人間は子孫を残さなくても本能的役割は果たしうるという話 (結婚しなくてもいいという話)
人はよく「良い家庭を作りたい」「結婚したい」「子供が欲しい」と言う。
生涯にわたって独身を決意し、絶対に子供はつくらないという人もいれば、一方で、もしかしたら、そもそも子供をつくることがかなわないという人もいるかもしれない。
さて、ここで論じたいのは、上記のような事柄に対する是非ではない。私が論じたいのは、上記の事柄に対する「何故そうしたいのか」という論拠となる部分についてである。
何故「子供が欲しい」のか。当たり前だが、人に色々あるだろう。「単純に欲しいと思った」「自分の血を後世に残したいと思った」など、多くの理由が考えられるが、最終的にそれらの根幹を支える論拠となるものは、おそらく「本能的」という言葉に収まるのではないだろうか。
幸せを求めるというのも本能的だと思うし、子孫を残すというのも本能的だと思う。結婚は利害関係だなんていう言葉も聞くけれども、それこそまさに本能的。男が、女が、どちらがどうとか、愛がどうだとか、そういったことは全て含めて本能的と評してよいのではないだろうか。
これは、批判でもなければ、皮肉でもない。単なる事実として、最終的な根幹はそこに帰着するのではないだろうか、という話。
それを前提とする。そこに対しての反論はない。では「本能的」とはどういうことかという点について迫りたい。辞書で調べてみると本能的という言葉は「生まれつきその性質をもっているさま」である。
例えば、蟻が餌を巣に運ぶ、ライオンがシマウマを食べる、これらは即座に本能の為す事だと言い切れるだろう。
もっと発展させ、議題に近づける。オットセイの雄が雌と交尾するため熾烈な縄張り争いをする、雄猫が自分の遺伝子を残すために子猫を殺す(子猫を殺された雌は再び発情し妊娠可能になるため)、カッコウが他の鳥の巣に卵を産み付け孵った子供が他の卵を落とす、どれも熾烈な自然界では当たり前に起きうることだ。
同情したいからこれらの事例を書いたわけではないし、熾烈な自然界では、こういった行為は種の保存、己の遺伝子を次の世代へ引き継がせるために必要なことなのだ。
けれど、これらのことを知らなかった人、もしくは、知っていても改めてこういった事例を並べられて、我々人はどう考えるだろう。
中には何とも思わない人もいる。ただの自然界の掟だ、と。しかし、きっと、多くの人は「恐ろしい……」「驚いた……」もしかすると「可愛そう……」と少しでも感じてくれたのではないだろうか。この感情を抱いてほしかったから、あえて上のような例を書き並べてみた。
では、それら感情はどこから来るか。
少なくとも、上記のことをしている自然界において人間以外で他の種族のこういった光景を知ったところで、そのような感情を持つことができる生物はいないのではないだろうか。つまり、我々人間だからこそ、抱くことが出来るという事。
これが何を意味しているかというと、人は高度に考えることが出来るという事だ。
そして。
このように、文字・言葉を介することによって人に自分の思いや知識を伝えることが出来るということだ。この一点を覚えておいて欲しい。
では、次に、何故、生き物は有性生殖を行い子孫を残すのかという事。
これは、一言に、進化するためといって間違いないだろう。有性生殖して子孫を残すのは個体数を増やすためではない、進化をするためである。
何故ならば、単に生殖を行わずに個体数を増やすだけでよければ、無性生殖すればよいからだ。事実、無性生殖を行う生き物は現在の地球上にも数多く存在する。無性生殖によって増える個体は、クローンであり、遺伝子レベルではなんら進化していない。
ここで人間のレベルに話を戻してみると、結婚して子供をつくり、子孫を残すという行為は、個体数を増やすという理由より、遺伝子を残し進化していくためという意味に置き替えることが出来る。もちろん、あくまで、幸福等個人に生じる感情に対しては別の話である。
言い換えてみよう。
人は本能的な役割として子孫を残すことで進化を助けている。そして、これは、人に限ったことではなく、猿でも鳥でも豚でも行われていることだ。
さらにひも解いてみる。
次に着目するのは「進化」という言葉。果たして、進化とは何を意味するのだろうか。辞書では「生物が、単純微小な原始生命から、段階的に、複雑多様なものへと変化して来たこと。更に広く、事物が一層すぐれたものに発展すること」とある。
一言で言えば「より環境に適応した生き物になること」でおおよそ間違いはないのではないだろうか。ここで、遺伝子レベルでの進化というのは一世代や二世代で容易に発生するものではないということを頭に入れておきたい。遺伝子レベルでの進化は何世代もの交配が繰り返されたすえにようやく生じうる生命の軌跡なのだ。
しかし「今日の人類は2000年前の人類よりよほど進化している」と表現されても、さほど違和感はないだろう。何が進化したのか、という答えは簡単で、文明が進化したのだ。知識が積もり積もったのだ。
