怒りの暴風、悪意の凪
研ぎ澄まされた鋭く硬いそれは数えるのも馬鹿らしい程に、繰り返し繰り返し振り下ろされる。
苛立ち、怒り、焦慮……直接晴らす事の出来ないなんとも言えぬ感情を、ただぶつける為だけに切り刻まれそれは原型を失って行く。
どれ程の間そうしていたか、そんな事は誰も気にしてはいない。
何時何時その矛先が自らに向かわないとも限らないのだ、嵐の様な憤怒を撒き散らす彼女の関心を引かぬ様、皆息を潜めただただ時が過ぎるのを待っているのだ。
時折漏れる唸りや咆哮は臓の腑から込み上げる彼女の憤懣遣る方無いと言う気持ちの現れだろう。
固い物を無理矢理切り裂き響き続けるその音は、怒りの深さを聞く者に否応無く納得させるだけの物を秘めている。
両の手を振り下ろし続けるだけでは、溢れ出す激情を押さえきれ無かったのか、半ば形を失い掛けたソレを掴み、牙を突き立て、只管に両足で追い打ちを繰り返す。
絶え間なく吹き付ける嵐の様な止めどない衝撃音は、その一撃一撃が決して軽い物ではなく、芯に響く威力が篭っている事は間違い無いだろう。
永遠に続くかと思われたその蛮行も、唐突に終わりを告げる。
破滅の音を響かせ、暴力を受け止め続けたソレが完全に破壊され尽くしたからだ。
誤った使い方をすれば、物は本来の寿命よりも早く壊れる事も有るだろう、乱暴に扱えば尚更で有る。
だがそれは別段誤った使われ方をした訳では無い、そもそもが乱暴に扱われる事が前提に作られた物なのだ、しかもそれは殆ど新品と言っても良い物だった。
切り裂き、蹴り飛ばし、打ち砕いても尚、興奮が収まらぬ様子で息を吐く。
打ち砕かれたそれ……―店内に設置された中でも比較的高価で頑丈な『爪とぎ』を一瞥すらする事無く、心の赴くままに破壊の限りを尽くした小松は、次の獲物を探し周囲を睨め回す。
と其処に真っ赤な海老を模ったぬいぐるみ――所謂けりぐるみと言うヤツだ――が投げ込まれる。
本能の赴くままに牙を剥き飛びかかり、組み伏せ噛み付き只管に蹴りを叩き込む。
興奮に興奮を重ね、既に自分でも何をしているのか解らない程に、理性の欠片すらも残らず燃え盛る様な熱狂を示すかの様に、その瞳は真円を描いて居た。
下手に刺激してその矛先が自らに向かう可能性は有った、だが一先はあのけりぐるみが破壊されるまでは安心して良いだろう。
投げ込んだ本猫のお銀はただただ安堵の溜息を吐くのだった。
「小松つぁん、なしてあんな荒れてるん?」
メインフロアで暴れ回る破壊神に目を付けられぬ様、戎丸は身を隠しながらお銀にそう問いかける。
「今日、松ちゃんが来たんだけど、あの子と話がまた酷くてねぇ……」
溜息を吐きながらそう返事を返すお銀、戎丸は店内に漂うカレーの臭いを少しでも避ける為、控室に篭っていたのだ。
松ちゃん――橘松葉は、先日結婚を報告し遠くの新居へと移る為、この店へと来る事は殆ど無いだろうと言っていた。
だがそれから然程も経たぬ内に再び来店した、それも尋常では無い落ち込んだ様子で……。
それを見た沢子は所謂マリッジブルーの様な物と思った様だが、事体はそんな軽い物ではなかったのだ。
「……結婚の為に仕事まで辞めたってのに、この期に及んで一方的に婚約破棄されたんだってさ」
お銀に取って松葉は贔屓の客と言う訳では無い、それでも長年通い続けてくれるお客様として、少なからず見知った相手である。
そんな彼女が理不尽な目を見て、憤る気持ちが無い訳では無い。
その気持が現れているのか、吐き捨てる様な口ぶりでそう言い放った。
「なんやて!? 人間の婚約言うたらそない軽々しく翻せる様な物とちゃうやろ?」
驚きに思わず大きな声が漏れそうに成るが、破壊神の怒りが己に向かうのを恐れ慌ててそれを噛み殺す。
「……本当に酷い話なんだよ」
一瞬の沈黙し、暴力の矛先が自分達に向かわぬ事を確かめた上で、お銀は再び口を開く。
