか言ってたけど、知ってるの?」

シルルが困ったような顔になる。

「うーん、僕も詳しくはなくて。ルルム公爵家はざっと三十年くらい前だったかな、鉱山開発で一代で名を挙げた有名な貴族なんだよ。アリアナさんは、年齢からしてそこの長女かな。」

アンネがふんと鼻を鳴らした。

「なんだ、それじゃほんとに成金じゃない。」

と、何も言わなかったガレスが口を開く。

「今は成金ですらない。」

その言葉に、全員が不思議そうにガレスの方を見た。

「ルルム公爵家は、約一か月ほど前に借金で破産申告を出した。もう爵位も意味を成さない。主人の湯水のような贅沢が理由だそうだ。」

「え、そんな話聞いていないけど。」

シルルは困惑顔だ。

「表向きの発表はまだだからな。ただ、漏れるところには漏れている。」

シルルは、いやそうじゃなくて、という顔をしている。何故そんな話をガレスが知っているかである。

「なーるほどね。それで愛しの長女を嫁か、踊り子か、お手伝いにでも売って金を工面しようというわけか。」

「それで済んだらまだいい方じゃない?シルル公爵は成り上がりだし、どこの貴族にも嫌われてんだ。」

サムがにっこり笑って言ってのける。

「あの人、結構美人じゃん。」

サムの言わんとするところがわかり、サリネは目を伏せる。アンネも悟ったらしい。スラム出身の娘であれば、誰もが身の振り方としては考えるところである。

娼館に売られるのだ。

実際、金に困った富裕層が子供を娼館へと売り飛ばすのは珍しい話でもない。むしろありふれている。富裕層の子女なら一通りの礼儀作法は身についているし、もとは富裕層であったというところに価値を見出す輩も多い。そして、彼女たちの多くは高級娼婦として名を馳せるのだ。元の豪奢な生活を忘れ、日々客と会うか会わないかくらいののんびりとした生活へと慣れていく。勿論、耐えきれず逃げ出して折檻されたり、人生を悲観して命を絶ったりする少女も多い。

しかしあのアリアナでは、同衾する前に客を蹴っ飛ばしてしまいそうである。

「ところで、堂々としていると言えば、君もだよ。」

サムがルイスに話しかけた。

「よくあんな堂々とあの方に話しかけたよね。」

「別に。気になっただけだ。」

それ以上話そうともしない。サムはあらら、という顔をすると、ルイスから目を離した。




部屋についたサリネは、猫足のチェアに腰かけた。本当は今すぐにでもヒールを放り出してベッドに転がりたいところだが、アレンが居る。少女の部屋だというのに、涼しい顔で直立していた。

「あの、アレン。今晩は、舞の練習はないのですか?」

「ええ、明朝からでございます。」

「そうですか・・・。じゃあ、時間がありますね。」

サリネは手が疼くのを感じた。普段なら、夕食を食べ終わって語学の勉強に取り掛かっているころだ。

「えと、図書館・・・なんてありませんよね?」

王族の離宮だったところだ、あるかもとは頭をよぎったが、正直あまり期待していなかった。しかし。

「ございますよ。」

「ござ、や、あるんですか!?」

「正確には図書室ですが。ジョン・ドゥーさまは書も好まれますので。」

サリネの耳に後半は入っていない。たんっとチェアから降りると、アレンのもとへ小走りでやってきた。

「図書室でもいいです!連れてってください!」

アレンは表情を変えず、「かしこまりました」と一礼をした。

そうしてサリネが案内されたのは、凡そ図書室とは言い難い広大さの一室だった。二階まで吹き抜けなのか、広々とした天井にまで届く棚には、所狭しと古今東西の書物が並んでいる。中には、サリネが見たこともない文字を記した書物もあった。

「アレン、これは?これは何語です?」

生き生きとして一冊の書物を取り出す。赤茶の表紙に金色の箔が押してある豪勢な書物だ。その表面に書かれた、流麗な文字がサリネを惹きつけた。

「これは・・・オリタ語でしょうか。北の流浪の民が使う言語です。」

「へえ。ではこの本は、その人たちが書いたの?」

「いえ、彼らはこのような書物を作ったりしません。恐らく、オリタ語を操る学者が現地の伝承を研究するために編纂した伝承集でしょう。」

サリネはページをめくっていく。文字はさっぱりわからないうえ挿絵もないが、短編らしき内容が大量に収められている。サリネは嬉しそうにアレンを見上げた。

「ねえ、私にも読めるかしら?この言語。」

「オリタ語は文字や文法こそ複雑ですが、一度覚えてしまえば同じ語系の北方言語はあらかたわかるようになりますよ。奥が深いので、サリネさまが学ぼうと思えば、それに応じて。」

「わあ、素敵。あ、語系って何?」

アレンはそれを答える前に、サリネを本棚に隠れていた文机に案内してくれた。そして、サリネの知らなかった語学用語や言語知識を語ってくれる。まるで知識の泉のようだった。

「ねえ、アレン。あなたはどうしてそんなに詳しいんですか?」

「私は、練習生のみなさまを支えるために育てられた専門の付き人です。ジョン・ドゥーさまは、あなたさまが勉強熱心で、特に語学や文学にご関心をお持ちであることをご存じでした。そこで、それらに詳しくあるように教育を受けたのです。」

「私のため・・・?」

アレンはサリネが不穏な心配をしていることに気付いたのか、胸に手を当てて口角を僅かに上げた。

「ご心配なく。無理な勉強はしておりませんので。このような賢いご主人にお仕えできて、私は果報者でございます。」

サリネがほっと息を吐く。

「じゃあ、・・・他の言語についても教えて貰える?」

「勿論でございます。如何様にもお命じください。」

サリネは幾つも書物を持ち出してはアレンに見せ、教えを乞う。アレンは相変わらず無表情のままだったが、優しい声でサリネに教えてやっていた。時折異国の伝承や民話も語り、聞いたこともない話にサリネは目を丸くしながら聞き入っている。

その様を、図書館の二階の本棚の陰からじっと見ている者がいた。アレンの肩が一瞬ぴくりと反応するが、声に変調はなく、サリネに付き添ったままである。

見つめていたのは執事アンセムだった。鷹のような鋭い眼差しがサリネたちから外れ、そのまま出口へと向かっていく。薄暗い廊下を足音一つ立てず、どこかへと歩いていた。いくつもの階段と廊下を通り、一見であればあっという間に迷子になりそうな分岐を間違えず歩み続ける。やがて重厚な扉の前に来ると、ノックをして入室した。

「報告しろ」

凛とした声が、部屋の奥、ベールの中から聞こえてくる。

「は。赤の使徒アンネさまは、早々にお休みになってしまわれたようです。付き人は少々扱いに困っているようでしたが、あれでなかなかうまくやるでしょう。紫の使徒アリアナさまは、食堂のシェフに命じて夜食を作らせ、そのまま部屋に閉じこもっておいでです。付き人は入室を断られたようで、室外で直立しておりました。」

ふん、と鼻を鳴らす気配がした。

「あの二人は我が道を行くタイプだからな。」

「ええ。ですが、それを見越して付き人も選んでおりますから。」

「そうだな。他は。」

「黒の使徒ガレスさまは、図書室からいくつか書物を持ってお行きになりました。それもご自分で運ばれて、付き人は特にやることがないようです。」

くくっと抑えた笑い声がした。

「白の使徒シルルさまと黄の使徒ランファさまは、少し前まで立ち話をなさっていました。ランファさまの故郷であるシナのお話をなさっていたようですが、シルルさまのお茶の誘いをお断りして、ランファさまは自室にお籠りのご様子です。付き人が食堂のメイドに頼んで、東方の薬草茶と菓子を持っていきました。」

「ん。人選は正解か。で?」

「シルルさまは残念そうなご様子でしたが、湯浴みのために浴場に行かれました。付き人も一緒です。緑の使徒サムさまは、付き人に暇を出してしまわれました。現在は部屋で何やら楽を奏でていらっしゃるようです。」

今度はもう少しはっきりした笑い声が聞こえた。

「灰の使徒ルイスさまは、付き人にいくつか品を入れるよう命じたようです。内容は筆記用具と洋書です。ご本人は、ハーブティーと読書をお楽しみのようです。」

「なるほど。で、あと一人か。」

「はい。青の使徒サリネさまは、図書室にて付き人に語学を習っている様子でした。」

「習ってる?」

「は。北方の言語にご関心がおありのようです。」

ふむ、という声が聞こえた。

「それはまずいな。曲りなりとも王国一の舞い手の候補が、教師もつけずに付き人から語学?話し相手にするくらいならともかく。」

「向学心があるのでしょう。」

アンセムがさりげなく庇ってやる。

「付き人に言っておけ。変な気を起こすなと。だが、あまり厳しくするなよ。」

「かしこまりました。湯浴みはどうなさいますか?」

「練習生たちが浴場を使うのであれば、私は離れの温泉に行く。他人と同じ風呂など入れるか。」

アンセムが慇懃に礼をした。

「かしこまりました。お風邪を召されませんよう。」

ベールが静かに開き、暗闇の中でばっとバスローブが翻った。




翌朝。サリネは、ベッドの中で目覚めた。起き上がると同時に、持ち帰った書物がずり落ちる。どうやら図書室から帰ったあと、本を読みながら寝てしまったらしい。小火でも起こすかと慌ててランプを見たが、アレンがこっそり消してくれたのか、明かりは灯っていなかった。

時計を見ると、まだ4時半だ。いつも仕事に出る準備を始めるのが4時過ぎなので、普段なら少々寝過ごしたことになる。普段なら。

上質なシルクのローブが衣擦れの音を立てる。サリネはもう、麻布の上で眠ることはない。少なくとも、あと二年は。

早朝に目覚めたところで、することがわからない。仕方なくローブを羽織り、カーテンを開ける。白み始めた空のもと、遥か向こうに王都セアが一望できた。スラムの皆は、もう動き出しているだろうか。

と、扉が遠慮がちにノックされた。

「あ、どうぞ。」

失礼します、と入室してきたのは、言わずもがなアレンだ。手には、煌々と明かりが灯った手持ちランタンを持っている。

「ごめんなさい、隣室なのよね。起こしてしまった?」

「いえ、ご心配なく。サリネさまが早起きでいらっしゃることは把握しておりました。」

なんだか背中がむずむずする。ジョン・ドゥーは、どこまでサリネのことを把握しているのだろう。

「折角だから、庭の散歩でもしておきたいのだけど。」

「申し訳ございません。庭は、通常閉まっておりまして。」

「・・・そうなの?」

昨日帰るときに見たときには、生け垣のどこからでも忍び込めそうだったが。なんて言うと「貴族令嬢」っぽくないので止めておく。

「では、代わりに何かお話をしましょうか。」

アレンが言うと、サリネは「そうね」と考え込んだ。

「では、アレンのことを教えて。」

「私のですか?」

アレンは若干面食らったらしい。

「代わりに、アレンも、私のことを何でも聞いてちょうだい。」

「それは致しかねます。それから、私のこともあまり話せないもので。」

「ええ。じゃあ、こういうのはどう?私がアレンにはい、か、いいえ、で答えられる質問をしていって、答えたくないものは、わかりませんで。」

「かしこまりました。」

サリネがチェアを用意しようとすると、それより先にアレンが動いてサリネを座らせた。自分は何が何でも立っておくつもりらしい。

「では、アレンの年齢は?」

「20です。」

「・・・若く見えるって言われない?じゃあ、好きな食べ物は?」

「よく言われます。トレッシュという生菓子です。」

「美味しそう。好きな本は?」

「お取り寄せいたしますよ。イライザ・ドゥーエ・トレンスの『女人の東国訪問記』でございます。」

「今度読みたいな。うーん・・・兄弟とかいる?」

「・・・そうですね、兄が二人、姉が一人、それと双子の妹がいます。」

「羨ましい。どうしてここに勤めることになったの?」

アレンが口角を上げ、いたずらっぽい笑みを浮かべた。普段は鉄面皮だが、こういう時は何となく謎めいた魅力が漂う。

「それはお話しできません。」

サリネは、ああ、と天を仰いだ。

「正直、そこが一番聞きたかったなあ。気になる。」

とはいえ、恐らく口止めでもされているのだろう。そこを深く尋ねるほどサリネは馬鹿ではなかった。

「でも、アレンは第一印象から随分違うなと思います。最初私の前に現れたときは、ちょっと脅すような感じで、怖かった・・・かも。」

ちょっとしたからかいのつもりだったが、アレンは突然片膝をつき、深く首を垂れた。

「大変申し訳ございませんでした。そのようなお気持ちにさせていたとは・・・。」

「わああ顔上げて!跪かないで!良いの良いの、あれはアレンの職務だったとわかってるから・・・。」

サリネは慌てて否定しながら、貴族令嬢って難しいな、と思った。アリアナに尋ねれば、その極意でも教えて貰えるだろうか。そんなことをぼんやりと考えていると、突如部屋の時計が鳴り出し、サリネは驚いてバランスを崩し、チェアから前のめりになった。

