阿修羅
黒々とした岩盤の大地を空から見下ろせば、一筋の亀裂が深く刻まれている。
人間のスケールでは断崖絶壁が向かい合っているようにしか見えない大亀裂の根元には、石造りの歪な建物。
窓の数からして三階建ての建造物は外壁を囲むように足場が設けてある。
この建物は砦だ。
蝙蝠男は砦の屋上に降り立つと、見張り役の鬼に目配せで合図。
開口された天蓋の一部、深い縦穴へ舞を抱えたまま飛び降りた。
なお、その間も舞は魔族に抱えられたまま驚いたり悲鳴を上げたりしていたが、完全に無視されている。
石壁が延々続く縦穴の底に着地した蝙蝠男はようやく舞を解放。
まるで土嚢を投げるように乱雑に石畳へ転がされる舞。
「痛い!もうちょっと丁寧にしてくれたっていいじゃん!」
「おい、獲物だ。後は任せるぞ」
魔族は少女の抗議の声には耳を貸さず、蝙蝠の羽を広げ縦穴を昇っていった。
「オゥ、ニンゲンだァ。ありがたぁい」
薄闇の帳が降りた石造りの空間、その奥からややくぐもった声が聞こえる。
「だ、誰?」
緩慢な動きで暗闇から現れたのは、冗長な緑色の体躯。
額の比率が多い面長の頭部から二本の角が生えた鬼である。
「へへへ、ちっこいが精命力にあふれてるぅ」
「ここはどこ?どうして私を連れてきたの!?」
怯える気持ちを懸命に奮い立たせて舞が問う。
「ここは…“食料庫”だァ。おれ、番をまかされてンだァ」
「しょくりょ…!」
薄闇に順応してきた舞の眼に、食料庫と呼ばれた牢獄の全貌が捉えられる。
岩をくりぬいたように歪な、巨大な甕の底のように広く何もない空間。
石畳の床には、無数の人型をした『何か』が横たえられていた。
獣の耳や尾の生えた小人のような亜人と呼ぶべき者も数多いが、その中に明らかに人間と判る者も混じっている。
その事実を目の当たりにし、理解した瞬間、舞の瞳の奥から反射的に涙がこみ上げた。
「おれ最近、園芸にこっててよーォ」
怯え驚愕した様子の舞を見て、牢番の鬼は弛緩した笑みを顔面に貼り付ける。
腰に提げたズタ袋から、黒ずんだ苦瓜のような何かを取り出して言った。
「ニンゲンは苗床にちょうど良いんだァ」
「その黒いの何?苗床って…?」
「人面花…なァ、実がウマいって仲間喜んでなァ、また作れ、作れ、ってなーァ」
牢番の背後に、人間の遺体がずらりと並べられている。
それらは一様に穏やかなカタチをしていない。
胸や腹を突き破り、肉のような太い茎が屹立した先に赤子の手のような葉、さらに先端には人間の頭部が“生り”、重みで茎をしならせる。
これが人面花。人間の精命力を吸って育つ地獄界の植物だ。
魔族が美味と称える人頭の実がなす表情は、苗床とされた者達のそれと同じく一様に苦悶していた。
「さてと、“植える”かー」
「や…やだ……!」
黒光りする人面花の種を握りにじり寄る鬼。
後ずさる舞の足は知らずのうちに竦み、ごつごつした石畳に尻餅をつく。
「お前は“メス”だなァ。メスの場合はァ、植える“場所”が決まってるんだーァ」
鬼の言葉に促され、否応なく魔果の苗床となった人間の遺骸を見る。
舞は堪えきれず薄闇の空間に悲鳴を響かせた。
幾人もある人間の骸。無造作に並べられたうち、比較的新しい女性の苗床。
下腹部を突き破って芽吹いたばかりの人面花が、彼女の脚の間から退化した根をはみ出させていた。
「やめて!やだやだ!」
「へへへへへ…おれは収穫も楽しみだけど“種植え”も楽しいんだなァ」
少女の悲鳴を聴く者は誰も居ない。ただ無数の亡骸が苦悶の表情で薄闇の帳を見上げるばかりだ。
スカートから延びる舞の素脚に、粗雑な造作の鬼の手がかかる。
その時、岩石で固められた牢獄の床が破裂した。
*
間欠泉のように巻き上げられた岩の破片に紛れ、人影が飛び出す。数は一つ。
巻き上げられた土煙の中、現れた何者かが少女の脚に手をかけていた鬼のわき腹に蹴りを入れる。
動作だけでなく思考も緩慢な牢番の鬼は、情けない悲鳴を上げて石床に倒れた。
「よう。ブッ飛ばしに来たぜ」
鬼に言い放たれた声は若い男のものである。
“男”は鬼の取り落とした人面花の種を、鉛色に輝く靴の踵で踏み砕いた。
「ああっ!おれの種がぁ」
「大事なモンだったか?喜べ、同じ目に遭わせてやる」
土煙が晴れると、四肢を鉛色の装甲に包んだ精悍な体躯の青年が仁王立ちしていた。
