嵐の跡の後始末
祖母から受け継ぎもう直ぐ五年、週一度の業者清掃を入れていたのは、祖父母が経営していた頃からの習慣を受け継いだ、殆ど念の為としか言えない様な程度の事に過ぎなかった。
猫達はしっかりと躾けられ、店内に幾つも設置した爪研ぎ以外が傷付けられる様な事は今まで一度も無かったのだ。
しかし今朝、目の前に広がっていた光景はソレを大きく覆す物だった。
木製のペットフェンスで申し訳程度に区切られた、カウンター側の飲食スペースは全く問題は無い。
絶対に入れない様に隔離しているという訳では無いので、多少の抜け毛が落ちていたりはするが、それは何時もの事で有る。
だがフェンスの向こう側、猫達とお客さんが戯れるメインフロアーは今まで見た事の無い程に荒れ果てた惨状を晒していたのだ。
床に敷き詰められたタイルカーペットは、無事な所を探す方が難しい程徹底的に爪で掻き毟られ、酷い所は裏地にまで爪痕が達している。
十個以上設置した爪研ぎも年単位で使い古されたかの様に引き裂かれボロボロだ。
一番大きなキャットタワーに至っては、柱に巻き付けられた爪研ぎ様の麻縄どころか、芯材にすらも大きな傷が入り、そのまま使い続ければ何時へし折れるかも解らない、そんな状態だ。
壁紙も所々が剥がれ落ち、石膏ボードが姿を見せている所も有る。
はっきり言って、猫が一晩でやらかすには少々……いやかなり無理が有る、悪意を持った者が入り込みナイフか何かで所構わず斬り付けた、芝右衛門の目にはそんな有様にすら見えた。
しかし入り口のガラス戸には鍵が掛けられたままで有り、カウンターの片隅に設置されたレジスターにも手を付けられた痕跡は無く、カウンター下の戸棚、酒瓶に紛れて置かれた手提げ金庫も無事だ。
金銭では無く、猫達を傷付ける事が目的と言う可能性も考慮し、彼女達は皆掛かり付けの動物病院へと連れて行った、検査結果は先程電話で連絡を受けたが目立った外傷等は無く、病気の予兆等も今の所は見当たら無いとの事で有った。
「虫の居所が悪い、そんなんで毎回こんな状況にされちゃぁ堪らないな……」
壁紙の張替えと室内清掃を何時も頼んでいる業者に超特急価格を上乗せしてお願いし、夕方までには終わらせると返事を貰ったので、明日の営業再開は不可能では無いが、原因が解らずまた同じ事を繰り返されると少々辛い。
そんな事を思いながら溜息を一つ吐き、業者が来る前に出来る範疇の掃除をしようとゴミ袋を取り出した、その時だ。
「おはようございま~す……ってどうしたんですかこれ!?」
昨日の陰鬱な気分は引きずら無い、と言わんばかりに元気に出勤してきた沢子は、店内の有様に驚きを隠す事無く更なる声を上げた。
臨時休業するしか無い状態だと言うのに、彼女への連絡をすっかり忘れていたのだ。
『そりゃぁ、偶にやぁそんな事も有るさね。今は歳食って大人しゅう成ってるだろうが、葵や勝を引き取ったばっかりの時にゃぁ、本当に酷かったもんだい』
取り敢えず業者への対応を沢子にお願いし祖母に電話する、と状況を軽く説明しただけで、考えこむ様な間も置かずそんな言葉が返ってきた。
『どうせお前の事だ、猫達を構ってやってないんだろう? お客さん達と遊ぶだけじゃぁ猫達のストレスは貯まるだけ。ちゃんと猫達の様子を把握してないから、そんな事で驚くんだよ』
少々厳しい口調でそう言う祖母の言拠れば、家の猫達は客に媚びる事でおやつを貰える可能性がある事を理解しており、美味しい物を食べる為に意に反して……とまでは言わずとも相応にストレスを感じながら働いて居るのだと言う。
彼女が店を切り盛りしていた頃には閉店後の数時間、猫じゃらしを使ったりマタタビを与えたりと、少しでもストレスを解消出来る様にしていたのだそうだ。