「サリネさま!」

アレンが似つかわしくない大声を上げてサリネを抱え込む。そのまま、ふかふかの絨毯が敷かれた床に倒れこんだ。

「ご、ごめんなさい。」

「お怪我はっ!」

「ないわ・・・アレンは?」

「ございません。ああ、良かった・・・あとで時計の音が小さくなるか尋ねておきます。」

アレンは丁寧にサリネを抱え起こし、再びチェアへ座らせてくれる。

「申し訳ございませんでした。御身に不用意に触れてしまい・・・」

「いえ、そんなこと。」

サリネは、普段からあまり食事をしていなくて良かった、と思う。育ち盛りの少女とは言え、やせぎすの身体ではそこまで重くはなかっただろう。

「それより、もう5時なのね。」

「はい。朝食のお時間でございます。」

アレンは身支度のメイドを呼び付け、退室していく。扉を閉めた後、ごく僅かにだが、怒気をはらんだ声が聞こえた。どうやら、時計の音が大きすぎたことを言いつけているらしかった。

(付き人も大変ね。)

メイドに手を取られ足を取られ着替えさせられつつ、サリネはそんなことを考えた。




やたら豪奢な朝食を終えたあと、サリネたち練習生はアンセムによって地下へと案内された。春先なので、地下通路は少々肌寒い。夏は良いが、冬はどうするのかと二の腕をさするサリネの肩に、ふんわりとしたものが巻かれた。振り向くと、アレンが羊毛のストールをサリネの肩に巻いている。

「冷えますので、どうぞお使いください。」

「あ、ありがとう。アレンは大丈夫?」

「慣れておりますので。」

飄々とした顔でそう言う。

数分歩いて、アンセムは大広間に練習生たちを通した。地下らしく窓一つない部屋で、天井に透かし彫りが入っている他、大した装飾はない。ただ、中央の椅子にマスクをつけた男が座っているのが、異様と言えば異様である。

「これより、練習を始める。」

アンセムにより、少女たちはスカートの裾を外すよう言われた。ドレスのように見える衣服だが、それは表向き礼装としておくためで、実際はレッスン用の衣服なのだろう。サリネはそういうものかとさっさと外したが、アリアナは嫌そうな顔をしている。

「ではまず、男四人。壁の隅へ並べ。」

少年たちが言われた通り並んだ。

「今から私が十六回手を叩く。それに合わせて、向こうの壁の端まで歩け。その十六回で丁度たどり着くこと。」

いきなりそんなことを言う。しかも見本や試しはなしらしい。いきなり両手を上げるものだから、少年たちは慌てて構えた。

「はいっ。」パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン。

機織娘が機を織るような軽快なリズムは、耳で聞いても一寸の狂いもない。少年たちは何とかたどりついたが、そのタイミングや歩幅はばらばらだ。

「もう一回。」

再び小気味よい合いの手が入る。かなり広々とした大広間だ、少年たちがたどり着くのもやっとである。相当にきついだろう。

それを5回繰り返したところで、案の定少年たちは息切れしていた。

「もう一回。」非情な声が告げる。

弱音を吐かずに続ける少年たち。横にいたランファが不安そうに「私たちも?」と呟く。それを聞きつけたのか、ジョン・ドゥーがぐるりとこちらを向いた。マスクがじろりとこちらを向いたものだから、ランファが「ひっ」と悲鳴を上げる。

「当然だ。」

男女差はないらしい。だが育ち盛りとはいえ、体力差がある分、それはきつい。

少年たちがぜえはあ言いつつ何とか十周終えたところで、今度は少女たちの番だ。しかも、本当に容赦なく十周させられた。いくら肉体労働に慣れているサリネとは言え、これはやはりこたえる。息が上がらない。サリネですらこうなのだから、おとなしそうなランファや貴族出身のアリアナは壁にもたれかかっている。特にアリアナは、憎まれ口を叩く余裕すらないらしい。珍しいことだ。

だがレッスンはここで終わりな筈がない。サリネはぐっと顔を上げ、しっかりと立ち上がった。ついでに、ばてているランファを助け起こす。

「さて・・・これで、大体の癖や素質がわかる。一度組ませてみよう。」

ジョン・ドゥーはそう言い、手にしていた煙管で順々に指名していった。

アリアナとガレス。シルルとランファ。サムとアンネ。そして、サリネとルイスだ。

ジョン・ドゥーが何を持って判断したのかわからないが、ともかくも男女一組でペアになる。

「次はペアでやってみる。まず、一組目、並べ。」

今度は男女並んで端から端まで歩かされた。というか小走りである。十一回目となると、休憩をはさんですらサリネにもきつく、ルイスの歩幅を考える余裕がない。

そんなわけで、ひたすら端から端まで歩くレッスンで二時間を過ごした。




「し、死にそう・・・」

サムが上を向いてぜえぜえと荒い息をする。本気できついらしい。

他の練習生たちも壁に寄りかかって休憩している。二時間の地獄のあと、ジョン・ドゥーは休憩を言い渡してどこかへと去っていった。

「何か、何か飲み物を。」

こういう時、発汗し続けると良くないことをサリネは知っている。立たない足腰にムチ打ち、外へ出ようとしたその時、目の前に果実水が差し出された。幻覚かと思った。

「疲れたでしょう、これをどうぞ。」

差し出してくれたのは天女、ではなく、れっきとした人間の女性だった。黒檀のような黒髪に、陶器のような白肌。夜空のような瞳が優しくこちらを見つめている。

「あ、ありがとうございます。」

サリネは素直に受け取り、一気に流し込む。火照っていた身体に冷たい果実水がぐんぐんと染み込み、心地よい。しかも、高級薬草であるヘテナの香りがした。

「ヘテナ?」

思わず呟く。青ざめたアンネに果実水を手渡していた女性は、驚いたようにサリネを見つめた。

「あなた、薬草に詳しいのね。そう、これはヘテナよ。疲労回復作用があるの。」

その笑顔を見ていて気が付いた。昨日、アネンティ舞踊を食堂で舞ってくれたローズ一座の一人だ。

「私はシャナ。ふもとで薬師をしてるの。」

見事な舞い手でありながら街の薬師だという。どういうわけか。と、シャナはずるずると身を落としたサムの額に濡れた布を貼ってやった。サムは汗が目に入ったのか、目を瞑って悪態を吐く。

「どういうことだよ、きつすぎだろ。」

「ふふ、まあ、そう思うでしょうね。」

シャナが含みのある答えを返した。何か知っているのだろうか。

サムがその声に驚いて目を開け、美女を見て更に驚く。サリネはその様子を見て笑っていたが、ふと目の前に暗い影が落ちた。

ルイスだ。額から滑り落ちる汗を拭い、サリネをじっと見ている。

「大丈夫か」

「あ、はい。長時間労働は慣れてますので・・・。」

呆気に取られるあまり、頓狂なことを口走ってしまった。

「そうか。お前の歩幅だが、一歩一歩がしっかりしすぎだ。どんな労働をやってたんだ」

目ざとい。あの地獄の中でもしっかりパートナーを観察していたらしい。荷運びとか、とサリネが口ごもると、ルイスははあっとため息をつく。

「もっと足取りを軽くしないと、体力をすぐ使い切るぞ。」

どうやら、アドバイスをしてくれているらしい。

「あ、はい。留意します。」

ルイスは返事をせず行ってしまった。休憩時間は終了らしく、入れ替わりに、天幕の向こうからジョン・ドゥーが姿を現す。サムが思い切り顔をしかめた。

地獄の再来である。



「あああ疲れたーーー!」

サリネはベッドに倒れこんだ。もうアレンが居ようが、なりふり構わない。それくらい体力と精神力を消耗した。

とにかく地獄だったの一言に尽きる。ペアレッスンが終了したと思ったら、今度は自由形の練習だった。ローズ一座の音楽に合わせて、自由に踊るのだ。これがなかなか難しく、特にあの歩きのあとでは足も動かない。そんな練習生たちにジョン・ドゥーはというと、ただ淡々とした指示のみ飛ばしていた。

サリネは生まれてこの方人前で踊ったことなどないから、足を挫いた小鹿が精いっぱいちょんちょん跳ねる様になってしまったと思うが、どうだろうか。貴族令嬢のアリアナやどこか高貴なシルルはともかく、何故かランファやサムまで上手な舞を見せるので、割と精神にも来るものがあった。

昼食の時間は、皆ほぼ貪るようにがつがつ食べるか、血の気のない顔でもそもそ食べるかに二分された。

「お疲れのご様子ですね。夕食は少し減らしましょうか。」

とんでもない。

「食べるわ。むしろ、量を増やしてもらえないかな。」

「かしこまりました。」

アレンが恭しく礼をする。少し扉から顔を覗かせ、誰かに色々と言いつけていた。相手はプーペか、メイドか。

「こんなにきついのね。予想以上だ・・・」

「アネンティ舞踊は見た目の優雅さに反し、かなり体力を使う姿勢が多いのです。本日のレッスンも、その導入でございましょう。」

導入と聞き、サリネの表情が曇る。わかってはいるが、これから二年間、あれよりハードな日々を過ごすことになるのである。

「ちなみに深夜練習みたいなのはないよね?」

確認で尋ねる。

「はい、ございません。ただご夕食のあとに、座学がございます。」

「座学ぅ?何の?」

「さあ、その時によりますが。これから受けていくのは、教養、歴史、語学、文学、舞踊知識、作法、雅楽、政治経済等かと。」

「えええ。」

頭が痛くなりそうなラインナップだ。

「それが10時までで、そこから就寝だっけ。意外と早寝指向なのね。」

「ジョン・ドゥーさまのご意向で、あまり夜更けまで出歩いてはならないとのことですので。ところで、お疲れのところですが、間もなくご夕食のお時間です。お召し替えを致しましょう。」

一分の隙もないアレンの言葉に被せるように、7時の鐘が鳴りだした。




夕食を終え、サリネたちは今度は別の広間に案内された。

カーテンを閉め切り、壁の松明に照らされてどこか仄暗い部屋のなかには、ずらりと机が並んでいる。教室のようだ。先頭の一際大きな机と椅子の傍には、プラチナヘアをひっつめにして結い上げた、背の高い初老の女性がいた。物腰は貴族女性そのものだが、銀縁眼鏡の向こうに輝く、理知的でありつつ多少の恐怖を感じさせるような鋭い眼光が印象的である。

アンセムが女性の横に立った。

「こちらはビアンカ・ネネット・デ・ロトワールさまです。ジョン・ドゥーさまのご依頼により、皆様の座学を担当なさっていらっしゃいます。」

「ありがとう、アンセム。皆さん、宜しくお願い致します。私のことは如何様に呼んでも構いません。」

言葉まで丁寧だが、値踏みするような視線がどうも落ち着かない。

ロトワールは机の上にあった一冊の本を取り出した。

「本日は歴史の授業です。皆さん、机の中から教科書を出して。5ページを開くこと。」

サリネは慌てて机の引き出しをまさぐる。新品らしき教科書が見つかった。中古の本しか手に取ったことのないサリネには贅沢な代物である。だが、見惚れてはいられない。すぐに5ページを開いた。