左眼を閉じる代わりに爛と見開かれた右の眼で魔族を見下ろす。
石床でのたうつ鬼は、実のところ弱者をいたぶることしか能のない駄鬼である。
爪の先ほどに残されていた闘争本能が冗長な図体を立ち上がらせるが、見る者を苛立たせる緩慢さは変わらない。
「どうした、早く立てよ……手伝ってやるからよォ!」
青年が鈍く輝く左のつま先で鬼の顎を蹴り上げる。
精悍な逞しさを備えるとはいえ一般的な成人男性と変わらぬ体躯からは想像もつかない力で、緑色の巨体がのけぞった。
「うううう…うおお!」
二度に渡り足蹴にされた鬼が、口端と鼻から紫色の血液を撒き散らしながら破れかぶれの突進。
標的たる青年は悠然と腰を落とし、右腕を弓に番えた矢の如く引き矯めた。
両脚と同じく鉛色に鈍く輝く右前腕が、力任せに振り下ろされる鬼の右腕を迎撃。
男の右拳は鋭く捻り込まれながら突き出される。
コークスクリュー・ブローではない。ドリルだ。
男の拳は捻りを超えた螺旋回転を始め、瞬時に円錐状の削撃刃に変化した。
青年のドリルが鬼の右腕を末端の拳から根元に至るまで粉砕。
駄鬼は苦痛に耐えられず叫ぶが、右腕をドリルに変じた男はその様を気にも留めない。
「ああっ…あっ!お、おま、おまえ!『鉛色の牙』…かぁっ!?」
耳に突き刺さるような高音と共に回転し続ける男のドリルを見て、緑の鬼が言う。
男は答えず、金属的な足音を石牢に響かせて間合いを詰める。
鬼のわめきに一切構わず、醜態を晒す間延びした頭蓋をドリルで一撃。
地獄の外道へ報いるのに、かける慈悲など存在しないのだ。
*
「おい大丈夫か?」
脳漿も骨も区別のつかぬ有様となって倒れた鬼に背を向け、青年は呆然と自身を見る舞に声をかけた。
無愛想であるがどこか親しみの込められた声は、先ほどまでの様相を思うと違和感すら覚える。
「腕がドリルになった…!」
少女の視線は、今は鉛色の“腕”へと戻った青年の右片方に注がれていた。
「お前、ドリル知ってんのか」
「う、うん…夕さんや彰吾さんが使ってるし」
「彰吾!?もしかして宇頭芽彰吾か!あいつも此処へ来てんのか!?」
「ひゃい!?」
急に隻眼を見開き身を乗り出した青年の声にまたもや少女は悲鳴を上げる。
「…悪ィ、後でゆっくり聞かせてくれねえか」
「はい、あとで…はい」
「今はここをズラかるのが先だな」
青年はごく自然に舞の手を取り石畳から立たせる。
見た目と同じく冷たく硬い感触に、舞は少し緊張した。
男はといえば、少女の些細な気持ちの移ろいなど知る由もなく目つきを鋭くして後ろを振り返る。
「ここに居る連中を全員“やって”からだけどな!」
薄闇の向こうからいくつもの足音が聴こえてきた。
犬歯を剥き出し猛獣が敵を威嚇するかのような形相を、まだ見ぬ敵に叩き付ける。
閉じられていた左眼が開かれ、四肢と同じ鉛色を紅く染めたような金属の瞳がぎらりと輝いた。
「覚悟しろ鉛色の牙ァ!ここがテメーの墓場だ!」
「調子に乗るのもここまでだぜ!」
「ガキともども頭から喰らってやる!」
上階から降りてきた鬼達が、棍棒や蛮刀を手にして口々に怒声を浴びせてくる。
『鉛色の牙』と呼ぶ青年の乱入を察知しやってきたその数、およそ二十。
「わわわわわ!いっぱい!いっぱい居るよ!?」
「そうだな、いっぱい居るな。一匹ずつ潰してちゃ、メンドくせーな!」
「ぶっ殺せーッ!」
鬼達が怒声そのままに青年めがけ駆けてくる。
その迫力に怯えた舞は、無意識のうちに見ず知らずの青年に抱きついていた。
「出番だぜ!」
青年の狂暴かつ嬉々とした声に呼応し、再び地面が弾ける。
戦闘を駆けていた数匹の鬼は突然の強烈な地震に吹き飛ばされるようにして転倒した。
粗雑な石畳の真ん中に大穴を開け現れたのは背中に四つの螺旋がそびえる橙色の機械巨人である。
青年はちょうど抱きついていた舞を抱きかかえ、跳躍。
開かれた巨人の胸部―――コクピットへと乗り込む。
「グオアアアアア!!」
巨人の、上下に鋭く生え揃った牙の間から咆哮が轟いた。
*
橙色の巨人が行ったのは一方的な殺戮である。
全高7メートルに及ぶ巨体で足元にまとわりつく鬼を文字通り蹴散らし、踏み潰した。
頭部やコクピットを狙い跳躍してきた鬼は、変形させた腕のドリルで塵芥に帰した。
戦意を失い背を向けた鬼も、射出した円柱状の兵器から炸裂したマグマで焼き溶かした。
