10 現場事務所も心も片付ける
今日は現場事務所の片付けをやった。
要するに、ごみを捨て、必要なものは会社に持ち帰り、借りていたものは返すということだ。
たとえば簡易トイレ。これはレンタル会社から借りている。
現場事務所に必須のアイテムだ。
もしこれがなかったら、大問題になる。
その辺で立ちションなんかしたら、たちまちご近所から苦情殺到である。
持って帰る物の中で変わっているのはハイビスカスの造花。
これは現場事務所のイメージアップに使ったものだ。
今回は事務所まわりのフェンスに針金で巻きつけた。
イメージアップは建設土木工事等で十年余り前からお役所が言い出した言葉だ。
周辺住民の生活環境への配慮及び一般住民への建設事業の広報活動、現場労働者の作業環境の改善を行うため、直接工事に関係ない部分に気を遣えっていうことだ。
工事の経費として認められるし、役所が工事の評価をする時に点数が少しアップする。
現場事務所のまわりに花を植えたプランターを置いたりしている、あれだ。
予算が潤沢にあったりすると、イルミネーションを飾ったりすることもある。
工事看板に動物のイラストが描いてあるのもそれだ。
近隣の県に出張した時、工事看板に子豚の写真が印刷されているのを見たのだが、あれもイメージアップらしい。
要するに近隣住民が不快にならないように現場や事務所の回りをきれいにしろっていうことなんだろうけど、なんだか違うような気がするのは俺だけだろうか。
手伝っているモハメドも看板を片付けながら不思議そうな顔をしている。
「なぜ、絵が描いてあるのですか。」
「イメージアップさ。」
「絵を描くとイメージが上がるのですか。」
「工事看板をきれいにしとけということなんだろうけど、いつの間にか、イラストを入れるようになってるんだよな。」
「そんなことをするより、工事にお金をかけたり、働いている人の給料を上げた方が結果的にイメージを上げるのではないですか。」
「だな。いい工事をすることのほうが、結果的に工事のイメージを上げるし、働いている人間にもやりがいがあるものな。」
モハメドなら、国に帰っても会社でこういうことはしないような気がする。
「本末転倒、ですね。」
モハメドはさらりと四字熟語を口にした。
「モハメドの日本語の先生は凄いな。」
素直に感動した。
「はい。先生には感謝しています。」
そう言うと、モハメドはさっき壁から外した「安全十の心得」という紙を読み上げた。
一、身支度きちんと保護具はいいか。
二、順序を守って正しく作業。
三、整理整頓まず最初。
四、足元まわり用心せよ。
五、注意や指示をよく守れ。
六、連絡合図をはっきりと。
七、機械と器具はよく確認。
八、法規を守って安全運転。
九、睡眠不足事故のもと。
十、油断大敵無理するな。
漢字交じりの文をすらすらと読んでいる。恐らく、モハメドは意味もきちんと理解しているだろう。
「これ、いただきたいのですが。」
「いいよ。捨てるつもりだったから。」
印刷されたものがまだ出張所の倉庫にたくさんあった。
「これを国に持って帰って、翻訳して、会社に貼りたいです。」
俺たちが当たり前だと思って、壁に貼られていても碌に見ない安全の心得が、モハメドにとっては新鮮なものだったらしい。
安全標語や心得を事務所の壁にぺたぺたと貼りまくるというのは、他の国では珍しいのかもしれない。
まるで小学校の廊下に貼られた「廊下を走るな」の張り紙みたいで、俺などはいい年をしてと恥ずかしく思っているのだが。
軽トラックに荷物を積んで事務所に戻ると、ちょうど二階の入り口の前に江口がいた。
俺を見ると、階段をトントンと下りて来た。
「遠藤ちゃん、さっきまでいたんだよ。」
そうだった。遠藤は東京に行くことになったからと、今日挨拶に来ることになっていた。
俺は七時には現場事務所に行っていたから見ていない。
「そう。」
俺はそれ以上のことを言えない。
彼女について何かを言う権利など俺にはない。
モハメドにならあるかもしれない。
俺より一足先に事務所に戻っていたモハメドが一階のドアを開けて出て来た。
「いいんですか浅戸さん。」
俺はその声を背に工事看板を下ろし始めた。
さっさと倉庫に片付けてしまわないと日が暮れる。
モハメドは江口と話していたが、すぐに戻って来た。
「私がやります。浅戸さんは空港行かなくていいんですか。」
それは俺がモハメドに言うセリフだ。
「どうして、俺が? モハメドが行ったほうがいい。」
看板を抱えて倉庫に歩いた。
モハメドも看板を軽トラックから下ろして運ぶ。
「見送らなくていいのですか。」
後悔しますと言われているような気がした。
だが、そういう感情以前の話だ。
俺と遠藤の間には何もない。
だから、俺の中に彼女への気持ちなどない。
たぶん、遠藤にだって俺への気持ちなどあるはずがない。
あったとしても、彼女のこれからの人生にそれは邪魔でしかないだろう。
彼女には美しく幸せな人生を歩んで欲しい。