狢罠に掛り、過去を思う事
……何やら不味い事に成っている。
背筋を伝う冷たい汗、退魔僧として命の危険を幾度と無く越えてきたその直感が告げていた。
その後ろに命を背負う仕事であり、引けば他者が危ない、逃げる退くそう言った選択肢を封じられる事も時には有る。
そんな時ですらも、此処まで得体の知れない不安に襲われた事は無い。
状況すら分からず孤立無援……絶対に味方で有り続けると思った人物すらもが、自身を陥れんとする刺客と成った。
当年取って三十七、とうとう年貢の納め時か……。
四面楚歌の状況とは言え、即座に命を奪われる様な事は無い。
その様な直接的な荒事ならば、討死するとしても一暴れする程度には腹を括る事が出来るだろうが、現状はそんな生易しい物では無い。
しかしそれでも表情を変える事すら自身に不利を招きかねない事が理解できる程度には、場数を踏んでいる。
だが幾ら表面は取り繕って居ても、内心の緊張そのものが無くなった訳で無く、口の乾きを覚えた本吉は、テーブルに置かれた茶碗へと手を伸す。
普段着慣れた袈裟では有るが、その衣擦れの音すらもが耳障りになのは、それだけ気が張り詰めているからだろう。
殆ど同じタイミングで茶碗へと手を伸ばしたのは、直ぐ隣に座る父、本仁だ。
本来で有れば、彼こそが誰よりも自身に親しい味方の筈だが、今日ばかりは敵と認識する他無いだろう。
今日は動物病院の休診日、本吉は普段通りのお勤めは勿論、何時寺を引き継ぐ事に成っても良いよう庶務雑務に精を出そうと考えていた。
だがそろそろ昼食の準備を始めようかと言う頃合いに成って、突然本仁は外へ食べに行こうと言い出したのだ。
食事に絡む禁則の少ない宗派故に別段外食事体は珍しい事では無く、その時点では何ら疑う様な事も無かった。
父の運転する車で向かったのは町から少し離れた郊外の山間に店を構える、山菜類を中心とした精進料理を売りにした比較的高価な料亭で有る。
他の寺社等との会合等でよく使う店では有った為、この店に来た事事体も疑う要素には成り辛い。
予約も無しに入れる店では無いので、突然思い立って来たと言う訳では無い事は直ぐに気が付いたが、他所から緊急会合の申し入れでも有ったのだろうと、そう考えてしまった。
だがそれならばそうと言わない理由が無い事に気が付いたのは、中居さんの『お連れ様が到着なさいました』と言う言葉を聞いた後で有る。
会合が持ち込まれたのであれば、その主催者が先に付いて居なければ失礼なのだ。
部屋に通された時点で自分と父以外の姿が無い時点で、普段通りの会合では無い事を察し、さっさと脱出していればよかった。
しかしこうしてテーブルを囲む人員が揃ってしまえば、そんな訳にも行かない。
茶を一啜りし、一度瞑目すると一同を見渡してみる。
隣の父は言うに及ばず、真正面には法事等で何度か顔を合わせた事の有る強面の国会議員――寸原先生、上座下座には今は亡き親友の兄夫婦、そして斜向いに座るのは……華美では無いが決して安物とは思えぬ振り袖に身を包んだ女性が座っていた。
友の兄――剣一郎先輩が口にした紹介の言葉に拠れば、彼女は寸原先生の娘で名は臨、やはり法事で何度か会った事が有るらしいが、正直な所覚えては居ない。
「……さぁ、後は若い人達に任せて、私達は滝でも見に行きましょうか」
本人達には全くと言って良い程に会話が無いまま、双方の父だけが盛り上がり暫くした頃、これ以上無いほど朗らかな笑みを浮かべた友の義姉がそう口にし、嫋やかな仕草で立ち上がった時、やっと本吉は自身に仕掛けられた策謀の全てを察したのだった。
「……お話、何も聞いてらっしゃらなかったのですか?」
