白と黒の労働環境
喫茶店のマスターと言えば、多くの人がカウンターでグラスを磨く渋い男性を想像するだろう、芝右衛門も渋いと言うには少々貫目が足りないが、何らかの注文を受けていない時には営業時間の大半をそう言う風に過ごしている。
勿論仕事をしていないという訳では無い、ただ厨房とカウンターから出る訳には行かない事情が有るのだ。
人の口に入る物を取り扱う以上、清潔で無ければ成らないのは当然で、万が一にも猫の毛やその他汚物が食品に混入する様な事に成れば、それがクレームに繋がり下手をすれば健康被害、そして営業停止等の処分を受ける可能性も有る。
その為、厨房は間違っても猫達が侵入したりしないよう重い扉で仕切られ、飲食スペースも猫の出入り禁止とまではしていないが、カウンターテーブルの上に乗る事は無い様にしっかりと躾はされているのだ。
とは言え猫の世話には汚物の処理がメインだと言っても過言ではない、いくら手をしっかり洗っても食品を汚染する可能性は捨てきれないし、服に付いた毛を厨房に持ち込まない様にするならば毎度毎度着替える必要が有るだろう。
店の広さや規模を考えるならば、一人で営業しても良いのかも知れないと当初は思った物だが、そう言う衛生面を考えると営業時間中何か有る度に着替えたりなんだりと言うのは、はっきり言って現実的では無い。
故に祖父が健在の頃は夫婦で、祖父が病に倒れてからはアルバイトを雇って、営業中は二人居る状態を維持しているのだが、急な病気や外せない用事が出来たりすれば、最悪臨時休業にせざるを得ない現状だった。
とは言え偶に半日程度の事で有れば、店主の母をピンチヒッターとして投入する事で何とかしてきたのだが……。
「……てな訳で、前に言ってた通り来週から春フェスの練習入るんで、暫く休ませて貰います」
店内の客は一人、膝に乗ったアメショの葵と、更にその膝を枕にする様な格好でヘソ天で横たわるソマリの勝を、両の手で撫で付け御満悦の様子で、やるべき仕事が無い状態を見計らいバイトの山田くんがそう言った。
流石に今日明日の事をいきなり言われたので有れば、幾らブラック経営を忌避し健全な経営を心掛けている芝右衛門でも文句の一つも出ただろう。
だがその予定は既に年末には知らされて居たもので、彼が所属するバンドが大型ライブイベントへの出演が決まり、その為の練習と当日は遠征に成る為、長期の休みを取る事に成っていたのだ。
「あー、そう言えばそうだったね……。あー、すっかり忘れてた……」
言われて店内に貼ってあるカレンダーに視線を向けると、そこには確かに自分で書き込んだ覚えの有る『山休→』の赤い文字が有る。
その内考えよう、もう少ししたら対応しよう……と先延ばしにしている内に気がついたら、それはもう翌週の事と成っていたのだ。
期間は丸々二週間、一日二日ならば兎も角その間毎日母親が出張るのは無理が有るだろうし、かと言って沢子が出勤するまで店を閉めたままという訳にも行かないだろう。
アルバイトをもう一人どころか、もう二、三人雇える程度の収入的余裕は有る。
だが決して広いとは言い難いこの店で三人も店員を常駐させた所で、ぶっちゃけやる仕事が無いのだ。
とは言え、アルバイトが一人休んだだけで営業その物が出来ないという経営体制は流石に問題が有りすぎる、今までソレが表面化しなかったのは運が良かったに過ぎないだろう。
酷い労働環境で苦い思いをしたが故に、ソレが所謂ブラックバイトに繋がり兼ねない事は重々承知している。
そんな事を思い小さく溜息を吐き、
「まるっと休む訳にも行かないし、春休み中だけでも沢子ちゃんに早出してもらえないか頼んで見るか……」
それから一人呟く様にそう口にするのだった。