「元々このエトレア大陸は、南方のリジェス大陸、西方のバンダット大陸と陸続きでした。それが地殻変動により分裂したのが凡そ・・・。」

サリネはふと違和感を覚えた。

「そこから我々人類が登場するのが、まず南方のリジェス大陸となります。このころ、初期の人類はグラダ植物の生い茂る森林のなかで狩猟採集生活を営み、・・・。」

やはりそうだ。サリネが挙手しようか迷っていると、アリアナがさっと挙手した。

「ロトワール先生。質問よろしいでしょうか。」

ロトワールが頷き、アリアナは続ける。

「私はリノワ学園にて歴史の授業を受講した経験があります。そのことも踏まえてなのですが、何故建国神話からではないのですか?」

そう、サリネも疑問に思ったことだったが、ロトワールの教える内容はかなり、学術的な内容がベースだった。エレンシアやルーカスが見せてくれた教科書では大抵、神々が活躍した時代の建国神話から始まると言うのに。

「それが従来でしょうね。」

ロトワールがゆっくりと教科書を閉じる。

「しかし貴方方がお相手するのは、単に身分の高いお方とは限りません。時には学者並みの教養をお持ちの方と、対等にお話しできるくらいの学術的知識が必要なのです。ですから、建国神話などという誰でも知っていることではなく、真に我々がどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか、これを学問として習得できる者であれとの意図から、私はこのような指導をしております。」

サリネは少々圧倒されつつ納得した。同時に、やはり国立劇場に上がる話は本当なのだ、とも思った。ジョン・ドゥーもそれを見越しての人選だろう。

アリアナは不審そうに口を尖らせたが、ロトワールは有無を言わせず授業を再開した。



翌朝。

サリネは小鳥の囀る声で目を覚ました。今日は、起き上がっても書物はない。昨日の座学の後、指が痛んで、本を読むどころではなかったからだ。

ベッドから降りてカーテンを開け放ち、曇り空を確かめていると、ドアがノックされた。アレンだ。毎朝必ず、サリネが目覚めて十分以内にこちらを訪れる。付き人とはいえ、どんな支度の早さだろう。

「おはようございます、サリネさま。昨晩はよく眠れましたか。」

「おはよう。指が痛くてあんまりね。」

アレンはそれを見越していたのか、ティーカップをサイドテーブルの上に置く。白磁のなかに揺らぐのは、黄緑がかった黄金色の茶だ。

「ルゼティーです。」

「ルゼ?聞いたことのない薬草ね。」

「ルゼはアリド科アリド目の薬草の一種で、先々代の王妃の名を授かった突然変異品種です。リラックス効果があるのは通常のアリドと変わりないのですが、国立植物園にしか生息しないその稀少さと、美しい色味に芳醇な香り、そして鎮痛の効果があるので、非常に珍しい茶です。」

つらつらと説明してくれる。国立植物園にしかないのであれば、サリネが知らないのももっともである。

「今日の朝食は、デザートにトレッシュが出るようですよ。」

「トレッシュが?」

前にアレンが好きだと話していた生菓子である。以前詳しく尋ねたところ、白魚の皮を処理して透明な菓子皮にし、なかに色とりどりのフルーツのジュレを詰めた夏菓子らしかった。

「楽しみ。アレンは食べられないの?」

「使用人は、お嬢様方とは別に朝食を取りますので。」

サリネは残念そうに眉根を寄せた。

「そうだ、アレン。全然関係ない話なんだけど、図書室に二十年前の禍のことを書いた本ってないかな?」

感染症大流行のことである。サリネはジョン・ドゥーのマスクのことが気になり、何の気なしに尋ねただけだったが、アレンの表情が一瞬曇った。

「禍ですか。ある、でしょうが・・・何故お知りになりたいのです?」

「え、えとー、ジョン・ドゥーさまのマスク、あれって禍の時の医師のものよね。だから禍について詳しく知りたいなって、思って。だから今夜、図書室に連れてってほしいの!」

「・・・かしこまりました。」

アレンはすぐ、普段の無表情に戻る。怒らせたかな、とサリネは不安に思ったが、そんなこともないようだ。ルゼが冷えかけていたので慌てて飲むと、アレンがポットから継ぎ足してくれた。



本日の地獄が終わった。

ジョン・ドゥーのレッスンは昨日の歩きに加え、今度は跳ねたり回ったりしながら端から端まで行く練習だった。歩くのもきつかったが、何度も跳ねたり回ったりするとやはりきつい。三半規管が弱いらしいシルルは途中で倒れ、薬師のシャナに介抱されていた。

午前と午後の練習がそれぞれ終了すると、今度はロトワールの座学である。今日は文学だった。エトレア大陸の内、アネントルより東にある交易圏からやってきたという、有名な吟遊詩人の自伝である。諸国を回った者の自伝だけあって内容が多く複雑で、アンネは途中で死んだ魚のような眼をしていた。サリネですらここまでの文量は慣れない。だが、自分の知らない文化に対する興味は十分満たしてくれる。

座学が終了し、アレンとサリネは真っ直ぐ図書室に向かった。禍に関する資料を探すためだ。

「そもそもここの図書室はどんな風に分類されてるの?」

「こちらが分類表です。禍に関する書物は歴史ですので、こちらの棚に。文学作品のテーマになっているかもしれませんし、文学の棚も探してみましょうか。あとは、医学関連なので、自然科学の棚も。」

てきぱきと教えてくれる。サリネは座っていていいと言われたが、やはり一人でやらせるのは気が重い。アレンと二人で集めることにした。

棚と棚の間を縫い、それらしい本を片っ端から文机に並べた。のだが。

「え、・・・これだけ?」

集まった本は精々7冊。文学が2冊、歴史が3冊、自然科学が2冊だ。図書室の広さと蔵書数、そして禍の歴史的意義にしては少なすぎることがサリネにもわかった。

「残念ながら、それだけのようですね。」

「何で・・・?アレン、ここって隠し部屋とかないの?」

「存じ上げませんね。」

アレンは困ったように図書室を見回した。

「まあ、就寝時刻も迫っていますし、本日はこれで帰りましょう。欲しい御本は、私にお申し付け頂ければ、いつでもお取り寄せいたしますから。」

サリネは首を傾げながらも、アレンに促されて図書室を出た。退室する際、アレンがぱちりとスイッチを切る。壁の灯の油が切れ、ぽつぽつと消えていった。




サリネが就寝した後、アレンはサリネの部屋の扉をしっかりと閉め、蝶番に何やら細工をしていた。練習生の部屋の扉はすべてこうなっており、彼らが退室しようとすればすぐにわかる仕組みである。同じ仕組みは部屋のカーテンレールや灯にも仕掛けられており、彼らがカーテンを開いたり明かりをつけたりすればやはり付き人の部屋に合図が行くようになっていた。

腰を上げて立ち上がると、アレンは右手から近づいてきた人物を見た。黒髪に長身、首元には黄色のスカーフ。ちなみに、アレンのスカーフは青だ。これらのスカーフは、誰に仕えるかを表している。

近づいてきたのは、ランファの付き人だった。どうやら、彼もまた主人の就寝を見届けたらしい。

2人は互いに頷き合い、ともにどこかへと向かう。

音もなくしばらく歩くと、二人は一室に入っていった。部屋の奥にある円卓に腰かけていたアンセムが顔を上げる。片眼鏡にランタンの灯が映り、燃えているかのように見えた。

「ドレイン、アレン、報告を。」

「「はっ。」」ドレインと呼ばれた付き人と、アレンが返事をする。

「ランファさまは多少物事を恐れがちなきらいはございますが、賢く、勇気ある優しい女性です。先日はベランダに落ちた鳥の子を拾って手当してやっていました。授業や練習での積極的な行動は見られませんが、熱心に座学に励んでいらっしゃるようです。シナの衣服や雑貨をお気に召されておりました。」

「サリネさまは天真爛漫で、かつ責任感や向学心がおありの女性です。私めをも気遣ってくださり、舞踊の授業でも積極的に同胞を助けておりました。座学での努力は勿論のこと、近日は図書室にて語学や歴史の勉強にご執心でした。今のところ特に問題ございません。」

アンセムはぱらぱらと手帳をめくっていたが、ふいに顔を上げた。

「わかった。ドレイン、お前はもうよい。今夜は下がって休め。」

「はっ。」

一瞬微妙な表情を浮かべたドレインだったが、すぐに一礼をして退室していった。薄暗い部屋に、アンセムとアレンだけが取り残される。部屋の空気が澄んで冷えている。

「先日、禍に関する資料を根こそぎ持っていったようだな。」

アンセムの低い声が、床に深く響いた。アレンは怯える様子もなく淡々と返す。

「はい。ですが、根こそぎ、でしょうか?」

「何が言いたい」

「確かに、あの場所にあった本から考えるなら根こそぎ、でしょう。しかしあれだけの蔵書量に対してあの資料数の少なさ。しかも、それほど高名な学者のものではなかったし、内容も浅かった。恐らく、残りの資料はどこかの秘密部屋に隠しているのでしょう。」

アンセムは黙りこくったままだ。

「私は秘密部屋の場所は知りません。ですが、貸して差し上げたらどうなのですか。」

アレンは段々と言葉が粗雑になっていくが、止める気もなかった。

「サリネさまは利発で好奇心旺盛な方だ。二年の間に、ジョン・ドゥーさまの秘密を知ってしまうかもしれない。いやそうでなくても、私はあの方に他の練習生とは異なる雰囲気を感じています。」

「口を慎め、アレン。」

アンセムは静かに部下を制した。

「お前の勘は鋭い。だが、魔法になりそこなったが故の勘であると忘れるのではない。それに頼りすぎれば、いつかは身を滅ぼす。私のようにはなりたくないだろう?」

アレンが黙り、アンセムは右腕を軽く振る。

「お前は疑り深く優秀だが、一度気を許すと忠誠心は強い。今の発言も、ジョン・ドゥーさまとサリネさまのことを思い言ったことだろう。・・・よろしい。本はいくつか、お貸しできるか尋ねてみる。だが、アレン。お前、まさかサリネさまに邪な感情を抱いたりしていないだろうな?」

アレンがふっと笑って天を仰いだ。

「そんなわけないでしょう。貴方もご存じの筈です、私は誠心誠意、ジョン・ドゥーさまとサリネさまにお仕えするのみです。」

「そうか。」

アンセムはアレンをじっと見つめていたが、やがて視線を落とした。面談終了らしい。



2週間も経つうちに、サリネは大体のスケジュールを把握していった。

ジョン・ドゥーのレッスンはかなり適当なのか意図があってなのか、毎週メニューが変わる。だが端から端まで歩くレッスンは、時折形式を変えつつ続いていた。月曜日から土曜日まで毎日である。

座学は、月曜日が歴史か政治経済、火曜日が文学か語学、木曜日が教養か作法、金曜日が舞踊知識か雅楽だった。また、2週目から毎回小テストがある。水曜日は書物を3冊読んでレポートを提出するため授業はない。土曜日はその日によって外国語会話だったり、詩吟大会だったりするようだった。

そして驚いたことに、日曜日は全休なのである。この日は各々好きなことをしていて良いとのことだった。しかし油断はできない。首席として卒業するためには、休日の予習復習が必須なのだ。

今日は日曜日、とはいえ、ずっと机に張り付いてもいられない。アレンが休憩を提案したところで、サリネはペンを放り出した。

「そうでした、サリネさま。以前仰っていた、禍に関する資料のことなのですが。」

「あ、手に入った!?」

「はい。僅かですが、学術書を入手できました。」

見せて、とサリネが前のめりになる。休憩のことは忘れたらしい。アレンは一旦外に出て、1分もしないうちに10冊前後の書物を抱えて戻ってきた。

「遅くなって申し訳ございませんでした。あまり出回っていない資料故、入手に時間がかかってしまいまして。」

「いえ、ここまで集めてくれただけでありがたいわ。」

早速、一番上の一冊を手に取り、黄ばんだページをめくっていく。多少読めない難解な語もあるが、基本的には理解できた。序章は、五行詩風に禍について述べている。どこかの吟遊詩人の作らしいが、サリネは知らなかった。いくつかの内容で目次に分かれているが、サリネは迷いなくマスクについての章を探す。


ソネット・エンデシェールがマスクを開発したのは感染者数が爆発的に増加した年の春先だったという。特にスラムでの感染拡大が著しく、当時の王宮医学者たちは頭を抱えていた。公にはあまりされていないが、花街、所謂娼館街に通っていた富裕層から感染が広がるため、スラムでの感染防止は喫緊の課題だったという。しかし遂に王族の親縁に感染者が出た。しかも感染者は何故か、花街になど行ったこともない幼い貴族令嬢の少女で、直ちに隔離措置が取られるとともに、王宮医学者たちも臨床に立たざるを得なくなった。だが厳重隔離にも関わらず、感染症はその親縁にどんどんと拡大し、幼い国王とその摂政である王太后を除いた王族たちは離宮へ避難した。

