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20 遠藤真帆子の独白4

 紅林家は東京の高級住宅地と言われる場所にあった。

 どこがどう高級なのかはわからないが、地価が高い東京都内で敷地から隣の家が見えないということだけでも、紅林家が普通の家ではないことがわかった。

 空港からタクシーで到着した私と弁護士を迎えたのは母親の違う兄紅林幸次郎と、その夫人だった。

 きっと冷たく扱われ、屋根裏の部屋にでも追い払われるのだろうと思っていたが、その予想は外れた。

 さぞや苦労したんだろう、これからはこの家の娘として幸せになってくれと言われた上に、用意された夕食もまるでレストランで出るようなものだった。

 たぶん、こういう食事は今夜だけだろうと思った。

 連れて行かれた部屋も住んでいたアパートよりも広く、専用の風呂とトイレがあったのには驚いた。

 父に会いたいと言うと、すぐに連れて行ってくれた。

 屋敷の一角にある洋室で、私達が入ると、中年の女性が先ほどお休みになりましたと言った。

 寝顔だけ見せてもらった。

 ごく普通の老人がベッドに横たわっていた。少ない髪は真っ白で、顔には深い皺が刻まれていた。母が介護していた施設の老人たちと変わるところはなかった。

 部屋を出た後、紅林幸次郎はあの親父のせいで苦労をかけたと言った。

 私は細かいいきさつを知らないので、何も言えなかった。




 翌日から紅林家の娘としての生活が始まった。

 家から持って来た服ではなく、作り付けの箪笥や棚の中にある服を着るように義姉から言われた。勿論下着も。

 昨日履いて来た靴はなかった。新しい靴が何足も用意されていた。

 まるで一晩でお姫様か何かになったようだった。

 朝食は和食だが、味噌汁の具がいっぱい入っていた。味噌の味が辛かった。

 焼き魚は頭から尻尾まであって切り身ではなかった。

 目玉焼きの焼き加減を家政婦さんに聞かれたのには驚いた。

 海苔はぱりぱりしてしけっていない。

 兄夫妻の子どもの姿がないので尋ねてみると、義姉が教えてくれた。

 上の高校生の息子は春休みでニュージーランドに語学研修、中学生の娘は学校のスキー部の活動でカナダで合宿中ということだった。

 お金持ちだと中学高校の時から春休みの過ごし方も違うらしい。高校時代の長期の休みにガソリンスタンドやスーパーでのアルバイトに明け暮れていた私とは大違いだ。

 食事が終わって、父に挨拶したいと言うと義姉が連れて行ってくれた。

 今度は起きていて、窓際に置かれた椅子に深く腰掛けていた。

「おはようございます。遠藤眞帆子です。」

 父は私をじっと見つめた。

「えんどう……」

 聞き取れたので、私はほっとした。

「ヘルパーさんか。」

 どうやら母の姓だとは思い出せないらしい。

 義姉は困ったような顔で私を見た。

 仕方ない。母は単なる愛人なのだ。覚えているほうが不思議だ。




 その日の午後、がいしょうさんというのが来た。

 なんだろうと思っていたら、百貨店の外商部と言って大口のお得意さんをまわって御用を聞いてまわる営業さんだと言う。

 紅林家では百貨店に行かず、外商部の人が家に注文の品を持って来るのだそうだ。

 昨日も服を持って来たそうだが、この日は身体の寸法をまず測られた。

 それから反物をいくつも見せられた。

 私の着物を仕立てるということだった。私は着物のことなどまったくわからないので、義姉の言いなりになるしかなかった。

 色鮮やかな生地をいくつも選んだ後、最後に黒い生地を見せられた。

 喪服の生地だった。

 義姉はそれにもてきぱきと指示を出した。

「これはできるだけ早くお願いしますね。」

「承りました。」

 そのやりとりを聞いた時、私は屋敷の一角で椅子に腰かけて庭を眺めているであろう老人のことを思い出していた。

「さあ、忙しくなりますよ。着物ができたら、いろいろと出かけることも増えます。」

 妙に義姉は張り切っていた。

 料亭の食事のような夕食後、翌日からのお花とお茶のお稽古、それに英会話学校に通う計画表を義姉から渡された。

「高卒でも、英語くらいはできないと海外の方とお付き合いができませんからね。」

 私はほっとしていた。何もすることがない生活だったらどうしようと心配だったから。

 寝る前に父の部屋へ行った。

 やはりもう寝ていた。

 私は枕元に立ち、小さな声で言った。

「おやすみなさい、お父さん。」

 老人はすやすやと静かな寝息を立てて眠っていた。

 昼間の喪服の生地のことを思い出した。

 あれを着るのが、できるだけ先に延びますようにと、私はその夜床の中で祈った。


 



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