狸苛立ち腹を括る事
苛立ちを隠せぬ様子で腰の巾着から煙草を取り出し、ライターに火を点けようとして慌てて手を止める。
患畜――特に小動物は人間とは比較にならぬ程に煙草に依る健康被害が出やすいと言われている、故に獣医たる者は喫煙などするべきでは無い。
ヘビースモーカーと言う程頻繁に吸う訳では無いが、それでも完全に断ち切る事は出来ておらず、厄介事に直面するとついつい手が伸びてしまう。
流石に院内は完全禁煙で有り、普段は仕事の時には巾着ごとロッカーに入れて置くのだが、今日は臨時休診にした所為も有ってか気が抜けていたらしい。
とは言え今はもう入院中の患畜も居なければ、看護師の二人も既に退勤し、院内に居るのは自分だけだ。
たった一人で動物病院に居るのは残務を片付ける為と言う訳では無い。
未だ年若い衣笠は兎も角、此処に務める前にも別の動物病院で経験を積んでいた紺野は、直接の診察や治療等獣医が直接やらなければ成らない仕事を除けば、院内の業務の大半を任せる事が出来る人材で有る。
本当ならば家の様な閑古鳥が常駐している病院に居るべき人物とは言えないだろう、だが彼女は前の職場では有能過ぎるが故に多くの責任を背負った結果、子供や旦那の世話に使える時間が取れず、危うく家庭を失い掛けたのだそうだ。
そんな彼女に留守を任せたのだから、本吉自身がやらなければ成らない仕事は、本当に最小限に過ぎない。
正直に言うならば紺野が居なければ、僧侶と獣医の二足草鞋だけでも辛い物が有るだろう、其処に退魔と言う過酷極まりない仕事が重なれば、下手をせずともこの歳まで生きていたかも怪しい所だ。
幾ら他に誰も居ない状況でも院内で煙草を吹かす様な事をすれば、微かな残り香ですらも嗅ぎ付けて彼女は烈火の如く怒るだろう。
以前一度やらかした時の凄まじい剣幕を思い出しそっと巾着を机の脇へ置き、改めてマウスを手に取り、机の上に設置されたディスプレイへと向き直る。
そこに映し出されているのは有名動画サイトに投稿された野鳥が鳴く姿を集めた映像だった。
映像自体は然程重要では無いと言いたげに、瞳を閉じてスピーカーから流れる鳥の声に意識を向ける。
間違いであって欲しい、そんな思いとは裏腹に聴けば聴く程に確信を強めざるを得ない。
「……ちぐはぐな動物の痕跡、虎鶫に酷似した鳴き声」
吐き捨てる様にそう呟きながら、メーラーを開きつい先程届いたメールに改めて目を通す。
それは臨からの物で検死結果に付いての事柄が事細かに記載されている、無論それを無造作に外部へと流す事が許されている訳では無い、遺体に残った『歯型』に付いて『獣医』の立場から返答する、と言う建前で送られた物だ
添付された画像ファイルには、食い荒らされた遺体の各部が写っていた、辛うじて判別出来たその歯型は、ニホンザルの物と酷似していたのである。
それらを総合して考えれば、最早疑う余地は無い。
「鵺……だよなぁ……やっぱり……勘弁して欲しいぜ……」
呟きながら腰に手を伸すが其処に巾着は無く、此処で煙草を吸う訳には行かない事を思い出し、苛立たしげに頭を掻きながら巾着を手に取り、裏口へと向かって歩きだすのだった。
超常の存在が関わる事件が警察沙汰に成る事は決して珍しい話では無い、とは言えそれが表沙汰に成る事は無い。
化け物は討ち果たされると、まるで長い年月を経たかの様に腐り、乾き、崩れ、即座に塵芥へと変じ其処に居たと言う証拠がこの世に残らないからだ。
そして一般の警察官には奴らを討取る事が難しいのも表沙汰に出来ない理由の一つだろう。
妖怪の多くは実体を持たず、氣の篭もらぬ攻撃に何ら痛痒を感じる事も無い、故に古来より妖怪を討ち果たすのは修行を積んだ武芸者や僧侶の役目なのだ。