言われて見れば閉店処理を済ませた後は、さっさと帰って寝るか、酒を呑むか、で猫達と直接関わる様な事は、餌を与える位しかしていない。
『猫ってのは知らない奴が自分の縄張りに入ってくるだけでも、ストレスを感じる生き物だからね。普段の営業だって猫達に無理させてんだ、それを上手く解消させてやるのも仕事の内だよ』
しかし店で出す幾つもの料理を手掛けていた事を考えると、よくもまぁそんな時間を捻り出す事が出来ていたもんだ……。
学生時代から実家を出る事も無く食事に関しては、この歳まで母親の上げ膳据え膳で暮らして来た。
特製カレーはしっかりと祖父の味を出せているのだから、やろうと思えば出来ない事は無いのだろうが、少なくとも彼女の様に幾つもの料理を並行して無駄なく作り上げる様な手腕は無い。
それ故に店で出す物の大半は市販品をそのまま出しているのだが、その今ですら勤務時間の長さに負担を感じなくも無いのに、それ以上の事をずっと続けていたと言う彼女の言葉になんと返答して良いのかも解らなかった。
『……二人で回せないなら、バイトをもう一人増やせば良いじゃないか。お前がずっと店に居なきゃ成らないって事は無いんだ、代理を頼める子を雇えば良いんだよ。その位の売上は出てるだろう?』
言われて見れば、確かに自分が絶対に常駐しなければ成らない理由は無い。
店長代理を務める事ができる人を置いて、その者では対処出来ない様な問題が起こったならば改めて、呼び出して貰うと言う方法だって有る。
人件費と言う問題は有れども、そのほうが圧倒的に自分にもその代理責任者にとっても、圧倒的に負担は小さく成るだろう。
取り敢えず清掃と壁紙の張替えが終わったら、バイト募集の張り紙でも書こう、たぶん常連の誰かが若い人を紹介してくれる筈だ。
「有難う婆ちゃん、何とか成りそうだ」
多少なりとも光明が見えた、と言わんばかりの物言いでそう返答する芝右衛門。
『礼は良いからさ、次に見舞いに来る時にゃぁ彼女の一人でも連れて来なさいよ。お前もそろそろ嫁を貰わにゃ格好の付かない歳頃だろう? 新しく雇うのもそう言う子にすれば、多少なりとも仕事も楽しく成るんじゃないかい?』
だがそれに返ってきたのは反論し辛い、そして耳に痛い言葉だった。
店に戻ってきた猫達が、辺りを探る様に鼻を鳴らしながら歩き回るのを眺めながら、爪研ぎやキャットタワーを買い替えるついでに買ってきた画用紙にペンを走らせる。
消耗品で有る爪研ぎは兎も角、タワーは今までの物と全く同じ型の物は無く、同じような大きさの物を代替品として購入したのだが、環境変化に敏感な猫には人にとっては些細な違いが大きなストレスになるのだそうだ。
「書き上がったら、少し遊んでやるか……」
そんな言葉が口を付いた事に、誰が聞いている訳でも無いのに気恥ずかしさを覚える。
思い返して見れば、中学を過ぎた辺りから店に顔を出しても、それは婆ちゃんの料理が目当てで猫達を構う事は殆ど無かった。
子供の頃には、友人達と共に猫達を弄くり回し、怒らせて爪の制裁を受けた事すら有ったのに……だ。
他所の猫喫茶の主だった顧客は女性だろう、だが内の店は隣の会社の所為と言うと人聞きが悪いが、若い女性が入ってくるのには躊躇を余儀なくされる立地で有る。
結果、猫好き男性……それも強面だったり、クールを気取っていたりする者が、人の目を憚らずに猫と戯れる事が出来る店、と言うのが常連達の顔ぶれからは想像出来た。
中には何人か女性客や、どっちとも付かない者が居るのも事実だが、大半は上記に該当する様な男性客ばかりなのだ。
そんな店なのだから、芝右衛門自身が猫を可愛がる事を揶揄する様な者は居ないだろう。
『猫好きの男は女々しい』とそんな先入観にも似た何かに縛られた自身を恥じ入りながら、仕上げた張り紙を手にドアベルを響かせながらガラス戸を開けるのだった。