貴族たちは食糧を買い占め、物価は高騰し、地方では餓死者も大量発生した。しかもそんな年に限って、北で雪解け水による水害が起こり、次の夏には虫害まで発生した。住民の栄養状態と衛生環境はみるみる悪化、各地で犯罪率が上昇したとある。スラムでは暴動も起こり、治安警察が機能しないのをいいことに、富裕層の屋敷や蔵を次々と襲った。

そんな状況に懸念を示したのが、エンデシェールの部下であり、優秀な医師として名を馳せていたオリオン・グラナドスとラスカー・マリトンであった。グラナドスは異国で医学と薬学を修め、マリトンは貴族で最初に感染した令嬢の侍医であったことから協力して研究し、成果をエンデシェールに提出。それを基にエンデシェールは、スラム感染対策用の医師向けマスクを開発した。

カラスのようなマスクは、治療に当たる王国中の医師に配布され、感染拡大が開始していた隣国でも重宝された。中には薬草や護符が詰め込まれ、医師たちはコートや手袋も身に着け、細心の注意が取られていたという。しかし医師の感染率は低下したものの、完全に断たれたわけではなかった。

ところが不可思議な事態が起こる。いつの間にか、流行する感染症の症状が変化していたのだ。最初の症状は咳と発熱、全身が赤い発疹に覆われ、やがて意識混濁と呼吸困難に陥り2週間程で死ぬというものだったが、変化後は、咳や発熱は同じであるものの、発疹が増え、死に至るまでの平均日数が4日ほど早まっていた。折角何らかの理由で軽症化した患者にも再びその変化後の症状が起こり、死に至る。

最終的には、王宮医学者たちにも感染が広まった。マスクを提案したマリトンもその一人で、自宅にて息を引き取った。部下を亡くしたエンデシェールは、感染を恐れて引きこもりつつも指示を出し、定期的に王と王太后の検診もしていたとある。

遂には側近のなかから、王が幼すぎるうえに強欲な王太后が政治指揮を執っているから神の怒りを買ったのだ、という噂が流れるようになった。庶民の間にも似たような話が流布し、段々と不満が溜まってゆく。人の不信用を得るのは簡単だ、側近たちはその噂を煽るだけ煽り、頃合いを見計らってクーデターを起こす。ただしゆるやかなもので、既に精神を摩耗していた王太后は為すすべなく指揮を彼らに譲った。こうして、王と王太后も離宮へと送られる。

クーデター後の側近たちの動きは素早かった。即座に国中の感染状況を整理、特に深刻な地域はロックダウンが行われた。通行規制によって、身分が違う者同士の交流は基本禁止とされた。また、非公式の医師たちに一時的に資格を与え、街中に簡易診療所を借り、即時対応可能な状況を作る。マスクは全医師に配布された。また国中にお触れが出て、食糧配布や衛生指導まで徹底されることとなった。

そのためか、翌翌年には感染が収まり始め、ロックダウンも順次解除される。王族貴族の感染拡大は止まり、懸念されていたスラムでも下火になった。その後、いつの間にか感染者はゼロとなり、今となっては発生すらしていない。マスクは無用の長物となり、忌々しい記憶を消し去るためと称して焼却処分される。


サリネは、本文の横の図解を見た。ジョン・ドゥーが着用していたのと同じ、カラスのようなマスクが描かれている。ジョン・ドゥーのものの方がもう少し使い込んだ感があり、よりしっかりした作りであったような気もするが。

使い込んだ?

サリネの背に悪寒が走った。あれは、実際に使われたものなのだろうか。複製ではなく?

「ご気分はいかがですか。」

アレンが新しく茶菓子を持ってきてくれていた。華を模った美しい焼き菓子だ。流石にあまり食べる気分にはなれなかったが、一つ口にした。

「ねえ、アレン。ジョン・ドゥーさまはマスクをお取りになることはあるの?」

「さあ、私は一介の使用人ですので、お顔を目にしたことはございません。ですがアネンティ舞踊の舞い手でいらっしゃる以上、舞台の上では外されるかと思いますよ。」

「・・・なるほどね。」

確かに、あんな優雅な舞をこんなマスクを着けたままで踊ることはないだろう。カラス人間が伝統舞踊を優雅に踊るなど、軽くホラーだ。

「ちなみに、アレンは二十歳だったよね。てことは、感染症拡大を生き延びたってこと?」

「はい、とは言え私が生まれたときにはもう下火でしたが。使用人や親族にもかかったものはおりまして、私の母は出産前に隔離されていたため無事だったようです。」

出産は普通、医師と助産師の立ち合いのもと家でするとされるが、出産を不浄とする信仰もまだ、アネントルでは根強い。アレンの家もそんな風潮だったのだろう。

「・・・使用人の方やご親族の方はどうなったの?」

「治癒した者もなかにはおりましたが、感染した使用人は大抵、暇を出されました。治癒しても後遺症が残る場合も多かったようで。」

「後遺症?そんなのあるの?」

「はい。発疹のあと、肌が水を含んで所々膨れ上がるんです。治癒した後、その跡が潰れてひどいあばたが残ってしまうようで。2人から3人に一人、そんな後遺症が残るようですよ。・・・あ、これは大変失礼いたしました。」

アレンはサリネの青ざめた顔に気付いたらしい。別にあばたの残った者ならスラムでも大勢見たが、そのような生々しい話は、サリネの心臓には悪かった。後遺症を抱えて、どのような生活を過ごしただろう。苦しかったのではなかろうか。辛かったのではなかろうか。そんなことを考えてしまったのだ。

(ひょっとして、ジョン・ドゥーさまも?)

あのマスクの下には、後遺症が残っているのかもしれない。

知らなくて良いことかもしれない。

「サリネさま、気分転換しましょうか。」

サリネの様子を見かねたのか、アレンがそう言って彼女の手から本を取った。丁寧に机の上に積み上げ、サリネの手を取る。

「参りましょう。」

「・・・え、どこへ?」

「庭園です。とは言っても閉鎖されておりますので、外から回って見てみましょうか」

「・・・ええ。」

おとなしくついていく。アレンは全く迷いなく歩み続け、やがて裏口のようなところから生け垣のすぐ側へ出た。

この離宮は四角形になって中庭を囲っており、中庭の外側には回廊がある。四角形で内接する中庭と回廊を隔てるのは、サリネの背より少し低いくらいの生け垣だ。だがその向こうに更に大きな生け垣が連なっているので、中庭の中心部は見えない。

どこからか水の流れる音が聞こえる。鳥の囀りも響いている。生け垣の隙間を縫って通る昼の光が暖かかった。

「すてきなところね。」

「王族の方々は、この庭の内側でお茶会を楽しまれることもあったようですよ。」

アレンがゆっくりと回廊を案内してくれる。

「何で閉鎖しているの?ここを開放すれば、練習生たちの良い交流の場所になりそうなのに。」

日当たりもいいし、広々として、絶好の場所だと思われた。

「さあ、王族貴族でなければ、普段あまり利用しませんからね。管理も大変ですし、単に人手がないから放置しているのかもしれません。」

「私に任せてくれれば、頑張るんだけど。」

「サリネさまはレッスンやお勉強がございますから。」

アレンが優しく窘めるように言った。と、いきなり振り返る。

「どうし・・・あっ。」

振り返ったサリネも固まった。

アンセムが回廊の陰に立ち、鋭い眼光がこちらを向いていた。そのまま、サリネたちの近くへ、日の当たるところへと踏み出してくる。

「申し訳ございません、サリネさま。この中庭にはあまりお見せできるものがございませんゆえ、ご覧になっても興がございませんでしょう。」

サリネはびくりと肩を跳ねさせた。知らずアレンの袖をぎゅっと掴む。何故だろうか、物腰柔らかなアンセムが、今ばかりは冷徹な別人に見えたのだ。

「いえ、すてきなお庭です。」

「それはようございました。ですが、そろそろご昼食のお時間かと。アレン、ご案内して差し上げなさい。」

「はっ。」

アレンがサリネに「行きましょう」と促す。それに押されるまま歩き出すサリネだったが、アンセムの横を通る時、思わず声をかけてしまった。

「あの、アンセムさん。私、庭仕事でできることがあったら何でもします。」

アンセムは答えなかった。サリネはアレンに手を引かれ、回廊から建物内へと連れていかれる。

古めかしい扉が大きな音を立てて閉まった。




翌日、いつものように座学を終えて帰ろうとしていたサリネに、ランファが声をかけてきた。シナの珍しいお菓子を取り寄せたので、一緒に食べないかとのことだった。ここへきて高級な菓子はたくさん食べてきたサリネだが、シナの菓子はまだ食べていない。折角の機会だと誘いに乗らせてもらう。そのままアレンとともに談話室に直行した。

「はい、どうぞ。」

ランファが指さしたのは、見たこともない菓子の数々だった。

「私が好きなのは、芝麻球と雪蛤なの。あと、干棗と胡桃もあるよ。珍しいから是非。」

サリネには聞きなれない単語だが、狐色にからりと揚がった団子にところどころ黒い粒がついているのが「芝麻球」、透明なぷるぷるした皮に餡を包んだものが「雪蛤」、親指サイズの実を干したものが「干棗」、爪の先程の小さく歪な塊が「胡桃」というらしい。正直、美味しいかどうかもよくわからないが、折角なのでいただくことにする。

「ねえ、サリネ。もうここには慣れた?私、まだ落ち着かなくって。」

「うーん、少しは。でもやっぱり、ドレスは歩きにくいかな。」

サリネは、芝麻球を手に苦笑して見せた。ランファが頷く。

「そうだよね。・・・サリネ、あなたはスラム出身だって言ってたっけ。」

「そう。ランファはシナだよね。前から聞きたかったんだけど・・・どうしてここにいるの?」

「・・・・・・。」

ランファは黙りこくる。質問してはまずかったかと、サリネは謝ろうとした。しかし。

「私、奴隷だったの。」

予想外の答えだ。サリネは芝麻球を食べる手を止めた。

「確かにシナはシナだけど、属州の出身なんだ。もとは穀物も実らない貧しい寒村に住んでて、ある時母親と一緒に奴隷狩りに遭ったの。そいつらに売り飛ばされたんだけど、私たちは代々身に刺青を入れる民族で、珍しがられたからか、西の奴隷商人に買われた。それで、知らないうちにアネントルへ来た。」

ランファはふっと遠い目をした。

「シナに居た記憶はほとんどない。なんか、忘れちゃったみたいで。ただ、母親は船旅の途中で引き離された。多分、もう二度と会えないかな。私だけアネントルの金持ちの家で玩具になることが決まってたの。」

玩具、という言葉に深い痛みが刺さっていた。サリネは何も言わず、ただ耳を傾ける。

シルルにシナの話を求められたとき、複雑そうな表情をしていたのはそのためか。

「けど、私は異国でだって、とにかく逃げたかった。船から降ろされたとき、見知らぬ国の空気が胸一杯に入ってきて、でも、そこはすごく人が多かったの。いろんな肌、いろんな髪、いろんな瞳の人がいて、故郷のシナの都や港より断然多かった。だから、ここなら人混みに紛れて逃げられるかもと思ったんだ。バカだよねえ、焼き印押されてるから、すぐばれるのに。」

現在、アネントルでは奴隷交易を禁止している。しかし、他国が奴隷交易をするにあたって奴隷商船が物資補給をするのは禁止されていない。また、他国の奴隷が発見されても罰金だけで返還する。それにかこつけ、こっそりアネントルの富裕層に奴隷を売りつけることがあるという。ランファは、その被害に遭ったのだ。

「見張りの隙をついて逃げ出した。けど、逃げた先は結構お金持ちばかりが住む地区への道だったみたいで、すごく目立ってしまった。馬車に轢かれそうになりながら、通行人にぶつかりそうになりながら、必死に追っ手の手から逃れた。そのとき、何でかはわからないけど、私に追いつこうとしてた追っ手を捕まえてくれた人たちがいたの。それがジョン・ドゥーさまの部下だった。」

