身代わりと海
入学から三日、学園から離れ、とある港に来ていた。
目を向けた方には、深い青をした海がずっと先まで広がる。
「海だ……」
風は、独特のにおいがした。
港にいるのは、ほとんどが一年生だ。全員制服姿であるため、この人数ともなると、少し異様な光景が広がる。
全員が進む先には、白い、大きな船がある。いわゆる、豪華客船という部類の船だ。
生徒会主催の「新入生歓迎会」のため、学校から離れ、港に来ていた。
空はよく晴れ、気持ちが良い天気だ。
今から、今日夕方まで歓迎会パーティーが行われ、寮に戻る予定となる。
泊まるための部屋もあり、一応そちらも使えるようになってはいるが、泊まらないらしい。わたしとしては助かる。
「確か、自由時間が一時間くらいあったな」
「はい。その間に生徒会側が最後の準備をするようですね」
中心となる会場付近は立ち入り禁止。
生徒会を中心とした主催側が、最終準備を行うためだとか何とか。大変だ。
「部屋に引っ込んでおこう」
「そうですね」
タラップを上がり、船上に足を踏み入れる。
すでに船上には生徒がおり、自由に歩き回っている。
わたしは謙弥と共に、泊まらないのに与えられている部屋に引っ込むべく、歩いていく。
そんな中、月城聡士を見かけた。
彼はよく目立つ生徒だった。見た目が、ではなく、自然とそうなる空気を持っているようだ。自信が滲み出ていると感じるほど、堂々としているからだろうか。
あまり長くは見ず、すっと視線を通りすぎさせるくらいで目を戻した。
入学してからと同じく、初日に会ってから三日経ったが、あれ以来接触はない。
わたしの中での月城聡士の位置付けは、要注意人物であり、よく分からない人物となっている。
接触がないことは、良いことだ。
部屋に入ると、椅子に腰かけた。
部屋は船の上にしては広いという印象で、おそらく一等の部屋が与えられているのだろうと思う。
これもまた、『貴族特権』の中の最上位貴族の権利と言うべきものか。
「あー……、ずっとここにいたい」
「やっぱり、お疲れですよね」
ふと、言葉が洩れてから、あっと思って口を閉じる。無意識に出してしまっていた。
「……まぁね。全部が慣れないことだから。謙弥がフォローしてくれて、助かる」
すると謙弥は俺の仕事なので、と言う。そつがない。
ずっとここにいたい。そう思うのは、無理もないことだろう。
こんなにも多くの人の視線を感じるとは、甘く見ていたかもしれない。単に過ごせばいい。ばれないように過ごすことに集中すればいいと思っていたが、視線自体がこれほど感じるものだとは……。
一旦他に誰もいない部屋に引っ込んでしまうと、他の生徒が多くいる外には出たくないなぁ、と思う。
窓の外は、青かった。海でもあり、空も青い。
「謙弥も座りなよ」
「いえ、俺はこのままで」
「鍵をかけてても駄目?」
謙弥は微笑みで答えた。
「まぁ、そうか。ごめん」
彼が徹底してそうするのなら、わたしもここでも湊の口調を通すべきか。寮の部屋ではなく、一応外の船の中なのだ。
三日しか経っていないのに、もう気が緩んでいるのか。……慣れないことで疲れて、緩みたいのか。
気を引き締めなければならない。
出港し、動く船の窓から、海ばかりの景色をずっと眺めていた。
「時間ですね」
そんな声かけにはっとすると、一時間程度はあっという間に過ぎていたらしい。
新入生歓迎会の予定の時間になり、会場に移動するべく部屋の外に出る。
息を深く吸って、気合いを入れ直した。
とはいえ、黙って時間を過ごしていれば大丈夫だろうという予想だった。
ここで声をかけてくるのであれば、普段から声をかけてきたはずだから。未成年のため、羽目を外させる酒の類は全く出てこない。
会場は広く、船内と言えど普通のパーティー会場と言われるような広さがありそうだった。
わたしはそんなものには縁がなかったから、あくまで想像だ。そんな印象を受けるくらい、予想より広くて天井が高かった。
一階部分には、立食形式でところどころにテーブルが置かれ、つまめるものが置かれている。
二階もあり、こちらは一階が見えるように中央がぽっかり空いていることから、狭めではある。
一階は見えない位置になるが、二階には奥に行くと広い部分があるのが見える。中まではよく見えない。
わたしは、二階部分の壁際にいた。
飲み物を配っているウェイターがいる。
「最初の乾杯に使うらしいです」
「へぇ」
遠目に向かい側を見てみると、なるほど。生徒の手元に、光が反射する何かがある。
