〜罪人の場合〜 泡沫の宝籤
神の最期の願い。
また断られてしまった。
くたびれたスーツのまま私は、がっくりとベンチに座り込んだ。隣にホームレスが居ることも気にせずに、である。彼は私が金を恵んでくれそうもないことを察するとそそくさと逃げていった。まあそうだろう、全ては金なのだ。
私は科学者だ。だが、数ヶ月前に研究所が潰れてしまった。後援をしてくれていた個人投資家がいきなり手をきってきたのだ。小さな研究所はなすすべなく、あっという間になくなってしまった。
人間という存在の真実を知りたい。その答えを認知神経科学に求め、私は人生をかけてそれに取り組んできた。その結果がこのザマだ。これじゃ、先ほどのホームレスと何が違うというのだろう。
現在、私は権威ある科学者たちへ手紙を出している。私の研究に興味を持ったのならぜひ会ってくれという内容だ。返信をしてくれる者はごく僅かだ。そのごく僅かの内に入る物好きに今日は会ってきたのだが、私の顔を見た瞬間に見下すような目になったのは印象的だった。若造がホコリ臭い格好をして何しに来たのかと思ったのだろう。しかし、糊の効いたスーツとヴェルルッティの革靴ならば反応は違ったのかもしれない。もしかしたら研究への協力を断られなかったかもしれない。
私は頭を抱えた。ふと、膝に影が差した。
「そこのお人。何か悩みがあるのならば教会に祈りに来ませんか」
神父だった。そして、そういえば近くにそんな施設があったなと思いあたった。だからこそホームレスがたむろしていたのだろう。
「いや、献金できるほど金の余裕はない」
「お金のみで神は願いを聞くのではありませんよ、祈るだけでもよろしいですから」
神父は崩れぬ笑顔でそういう。
まあそうだろう、金で望みを叶えるなど神じゃなくてもできるのであるし。でも今のは断るための方便だ、もう構わないでくれ。金をくれるような神でもないだろう。
そう神父に言うと、彼はふところから札を取り出した。と言っても少額だ。
「これで宝くじでも買ったらどうでしょう 神はきっと見放されません」
上手いことをいう。確かにそれは神頼みで金が手に入る手段だ。
受け取ろうとして、直前で躊躇した。なんだか賄賂みたいだと、そう思ったのだ。私の手が動かないのを見ると神父は唐突に笑みを消した。
「素直に受け取ればいいでしょうに」
冷たい声だ。神父は札を私に押し付けると去っていった。
なんだ? 信者不足なのか? 私はしばし呆然としていた。神に使えてるとは思えない神父だ。
次の日、私は宝くじを売っている店を発見した。想起される昨日の記憶。
数枚ほどなら買ってみようかと、私は神父に貰った札を取り出した。変な神父だったが金は金だし、運があれば当たるだろう。ほとんど気の迷いだったが私は宝くじを5枚買った。
一等が当たれば研究所をひと回り大きくして建てることができる。四等でもブランド物の一張羅が買えるだろう。
当たればの話だがな。ひとりごちて自嘲気味に私は笑った。たった5枚で当たる訳がない。ギャンブルに手を出すとは私も落ちたものだ。
私は宝くじを無造作に内ポケットに入れて歩き出した。今日は何もやることはない。私の手紙に返信をする物好きもそう簡単に現れるものでもないので、暇な日はお気に入りのカフェで時間を潰している。今すぐにでもやりたい実験内容を頭の中でシミュレーションするのだ。何度も、何度も。そうすればすぐに日が暮れる。
いつものようにカフェへの道を辿っていると、不意に怒鳴り声が聞こえてきた。いや、どちらかというと懇願の声と言った方がいいかも知れない。路地の向こう、通り過ぎても良かったがどうにも興味が引かれた。昨日の神父の声に似ているのだ。
たしかこの先は教会の裏に出たはず。私は気づけば声を追っていた。まあ、私も一介の科学者だ。好奇心を原動力にするような職柄、気になれば追求したくなるのはしょうがないというものだろう。
細い路地を進み、曲がり角まで来た。多分、覗き込めばもう見える所に私はいる。神父も入れて二人分の声が路地に響いた。
「お願いです、信者達にこのことは話さないで下さい。お願いします! お願いします!」
「許される訳がないだろう。騙しておいて」
「騙してなどいません。いままでは確かに御言葉が聞こえていたんです」
どうも世界平和について話しあっているわけではなさそうだ。一言でいうならば不穏である。
もういい加減にした方が良いと、気の弱い私が呟く。しかしそれは科学者の私を止められるほどではなかった。
壁から取れかけたひしゃげたパイプの隙間から、私はそっと慎重に向こうを覗いた。
「で、唐突に聞こえなくなったと? 理由もなく?」
「……はい」
やはり、こちらに背を向けて情けない声を出しているのは恐らくあの神父だ。もう一人は彼の上司的な何かだろう。
「いや、理由はある。お前が父なる神を裏切るような悪事をしたか、もとより聞こえてなどいなかった、とかな」
「そのような事は一切やってないです。本当です! だからこそこうやって教えを貰おうと……」
「どうだかな、お前の評判の悪さは聞いている。ずいぶん『聞こえる』というのを鼻に掛けてやらかしておったのではないか」
「……っ!」
「図星か? ならこれは天罰だろうな。聞こえていたのか真偽も怪しいが」
話しはこれで終わりだと言うように、神父の上司は踵を返した。神父は打ちひしがれたように動かない。
なんだか、まずいものを見たな……
もう行こう。そう思い、私もこの場を去ろうとパイプから顔を離した。
その時だ。
足音がいきなりこちらに近づいてきたかと思えば、
ガッ!