偶然、居合わせたということか。それにしても運がいい。

「命の恩人なんだね。」

正直、サリネにとってもそうだ。

「うん。」

そう答えたランファは顔を赤らめ、目を伏せている。

「いつかお顔を拝見して、直接お礼を申し上げたいの。」

やはり、そこもサリネと同じである。だが、あのマスクの下は後遺症が残っているのかもしれないのだ。憶測に過ぎないので、そこを言うべきかどうか迷う。

しかし、ランファが元奴隷とは。サリネは彼女をふっと見つめた。

遠い東の地から攫われ、遥々奴隷として運ばれてきたランファ。その瞳は、どこか遠くを見ているときがある。生き別れた母のことか。記憶も失くした故郷のことか。どちらにしても、彼女が母と再会したり、故郷の地を再び踏んだりすることはあり得ないのだろう。

ランファは、この地で散る。

借金で苦しみ、家と弟妹のことを一手に引き受けて自らを捨てたが、我が家や弟妹と二年後には再会できるサリネより、ずっと切な過ぎた。

「サリネは、兄弟はいるの?」

「えっとね、弟と妹が二人ずつ居るよ。ほんとは兄が一人居たんだけど、肺炎で死んじゃったんだって。」

スラムの空気は汚濁していて、しかもサリネの家は母やリズのように肺が弱い者が一定数生まれるようだった。兄もそんなうちの一人だった。サリネはよく遊んでくれた2つ上の兄が大好きだったが、サリネが3歳だったある日、突然路上で咳き込み倒れて、そのまま帰らぬ人となった。スラムでは子供が死ぬのは日常茶飯事。むしろ、サリネの家は子供が一人しか死んでいない分、奇跡のような話なのである。

「サリネたちは、お兄ちゃんに見守られているのかもね。」それが、母の口癖であった。ソーラ教には、死者が年齢ごとに異なる働きをするという信仰がある。子供の霊は、残された子供たちに憑いて、子供たちが危険な場所に近づいたりしないよう、生前の知識や記憶を与える。また、親のいないときにこっそり遊んでやったり、言葉を教えてやったりする。赤子が何もない空中に手を伸ばしたり、いつの間にか言葉を話し出したりしているのはそのせいだと言われている。そうして、親の代わりに子どもを守っているのだ。しかも子供の霊は、親戚縁者か、恩人の子どもにしか憑りつかないらしい。だからスラムでは、如何に子供がたくさん死のうとも、それを粗雑に扱ったりしない。たとえ行きずりの知らない孤児でも、丁重に弔ってやる。そうして、子供が成人するまで見守っていてもらうのである。憑いていた子供が成人すると、霊は神のもとへ召されていく。

生き死にや知る知らぬは関係なく、子どもたちは大切に。たとえレジェス教が浸透しようとも、これは長年ソーラ教とともに息づいてきたスラムの伝統慣習だった。

(そういえば、ジョニーたちはどうしてるんだろ?)

サリネはこくんと首を傾げた。アレンが提示してくれた書面には、避暑地で有名なロッズ地方の別荘が書かれていたが、実際に弟たちがどんな暮らしをしているのかは知らない。忘れていたわけではないが、あまりの疲れと忙しさに後回しにしてしまっていた。あとでアレンに尋ねてみることにする。

「そうなの。サリネは長女なんだね。なんか、すごい面倒見良さそう。」

「いやー、上の弟には嫌がられることあるよ。反抗期みたいで。」

サリネは苦笑する。

「でも仲良さそう。羨ましいなあ。サリネは、私より年下なのにしっかりしてて。」

ランファが少々落ち込んだようにため息を吐いた。

「練習生の皆、結構癖あるよね。私も皆のこと全部知ってるわけじゃないんだけど。多分、アリアナさんと私が最年長で、シルルさん、ガレスさん、アンネさん、ルイスさんが16歳かな。で、サリネとサムさんが最年少だよ。そう考えたら、やっぱりサリネはしっかりしてる。」

ランファがすらすらと口にする。

「よく覚えてるね。」

「人のこと覚えるのが得意なの。商家の娘だったら便利な特技だったんだけどね。」

サリネは、確かに、と納得した。以前働きに出たことのある市民の家が商家で、そこの女主人がかなり物覚えが良かった記憶がある。何十人と出入りする者を全員記憶していて、あまり顔を合わせないサリネのことも覚えていた。懸命に働いていると、何度か小さな菓子をくれたものである。

「でもそういうのも役立つのかもね。舞い手になったら、たくさんの上流階級のお客様と会うんだろうし、その時に覚えていたら喜ばれるかも。」

「あ、そうなのかな。」

ランファはぱちぱちと瞬きをした。その発想はなかったらしい。

「サリネは、やっぱり首席になりたいよね。」

「勿論。借金があるから返さなくちゃだし、それ以降の生活費も稼がなきゃ。そのために、どうしてもお金がいる。・・・あと、アネンティ舞踊を習得すれば、特技として披露して小銭を稼げるだろうし。」

サリネは自分で思っているより計算高いが、本物のアネンティ舞踊を舞える者はアネントルで3桁もおらず、その最高峰に指導された者には大変価値があるということは抜けていた。本来そんな舞い手が一舞いで稼げるのは、小銭どころではない額である。

「私も首席になりたいの。それで、ジョン・ドゥーさまに改めてお礼を申し上げる。単なる練習生としてではなくて、ちゃんとした舞い手として。」

だからといって、じゃあ私たちライバルね、という友情確認には至らないらしい。ランファの表情は曇っていた。

「でもすごく不安。」

結局、彼女が口にしたのはそれだけだった。

アレンが湯浴みの時間だと声をかけてくる。サリネはいくつかシナの菓子を土産に貰い、丁重に礼を言ってお開きにした。

帰りながらアレンに弟妹たちのことを尋ねる。すぐに資料を集めると答えてくれた。




サリネは、バスタオルを身体に巻き付け、痛む首元を軽く伸ばした。

ちなみに、お付きはいない。アレンは大浴場での湯浴みなら使用人をつけると言っていたが、一人で楽しみたいと無理矢理押し通した。

部屋に備え付けられた浴室も夜景が見えて良いが、大浴場も使ってみたかったのだ。サウナや水風呂もあると聞き、スラムの粗末な湯屋にしか行ったことがないサリネは内心かなり楽しみにしていた。が、想像以上だった。浴場のドアをそろりそろりと開けてみる。中は湯気が一面に漂ってよく見えないが、天井には透かし彫りにされた豪奢な石像や、白く輝く結晶が飾られており、職人の高い技術を伺わせた。

足を踏み出すと、ひやりとした石床が触れる。と、あまりの滑らかさに滑りかけた。咄嗟に扉の取っ手を掴んだが、持っていた白木製の風呂桶が手から浮く。そのまま床へ落ち、からんからんと派手な音を響かせた。

と、サリネはぎょっとする。今まで誰もいないと思っていたが、湯気の奥で人影が立ち上がったのだ。

湯気の隙間から一瞬見えた背中。そこには、黒、赤、無数の傷跡があった。その背にかかるくらいの赤みがかった栗色の髪。

アンネだった。浴槽の縁に置いていたタオルをばっと取り、そのままこちらへ駆けてくる。顔を伏せたまま、固まっているサリネの横を駆け抜けていった。

サリネは3秒後、我に返る。アンネの背中の負傷は、古傷に見えたものの、かなり酷かった。湯は沁みたのではないだろうか。どちらにしても異常な傷の多さだったのでただ事ではない。追いかけようかどうか迷ったが、恐らく触れぬが賢明だろう。ランファと同じく、複雑な過去があるのかもしれない。

気を取り直し、サリネは近くの大桶から湯を組んでざばりと身にかけた。

身体を洗う前に、ふと気になったので湯を見てみる。不思議な香りがするのだ。大体検討はついていたが、取り敢えず軽くのぞき込む。薄い緑色の湯が湯気を上げている。

「ディル草か。アリドもちょっと入ってるんだ。」

鎮痛・リラックス・治癒・殺菌などの効果がある薬草である。これならアンネの傷でもあまり沁みずに済んだかもしれない。薬湯はサリネも知っているが、通常は老人の湯治くらいにしか使われない。練習生たちの風呂場にあるというその性質から、アンネのためか。それとも、単に練習生たちをねぎらうためか。

(いや、違うな。)

個人の部屋の湯には薬湯はなかった。アレンから提案された覚えもないから、これはやはりアンネのことを見越しての準備なのだろう。

「悪いことしちゃったかな」

サリネの独り言は、彼女以外誰も聞かないまま、湯気の中に溶けていった。


なお脱衣所を出たところで、真っ青になったアレンに、地に頭をつけかねない勢いで謝られた。どうやら本当にアンネのための薬湯だったらしく、アンネの付き人が準備したのを他の付き人に伝え忘れていたという。そのためアレンは何も知らず送り出してしまったが、あとあとアンネがサリネとの遭遇を伝えたことで、彼女の付き人が謝罪の連絡を寄越したらしかった。

何もそれほど謝らなくても、とサリネも思うが、薬湯は好き嫌いや感覚に個人差があるため、サリネをそのまま送り出してしまったのが失態だったそうだ。

「薬草の匂いには慣れてるから、大丈夫よ。」

弟妹が頻繁にすっ転ぶので、治療のための薬草なら何度も使っている。

サリネは苦笑して、アレンに頭を起こすよう言った。




2日後、いつも通りレッスンを終えたところ、ジョン・ドゥーが次回からのペアを組みかえると言い出した。彼の指示は、常に突然である。そして意図もわからない。一部練習生の間にうんざりした空気が漂うが、誰も口にする文句はなく、組みかえた。

アリアナとシルル。アンネとルイス。ガレスとランファ。そして、サムとサリネだ。

「サリネとか。よろしくねー。」

サムは常々軽い調子である。初レッスンではあまりのハードさにブチ切れていたが、これが彼の本来の性格なのだろう。お調子者で、飄々としていて、ちょっとちゃらい。

「あ、うん。よろしくね。」

「ねえ、良かったら、一緒に座学の課題やらない?」

有無を言わさぬ口調で迫ってくる。そのくりくりとした瞳に一瞬、弟のジョニーが重なり、サリネはうっと答えに詰まった。本当は禍に関する書物を読みたい。アレンがマスクに関する記述をわざわざピックアップしてくれたのだ。だが。

「い、・・・いいよ。」

「やった~。じゃ、一緒に図書室行こう!」

ジョン・ドゥーがまだレッスン終了と言っていないのにそんなことを大声で言うものだから、サリネはひやひやする。案の定、師の冷徹な声が響いた。

「サム・ルーシュ。まだ終わっていないぞ。お前はふざけているのか。」

「・・・すいません。」

空気が氷点下に下がり、サムが静かになる。夏前なのに、サリネは上着が欲しくなった。ジョン・ドゥーは、レッスン中は私語や怠慢を許さない。二年で国立劇場に立つ舞い手に育てるのだから、当たり前の厳格さと言えば当たり前である。

「それでは、本日のレッスンを終わる。」

サムがやった、と言わんばかりにぐっと拳を握る。サリネもほっとした。

ところが、ジョン・ドゥーは何か思い出したように立ち止まる。そして振り返った。表情の読めないカラスマスクの次の言葉に、練習生たちは一様に怯える。

「翌々月だが、本格的なレッスンを始めるために、お前たちに練習着を新調する。基本的には、使徒の色の練習着だが、デザインは自分で選んで良い。あとでカタログを届けさせる。それから、その月半ばくらいに、外出許可を与える。」

練習生たちが息を呑んだ。アリアナとアンネは特に顔を輝かせている。

「勘違いするな、遊びのためではない。ルウォン大街道で、言われたものを買ってくる使い走りだ。ただし、それまでに規則違反をしたらその者は許可取り消しだ。」

使い走りでも何でも、外出は外出である。しかもルウォン大街道と言えば、上流階級が買い物や物見をするための有名なショッピングストリート。練習生たちはぱっと気力を取り戻したようだった。

