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01 始まりはチョコレート

 俺の辞書、もとい野帳には「バレンタインデー」の文字はない。




 午後六時三十八分。事務所に戻ると机の上に包装紙に包まれた小さな箱が置いてあった。

 箱の上には薄桃色の付箋が付いていた。


   お仕事お疲れ様です


 なんだ、これ。

 「現場代理人」の文字がでかでかと背中側と腹側に書かれた蛍光色のベストを脱いで、机に投げるように置いた。

「チョコだ!」

 遅れて入って来た石田が子どものように叫んだ。

「チョコ?」

「今日はバレンタインデーっすよ。遠藤ちゃんと江口さんが置いてくれたんじゃないすか。」

 菓子屋の陰謀か。




 俺は浅戸耕輔、身長百七十三cm、体重五十八㎏、体脂肪率七%。

 俺には特別の感慨はない。

 工期の迫ったこの時期、バレンタインとかで浮かれる暇はない。

 いや高校時代からそうだ。

 工業高校の土木科に女子はいなかった。

 男女共学なのに。

 進学した測量専門学校にも女子はいなかった。

 俺の入学した年度だけ。

 卒業してすぐ、近所のおじさんが体力だけはある俺を見込んで知り合いの土木会社に紹介してくれた。

 ほぼ男だけの職場だった。

 事務所にはいた。

 後家さんばかり。

 労災で旦那が死んだ未亡人と行かず後家。

 今の会社に移っても事務所にいる女子事務員にほとんど会ったことがない。

 朝六時に会社の事務所に着くとすぐ現場に行く準備をして、事務所に帰るのは早くても午後六時前。

 午前八時三十分から午後五時まで勤務の事務員の遠藤や江口の顔を見るのは年に数度のことだ。




 現場の作業が終わったからといって石田のように帰るわけにはいかない。

 現場代理人にはまだ仕事がある。

 日報を書く、それもパソコンでの作業だ。

 あと、図面関係。

 俺がこの仕事に就いた頃は書類はさほどうるさくなかった。

 だが、いつからか、公共事業、特に県や国の仕事の書類は膨大なものになった。

 十センチ以上の厚みになったプリントアウトした図面や書類のファイルが四冊、五冊になり、それを衣装ケースに入れて役所に持って行くことなど、最近では当たり前のようになっている。

 現場代理人にもパソコンスキルが必要になってしまったのだ。

 俺の場合、趣味でパソコンをいじっていたら、いつの間にか会社ではパソコンができるやつということになってしまった。

 無論、最初からCADソフトなんか扱えなかったから、勉強した。

 仕事が終わってから家で一人で。

 ソフトの解説本も自腹を切って買った。

 なんとか扱えるようになり、図面を描けるようになった。

 表計算ソフトで仕事のために必要なマクロも作るようになった。

 幸いネット上にはマクロ作成の先達が大勢いた。

 気が付いたら、俺は昼間は現場、夜は事務所で文書作成のパソコン作業という、残業月四十五時間以内? それ何という生活になっていた。




 腹が減った。

 俺は包装紙を破った。

 やっぱりチョコレートだ。

 頭が疲れる作業にはありがたい。

 紙の箱をガバっと開けてチョコを出す。

 全部で小さいのが三粒。

 これだけかと思ったが、とりあえず義理とはいえ、考えて買ってくれたものだ。

 俺はありがとさんと心の中で言って口に次々と放り込んだ。

 甘い。そして少しほろ苦い。

 世間にはこういうのをたくさんもらうやつもいるんだろうなと思う。

 芸能人とかトラック一台分とかいうもんな。

 全部食ったら鼻血ものだと笑う。




 たった一人でモニターを睨みながらの作業。

 そろそろ目が限界だ。

 最近、目が疲れやすいのは年のせいか。 

 俺は立ち上がり大きく伸びをした。

 帰るとするか。

 机の上のチョコの包装紙や包み紙をゴミ箱に捨てようとした。

「ん?」

 薄桃色の付箋が包装紙からはがれていた。

 その裏側に何か数字が書かれていた。

 0で始まる十一桁の数字。

 そして「遠藤」の文字。

 遠藤の携帯の番号だろうか。

 遠藤ってどんな顔だっけ。

 確か、五年くらい前からうちにいるはず。

 その前は別の建設会社にいて、そこが倒産してうちに転職したんだっけ。

 優男の石田ならともかく、なんで俺に携帯の番号なんぞ教える?

 間違いだろう、これは。




 俺の野帳に「バレンタインデー」の文字はない。





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