その話では松葉が婚約破棄されたのは彼女の落ち度に依る物では無かった。
母子家庭で父は自身が生まれる前に命を落とした、と言われて育った松葉だったのだが、その父が未だ生きて居る事が原因だったのだそうだ。
無論ただ生きていると言うだけで、それが破棄の理由と成る訳では無い。
問題はその男が今現在服役中の犯罪者だと言う事だ。
浮気とDVが原因で妊娠中に離婚したが故に、たったの一度も顔を会わせた事すら無いその男が父だと言われても、彼女には実感は無いだろうし赤の他人と言っても差し支えは無いだろう。
だが彼女の婚約者とその家族には違った。
比較的大手と言っても良い総合商社の跡取り息子で有る彼の、婚約者とも成れば本人の素行は勿論、調査の範囲は親戚郎党に及ぶ。
母子家庭と言うだけでも彼の母や親族からは反対の言葉が続出していたのに、その父親が懲役刑を受ける様な人物だった事でその声は一際大きな物となった。
鬼の首を取ったかの様に、二人を責め立てる親戚達の猛攻に絶えきれなかったのか、それとも嫌気が差したのか、男は父の事を黙っていた……と彼女を責め、そして婚約の破棄を一方的に通告したのだそうだ。
「……なんやそれ? 幾ら父親や言うた所で、会った事すら無い様な男の影響なんざ有る訳ありゃせぇへんやろ……」
遺伝という物を知らない訳では無い、だが人も猫も精々毛色が変わる程度の物――母猫に狩りを教わらなかった子猫は野生で生きていく事など出来はしない――重要なのは育ちや教育だ……と戎丸はそう考えている。
「しかも知らん物を黙ってるも糞も無いやろ。糞みたいな男に引っかかったんを隠したいオカンの気持ちかて判らん話やない……それを責めるなんてなケツの穴の小ちゃな奴と番に成らんで正解やろほんまに」
怒りを通りこし、呆れを孕んだ声でそう言う戎丸。
「まぁ罪人を身内に持ちたく無いって言う、相手方の気持ちも解らない訳じゃぁないけれど……理不尽な話だわねぇ……」
直情的な傾向の有るお銀が怒りや苛立ちを顕にする事無く、淡々とした様子で相手に理解を示す様な言葉を口にするのは、きっと自身よりも大きな感情を爆発させる小松が居たからだろう。
それでも見知った顔が悲しみに歪むのを見るのは、決して愉快な物では無い。
必ずしも一方的に相手がだけが悪いとも言い切れない、そう思える部分も有るが故に、小松もまた怒りの矛先を外へ向ける事無く、ただ鬱憤を晴らす為に八つ当たりをするしか無いのだ。
「でもさ~ぁ、別に私等猫が人の理に縛られる必要無いじゃない? 腹立つ苛立つならその腹いせをしたって良いじゃないのさ、猫なんだし……」
チェシャ猫の様な厭らしい笑みを浮かべ、そんな事を言ったのはいつの間にやら姿を表した葵だった。
「滅多な事をお言い出ないよ。只猫ならいざ知らず、あたしら化け猫がこうして静かに暮らせるなぁ、約束を守っているからこそさね。下手な事して騒ぎにでも成りゃ店に迷惑が掛かるってもんさね」
コレだから若い者は、と言いたげな口ぶりでそう言うお銀だったが、出来る事ならば意趣返しをしてやりたいのは彼女も同じで有る。
「そんな事位はあたしだって知ってるよ……。でもさぁ、約束に引っかかるのは人や物を不用意に傷付けたりする事だろう? 今時、大きな事件なんて幾らでも有るんだ、わたし等が多少やらかしても早々大事になんて成らんでしょ」
それは甘い悪魔の誘惑にも似た言葉だとお銀はそう思えた、小松が聞けば抗う事の出来ない誘惑だと……
「……そうだねぇ。約束に逸脱しない範疇での意趣返しなら、許される筈だよねぇ……何せ私等は自由気ままな猫なんだから……」
そしてその予感は外れる事が無かった、いつの間にやら止んだ怒りの暴風は、悪意の誘惑に魅入られた暗い暗い笑みへと姿を変えていたのだった。