サムがうきうきしながらサリネを図書室へと誘う。サム、サリネ、アレン、サムの付き人の4人で図書室へ向かった。

「サムは、普段どうやってレポートを書いているの?」

「んー、大体皆がやってるのと同じかな。文書録持ってこさせて、そんなかから選んで、部屋で書くよ。図書室には、先々週の一回しか行ってない。暇だったんだよね。」

勿体ない、とサリネは思った。読書は、棚の前でする本選びからが醍醐味なのに。

「じゃあ、どうして私とやってみようと思ったの?」

サムがにやりと笑った。

「サリネ、あいつの素顔について、何か知ってるでしょ?」

ジョン・ドゥーのことを指しているとわかり、どきりとする。だが、正確には後遺症があるかもという推測しかない。

「ううん。知らない。でも、何で?」

「あ、ほんとに知らない?いやー、先々週に行ってみたら、歴史の棚で禍に関係してる書物だけなくなってたから。あいつのマスクについて調べてるのかなって思ったんだ。貸出録見たら、サリネになってるし。」

結構鋭い奴らしい。でも、とサリネは呟いた。

「大した収穫はなかったから。」

「ありゃあ。協力したいけど、俺、取り得はあんまりないんだよね。人望はあるよー。」

結構ちゃらちゃらしているが、好かれることも多いらしい。

「人望?」

「そっ、人望。俺、故郷のリノワ島では英雄の子孫なんだよね。」

軽く胸を張る。

「それは、あなたのご先祖様が偉いだけでしょ?」

サリネは少しいらっとして意地悪を言ってしまった。

「おうっ、刺さった。手厳しいねえ。そうだよ、偉いのはご先祖様で、俺じゃない。」

サリネはふうん、と興味なさげに呟いた。しかし、サムの言葉に何かが引っかかる。リノワ島で英雄の子孫?あそこは、確かーーー。

「あ、ここね、図書室。」

そのサムの言葉で思考は遮られた。いつの間にかだいぶ進んでいたらしい。アレンがスイッチを入れて、ぽつぽつと灯が灯っていく。サムはサリネを置いてさっさと入ると、早速本を探そうとしたらしいが、ぴたりと止まって振り返った。

「サリネー。今回の課題ってなんだっけ。」

サリネはため息を吐いた。彼は何のために図書室に来たのだろうか。「特定の民族舞踊と伝承についての資料を読み、それについての感想と、民族舞踊が文化保持に果たしてきた役割について、2点以上の観点を用いて分析せよ」すらすらと暗唱する。

「お、ども。じゃあ、俺はリノワの舞踊にしようかなー。」

サムの付き人が手伝おうとするが、サムは断って梯子を自分で持ってきた。そこはしっかりしているのか、人の助けを借りるのが嫌なのか。サリネも何かしらの舞踊に関する本が必要なので、梯子を器用に立てかけるサムから少し離れたところで本を物色していた。

「おっし、かかった。サリネ、危ないから近づかないでね。」

名前を呼ばれ、反射的に見上げたサリネの目に入ってきたのは、自分の背より遥かに高い梯子にバランスよく乗り、どころか猿のように身軽に登りきるサムの姿だった。スラムでも見た鳶職のように慣れた動きだが、若い鳶職よりも素早い。サリネは呆気に取られた。

「あったあった、サリネ、見てー、リノワの本だよ!」

「わ、わかったから。そんなとこで手を振ったら危ないよ!」

見るも危なっかしい、とサリネが思った瞬間、サムが乗っている梯子がぐらりと揺らぐ。悲鳴すら出てこないサリネを、咄嗟にアレンが庇った。しかし、その必要はなかったらしい。梯子は思ったよりゆっくりと倒れ、頂上に居たサムは平気な顔で地面に飛び降りた。梯子は向かいの棚にぶつかるかと思ったが、サムが上手く操って立て直したらしい。惨事は免れた。

「な、なっなな、何を・・・。」

サリネは酸欠の魚のような顔になる。視線を尖らせたアレンがサムの付き人に目で何やら伝えている。サムの付き人がサムの目の前に立ちはだかった。よく見ると、彼は軍人のような背丈である、そこに威圧感が加わって、それなりに怖い容貌になっていた。

「サムさま。やりすぎです。サムさまだけではなく、サリネさままでお怪我をなさるところでした。」

「・・・ごめん。サリネ、大丈夫?」

サリネは、やっと動きかけた口を動かした。

「わ、私は大丈夫です。アレンは?」

「私のことはお構いなく。」

実際大丈夫かはわからない。寿命の何か月かは縮んだことだろう。

「そ、それにしても。」

今度はサムの付き人とサムのバトルが始まりそうなので、仕方なくサリネが口を開く。

「サムはとても身軽なんだね。何かやってたの?」

「んーーー、昔っから高いとこに登らされたり、不安定なとこで過ごしたりすること多かったからね。まあ、やんちゃな幼少期だったわけですよ。」

「へえ、そう、なんだ・・・。」

鳶職をも凌ぐ、猿のような身軽さ。どんな幼少期だ。

サムの付き人がやれやれと首を振りながら梯子を定位置に戻す。サリネは適当な本を選び、アレンがどこからか持ってきた簡易円卓で読むことにした。サムもちょこちょことついてきて、サリネの隣に座る。

「サリネはどんな本にしたの?『東国舞踊の体系的研究』?・・・何か難しそうだねえ。」

ランファがシナの菓子をくれてから、何となく東国のことが気になっていたのである。サリネは、ちらりとサムの持つ本を見つめた。

『海鳥の民 リノワの文化・生活様式研究入門』

(・・・海鳥の民?)

サリネの脳内で、ぱちぱちとパズルがはまっていく。

リノワ。身軽で陽気。人望と英雄。高くて不安定なところ。そして、海鳥の民。

「・・・あああ!」

サリネは大声を上げてしまった。サムが椅子からずり落ちかけ、「なっ、何だよ」と弱弱しい声を出す。それでも、腕はしっかり円卓と椅子の背を掴んで身を支えていた。バランス感覚の賜物だ。サリネはそれを視界の端に捉えつつ、ずいっとサムに詰め寄る。

「サムってもしかして、海賊なの?」

「あらっ、ばれた。サリネは詳しいね。」

サムはぺろりと舌を出して笑う。


正確には、海賊の子孫だろう。海賊としての彼らはもう、この世には存在しない。

かつてメディク系の人々がこの王国を創始し、小国として栄え始めていたころ。その南西の海に浮かぶ大きな無人島に、メディクとは異なる民族系統の漂流民がたどり着いたとされる。彼らの持つ言葉や文化は、アネントルとは少し違っていた。最初は王国と一線を画して暮らしていたが、やがて近海を通る商船を襲うようになった。潮と風の流れを知り尽くし、武術や戦術にも長けた彼らは、近隣諸国にとって脅威の対象となった。しかし金さえ払えば、安全で正確な海路案内や、違法船を取り締まる治安維持もしてくれる。とはいえ、いつ一国を滅ぼすかわからない存在である。国際法の制定に伴い、散々長引いた押し付け合いの末リノワ島を領土に置くこととなったアネントル王国は、何十年もの間海賊討伐の機会をうかがってきた。

そして、25年前。国軍が一斉に拠点の島々に乗り込み、制圧を図った。数や装備は圧倒的に国軍が有利であるにも関わらず、地理や武術に関しては海賊の方が上回り、血で血を洗う大接戦になったと伝わっている。戦争は3か月に及び、国軍は大きな犠牲を払いながらも掃討作戦を完遂。首領であった長老を始め、多くの幹部は縛り首にされ、上層部の親戚縁者は一族郎党皆殺し、との意見まで出た。しかし、穏健派や商人がこれに反対。皆殺しはさすがにやりすぎだという声が多数だったが、海賊を恐れていた商人が反対したのは、彼らしか知らない潮や風の読み方を知って利用しようとする魂胆もあったからのようであった。

結局、先王の慈悲と称して、皆殺しは免れる。アネントルの海は平穏を取り戻したわけだが、一つ誤算があったとすれば、元海賊の多くがリノワ島に残ることを選んだことだった。アネントル王国直轄領となり、姓や名をアネントル読みに変えられても、故郷は故郷。海賊たちは、王国の腹黒い者たちよりずっと誇り高い。商人たちの目論見は見事に外れたのである。

近年では、生き残った島民とアネントル王国との間で話し合いが進み、リノワ島は自治領となった。とはいえ、再度の混乱を防止するため、現在もまだ二重統治体制が取られている。

アネントル王国の者たちは彼らを海賊と呼ぶ。だが誇り高き彼らは、自らを海鳥が導いた民としている。

「海鳥の民」。それが、彼らの本当の名前だ。


「でもよく知ってたねえ。悪いけど、サリネはスラム出身だし、国外の事情には興味ないのかと。」

「ほんとに悪いと思ってる?・・・まあ、私も学校に行ってたわけじゃないけど。戦争が長引いたとき、スラムから徴兵されたおじいさんに話を聞いたの。」

「ああ、国軍国軍って言ってるけど、あれは実際強制訓練された平民の寄せ集めだもんね。」

サムがふう、とため息を吐いた。

「俺は、奴らに殺された長老の曾孫の一人だよ。長男の次男の子どもだから、一応直系に近い子孫なんだ。すごかったんだ、俺の一族。曾爺さんは俺が生まれる前に死んだけど、今でも皆から尊敬されてる。10倍の数の国軍相手に、皆を率いて戦ったんだからな!」

「10倍・・・」

サリネは感嘆した。それがほんとなら、確かに3か月も持ったのは奇跡的である。

「その息子の爺さんは、奴らがどんなに脅しても、決して頭を下げることはなかったって聞いてる。それでも最高幹部の一人だったから、殺されたけど・・・。父さんは、伯父さんの補佐をしながら皆を支えようと奔走してた。俺は、その跡を継ぐ筈だったから、皆から期待されてたんだ。」

(されて、た?過去形?)

「最近、一族のなかでも声が上がってるんだ。首領制度をなくそうって。」

サムが悔しそうに唇を噛む。

「首領制度を置いている限り、リノワは海賊時代と変わらないっていう奴が出てきてる。俺たちはアネントル本国では厄介者だし、以前みたいに自由に他国と関わることもできないから、これからはアネントルに目を付けられないように暮らしていかないといけない。そのために、統治改革をするっていうんだ。」

統治者も一新するということだろうか。それで、サムは継承権を剥奪されるようだ。

「サムは、首領になりたいの?」

「なりたい。」

きっぱりと返してくる。それは、大人びた少年の決意の声だった。

「首領制度をなくしたら、それはリノワを殺すことだ。きっと、アネントルはまたリノワを手懐けようとする。俺の家族は今そのことばっか考えてて、父さんも母さんもやつれ切ってんだ。だから、俺は首領になりたい。アネントルに媚びず、かといって皆を苦しませず、海鳥の民を生き永らえさせる方法を、俺は見つけてみせる。」

信念に満ちた目だ。誇り高き海鳥の民の深淵、その一端を見た気がする。

故郷の民を守るために、彼は、人々を導く海鳥として生きていく。

と、いきなりサムがへらっとした笑顔に戻った。何かを誤魔化そうとする、悪だくみの目だ。感動していたサリネは一気にその熱が冷める。

「ま、そんだけじゃなくて、単に船を増やしたいって気持ちもあるんだけどね~。奴らのせいで、漁師船から戦闘船まで全部減らされちゃったから。俺、昔っからマストに登るの大好きだったのに。」

高くて不安定なところ、だ。異常な身体能力はそこで培われたらしい。

「なんでだろ、サリネは話しやすいなあ。あ、今の話は秘密にしててねえ。皆も、わかった?」

アレンとサムの付き人が、同時に「かしこまりました。我々は何も聞いておりません」と答える。よくできた付き人たちである。

「よーし。じゃ、本に取り掛かろっと。」

それから小一時間ほど、本に熱中していた。気を利かせたアレンが、夕食は部屋で取れるよう手配してくれたようだ。今日は座学がないので、時間がある。

サリネがレポートを大体まとめ終わったところで、読書にも飽きたらしいサムが「もー帰ろー」と駄々をこねてきた。レポートは一枚も書いていないのに大丈夫なのか。

ところで、サリネには気になっていたことがあった。

「何でアネンティ舞踊を習うことになったの?」

聞いたところ、サムは金銭的に不自由していなさそうだが。

サムはにやりと笑った。

「人脈作りと、無償教育を受けるためかな」

そんな動機もあるのか。しかし、人脈とはどういうことだろう。ここでは、ジョン・ドゥー以外に高貴な方を見かけることもないのに。

サムは「さ、さ、帰るよ~。夕飯が待ってる」と言いつつ図書室の出口に向かう。サムの付き人が円卓を片付け、アレンが灯のスイッチを切り、サリネの持っていた本を引き受けてくれた。