パイプが白い手に握られていた。錆びて脆くなっていた所から力任せに折られ、足音は急速に遠のいていった。
おい、嘘だろ! 全身を氷水に浸されたように、ぞっと総毛立った。
直後、鈍い音が耳を通して私の脳を揺らす。現実感が湧かない。これは本当のことか? 遠くで人が倒れる。緩やかな風が静まりかえった路地で、神父の荒い呼吸音だけを運んでいた。
逃げなくては! そう思ったが足が動かない。あろうことか奴の気配が近付いてくる!
動け、動け、動け!
奴の影が目に入った瞬間、私はようやく駆け出した。足音が鳴り響くが気にしている余裕はない。走れ走れと心中で叫びつつ走る。路地を抜け、人混みの中へ隠れようと私は大通りへと向かった。ずいぶん昔の目的地だったカフェをも通り過ぎようとした所で腕を掴まれた!
「やめてくれ!」
「先生! 落ち着いて下さい!」
女性の声だった。緊張の糸がぷっつりと途切れ、私は地面にへたり込んだ。
激しく肩を上下させる私を、女性が心配げに覗き込む。
「き、君は……」
「お久しぶりです。でも一体どうしたんですか?」
驚いた。先の事程ではないが。
研究所が無くなる前に私の助手をしていた女性じゃないか。
「いや、話している場合じゃない。追われているんだ」
「追われてる!?」
彼女が私のきた道を見る。私もつられて後ろを見た。
「誰もいませんけど……?」
あっけらかんと彼女がそう言うが、私は全身から力が抜けるようだった。どうやら諦めてくれたようだ。
彼女は私のことを心的外傷後ストレス障害者とでも思ったのか、割れ物を扱うようにしてカフェへと連れて行ってくれた。否定する気力もない。
「私ここのアップルパイ大好きなんです。ですから元気出してくださいね!」
そういう彼女は二人分の注文をさっと済ませる。
にこっと笑う彼女を見ていると私も気分が落ち着いてきた。そういえばそういう子だったなと、研究所のことを思い出す。
彼女が切りだす話題ももちろんそのことだ。
「資金の目処はつきそうですか? 私、今は他の学者さんのところにいますけど、また先生の研究ができるのならすぐに手伝いにいきますよ!」
ありがたいことを言ってくれる。
「いや、全然なんだ。今は著名な科学者に応援をしてくれるよう、手紙で頼んでいるよ。まあそれもだめなのだが」
「絶対大丈夫です! わかってくれる人がいます」
ウエイターがパイを運んできた。彼女はそれを実に美味しそうに頬張る。
そうだ、彼女なら文章も上手そうだ。第一印象の大切さはもう知っている。
「もしよかったらなんだが、その、手紙にアドバイスをもらえないか?」
「え?」
「いや、断ってもらっても全く構わない。君も研究所で忙しくしているだろうし、それに」
「もちろんいいですよ! 研究者同士で助け合うのは当たり前じゃないですか」
ごく自然に、彼女はそう答える。
「それじゃあ、今手紙って持ってますか? 見てあげます」
「そ、そうか、ありがとう。えっと、これなんだが……あれ」
「どうされました?」
「ない、手紙が……ない」
顔から血の気が引いた。
まさかあの場所に落としてしまったのか?