「春分の日は用事有るんで、無理ですけどそれ以外の日でしたら大丈夫ですよ」
夕方、出勤してきた沢子に早速話を切り出すと、あっさりと承諾の言葉を口にした。
「勿論、賄い二食付きますよね? イベントでごっそり新刊買う予定だから、丁度稼ぎたかったんですよねー 食費浮くならその分も回せるし、万が一印刷代分売れなくても収入の当てが有れば色々買えちゃうなー」
渡りに船と喜びを露わにする沢子に対し
「そりゃ何時も通り昼食と夕食は出すよ。てか、出さないで俺だけ食べる訳には行かないでしょ」
苦笑いしながらそう返事を返す。
賄いとは言っても、そう本格的な料理を作る訳では無い。
ご飯はちゃんと炊くが、おかずはサラダや漬物、時にはハンバーグや魚を焼いたりする事も有るが、それとて一階の店で出来合いの物を買って来るだけだ。
祖母が現役だった頃は、毎日様々な料理を作り振る舞っていたが、残念ながら現店主はカレー以外の料理を作る腕は無い。
とは言え決して不器用な男では無いのだから、レシピを見ながらであれば作れない事も無いが、そこまでの労力を掛けて美味いと言い難い物を振る舞う位ならば、出来合いのそこそこ美味い物を出される方が食べる者の為だと考えているのである。
作らないから上達しないのでは有るが、自分だけが食べるなら兎も角、他人に振る舞う前提で中途半端な物を作るのは相手に対しても食材に対しても失礼な事だろう、と芝右衛門はそう思う。
その様な考えに至ったのは、大学時代に付き合った彼女が、カンチガーイとギャクギレーゼを併発したマズニチュード5強を記録する傑物だった事は決して関係しては居ない筈で有る。
傷んだポテトサラダを愛情を盾に口にする事を強要し、病院送りなれば愛情が無いから……等と曰う、そんな輩と比べればマシな腕は間違いなく有るのだが……。
「……ポテトサラダ食っちまわないとな。流石に賄い用で1kgは多すぎたか」
幸い心的外傷を負いポテトサラダを口にする事が出来ない、と言う状態には成ず、食えなかったり苦手と言う程の物は無い。
それは料理上手だった祖母も、それを食べて育った父の御眼鏡に適った母も、手抜きする事無くしっかりとした物を食べさせてくれたが故の事だろう。
こうして店を継ぐ事に成るのだったらカレーだけで無く、もっと色んな料理を習って置くべきだったと、後悔しきりだった。
ちなみに今日の夕食は、和風鶏もも唐揚げ(冷凍品、チンするだけ)をメインにたっぷりのポテトサラダ(出来合い)と味噌汁、デザートには杏仁豆腐(紙パック入り)といった具合だ。
野菜をもう少し取りたい所では有るが、まぁ野菜ジュースで補うとしよう。
『……日、未明突如行われた骨川ダムの放水に付いて、ダム管理事務局は午後2時と設定するべき所を午前2時と入力してしまった事に依る、人的エラーだと発表しました』
と、不意にテレビからそんなニュースが聞こえてきた。
見ればメインフロアのテーブルに置かれていたリモコンをマンチカンの虎が踏んづけたようだ。
一応設置しては居るが時間幾らのパック料金を払うお客さんは当然見る訳も無く、店員達もよほどの理由が無ければ、わざわざテレビを見ようとは思わない。
ならばリモコンをしまっておけば良いとも思うのだが、いつの間にやらあのテーブルの上に移動しているのである。
祖母の躾に依るものか、齧ったりなどはしないので猫達の好きにさせていると言うのが実情だろうか?
そのニュースは午後6時からの番組の様で、それもそろそろ中盤と言った頃合いの様だった。
「もうこんな時間か……そろそろ夕食の支度をするかな。お客さんが来たら対応お願いね」
リモコンに手を伸す沢子の背にそう言葉を掛けて、芝右衛門は厨房へと入るのだった。