部屋に二人だけになり、暫しの沈黙の後そう切り出したのは臨の方だった。
「ええ、まぁ……以前から彼女は居ないのか、とか早く結婚して孫を見せろとか、散々言われてましたが、まさかこんな強硬手段に打って出るとは……」
恐らく十以上歳上で有ろう自身を気遣わしげに見やるその姿に、微苦笑を浮かべ本吉は頭を掻きながらそう答える。
「……家も言う事は同じですねぇ。ただまぁ、お見合い自体は今までも何度も有った事ですし、何時もの事と言えば何時もの事ですが……真逆お相手が御坊様とは……」
口元を袂で隠し鈴を鳴らす様な声で笑う彼女の言に拠れば、地方では名士の家系とされている寸原家も国会の場では新参者扱いで、政界や財界との伝手を少しでも強化しようと言う後援者達から様々な見合い話が持ち込まれるのだそうだ。
その大半は若手の政治家や大企業の跡取り息子で、中には一代で財を築いた敏腕社長なども居り、見合いだけで無くデートに漕ぎ着けた者も居なくは無かったが、残念ながら彼女の眼鏡に敵う男は居なかったと言う。
「済みません。どうせ家の親父が無理を言ったんでしょう、貴女の様なうら若い女性の見合い相手がこんな四十路絡みのおっさんでは釣り合いませんな」
自虐のつもりも無く率直な言葉を吐く本吉に対して、彼女はむしろ好ましいと思ったのか、悪戯っぽい笑みを浮かべ口を開く。
「いえ、どちらかと言えば家の父がゴリ押ししたんだと思います。お付き合い絡みのお見合いですと、事前にちゃんと釣書を渡されますから。それに多分狢小路さんが思ってる程私も若くは有りませんよ。何せ川北の三狸を知っている世代ですから」
その言葉を聞いた瞬間、本吉は思わず口に含んだ茶を吹き出しかけ、ソレを全力で噛み殺した結果……ムセた。
川北と言うのは彼らの住む町に有る県立高校の事で、彼とその友人で有る二人を合わせた三人の渾名で有る。
周辺の町からも人の集まるそこそこランクの高い進学校では有るが、友人の一人の様に学業からドロップアウトする者も決して珍しいという程では無い。
だがその校風は比較的自由で、そういうドロップアウト組もよほどの事が無ければ退学なんて事にも成らず、上と下の差が激しい学校でもあった。
そんな学校に『狢小路本吉』『猯谷芝右衛門』そして隠神剣十郎……こんな弄りやすい名前の三人組が居て馬鹿共が手を出さない訳が無い。
彼らが何の抵抗も出来ない様な気弱なヲタクの類で有れば、三年間虐められて居ただろう。
しかし幼い頃から揃って竹刀を握らされ厳格な師匠に扱かれて来た彼らが、たかだか落ちこぼれ程度の相手に一方的な虐めを受ける訳がない。
どういう事が有ったかは明言する事はしないが、彼ら三人が在籍していた時期からその後数年間、馬鹿共が大人しく成ったのは確かな事実で有る。
まぁ当時は今ほど学生の喧嘩だ何だが大問題に成るような事も無く、警察沙汰に成ったり入院者でも出さなければ、大概の事は内々で済まされる様な時代だったのだが……。
兎角彼女の口からその名が出ると言う事は、少なくとも彼女は彼らの影響が有った世代と言う事だろう。
「つまり寸原さん……貴女は少なくとも、さn「自分から言い出した事でも、女性に対して年齢の話題はタブーですよ」
……表情は全く変わらず笑顔のままなのだが、そこに込められた意味合いは全く逆の様で、歴戦の化物が発するよりも強い圧力を放っている様に感じられる。
「あ、はい……スミマセン……」
他者への気遣いが絶対的に必要な僧侶で有り獣医で有る彼が、こんな失言をしたのはきっと普段感じる事の無い場の雰囲気に飲まれたが故の事だろう、きっと、たぶん、おそらく、めいびー……。