彼女がまた精神疾患の患者を見るような優しい顔になったが、それどころではない。
「すまない、用事を思い出した」
「え、ちょっと!」
カフェを飛び出し、先のところへと戻る。
冷静ではいられなかった。そのせいで、あいつがまだいるかもしれないということには思考が及ばない。
だから人の気配はもうなかったのは私にとって不幸中の幸いだった。
ライターで周りを照らしながら探したが、手紙は見つからなかった。
「名を知られてしまった」
呆然と呟く。
角を恐る恐るのぞき込んだが死体はなかった。これではこの町の警察は信じてはくれまい。
ただし、薄く残る血の痕だけが、あれは夢ではなかったと叫び散らしていた。
おそらく私はあのいかれた神父に狙われるだろう。
何もすることもできず、生きた心地もしないまま寝床へと帰る。手紙を書く手も動かなかった。
朝起きて、呆然とした調子でカフェへと向かう。
「あ! 先生やっと見つけた!」
昨日の彼女がカフェのドアから小走りに出てきた。
「君……」
「いきなり飛び出して行くんですもん、びっくりしましたよ」
「す、すまない」
「じゃあ、あれ教えますから、またパイでも食べましょ!」
「あれって?」
「手紙ですってば。字の書き方からみっちり教えてあげます!」
「いや、でも今はそれどころじゃ……」
「先生!」
断るのは許さない。そんな強い意志のある表情だった。
「……わかった」
それからというもの、私は毎日彼女とカフェで会うようになった。最初はあの神父がいつ、血のこびりついたパイプを持って現れるのかと恐々としていたが五日を過ぎた頃にはもう、あの日のことは記憶にのぼらないほどになった。
それぐらいになんの音沙汰もなく、そして、彼女との時間が楽しかったのだ。
しかし、今日という日は訪れてしまった。
「先生、うまくなりましたね。こんな感じで恋文でも書いたら女の子はいちころですよ」
「学者もいちころかな?」
「余裕でいけますって!」
彼女との談笑は私にとって、とても有意義なものだった。
「ああ、本当に君のおかげだよ」
「もう先生、それはいいお返事を貰ってから言って下さいよ」
「だから言っているんだよ」
「え?」
「これを見てくれ、あの著名な教授から返信を頂いたんだ」
彼女の目が真球のように丸くなった。
「き、きたんですか!! よかった、よかったですね、本当によかった! 先生おめでとうございます!」
「あ、いや、興味があるからぜひ来てくれ、くらいしか書いてないのだが」
私の手を握りしめてはしゃぐ彼女に、私も顔が綻んでしまう。
「先生、今から行くんですか?」
「ああ、行ってくる」
「うぅ、本当に良かった、頑張って下さいね」
泣きそうな勢いの彼女に笑いかけてから、私はカフェを出て学者の家に行った。
「なんなんだ、いきなり来て。私はそんな手紙を書いた覚えはない!」
辛辣な言葉だけが返ってきた。バタンと閉じられるドア。
私は力なく立つことしかできなかった。
落ち込んだ心持ちで家路を辿る。明日、彼女になんと言えばよいのだろう。
その時、通りかかった電機店のラジオから騒がしい音が流れてきた。
『一等の当選者をいよいよ発表させて頂きます!』
宝くじか、そんなものもあったなと、ふところの奥底にしまってあったしわくちゃの宝くじをおもむろに取り出す。
どうせ当たる訳がない。そしたら彼女に不幸自慢でもしようか。きっと励ましてくれるに違いない。
『当選番号は2357111317です!』
「……え」
何度も見返す。
五枚重ねてあった一番下の宝くじが、紛れもなく今流れてきた番号そのものだったのだ。
心臓の鼓動が、身体中の内蔵をぐちゃぐちゃにしてしまうのではないかというほどに、激しく高鳴った。
『もう一度言います。2357111317』
私はカフェに向かって走り出した。今なら彼女はまだいるかも知れない。
この信じられない朗報を今すぐにでも伝えたかった、分かち合いたかった。
これで後援などがなくとも研究をすることができる。神は私を見捨てはしなかった。彼女は幸運の女神だ。
降り始めた細切れの雨さえも今は恵みの雨。町中がワックスでも塗りたくったように輝きを放つ。
この美しい世界こそが私の求めた、まさに。
そう、思っていた。
路地の奥、暗がりの中から、あいつが出てくるまでは。
私の左後頭部が地面を赤く染めるまでは、そう思っていた。
「お前は……」
「お久しぶりです」
あのいかれた神父が能面のような嘲笑とともに、這いつくばる私を見下ろしていた。
意識は途切れる。
********
目を覚ましたのは車の中だった。
朦朧としていたから、目の前にある布の察しがつかなかった。しかし、強烈な異臭で唐突に理解した。死体だ。
「起きましたか」
「ここは……?」
夜中、そして雨粒のせいで車窓から外はあまり見えない。
意識がはっきりとしてくると同時に、恐怖が泥水のように溢れてくる。両腕は背中でかたく縛られていた。