しばらく歩くと分岐点に出た。サリネは右だが、サムは左だ。

「じゃね、サリネ。君には何でも話せそうだよ、魔法みたい。」

「あ、ありがとう。サムもレポート、頑張ってね。」

「うえっ、やなこと言うなよー。・・・あ、そうだ。」

サムがすっと距離を詰めてきた。

「アンセムって、言ったっけ。あの執事には気をつけなよ~。」

軽そうに言うが、内容は随分と不思議だ。

「アンセムさんに?え、何で?」


「何でって、君ぃ。あの人、俺らが話してる間ずっと、図書室の二階からこっち見張ってたよ。」


夏の夜だというのに、サリネの肩がすうと冷える。思い出されたのは、庭を訪れたときの、あの冷たく鋭い目だ。一体、なぜ。単なる素行調査か、それとも。

サムが手を振って行ってしまう。アレンが声をかけてくれたが、サリネはしばらくその場から動けなかった。




蝋燭の灯だけではどうも心許ない暗さ。

アレンは、サムの付き人とアンセムのもとを訪れていた。

「私も耄碌したか。」

アンセムが低く呟く。

「付き人のお前たちはともかく、練習生に気付かれるとは。」

「単に、サムさまの野生の勘が人一倍優れているだけでしょう。」

サムの付き人がぐっと強い目線でアンセムを見つめる。その瞳には、上司への敬意の色が混じっていた。

アレンは、サムの行動を思い返す。付き人たちに口止めをするとき、彼はこう発言した。

『皆も、わかった?』

皆。自分とサリネ以外に、3人以上いるとわかっていないと出てこない台詞だ。海賊首領の子孫とはいえ、アンセムの監視に気付くのである。かなり鼻が利くらしい。

「まあいい。別にサムさまがリノワの首領制度維持を目指していようといまいと、我々には関係ない話だ。それより、今週の報告をせよ。」

「はっ。」

サムの付き人が答える。

「サムさまは多少自由奔放でいらっしゃいますが、相変わらずレッスンで優秀な成績を修めておられるようです。自由型では、リノワの伝統舞踊と身体能力を生かした舞がお得意でいらっしゃいます。一方座学は苦手とされているようで、部屋に本を取り寄せては、最低限の内容を記して終える効率重視型のようです。」

「サリネさまは変わらず勉学に熱心に取り組んでおられます。最近は薬草を実際に育てたり、外国語で会話をしたりすることにもご興味がおありで、関連の書籍を何冊か借りておられました。禍についての研究と、レッスンの復習も毎晩継続していらっしゃるようです。」

アレンが報告を終えると、サムの付き人が苦々し気な顔をした。

「アレン殿、主人にそこまで許しているのですか?この離宮で禍のことは禁忌に近しいでしょう。」

「オグン、つい3時間前、私の主人に傷を負わせるところだった主人を担当する君には、それを言われたくありませんよ。ジョン・ドゥーさまの許可はいただいております。」

オグンと呼ばれた付き人がぐっと言葉に詰まる。言葉は厳しいが、口調からして2人は先輩後輩らしい。

「本を取り寄せたり借りたりするのは構わないが、今後も必ず私に届け出るように。検閲してダメだったものは、絶版になっているとでも言っておけ。」

「かしこまりました。」

アンセムの言葉に、アレンが深々と礼をする。

「アレンは帰ってよい。今日は休め。オグンは、サムさまに関して今後のことを少々相談したい。」

「は、承知しました。」

尊敬する上司と一対一で話せるのだ、オグンの声は上ずっている。アレンは心の中で嘆息したが、冷静な風を装って退室した。

暗い廊下を歩いていき、数分で迷いなくサリネの部屋に着いた。物音一つ聞こえないので、熟睡しているのだろう。何よりだ、とアレンは思った。安眠できるのならば、それでいい。

明日か明後日あたり、アンセムのことを尋ねられるだろう。その時にどこまで答えるか、アレンは考えをめぐらした。




「ねえ、アレン。アンセムさんってどんな人なの?」

翌朝、サリネは思い切って尋ねてみた。昨晩、サムの言っていたことは早く忘れてしまおうと床に就いたものの、全く眠れなかった。暗闇の中で微動だにせず、アンセムについて考えていた。

アレンはこぽこぽと紅茶をカップへ注いでいる。良い香りが漂ってくるが、今はそれどころではなかった。

「私もあまり存じ上げないのですよ。」

アレンはふっと天井を見た。

「前職は国軍の兵であったらしいということは知っておりますが。」

いきなり物騒な名前が出てきた。

「国軍の兵?階級のこととかよくわからないけど・・・軍曹とか、大佐とか、そういうのじゃなくて、兵だったの?」

「ええ、そのように聞いておりますよ。」

「じゃあ、平民出身ということかしら。」

「いえ、割と名のある富裕層の生まれと伺っております。」

あまり噛み合わない。国軍の兵であればあの鋭い眼差しや隙のない物腰もわかる気がしたが、それにしたって、富裕層の出身でありながら階級のない一端の兵というのはおかしくないだろうか。スラム出身で、兵役に縁のない少女であるサリネでも、そのくらいは勘づく。

「それが、執事・・・ごめんなさい、こんがらがってきた。」

「人の本性など、理解しようとしても複雑なものですからね。」

アレンはティーカップをサイドテーブルに置いてくれる。ふわふわと湯気が立っていて実に味わい深そうだ。取り敢えず一口飲んで、思考を整理する。

「ところで、あれってホントなのかな。サムの言ってた・・・。」

「御心配には及びません。アンセムさまは頻繁に練習生のみなさまのご様子を伺っておられます。それは単に、我々付き人の様子の管理や練習生のみなさまへの円滑なサポートを目指してのことですよ。」

「え、アレンも監視されているの?」

「はい。我々付き人はアンセムさまにご指導を受けたこともございます。その延長で、付き人となってからもその仕事の様子を常に管理してくださっているのです。」

サリネは拍子抜けした顔をした。

「あ、そお・・・まあ、そうよね。」

アレンは微笑んで続ける。

「アンセムさまはあの通り、隙のない物腰と冷静な思考を持ち合わせた方ですが、皆さまのことを気にかけていらっしゃいます。どうぞお気になさらず。」

「・・・まあ、そうよね。」サリネはそう繰り返す。そのまま何か決めたようで、ぱっと顔を上げた。

「ねえ、アレン。あなたの夢や目標は何?」

サリネはじっと、優秀な付き人を見つめる。アレンはぴんとした背筋を崩さず答えた。

「あなたさまの二年間を見届けることです、サリネさま。」

「えっ、それ?」

嬉しくないわけではない。だが、模範解答すぎる。

「あのーーー。もう少しなんか、こう、ないかな?使用人としての技術を研鑽するとか、えと。」

「そんなことをしましたら、私はアンセムさまになってしまいますよ。」

確かに、アレンはどこかアンセムに似ていた。雰囲気が、何となく。

「うーーーんそれは・・・困るわ。」「でしょう。」

だから黙ってお茶でもお飲みくださいとは言わないが、アレンは何事もなかったかのように茶菓子を置いている。ころりとした、爪の先程の乾燥果実だ。

「あっ、それは?」

「干棗です。以前ランファさまのお部屋で頂いた時、お気に召されたようでしたので、取り寄せました。今日の茶は、東国に合わせて少し発酵を進めておりますので、合うと思いますよ。」

やはり優秀だ。

「じゃあ、あともう少し質問しても良いかな。」

「構いませんよ。」

「私たちって、使徒の色を決められてるよね。まず、使徒って何?あと、何でこの色に決まったの?」

「使徒については、建国神話のイヴ1世がこの地に降り立った時、その統治を支えたとされる八人の使徒のことです。それぞれ、得意な分野を生かして貢献し、彼らには赤、青、黄、緑、紫、灰、白、黒の八色が与えられていました。それにあやかっています。色は、ジョン・ドゥーさまがふさわしいと決められた色を授かります。」

「どんな意味があるの?」

「アンネさまの赤は情熱と愛、サリネさまの青は優しさと賢さ、ランファさまの黄は純真と日の出、サムさまの緑は平和と自然、アリアナさまの紫は高貴と立志、ルイスさまの灰は中立と秘密、シルルさまの白は明白と清廉、ガレスさまの黒は知略と理論、かと。あくまで、ジョン・ドゥーさまのイメージなので、私のような凡人にはわかりようがないのですが。」

サリネにも意味がわからないものはあるが、おおよそのイメージはついた。

「ありがとう。もう特に質問はないわ。」

「では私からのご報告です。ご令弟さま、ご令妹さまからのお便りが届いております。」

「え、ほんと!?」

サリネが身を起こす。アレンは、一通の手紙をサリネに渡した。

「ルーカスさまのお名前で届いておりますね。」

サリネは封筒を手にした。一瞬緊張したが、すぐに中を見る。



姉さんへ


お久しぶりです。そっちの暮らしにはもう慣れた?僕は結構慣れてきました。

僕たちが今お世話になっているのは、白い木がたくさん生えている、綺麗な森の中の別荘です。とても広くて驚きました。それに、中のなにもかもが真っ白で、リズが涎でだめにしないか、ジョニーが泥だらけにしないか、毎日はらはらしていますが、今のところ特に何も壊していないので安心してください。

ジョニーは最初不機嫌で、ちょっと泣きそうでした。エレンシアはお利口にしていたけど、夜には泣いていました。リズは、お気に入りのものを一通り持ってきていたので、あまり無理はしていないと思います。

ご飯はとても豪華です。食べきれない量の美味しいものをたくさん出してくれます。皆ばくばく食べていて、お行儀が悪いですよと言われてしまうこともあります。でも、僕は、こんなお料理を目にしたら姉さんだってたくさん食べたくなると思いました。それから、このうちの少しでもアビュットの皆にわけてあげられたらなと思います。

ご飯とお風呂と寝る時以外は、好きなことをさせてくれます。僕とエレンシアは勉強していることが多いんですが、ジョニーはよく外に遊びに行っています。別荘主さんの親戚のお兄さんが一緒にかけっこをしてくれるそうです。僕も、たまに外に出ることがあります。虫はあまりいませんが、鳥や犬がいます。この前ちょっと描いてみた絵を一緒に送ります。見てね。

お兄さんに訊いたら、姉さんは元気でやっているって聞きました。それから、あんまりお手紙が出せないとも聞きました。忙しいんですね。姉さんのことだから、無理をしているのではないかと心配しています。

こちらのことは心配しないでください。皆、元気です。遠く離れちゃったけど、二年後にまた会いましょう。レニ貝のネックレスは、大切に保管しています。リズは姉さんの顔を覚えてるかわからないけど、姉さんはいつも良い薬草の匂いをさせていたから、僕らが薬草を取ってくると反応します。なので、姉さんが薬草まみれになって帰ってくれば誰かわかるかもしれません。でも姉さんは立派な舞い手になるんだと聞いているので、薬草の匂いよりお花の匂いの方が似合うのかも。

暑くなってくるとは思うけど、無理はしないでね。ジョン・ドゥーさんに、よろしく言ってください。


ジョニー、ルーカス、エレンシア、リズ



サリネは、同封されていた紙を取り出した。今にも動き出しそうな犬や鳥が、紙面一杯に描かれている。毛の一本一本まで精巧に描きこまれていた。

「ほう、これは。宮廷画家の見習いでしょうかね。」

アレンが大げさなことを言う。笑わせようとしたのか。サリネは、視界が潤み、歪むのに気付いた。

「・・・上手いでしょう?あの子は、画家になりたかったんです。」

ルーカスは昔から指先が器用で、目も良かった。瞬きをすれば、その光景がはっきり残るのだという。だが、画家になるには金が要る。サリネの家にそんな余裕があるはずがなかった。

「でも、いつからかそんなことも言わなくなってしまった。学校に通うように言ったら、通うようになりました。反抗期もなくて、ジョニーに比べたら凄く、凄く・・・楽、でした。」

どうして、気づいてやれなかったのか。ルーカスの絵への情熱は、消えていなかったというのに。

「私はあの子に甘えていた。何も言わなかったら良い、じゃない。私が、言えるようにしてやらなきゃいけなかったのに。ずっと、押し込ませて、気づかない振りをしていた。私が学校に行かずに働いて、あの子を学校に通わせてる、ただそれだけで満足していたーーー。」

絵の上に雫が落ちる。

吐き出すように呟いた。


「私は、姉として最低でした。」


そのとき、風が吹いた。

突然、抱きすくめられたのだ。アレンの細くも力強い腕が、守るようにサリネを包み込む。

「そんなことは決してない。」

サリネの涙が、驚きで止まる。

「あなたは、ずっと頑張ってきた。あなたは、自分のことを最低な姉と言いますが、あなたはまだ、たったの15歳なのです。15で、その若さと脆さで、全てを犠牲にし、全てを捧げてきた。」

そんなことはずっと言われてこなかった。

サリネは出来て当たり前。娘で、姉で、長女だから。

そういって、自分自身をずっと縛り付けてきたのだ。


「もう、泣いていい。私に頼ってください。」


本当に?