その速度は遺伝子レベルでの進化より遥かに早く進み、果たして向かう先が正しいのか悪いのかはさておき、急激な変化をもたらしていることはだれの目にも明らかだろう。ここで、悪い方向に進んでいるから進化ではないと言ってしまうと、そもそもその生活に適応できるようにゆっくりと後からついてきている遺伝子レベルの進化まで悪だと評することになってしまうため、善か悪かはひとまず善、すなわち、良い方向にむかっているとしておきたい。
では、その急激な進化をもたらしたのは何か。言うまでもなく、技術であり、経験であり、頭脳だ。ここでは、ひとくくりにして「知識」とさえてもらう。
まとめると、人は、遺伝子レベルでの進化以上に知識によって進化している、ということ。
ここまでで二点について記載した。
「人に自分の思いや知識を伝えることが出来るということ」「人は遺伝子レベルでの進化以上に知識によって進化している」この二点である。
この二点が納得できない場合、タイトルは成り立たない可能性がある。この二点が納得出来ない場合、今一度上に記載してある文章を読み返していただくか、価値観の違いだと思って諦めてもらうほかない……。
では、この二点を論拠にして「人間は子孫を残さなくても本能的役割は果たしうるという話」をしていく。
まずは本能的役割という言葉について、この文章内では、進化するためという意味として捉えている。まるい言葉に書き替えるのなら「人の生活を良くする事」と言ってもらっても構わない。
タイトルをこの文章中で仮に言い換えた言葉でわかりやすくするならば「子孫を残さなくても進化に貢献できる」ということだ。これは単に言い換えただけではなく、この文章中で何故言い換えることが出来るのか説明しているということには十分留意していただきたい。
それでは、改めて、何故「子孫を残さなくても進化に貢献できる」のか。
ここまで言葉を滑らかにすると、何故ということを記載しなくても「当たり前だろう……」と納得してくれる人もいるかもしれない。容易に想像できるのは、例えば、蒸気機関の発展に大きく寄与したワット、発明王エジソン。彼らの功績を見て「この人たちは人類の進化に貢献していない!」と評するのは自然回帰主義者くらいではなかろうか。彼らに息子はいたが、仮に彼らが結婚せず、孤独な人として生涯を終えていたとしても、きっとその評価に揺るぎは起きえないのではないだろうか。
ここで納得はしてもらえたと思うが、あえて、つけたすのならば、それは、彼らが人類に対して知識を与えたからである。「人は遺伝子レベルでの進化以上に知識によって進化している」のだから。
では、そういった発明家ばかりを例に挙げて、発明家じゃない人たち、人類に新しい知識をもたらすことができない人たちは、やっぱり進化に貢献できていないんじゃないか、という疑問が当然ながら生じうることだろう。
だからこそ、私たち凡人は、子供をつくり、遺伝子的な進化で後世に自分という存在の断片を残していきたいんじゃないか、という叫びが出るかもしれない。
だが、もちろん、私はそうは考えていない。
何も、人類レベルでの急激な進化を手助けする必要なんてない。というか、それしかダメというのならば、ほとんどの人間は子孫を残す意味が単なる個体を増やすという一因にしか帰着できなくなってしまうのではないだろうか。
そうではない。
人類全体に確変を起こすようなことをする必要はない。
少しのことでも、人に影響を与えることができれば、それはその影響を与えられた人の進化たりうるのだ。
わかりやすく言えば、我々日本人が学校という機関で多くのことを学ぶ際、教師から言われている言葉一つ一つ。すべて覚えている訳ではないと思うが、少なくとも、ほんのわずかではあっても、自らの行動習慣や思考習慣に影響を与えているのではないだろうか。
それは学校に限ったことなんかではない。インターネットのどこかから目にした文章であっても、必ず発信者がいる。その発信者というのは、ほんのわずかでも、塵ほどの小ささでも、人に何かしらの影響を与えていると言えるのだ。
人が人に関わっている限り、人は人に影響を与える。ときには、知識を与えていることもあるかもしれない。その規模が大きく、物として表れているのが発明家であるが、発明家ではなくても、人が人に影響を与えいるのは確かな事実だ。
これらが何に起因するかというと、当たり前だが「人に自分の思いや知識を伝えることが出来るということ」に起因する。
そして、それら色々なところから影響を与えられた人が子孫を作り子供が出来た時、全てが全てではないにしろ、子育てによって知識がまた子供に受け渡されていく。
そのもととなっているのは紛れもなく影響を与えた人々であり、すなわち、間接的に次の世代へと影響を与えていると言えるのではないだろうか。
これらのことから「人間は子孫を残さなくても本能的役割は果たしうる」は成立すると思っている。
無条件にタイトルが成立する訳ではない。だが、逆に「子孫を残さないと本能的役割は果たせない」という命題に対しては偽であるといえるのではないだろうか。
以下余談。
ちなみに、そんなことを無視しても、進化という概念から見ると、人間だろうかなんだろうが、子孫を残さないことによって「子孫を残せない遺伝子を消す」という役割が果たされるので、タイトルの命題は成立します。これでは元も子もないのですが、その旨、一応わかっているという主張。




