狢狩人に追われ、思い出す事
落ち着け! 落ち着くんだ! たかだか見合いの一つや二つで狼狽えるんじゃない!
川南の馬鹿共に待ち伏せされた時や、横浜のチーマー連中と対立した後輩を助ける為に遠征までしたのに比べれば、大した事は無い……。
いや普段から人の法にすら縛られぬ物の怪共を相手にしているのだ、命の遣り取りですら無いこの状況に焦る必要など無いではないか……!
だが、結婚は人生の墓場とも言う、それを考えればこの場での選択を間違えれば、ある意味で俺は死を覚悟しなければ成らないかも知れない。
背筋を流れる嫌な汗が止まらぬのを感じながらも、それを表情に出す事無く本吉はそう自らに言い聞かせる。
何処ぞの友人とは違い本吉は魔法使いでは無い、酒も煙草もそして女も北の地で修行していた時代に先輩の修行者達から、
『知らぬ物を絶つのは容易い。快楽を知り煩悩を自覚し、それを己の意思で抑える事こそが誠の修行』
『俗欲を知らず育った者が、いざ一人前に成ってから欲に塗れて身持ちを崩すなんてのは有触れた話。欲に溺れぬ様拙僧が監督してやるから今は呑みに行くぞ!』
『今日こそはアケミちゃんとアフター行くぞ!』
等と言われ、宿坊から然程離れていない北国最大の歓楽街へと、度々連れ出されていたのだ。
先に待っていたのは阿鼻叫喚の地獄絵図……とまでは言わずとも、目を覆いたく成る様な醜態を晒す先輩達の姿。
それまでの学生生活で嗜む程度に呑んでいた酒も、過ぎたが故に堕ちる所まで墜ちたと言わんばかりの醜態を目の当たりにし、そうは成るまいと絶つ事を堅く誓う事と成る。
時には酒が呑める店では無く、もっと直接的な快楽に身を委ねる様な店に連れて行かれた事も有るが、先輩が淋病を貰ったのを知りそれ以上は行く事は無かった。
その他にも、宿坊の立地の関係なのか、様々な欲や趣味を持つ者達が居たが、これも修行と言う言葉で先輩に誘われれば、違法行為でさえ無ければ一度は付き合う事にしていたのだ。
結果煙草と肌色が多い類のパソコンゲームは未だ辞められていないが、自身の宗派としては双方共に禁じられた範疇の物では無いので、まぁ許容範囲の内だろう、と自分に言い訳している。
とは言え、それら経験も全ては商売人を相手にした物に過ぎず、所謂『素人童貞』と言う奴で有る事に間違いは無く、学生時代含め正式な交際の経験等無い。
ましてやそれが結婚を前提とした物で有れば、二の足を踏むには十分だろう。
対して相手は百戦錬磨……と言うと丸でアバズレの尻軽女の様に聞こえるが、少なくとも見合いという状況には場馴れした女性である。
色々と考え現実逃避して相手の話を聞き流せば、どう転んでも最悪の結果を迎える事は目に見えている。
今一度腹を括って対応しなければ成るまいな。
そう考えながら、仕切り直しのつもりで茶碗へと手を伸ばしたその時だ。
「あの……、お茶おかわり入れましょうか?」
茶碗を手にした本吉に臨は微笑を浮かべながらそう声を掛ける。
「あ……スミマセン、オネガイシマス」
言われてから間の抜けた声でそう返す本吉、言われるまで茶碗が空だった事に気が付いて居なかったのだ。
頭を掻きながら湯呑みを差し出すその姿は、普段の落ち着いた獣医で僧侶のそれでは無く、丸で離れしていない若造の様にすら見えるのだった。
純和風造りの建屋に似合わぬ近代的な保温ポットから急須へと湯を移しながら、臨は目の前に座る伝説的な先輩の一人を改めて観察する。
地元だけで無く、近隣の県どころか都内の不良や暴力団員ですらも目を合せるのを避ける武闘派三人組。
竹刀を木刀に持ち替えれば師範ですらも命が危うい。
自分達から喧嘩を売る事は無いが、誰かが絡まれていれば喜々として飛んでいく。
