爺と祝と盃と
「んなもん、店長が嫁はん貰て、一緒に商売したら済む話やんか。店長もそろそろ良え歳なんやから、はよ結婚して親御さん安心させたりぃな」
三毛の戎丸をスラックスに毛が付くのも構わず膝に乗せ、コーヒーカップを傾けながらそんな事を言ったのは、このビルの二階で消費者金融――ノギオウファイナンスを営む芒菊桜介だ。
恵比寿様の様な福々しい丸顔と、そこまで行かずともそれでも人並みよりは大きな福耳がトレードマークの、ぱっと見る限りでは人好きのする顔立ちの善人に見える。
だが真っ当な登録貸金業とは言え、金貸しを生業とする者が人の良い善人……では商売は成り立たない。
何時もにこやかに細められ大きく見開く事すら稀な、そんな細目で有るにも関わらず目端が利き、客の返済能力や借金の理由に纏わる嘘を見抜き、返せない相手には鼻から貸さず、逃げられた事は一度も無いと噂されている。
また所謂グレーゾーン金利についても『危ない橋、何時かは崩れる』と常々口にし、法改正以前から利息制限法未満の金利設定で商売し、その結果、過払い金に関するトラブルを抱えず長く細く商売を続けている男だった。
とは言え若い頃には色々と危ない橋を渡っていたのも事実らしく、店主が生まれる頃には既にこの町で商いをしていたにも関わらず、未だに地元へは危なくて帰る事は出来ないのだそうだ。
彼もまたこのビルのオーナー同様に祖父のコーヒーを愛した客の一人で有り、他のメニューに比べるまでも無く安いとは言い難い此処のコーヒーを度々出前を頼み、時にはこうして仕事の後わざわざ来店までしてくれる太客で有る。
勿論彼が店まで足を運ぶのはコーヒーを飲む為だけでは無い。
地元に居た頃には戎丸に良く似た三毛猫を飼っていたのだが、商売に絡むいざこざに巻き込み無残な最後を遂げさせてしまったそうで此方で猫を飼う事はしないが、それでも愛猫家である事は変わらず、こうして戎丸を構いにやって来るのだ。
「……そう言う芒菊さんだって独身じゃないですか。熊田さんも八ヶ谷さんもよく心配だ心配だって零してますよ?」
熊田も八ヶ谷も芒菊の下で働く社員で、芝右衛門と同年代の二人はどちらも既婚者だ。
どちらも最近二人目が生まれたのだとカレーを食べながら写真を見せて貰ったのだが、その際に社長が自分達の子供の事を孫の様に可愛がってくれる事を喜ぶと共に、会社の跡継ぎに成る者が居ない事の不安も口にしていたのである。
今時、跡継ぎが必ずしも社長の子で有る必要性は無いのだが、やはり社長の跡継ぎが居るのと居ないのでは安心感が違うらしい。
「何を言うてはりまんのや……、ワテが今更嫁はん貰ても跡継ぎ何か出来やせぇへんがな、なんせもう種蒔も出来へん爺やさかいな……って、若い娘さんが居る所で言う事ちゃうな。えろうすんまへん、エロう事だけにな」
丁度、猫達の控室から猫のトイレ掃除を終えて出てきた沢子に視線をやり、額を扇子で打って笑いながらそう言うが、艶やかな貼りの有る肌や未だ黒い御髪に髭は言うほど年寄りには見えない。
けれどもその実年齢は見目よりも大分高齢で、祖父やオーナーと然程変わらない年齢で有る。
「まぁ正味な話、店長もそろそろ何とかせぇへんとアカン。あっちが駄目に成ってもうたら、結婚する意味なんざぁ半分は無う成るんやさかい……」
茶化して居る様な口ぶりながら色々と思う所が有るらしく、珍しく瞳を見せてそう言い放つと、カップに残ったコーヒーを飲み干すのだった。
「結婚……かぁ……」
結局閉店まで居た芒菊を送り出し、仕事を終えた沢子も先に帰らせて、猫達と自分だけに成った店内でグラスを傾けながら芝右衛門はそう言った。