「何味が希望ですか?」
「え?」
どうも謙弥が取ってきてくれるつもりらしい。
「……特に、希望はないな」
こういうとき、湊なら何と言うのだろうかと考えたが、思い付かなかった。
謙弥はわずかにはっとしたような表情をした気がした。しかしすぐに、軽く一礼して離れていく。
──彼も、わたしも、気を使っている
わたしだけが湊になりきれないところがあって申し訳なさを感じているのに対して、謙弥もまた、「湊」としての回答を考えなければならない種類の質問をしてしまったことに何かしらの責任を感じているようだった。
「……いい従者だね」
湊。
優しい従者だ。
ざわざわとした空間に、独り言は紛れるまでもなく、消えていった。
そうやって壁際で会場を眺めていると、そんなに経たない内に謙弥が戻ってきた。
「ありがとう」
受け取った透明なグラスには、刻まれている一点の模様があった。校章だ。
どうやら、学園内で使うために作られたもののようだ。
そしてグラスの中には少しだけ色のついた液体が入っていた。何だろうこれ。
お酒ではないだろうから、ジュースだろうが。
何味だろう、と思っていると、新入生歓迎会の冒頭の流れが始まった。
行程はそれほど多くない。
生徒会の進行による祝いの言葉、生徒会長の祝いの言葉、それからすぐに自由な時間の始まりだ。
「では、本校生徒会長白羽悠様にお言葉をいただきます」
白羽悠「様」。
マイクを通して響き渡る声を流し聞いていたわたしは、少し、反応する。
「右手です」
謙弥の囁きが先だったか、他の生徒たちが一様に向いている方があると目で見るのが先だったか。
会場の二階、つまりわたしがいる床の延長線上に、現れた生徒がいる。
淡い茶の髪をした、細身の男子生徒だった。
にこにこと、男子だが可愛らしいと評することができそうな笑顔をしている様が見えた。
マイクを手に、二階の一番目立つ位置で、彼は喋り始める。
軽快に、親しみ安い話し方だった。
白羽悠──彼もまた最上位貴族の家の子どもだ。
この学園の現生徒会長にして、その家柄により学園随一の力を持つ生徒。現在、生徒会長の役割を越えた、学園の支配者だとか。
彼とも、湊は面識はあるはずだ。
とはいえ面識だけで言えば、それなりの貴族であればほとんどとなる。
……しかし、白羽を引き合いに出すなら、他の最上位貴族と比べると仲良くすることはまずあり得ないと言える部分がある。
顔を合わせても、表面上のやり取りをしておけばいいだろう。
おまけに白羽悠は二年生だ。学年が違えば、いかに最上位貴族であると言っても学内での接触の機会はそれほど生まれないはずだ。
そもそも、最上位貴族の子どもは、中学までは各々の本家がある域の別々の中学に通い、高校でこうして一同に会することとなる。
大学もエスカレート式だから、外部に出なければそこまで一緒。さらにはもれなく将来も付き合いが続く。
弟はそうしたレールを歩く予定なのだ。
わたしは、急に、世界を覗き見している気分になった。
本来はいるはずのない場所、共に立つこともなく、会うこともなかっただろう生徒たち。
世界が、切り離されたように、錯覚し──ガチャン、と音がした。
「……?」
わたしの意識を戻す役割は大いに担った。
音は、下ではなく、同じ二階からだ。それも、ぽっかりと開いた空間を跨いで向かい側という遠さではなく……少し、近い。
しかし、割れた音が生じた位置を目で特定する前に、静まり返った空気に動きが鈍る。
さっきまで、声が満遍なく響き、満ちていたからだろう。余計に静かに思えた。
いや、音一つ立てられない。
完全なる静寂に支配された空間に様変わりし、──それだけではない妙な空気を肌で感じ取った。
わたしは眉を寄せてしまう。
この源は、何だ。
「人の話は、静かに聞かなくちゃ」
マイク越しの声が響き、会場にいる全ての者の耳に届く。
声を出したのは、白羽悠だ。
声は、変わらず柔らかい。しかし、優しすぎるようにしているようにも、聞こえた。
──何だ。
違和感が生まれる。
周りの張り詰めた空気。いくら話の途中に派手な音がしたからと言って、これほどまでに緊張し、顔が強張るか?
戸惑ったわたしは、謙弥の方を窺おうか迷った。
迷い、見ていた生徒会長がにこりと笑う顔を見て、背筋に悪寒が走った。
「ここで新入生の皆に、僕の機嫌を損ねると、どうなるかを見てもらおうか」
白羽悠は、どこまでも柔らかに笑う。
その先には、哀れなほどに青ざめた生徒がおり、足元で割れたグラスがきらきらと煌めいていた。