色々と尾鰭が付いた結果の噂だろうが、少なくとも彼らが在籍した時期から自分が大学進学で地元を離れるまで、所謂不良達が大人しかった事は間違い無い。
その内の一人は同業者だったので、何度か職場で顔を合わせた事も有る。
彼は噂通り、触れば切れると言う様な空気を孕んだ剣呑そうな男で、ただ黙ってその場に居るだけで現場に張り詰めた空気を醸し出し、一度動き出せば確実に結果を出すそんな人だった。
とは言え所属が違ったので、決して親しい間柄とは言えないが……。
同僚の中には危険な雰囲気を纏う彼に惹かれ、水面下でのアピール合戦を繰り広げていた様だが、彼はそれに対して靡く事も無くただストイックに仕事に邁進するその姿がまた素敵だと、そんな風に言われていた。
そんな人達と肩を並べていたと言うその人物が見合いの相手と聞いて、どんな強面が相手なのかと不安を感じなかったと言えば嘘に成る。
だが実際に向かい合った彼は、柔和で優しげな笑みを絶やさぬ、見る人を安心させるそんな好人物に見えた。
考えてみれば僧侶も、そして獣医も人を安心させ癒やす事を必要とする職業だ。
中には漫画に出てくる様な迫力ある人物も居るだろうけれど、どちらかと言えば彼の様な人物の方が第一印象としてはしっくりと来るだろう。
それに普段持ち込まれる様な、若手とは名ばかりの政治家や、父への伝手だけを求める起業家達は、見合い相手の彼女にすら腹の探り合いを強いる狸達ばかりだった。
目の前に座る彼もやはり狸では有るが、それは老獪な古狸では無く信楽焼の様な愛嬌の有る狸だ。
この見合い自体が彼にとっては不意打ちの様な物だったらしく、聞き及んでいる様な百戦錬磨の武闘派の姿は鳴りを潜め丸で子供の様な姿は事前情報と余りにも落差が有り、臨は思わず笑みが溢れるのを押さえられなかった。
「何か失礼を致しましたかな?」
表情その物を取り繕う事は出来ている、がそれは飽く迄も一般社会人としてのラインで、化かし合いを生業とする者としては少々足りず、彼女が小さく笑みを浮かべたのに対しても、焦りにも似た何かを必死に隠しながら、そう言葉を発する。
「いえ、噂に聞いていた先生のイメージとは大分違うなぁ……と、思いまして」
対して取り繕う事無く言い放つ臨。
「どの様な噂かは敢えては聞きませんが……まぁ見た通りのオヤジで申し訳有りません」
開き直ったと言うのとも少々違う感じでは有るが、やっと落ち着いた様子でそう言うその瞳は、先程までの間抜けな狸の物とは違う、むしろ噂通りの武人のそれに見える。
「いえ、むしろ普段会わされる様な狐狸の類と違って、とても好感が持てる御方だと思いますよ」
その言葉に決して嘘は無い、だが本吉は社交辞令の類受け取ったらしく、その時点で完全に落ち着きを取り戻していた。
「狐狸とはまた手厳しいですな。貴女の目には私はどの様に映っているのか、少々怖くすら思える」
そっと手渡された茶を口に運びながらそう言う彼の瞳は、完全に彼女を斬るべき相手と見定めた様だ。
こうでなくては面白く無い、そっと口元を袂で隠し浮かべた笑みは、見る者が居れば丸で獲物を前にした肉食獣のそれだ、と思ったに違いない。
「ぱっと見る限りでは、可愛らしい愛玩動物……けれども実際には牙を隠し獲物を狙う捕食者……でしょうか。少なくとも背中を任せるに足る武人とお見受け致しました」
若い娘さんが口にするには少々物騒な言い回しに面を食らいながら、その姿に一つの疑問が首を擡げる。
「……そう言えば、先輩の紹介では省かれて居たようですが、どの様なご職業で?」
そんな問に対して彼女は、笑みを消し鋭い眼差しで彼を見返しながら言い放つ。
「警視庁捜査一課、寸原臨警部です、申し遅れ失礼いたしました」
その眼差しは、本吉に今は亡き親友を思い出させるには十分なだった。