商売として出す事は無いが、こうして営業時間後に自分や友人が楽しむ為に、酒や摘みは店内に常備している。
焼酎党だった祖父の影響も有って彼も主に呑むのは焼酎で、駅前商店街で営業している酒屋の店主が仕入れてくる様々な焼酎を一升瓶で月に一本、祖父が現役だった頃からの付き合いも有って中々レアな物を比較的安価に売って貰えるのだ。
芋焼酎をロックで、軽く炙ったスルメを肴に呑む。
決して強いとは言い難い彼は、何時も一杯以上は口にしない。
それ以上呑んだからと言って即座に前後不覚のへべれけ状態……となる訳では無いが、万が一、肴や酒を片付けそこねて猫達が口にしたりすれば洒落では済まされない事体に成るだからだ。
「嫁さん貰ったら、そんな心配をする必要もなくなるのかね……」
祖父も船乗りだったわりには酒に強い質では無く、偶に呑む姿を見れば直ぐに赤くなり、二杯三杯と盃を重ねれば直ぐに寝入ってしまう、そんな人だった。
そんな祖父が店に酒を置き、妻の酌で酒を呑む事が決して珍しい事では無いのを知ったのは、店を引き継いでからの事だ。
カウンターの下に有る収納の中に成らんだ幾つもの焼酎瓶、その大半は封すら切られて居らず、祖父が病に倒れ祖母が店を引き継いでからも変わらず買い求めはしたが、誰も手を付けずただ仕舞われていた物を見つけたのである。
祖母自身、酒を呑まなかった訳では無い、親戚家族が集まる席では相応に口にしていた、だが祖父の居ないこの店で独り呑む事は出来なかったのだと、それらについて訊ねた時に寂しそうな笑顔と共に言っていた。
そしてその時、誰も呑まずただ置いておく事は酒も、そして祖父も望まないだろうと、酒の処分を任されたのだ。
とは言え一人では月に一升瓶を一本空にするのが精々で、その数は殆ど減っては居ない。
以前は友人と此処で盃を交わす様な事もしたが、それをする程に親しい友はあの日からもう二度と此処に訪れる事は無い。
同じ位に親しいもう一人は呑めない訳では無いらしいが、宗教上の理由から酒の類は一切口にしないのだ。
肉も食うしエロ物にも手を出すのだから構わないだろうとか、般若湯なんて言い方も有るだろう、と何度か勧めた事は有るのだが、何か嫌な思い出でも有るのか酒を口にする姿を見た事は無かった。
「と……駄目だ。ほら此方のチーズをやるからスルメを狙うな」
カウンターの上には上がらない様しっかりと躾けて有る筈なのだが、こうして一人で呑んでいる時だけは、毎回必ずと言って良い程にツマミを狙う奴が居た、アメショの葵だ。
この店で最も新しい猫店員の葵は、彼が身体を壊し前職を退職するのと前後して、付き合いの有る動物愛護団体から譲り受けた店の中では比較的若い猫である。
祖母の躾が行き届いて居ないと言う事ではないらしく、客が店に居る時には絶対にカウンターに上がる様な事は無いのだが……。
俺が舐められてるだけか? と思いながらも、言ったとおり猫用のチーズを一つ封を切って差し出した。
他所の猫喫茶だと、おやつの売上を伸す為に与える餌を少な目にする様な所も有るらしいが、少なくともこの店では獣医の指導に基づいた量の餌をしっかりと与えている。
それでもこうして欲しがるは、餌とおやつは別腹と言う事なのだろうか。
葵は掌に乗せたチーズを咥えると、逃げる様にキャットタワーを駆け上り、天辺の箱へと姿を隠す。
この反応も毎度の事なので今更どうこうと言う事は無いが、客からおやつを貰った時にはその場で食べる姿を見ているだけに、自分は嫌われているのかとも思わなくは無い。
まぁ、別段猫にさしたる思い入れも無いし……と、負け惜しみの様に呟いてスルメを咥え、再び盃を傾けるのだった。