現代の警察官の中にそれを成せる者が居ない訳では無い、しかしそれが少数派で有る事も間違いない。
警察がそういった単独行動を許さず、組織としての共通認識に基づいた共同作業を重要視するのは、大多数を占める普通の警察官を不必要な危険に晒さぬ為なのだ。
とは言っても、妖怪の被害と思われる事件は実際に有る以上、それに警察が全く関わらないと言う事も無く、それを疑わせる事件が有ったならばそれを知る者から、相対する能力を持つ者へと内密に連絡を入れるルートが存在する。
しかし今はまだ父で有る本仁が窓口と成って居り、地元警察の誰がその役目を担っているのかすら知ず、警察から直接依頼を受けるのは初めての事だった。
恐らくは彼女もそうと解っていて本吉に話を振った節は有ったが、それが思い違いの可能性を考えると、即座に自分が辿り着いた結論を連絡する事も躊躇われる。
「……熱っ!」
考えている内にいつの間にやら煙草が根本まで燃え尽き指を火傷した。
思わず舌打ちしながら地面に落とした吸い殻を拾い上げ、墓地に面した裏口に据え付けられた灰皿にそれをねじ込む。
『鵺』それは古事記や平家物語等の古書にもその名が見られる、古くから伝わる大妖怪の一角で。自分一人で相対するには少々荷が勝ちすぎる大物だった。
猿の頭に狸の胴体、虎の手足に蛇の尾を持ち、虎鶫の様な声で不気味に鳴くとされ、神鳴と共に地に降り立つ雷獣で有るとも言われている
記される書物によっては虎の胴体だったり、鶏の頭だったりと振れは有るが、歳を経た動物の変化ですら化ける事を覚え、自らの都合の良い様に身体を作り変える事が有るのだ、その程度の差異は個体差の範疇だろう。
もしも彼女が本吉を只の獣医として頼ったのであれば、辿り着いた回答を伝えてもそれを信じてもらう事の方が難しいだろう。
「……まぁ親父が見合いを装ってまで紹介した相手だ。知らねぇ……って事ぁ無ぇだろうけどなぁ」
逆に退魔僧としての面を知った上で話を振ったのだとしても、それがこんな大物の相手と言うのは正直勘弁して欲しい。
現場がこの町では無く二十三区を外れるとは言え都内なので、縄張り荒らしに成り兼ねない事を理由に断る事も出来るだろう。
あの辺りは縄張り争いが激しい地域として業界でも有名な場所だけに、それら複数の組織と揉めるのを避けたいと言えば、此方側を知る者ならば無理強いまではしない筈だ。
捜査情報を此方に寄越している以上、彼女の独断とは考え辛いが……それを明言する様な言葉は電話でもメールでも受け取ってはいない。
どう対応するべきか考えあぐね、取り敢えず一旦落ち着こう、ともう一本煙草に火を点け、
「墓場でそうパカパカ吸ってんじゃねぇよバカ息子。ご近所さんに見られたら化けて出たと勘違いされるだろうが」
不意に投げかけられたそんな言葉に思わず噎せ返った。
暗がりの墓場を明りも無しに姿を表したのは、見るまでも無く本仁和尚である。
「ったく……ついこの間は此方に面倒事丸投げしておいて、今度は手前ぇで背負い込もうってのか? 本当にこの要領の悪さは誰に似たんだかな……」
別ルートから情報を得ているらしい本仁は、面倒臭そうに尻を掻きながら本吉が何を言うよりも早くそう言い放つ。
「でもまぁ、他所との交渉事をやらせなかったのは俺だからな……いきなり完璧に出来る人間はいやしねぇか……」
不満を顔に出すほど子供では無いつもりの本吉だったが、やはり幾つに成っても親は親、未だまだ呆けた様子の無い父親には全てが見透かされている様で面白くは無い。
「……御託は良いから要件を言えよ要件を、人死が出てるんだぜ? 家が動くにせよ地元に任せるにせよ、さくさくやらねぇと次の被害が出るだろうが……」
苛立つ内心を押さえつけそう話の先を促す姿は、何方に転んでも良い様に腹を括った男の表情をしていたのだった。