19 遠藤真帆子の独白3
葬儀の後のことはあっという間だった。
金曜日に葬儀で、土日で部屋の母のものを片付けた。
月曜日の夕方、東京から弁護士が来た。昼間会社に顔を出して所長に挨拶をしてきたと言った。
母のことで食事をしながら話をしたいからと、町内で一番格式が高いと言われている料亭に連れて行かれた。
玄関で出迎えた仲居さんは高校の時の同級生のお母さんだった。
一瞬だけ驚いた顔を見せたけれど、さすがプロらしく、その後は普通に個室に案内してくれた。
弁護士の話は簡単に言うと、実の父が私を引き取りたいということだった。
母が父と結ばれた経緯とか母が父の元を離れた理由とか、そういうものは一切語られず、父が母のない私を手元に引き取って、これまでできなかったことをしたいということだった。
これまでできなかったこととはなんだろうかと思った。
弁護士は言った。
「お父様はゆくゆくはそれなりの家の方と結婚させたいとお望みです。そのために、花嫁修業やもろもろのことをさせてやりたいと。今のお仕事を続けることは無理になります。東京においでになるんですから。」
私は父には家族がいるのかと尋ねた。
「はい。奥様と息子さんがおいでです。もう一人上に息子さんがいましたが、事故で亡くなっています。下の息子さんのほうは結婚してそちらにお孫さんが二人おいでです。」
決して他の家族は私を喜んで受け入れてくれないのだろうなと思った。
奥様がお望みという言葉は一つもなかったのだ。
恐らく望んでいるのは父だけで、父の妻、息子、息子の嫁は望んではいないだろう。
そんなことを考えていたから、どういう料理を食べたのかはほとんど覚えていない。
ただ坂瀬川で取れた鮎の塩焼きだけは覚えている。高校の時にボーナスが出たからと母が連れて行ってくれたそうめん流しで食べたことがあった。
そういえば鮎というのは魚へんに占いと書く。私はこの先の吉凶を占うかのように、弁護士に尋ねていた。
「父の健康状態はどうなのでしょうか。」
どうしてそんなことを聞いたのか、自分でも不思議だった。ただなんとなく亡くなった母のことを知って私を引き取ろうと決めた父もまた自分の身体に異変を感じたからではないかという気がしていた。
弁護士は明らかにうろたえていた。予想もしない問いだったのだろう。
だが、それも一瞬のことだった。
「昨年の十二月に体調を崩されて自宅療養中です。脳梗塞で右半身が少し御不自由ですが、お話はできます。」
お話ができると言ってもどの程度のことだろうか。
母の場合はある程度意思の疎通ができたから、介護しやすかった。
と考えた時、私は気付いた。そうか、それでかと。
介護要員だ。たぶん家族が介護に疲れたのだろう。ちょうど倒れて三か月。退院して自宅療養になったものの、慣れない介護で妻も息子の嫁も疲れてしまったのだろう。
そこへ私の話が入って来た。母親の介護で慣れているからちょうどいいと、彼らが思ってもおかしくない。これまでできなかった親孝行ができるとか言って。
「わかりました。いつ伺えばよいのでしょうか。」
どうせ、もう会社の仕事はできない。弁護士の話では父は会社の社長だと言う。社長の娘が田舎の建設土木会社で事務員というわけにもいくまい。
それならば、次の就職先に行くつもりで行けばいい。
父だという人の介護を仕事にするのだと思えば。
父という人の年齢は聞いていないが、孫がいるならそれなりの年齢だろう。介護を十年も二十年も続けることはないだろう。
父の介護が終わったら、家を出よう。私がいることを父の家族は望まないはずだから。
花嫁修業なんてさせてもらえるかどうかもわからない。結婚だって、私を望んでくれる人がいるとは思えない。
お金持ちらしいから恥をかかせない程度のはした金はくれるだろう。それがあれば、母のお墓を作ることもできるかもしれない。
母の入院費も知らない間に支払われていたくらいだ。
こうして、私は東京に行くことを決めた。
アパートの荷物をすべて処分し、軽自動車も中古車屋に売った。
迎えに来た弁護士は空港に行く前に会社に挨拶に行きたいと言うと、レンタカーで送ってくれた。
江口さんや所長に挨拶した後、事務所を出ると、モハメドさんから声をかけられた。
「もう行ってしまうのですか。」
「はい。」
モハメドさんの目が悲しそうだった。この人がここに来るようになって一か月余り、すっかり作業服が板についているけれど、どこか品があって普通の人じゃないんだろうなと思う。
「浅戸さんがもうすぐ戻ってくると思います。」
この人も。江口さんもそうだが、どうしてこうお節介なのだろう。
『お疲れさん。チョコありがとう。』
バレンタインデーの二日後、偶然会ったホームセンターのレジで浅戸さんが言ってくれたその言葉だけで私には十分だった。
それ以上のことは望まない。
浅戸さんにとって私はただの女子事務員でしかないのだから。
私にとっては理想の父親だが、それを知って浅戸さんが喜ぶはずがない。
「飛行機の出発時間がありますから。」
「少しくらい待ってくれるでしょう。」
「日本の航空会社は時間に厳密なんですよ。」
「私だったら、待ってもらいます。」
そう言うモハメドさんの声はいつもと違う響きがあった。
この人はたぶん、母国ではそういうことができる権力を持った人なのだと思った。
でも、私は違う。父親と母親は正式な結婚をしていない。
私も父に認知されていない娘だ。
そんな娘を待ってくれる航空会社はない。いや、そんな娘でなくてもだ。
「お世話になりました。」
私はそう言って頭を下げ、駐車場に停めたレンタカーに走った。
先に所長に挨拶を終えた弁護士は私が戻って来ると言った。
「まだ時間はありますよ。」
「夕方の混雑に巻き込まれるかもしれませんから。この辺は鉄道はあるけどたいてい車で通勤してますから。」
混雑といっても町役場や家畜市場の周辺が混雑する程度なのだが。
弁護士はそうですかと言って、車を出した。