匂いと臭いと彼と彼女
「全く……人間てのはなんであんなに臭い物ばかり好んで飲むんだろうねぇ」
何時も通り閉店後、そんな事を言いだしたのはシルバータビーのエキゾチックショートヘアのだった。
「一体どうしたってんだい、お銀ちゃん?」
それに対して全身青味がかった銀色のロシアンブルーがそう問い返すと、
「聞いておくれよアル姉さん。久し振りに贔屓のお客が来たんで、折角サービスしてあげようと思ったらさぁ……あの鼻のひん曲がる様な匂いの泥水を揃って飲んでやがんのよ。思わず逃げちまってもしょうがないたぁ思わないかい!?」
お銀と呼ばれたエキゾチックショートヘアは、憤懣遣る方無いと言った口ぶりで答えた。
「ちょっと……声が大きいわよ。坊っちゃんまだ帰って無いんだから、声を押さえなさいな」
アル姉――アルノーが正式な名だ――が慌てた様子で声を潜めお銀の口元を押さえこむ。
幸い彼女達が居る店のメインスペースから、厚手の扉を隔てた厨房へ声は届かなかった様で、此方を伺う様子さえ無いのを確認し二匹は揃って安堵の溜息を付いた。
普段ならば閉店処理を済ませ夜のアルバイトを送り出した後は、店主も長居する事は無く、さっさと帰宅の途に就くのだが、毎週木曜日だけはランチメニューの為に日付が変わるまで店での仕込み作業をするのだ。
とは言え、普段から調理と言う作業に慣れ親しんで居ない店主にとっては、祖父祖母双方に徹底的に仕込まれた、たった一種類の料理でもそれを教えられた通りに作るのは、神経を使う作業であり、此方側で多少騒いだ所で気に止める余裕は無いのである。
「臭い泥水って……コーヒーの事かい? そりゃ此処は喫茶店なんだから、コーヒー位飲むだろうさ。それに私ゃあの匂い嫌いじゃないよ、流石に飲みたいとまでは思わないけどね」
人にも猫にもそれぞれ好みと言う物が有る、ソマリの勝が鰹をこよなく愛する様に、アメリカンショートヘアの葵がチーズを筆頭として乳製品に目が無い様に。
当然お銀やアルノーにもそう言った、飲食匂いの好みと言う物は多々ある、というかお銀は好き嫌いがかなり激しい方で、ほんの少しでも気に入らない匂いがすれば普段のカリカリにさえ手を付けない程である。
「いやさ、あたしだってこの店に来て長いんだ。コーヒーの一杯や二杯でグダグダ言うつもりは無いさ。あたしが嫌だって言ったのは檸檬の酸っぱい臭いだよ。それだって単独ならまだ我慢できるけどコーヒーと混ざると、ねぇ……」
解るだろう? と溜息混じりにそう言うお銀だったが、アルノーはそれに同意する心算は無いようで、
「ソレを言うなら、ほらこの臭い……アンタが好きなコレは私にゃぁどうしようも無く臭いと思うんだけどね……」
と、人と比して数万倍以上の嗅覚を持つ猫の鼻でも、まだ微かにしか感じられない厨房から漂う香りに言及し、鼻をひく付かせながら返事を返した。
「……あら、言われてみれば良い香り。そりゃそうよねー。明日は金曜日だもの明日は一日中この店があの香りに包まれる日だったわね。あんなに良い匂いなのに食べる訳にゃぁ行かないのが残念だわにゃぁ……」
毎週金曜日のランチに出される料理の香りは猫達にとって賛否ある物の様で、お銀の様にうっとりと香りを楽しむ物も居れば、アルノーの様にこの場に居る事すら耐えられない、と厨房とは反対側に有る控室へと移動する者も居る。
「毎週、毎週、本当に憂鬱だわ……。なんで人間ってのは、あんな臭い物を食べたがるんだか……」
自分好みの香りに包まれすっかり機嫌を直したお銀を尻目に、アルノーは溜息を吐きながらその場を立ち去るのだった。
入り口のガラス戸に吊るされた星と猫をモチーフにしたドアベルが涼やかな音を響かせる、店主が仕込みを終え店を後にしたのだ。
「先々代の爺さんによく似て生真面目だこと……もう日付が変わってるじゃないか」
その後姿を目端で見送り、そっと溜息を付いたのはこの店の最年長、ハチワレ猫の小松だった。
彼女は先々代が定年しこの店を開くよりも以前から飼われていた猫で、飼い猫に成った時には既に人語を解する存在となっていた古株中の古株で有る。