「だからもう、一人で苦しまないで。」


頼っていいの?


「あなたが背負うくらいなら、私が背負いましょう。」


信じて、良いの?


「私は、アレン・タリアータ。あなたさまの、付き人です。あなたさまのために居ます。」


サリネは、声を殺して泣いた。

両親を亡くし、借金と弟妹を抱えて一人、茨の道を歩んできた。その苦しみが、少しずつ溶け出し、溢れ出していった。

アレンは、何も言わない。ただ優しく、抱きしめるだけ。

愛でも恋でもない、ただ強い絆が、二人を結び付けた。




朝食に出ていかなかったので、ランファから気遣いとしてシナの菓子が届いたとのことだった。

小さな紙に、体調でも悪くなったか、夏場だから気をつけて、また話そうと書いてある。別に体調に障りはないが、目元が腫れているので遠慮しただけのことだ。

サリネは、何となくアレンと話すのが気恥ずかしかった。

「あ、あの。アレン。私から弟妹へお手紙を送ることはできないのかしら?」

「残念ながら、こちらから手紙を送れるのは、危篤になったときなどの特別な場合のみとされております。サリネさまにはこちらでお預かりしている幼いご家族がいらっしゃるので、特例としてこちらに届くお手紙のみ受け取り可能ですが。」

「そっか・・・。残念。」

しかし、ぼんやりとしているとすぐ先刻のことが浮かび上がってくるから、ほとほと困る。サリネはため息を吐いた。

「ところで、サリネさま。もう少しで午前練習になりますが、いかがされますか?」

「行くよ、そこは欠かせない。」

考えるべくは、アレンとの件ばかりではない。それとこれとは別の話だ。サリネはぐっと腰に力を入れ、すっかり馴染んだチェアから立ち上がった。




その日の午前練習は、ペアでの舞のシミュレーションだった。

ジョン・ドゥーの弟子という男女2人が手伝いに来ており、1組ずつ回って呼吸の合わせ方や距離感の保持について指導してくれた。

アネンティ舞踊は、男女での恋愛物語をモチーフにしたものが多い。勿論ソロパートもあるため、その練習を行うこともあったが、最近はペアでの練習も回数を増やしていた。

「あ、サリネちゃん。腕は、少し下から上げていく感覚でいくと綺麗に見えるよ。」

ジョン・ドゥーの弟子である女性、アグネス・マスウードだ。少し浅黒い肌は、ルドー海の南東圏の血を引いてのものらしい。エキゾチックな黒い瞳と彫りの深さが、思わず見惚れてしまう雰囲気だった。すらりとした長身がサリネの後ろに立ち、腕の伸ばし方を教えてくれる。

「サム君は、もう少しスピードを落とそうか。滑らかに動くイメージで。」

サムの調子を見ている男性は、オリバー・グアイン・アデランド。やはりジョン・ドゥーの弟子であり、普段はレジェス教や支援団体の慈善学校で舞を教えているのだそうだ。

「わかんないっす・・・。」

「気球を押していく感じかな。あまり力を入れ過ぎず、ふわっと押し出すんだ。」

「はあ・・・。こんな感じっすか?」

「うん、良くなったよ。じゃあ次は・・・。」

サムは口調こそ適当だが、物覚えは早い方らしい。オリバーの言ったことの呑み込みが早く、オリバー自身も感心しているようだった。

「皆の者、聞け。」

ジョン・ドゥーの声が響いたアグネスとオリバーがさっと姿勢を正す。

「これからの1週間で、1曲分の舞をマスターする。1週間後、客人の前で踊るのだ。曲は、「ロワ四重奏夏の章」。」

サリネはぐっと拳に力を入れた。遂に、誰かの面前で踊る。練習生たちは喜びもせず、どことなく浮足立った雰囲気だった。

「ただし。」

ジョン・ドゥーが足を組みかえる。マスクに嵌まった目の部分がくるりと光を反射した。

「出られるのは、2人だけ。シルル、そしてアンネだ。」

サリネは呆気に取られた。ジョン・ドゥーは、先にメンバーを決めていたのだ。

(ジョン・ドゥーさまの指導の集中砲火に遭わないのは良いけど・・・何だろう、このもやもやした気持ち・・・。)

アリアナが苛立ったように豊かな髪に手を当てる。アンネはというと、鼻を鳴らして野心に満ちた目をしていた。シルルは苦笑しつつも、興味深そうな目をしている。サムはあちゃーという顔で舌を出し、ランファは戸惑いつつも諦めた表情。ルイスとガレスの表情は読み取れない。

(何が評価基準だったんだろう・・・やる気?技術?礼儀とか?)

サリネがもんもんと悩んでいると、ぽんと肩に手が乗せられた。振り向くと、アグネスである。

(残念がることはないよ)

口を素早く動かしてそう言ってくれた。

そんなに顔に出ていたか、とサリネは真っ赤になり、両頬をぱんと叩いた。

周囲の練習生たちが何事かとサリネに注目する。サムが声を殺して笑っており、少し恥ずかしくなった。



それから3日程は何事もなく過ぎた。

正確には、アンネとシルルが特別メニューで練習を始めたくらいで、サリネたちは通常練習だった。

傍目に見ていても、かなりきつそうである。ジョン・ドゥーは相変わらず一切手を出さないので、オリバーとアグネスが代わりに指導していたが、休憩時間も不十分そうなほどだった。休憩になると、アンネは壁に向かって倒れこむ。アリアナは無視していたが、サリネはランファと一緒に彼女の水分補給を手伝ってやっていた。シルルも歩きながら息を整えているが、それだけでは動悸が収まらないようだった。

ジョン・ドゥーが指定した「ロワ四重奏夏の章」は、かなり攻撃的で情熱的な舞だった。アネントルより西の半島にある国の伝統舞踊題目を混ぜているらしい、とアレンが教えてくれた。ともかく足さばきが求められる。そのうえでバランスを崩さずに手や体を動かし、相手の呼吸に合わせるという、聞くだけで高度な内容だ。基礎体力に自信のあるサリネでも、こればかりは踊り切れそうもなかった。

「もう・・・水は、いい。」

アンネが身体を起こす。緩やかにウェーブした赤髪が、結びあげた首元から一筋、滑り落ちた。言葉とは裏腹に、ぜえぜえと言う息の途切れは止まらない。

「だめです、アンネさん。もう少し休んでないと。」

ランファが髪をかき上げてやり、後頭部に手をまわして壁にもたれさせた。

「いいっつってる、でしょ・・・。」

無理矢理起き上がるアンネ。膝に手を当て、ふうっという息とともに一気に立ち上がった。

「シルル。やるよ。」

シルルが驚いたように足を止めた。

「いや、アンネさん。まだ・・・」

「できるの?できないの?どっちなんだよ!?」

サリネはびくりと肩を震わせた。アンネの声は怒気をはらんでいる。その目はまっすぐ、シルルを見つめていた。シルルが戸惑いつつも手を差し伸べる。と、アンネは、あれほど動きに疲れがあったのがウソのように滑らかに手を重ねる。

そのまま、舞を始めた。

ジョン・ドゥー、オリバー、アグネスも止めない。練習生たちも、只々見惚れていた。



「ありゃ、あの二人にしかできないよね。」

サムがぼそりと呟いた。

「え?」

サリネが聞き返した。図書館で本を読んでいる最中にそんなことを言うものだから、聞き逃した。あれから、サムはサリネとの時間をいたく気に入ったらしく、こうして何度も誘ってくる。

「いや、「ロワ四重奏夏の章」だよ。」

「ああ・・・」

サリネも同感だった。精神力が強いアンネは適任だった。シルルが選ばれた理由はわからないが、アンネはどう考えても適切な人選である。サリネはどこかいけなかったのだろうか・・・などと考えていたサリネだったが、次の瞬間、サムが衝撃的なことを呟いた。

「悔しくもならないよね。演じるキャラが二人にぴったりだし。」

「・・・え?」

「え?何でそこで驚くの?ぴったりじゃん?・・・まさか、演じる舞の内容知らないとか?」

ないよねー、あははと笑うサム。沈黙が降りた。

「・・・え、まじで知らんのん?」

「うん。」

「・・・あー・・・なんだ、そういうことね。」

サムは一から説明してくれた。


顛末はこうだ。

ロワ四重奏夏の章は、富裕層の息子と、元奴隷の舞い手の物語である。

気が乗らないのに知り合いの舞踏会に参加させられた息子は、そこである美しい舞い手を見初める。しかしその舞い手は、主催者である富豪の愛人ともっぱらの噂だった。しかも息子が行くどの舞踏会にも必ず姿を現し、追いかける彼を翻弄しては朝方には会場から消えてしまう。誰よりも舞に誇りを持ち、一人でいても花が咲いたような気品で、男性たちの目を奪いながら、富豪のもとへと帰っていく舞い手。普段は優雅で女性たちのあこがれの的でありながら、彼女に狂おしいほどの愛を抱く息子。二人は、舞踏会で舞う以外で出会うこともなかった。

ところがある夜、珍しく舞い手が話し出す。富豪の仕事の都合で、外国へ行くこととなったのだそうだ。引き留めようとする息子だったが、舞い手は振り返ることなく夜闇に消えていく。悲しみに暮れる息子だったが、せめて一目と思い、港へ向かう。しかしそこで目にしたのは、富豪が乗船を促すその前で舌を噛み切って自殺した舞い手の姿だった。駆け寄る息子。その胸に舞い手を抱いたとき、舞い手の涙を目にする。

2人は両想いだった。ただ、舞い手は富豪の愛人で、その愛が許されなかっただけで。息子は息絶えた舞い手を抱きしめ、悲しみからともに海へと飛び込んだ。今でもその浜では、夜になると、舞を踊る二人の姿があるという。


サリネは唖然とした。あの2人が選ばれたのは、気位の高い元奴隷と、優雅なお坊ちゃんを演じるためだったのか。確かにアンネとシルルなら務まりそうである。

サリネは無知な自分を恥じた。皆、その演目を知っていたのだろう。だからこそ、誰もジョン・ドゥーに評価基準を尋ねることなく納得していた。サリネ一人だけが悩んでいた。

「あ、演目全集とか読んどく?」

サムがのほほんとした顔で一冊の本を差し出す。

「アネンティ舞踊でよく扱われる演目の全集だよ~。これで演じやすいものを見つけりゃいいんじゃない?」

サリネは礼を言い、丁重に受け取った。

「まあともかく。そんなわけだから、サリネは悩むことないじゃない?今回はあの二人だったけど、サリネなら「ユニ三重奏第1部」で主演になれるかもね。下町の貧しい少女が実は貴族の非嫡出子で、大きな屋敷を相続しちゃって、そこの使用人たちと心を通わせながら貴族令嬢として社交界に花咲く話だよ。」

「へえ、楽しそう。」

「俺、ヒュードって楽器弾けるの。今度伴奏したげる。」

サリネはくすくすと笑う。つられたのか、サムがにやっと笑って見せる。

図書室に差すステンドグラスの照光が、二人の座るテーブルを明るく照らしていた。



                             (夏風編へ続く)

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