コクピットの蓮華座に招き入れられた舞は、正面のモニターにひたすら映し出される惨状と、淡々とした青年の横顔をただ見比べることしかできなかった。
足下に生きた鬼が見えなくなった頃、巨人と同じ高さで光る眸が一対現れた。
「よくも部下をやりやがったな『黄金の爪』ェ!」
肩や胴体の一部を棘のついた鎧で覆い、分厚い鉄の手斧で武装した巨鬼である。
「さしずめこのボロ家の親分ってとこか」
「死ねやぁぁぁぁ!」
一拍の呼吸で踏み込み振り下ろされた斧を、巨人は右へつと体を捌き紙一重でかわす。
石畳が粉砕され、岩石が飛び散った。
鬼が床に食い込んだ手斧を抜くのに要した時間は一瞬である。
その一瞬は、巨人が反撃を加えるには大きすぎる隙だ。
黒鉄色の右拳が鬼の頬を打ち、壁際まで吹っ飛ばす。
「とっとと切り上げるぜ!」
蓮華座に座した青年が巨人に呼びかけ、やおら立ち上がる。
声に応えたコクピットの壁が隆起し、同じ色をした青年の腕と融合。
同時に両脚も蓮華座に根を張るが如く“繋がった”。
「ウオアアアアアア!」「グオアアアアアア!!」
コクピットの中を、地下牢の薄闇を、青年と巨人の咆哮が充たす。
舞は両耳を押さえながら青年の足元で何らかを叫んでいたが、声は完全にかき消されていた。
叫びと共に巨人の体が変化を開始。
両腕が変じたドリルと背中に生えたドリルが際限なく回転数を上げ、ドリルもまた吼える。
シンクロした三位の声が一体となった時、四柱の背面ドリルがたちまち伸長し四本の腕へと変化した。
六本の腕にそれぞれ六柱のドリルを具えた威容。
―――『阿修羅』だ。
その姿も、業も、阿修羅を体現している。
「この姿を見て生きていたバケモンは居ない!!」
六つのドリルを回転させ、巨人が鬼へと踊りかかる。
螺旋の主が全身から発する気迫に圧倒された巨鬼が、闘争者の本能をも忘れ立ち竦む。
「ど、どっちがバケモンだ…!」
右肩、左肩、右大腿、左腰、鳩尾、頭。
体中を同時に貫き引き裂かれ、巨鬼はただの一言を遺しバラバラの肉塊と成り果てた。
*
「これで全部…いや、妙な気配がしやがる…」
巨人と青年の同調した感覚が、周辺に魔族の気配を察知。
血の臭いを嗅ぎ付ける獣のように捉えた気配を追っていくと自然、上空を仰ぎ見ることになった。
吹き抜けの天蓋。
一見して何もないかのような曇天に、一陣の黒い靄が漂っている。
「あ…あーッ!すみません、ちょっとここ開けて!」
「どうしたんだ…ホラ、足元気ィつけろよ」
唐突に声を上げた少女に今度は青年がたじろぎ、言われるがままに巨人の胸部ハッチを開放した。
「やっぱり!あいつ、魔族なの!ほらほら、あそこに私の『指輪』持ってる!!」
上空へ遠ざかっていく靄を指差し、舞はぶり返してきた怒りと共にまくしたてる。
蝙蝠男の化けた黒い靄の中には、礼座光の欠片が宿った『指輪』が紛れ込んでいたのだ。
「お前…あんな遠くまで視えるのか」
少女の瞳には鮮明に映るその光景は、巨人の眼をもってしても捉えられなかったものである。
「視力には自信あります!それに、あの指輪はとっても大事なものだから…!」
勢いに任せて喋っていた舞は不意に何か思い至り、青年の隻眼を覗き込んだ。
「あの、助けてくれてありがとう…それで、ええと、お願いします!『指輪』を取り返すの手伝ってください!」
思い切り頭を下げた反動で前のめりに転びそうになる少女の体を支えながら、青年が微笑む。
「いいぜ」
「え、いいの!?」
まさか即答されるとは思っていなかったのか、きょとんとした顔で青年を見返す舞。
「頼んだのはお前だろうが」
「ありがとうございますっ!ええと…牙さんと爪さん?」
鬼達の言っていた通りに名を呼んでみたものの違和感を覚え首をかしげる。
青年は頭を掻き、二転三転と表情を変える少女に苦笑。
「旭だ」
「へ?」
「牙だの爪だのは連中が勝手に呼んでるだけだ。俺は天原旭。こいつは虎珠皇。よろしくな」
名乗った青年―――旭はそのまま黙って少女を見る。
意図に気付いた舞は、慌てて口を開いた。
「ええと、あ、はい!鍔作舞!舞です!!」
「ん。それじゃ行こうか、舞。色々聞きたい事もあるしな…いや」
軽くため息をついた旭が、地底を発った時より幾分か伸びた自分の髪に手をやる。
「話をしたい―――“生きてるやつ”と会えたの、久しぶりなんだ」
そして、少々照れ臭そうに訂正した。