正確な年齢は現店主も理解していないが、実のところ彼よりも年長者なのだ。
赤子の頃から店主を知る彼女にとっては、まだまだ安心して見守る事の出来ない未熟な若者としか見る事が出来て居ないのである。
「にしても、あの子が結婚とはねぇ。人の縁って奴は私が思っていたよりもずっと…ずっと難しい物なのかもしれないね……」
溜息を吐きながら呟く彼女の脳裏に浮かんで居るのは、彼女が贔屓にしている一人の若い客――松葉と言う名の少女だった。
父親の顔すら知らないと言う少女が初めてこの店に訪れたのは、もう二十年近くも前の事だっただろうか。
猫を飼いたいのだと言う彼女と、様々な理由から猫を飼う事の出来ないと言う母、その折衷案という訳では無いが、小学校へと上がったお祝いに、と連れてきたのだ。
幼いながらも親の苦労を察する事が出来ていた、所謂良い子で有った彼女は、それ以来定期的にこの店を訪れては、時に学校や会社で有った楽しい事を、時には愚痴や悩み事を、小松や他の猫達に対して口にしていた。
それは当然、回答を求めての事では無く、誰かに聞いてもらう事で多少なりとも楽に成りたいと言う程度の物だっただろう。
だが幼い頃からよく知った可愛らしい子供と言う印象しか持っていないこの店の猫達からすれば、少しずつ成長する姿を定期的に見せに来る親戚の子程度のには、親近感を持つには十分な存在だった。
その子がいつの間にやら結婚相手を見つけ、自ら幸せを掴もうと言うのだから、己が歳を取った事を自覚せざるを得ない。
けれども、それ以上の何かが小松の胸の中にだけは有ったのだ。
小松の中にある見守るべき二人は以前とは異なる出会いを迎え、それでも変わらず思い合いきっと幸せに成る、そう思っていたのにあの子が選んだのは別の相手だった。
運命と言う物は他生の縁だけでは片付かない、超常の存在で有る自分達ですら干渉する事の出来ない大きなうねりの様な物なのかも知れない。
「あの子が良い相手を見つけたなら、バカ旦那の方は私等がなんとかしてやらにゃぁ駄目かも知れないねぇ。そろそろ焦らないと駄目な歳頃だし……」
猫喫茶という業務形態から考えればその客の多くが女性客で有り、出会いには不自由しない、そう思えるのだが、この店の場合立地条件の問題からうら若い女性客は実の所多くない。
建物の外に看板も無ければ広告を出す事も無い、この場所に店が有る事すら知らない者の方が大半の知る人ぞ知る隠れ家的な店なのだ。
しかも常連客の大半はあの占い師の様な胡散臭い連中で有り、松葉の様な普通の女性は極めて珍しい存在なのである。
幸せの定義が多様化した現代ならば、無理に女房子供を持たせるよりも私人としての充足こそが幸せと考える事も出来るかも知れない。
だが、以前ならば学生時代からの友人達と連れ立って遊びに行く様な事も、無い訳では無かったが、友人の一人が仕事で命を落としてからは、そう言った機会も随分と減ってしまった様だ。
それよりも前……学生の時分に熱中していた趣味の類も、仕事に忙殺されていた頃には精神的にも時間的にも金銭的にも手をだす余裕は無く、この店を継いでからはそれらに余裕は出来たものの、一度失った情熱を取戻す事は中々出来ない様だ。
更に彼が幸せとは程遠い様に思えるのは、この店を心良く思っていない他の親戚――店主から見て義理の伯母に当たる者達の存在だろう。
この店を継続するよりも閉める方が余程費用が掛かる事を知って、多少静かに成ったらしいが、それでも末弟の息子が頭越しに生前贈与を受けた形で有る事が気に食わないらしく、店を引き継いで数年、未だに文句を言っているらしい。
「本当に……バカ旦那は何時まで苦労しなきゃぁ成らないんだろうねぇ……」
自分達に出来る事はただ黙って話を聞く事と、あとは人には言えない様な後ろ暗い事だけだ。
流石に身内に不幸が有って喜ぶ様なろくでなしでは無いのでその手は使いたく無いが……。
「もう二度と、私が手を汚す様な事は無いと良いんだけれどねぇ……」
最後にそう呟くと小松は億劫そうに一つ大きなあくびをし、両の瞼をゆっくりと閉じるのだった。