「ああ、ここはですね、滝がすぐ近くにある森ですよ。観光名所ですが、明日は事件現場になるでしょうね」
「なぜこんなことを」
「愚問です。私は神の御前に罪を侵しましたからね、隠し隠れたくなるのです。あなた、見たのですよね?」
神父の視線はミラー越しに私を射抜いた。
「違う、人違いだ」
「そうとは思いません。手紙が落ちてましてね、偽のお返事を書いたらあなたがのこのことやってきたのですから」
……そういうことか。
「……頼む。誰にも言わない、助けてくれ」
「この状況でそれを言いますか」
「やっと、やっと上向いてきたんだ。あんたの言った通り、神は私を見捨てなかった。神父だったのなら慈悲ぐらいあるだろう。見逃してくれ」
慈悲など、あるはずもなかった。それは分かっていた。
だが今はどんなに微かな希望にも縋りつかなければどうしようもなかった。
「上向いてきたというと、このことですか?」
「……!」
息を呑んだ。
神父はひらひらと宝くじを揺らす。
「ゴミと一緒に捨てるのはもったいないと思いまして。逃亡資金に使わせて頂きます」
「返せ!」
縛られたまま身を乗り出す。
「もともとは私の金でしょう? 諦めなさい、どうせ死ぬ身なのですから」
「くそ、返せ、返してくれ、頼む。お願いだ!」
瓶が頭にぶつかって割れる。
私は座席に倒れ込んだ。
「少し黙りなさい、ごみくず」
打ち所が悪かったのか、世界があやふやになる。
気がついたら車の外、雨の中、神父に引きずられて絶壁にいた。
「最期の言葉はありますか?」
ぼやけた世界に映る神父の嘲笑に、憎しみともつかないどすのきいた重たいものが私の身体を覆い尽くすようだった。
「殺してやる」
「そうですか。叶うよう、祈ってあげますよ」
私は滝の底へと、投げ捨てられた。
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水とは生命の根源たる物質である。化学式はH2O。宇宙に最も多く存在するといわれる水素と、生命の燃料ともいえる酸素から出来ている。100℃まで熱すれば蒸気という気体となる。
そんな水は凶器ともなる。旧約聖書、ノアの時代。水は地を覆い尽くし、人々は死に絶えた。
私は絶望した。ただ、世界を知りたかっただけなのに。人間の神秘に答えがあると、思っていたというのに。神に似せて造られたはずの人間が、これほどまでに残酷で、不完全で、愚かで醜いのなら、この世界に意味など無いのではなかろうか。
あの堕天使が、赤黒い方舟で逃げおおせようというのなら、私を殺しかけた――いや、殺したのかもしれない――水で、私の最期の願いを叶えてやろうじゃないか。
水は泡となり、命への道へと鍵をかけるだろう。
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私は二つの死体を廃棄し終わると、逃亡のための準備をした。
最低限の荷物をまとめ、いきなり私が失踪しても、しばらくはばれないような工作をする。
逃亡資金はたくさんあるんだ。海外で遊んで暮らせばいい。
二つ三つ離れた町で換金して装飾品にでもかえて持っていこう。
これからの方針を頭の中で素早くまとめて車のキーを回す。
車の中はまだ腐臭が漂っていた。窓も開けずに騒がしい商店街を抜ける。
少しスピードを出していた。神への畏怖を忘れたこの私でも警察は怖いらしい。だから赤信号に変わった時は舌打ちをせざるを得なかった。
仕方なくブレーキを押し込む。
その時だ。アレが見えたのは。
口元に深紅の半月の笑みを浮かべた、殺したはずの……
空恐ろしいほどに踏み応えがないブレーキは、当然の如く本来の機能を発揮しなかった。
あれ、と、思った次の瞬間には人を轢いていた。
建物に突っ込み、右脇腹に灼熱の痛みを感じると同時に、私の意識は地獄の闇に飲まれた。
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ティーカップをそっと傾ける。彼女はまだ来ない。
あいつもまだ来ない。
アップルパイはいつもよりもまずい気がした。
何気なく眺めていた信号機が赤に変わる。
そろそろだろうか。
代金を卓において外に出る。
たしかにちょうどだった。
あいつの車が速度をあげたまま、さっきまでいたカフェに突っ込んだ。
実に見事だ。いい最期だったんじゃないだろうか。
悲鳴の上がる中、私は運転席に近いドアを開けてこいつのふところから宝くじを奪い取った。もちろん助けに入ったふりをしてだが。
「なんだ……」
私はほとんど息を吐くように、小さく小さく呟いた。
「人とはこんなものか。こんな世界知る価値もない」
宝くじを胸ポケットに押し込んだ。この金で何をしようか。
彼女はまだ来ない。
後ろからの悲鳴は未だ止まない。
彼女はもう来ない。
これで全て壊すのも……
お粗末さまでした。
シリーズ第二弾『旅に疲れてしまったヒトの記憶』
旅人の場合、タイムマシンさんのお話しに繫がります。