桜の樹の下
このお話の中には残酷な描写が含まれています。
誰にでも、秘密はある。
桜を見るたびに、僕はそいつを思い出す。
――桜の樹の下には屍体が埋まっている! ――
それは信じていいことだ、と誰かが言っていた。
あながち嘘ではないように思えた。だからそれを確認するため、僕は桜の樹の根元を掘ってみた。
十四歳のときだ。
その時は、結局、何も出てこなかった。少しがっかりしたような気がした。それでいて心の奥底ではほっと安心もしたような記憶が僕にはある。
何の因果か解からないが、僕はもう一度桜の樹の根元を掘ることになった。
二十歳のときだ。
それが、桜の樹の根元を掘った最後の記憶だ。
* * *
三月の末ごろだった。
僕の隣の部屋に住んでいた男がどこかへ引っ越して行った。
僕よりは二つくらい年上だったのだろうか。
これと言って特別な印象もない男だった。
顔すら思い出せないほどだ。
しかし、それはお互いさまなのかもしれない。顔を合わせたことだって、2回しかなかった。
一度目は、僕が引っ越して来たとき。
僕が手土産を持って、彼の部屋のチャイムを鳴らした。
二度目は、彼が引っ越して行った日。
目覚めの悪い朝だった。
部屋のチャイムが鳴った。
僕は玄関へ行くと、ドアスコープから外の様子を窺った。
魚眼レンズの向こうに、印象の薄い男が立っていた。
「はい。」
ドアを開けると、男は軽くお辞儀した。僕にはそう見えた。しかし、そう見えただけで、実際には、彼はただ単に俯いただけなのかもしれない。
男はボソボソと独り言のように、隣に住んでる者であることを告げた。
「何でしょう?」と僕は訊いた。
男は口の中でゴニョゴニョと口篭った感じで、引越しの挨拶に来た旨を告げた。
「ご丁寧に、ありがとうございます」と僕は言った。
ありがちな社交儀礼だった。
僕はドアを閉めようとした 。
「あのう。」と男が言った。
「は? まだ何か?」
そう言った僕に、男は右の手のひらを差し出して見せた。
餞別をくれって言うのか? と一瞬思った。しかし、よく見るとそこには何か黒いものが載っていた。
「何ですか?」と僕は訊いた。
「これ、あげます。」
男はそう言って、右手を僕の顔の前に伸ばした。
少しギョッとしたが、僕はその黒い物を注視した。
それは、梅干の種ほどの大きさだった。質感や色は碁石のようだったが、表面はゴツゴツと歪だった。
「イヤイヤ、要らないですから。」と僕は言った。
ボソボソ、ゴニョゴニョと口の中で言葉を停滞させながら、「ここに置いていきます」と男は言った。
男は屈むと、それをドアの前のコンクリート床に置いた。
「本当に要らないですから。」と僕は語気を強めた。
僕の声が聞こえていないのか、男は立ち上がると再び俯くようなお辞儀をした。そして、そそくさと逃げるように階段を降りていってしまった。
「おい、待てよ!」
僕は大急ぎで男を追いかけようとした。しかし、慌てていたためか、下駄箱代わりにして使っていたカラーボックスに僕は右足の小指をしたたかぶつけてしまった。
「#¥※$@ッ!」
呻き声をあげ、僕はその場にうずくまった。
痛みが治まるまで、暫くかかった。
靴下を脱いで、爪先を確認した。大丈夫。爪も剥がれていないし、骨も折れていない感じだった。
少しジンジンと疼いたが、履き馴れたスタン・スミスを突っ掛けて踊り場に出た。
踊り場の冷たいコンクリートの床の上に置かれた黒い物体。
僕はそれをおもむろに摘み上げた。
小石。それがパッと見た印象だった。
しかし、実際に手で持ってみると、それは随分と軽いものだった。
何かの種。そんな風にも思えた。
「何だよ、こんなもん置いて行きやがって。」
僕はそれを外へと放り投げた。
一件落着。
僕は部屋へ戻るため、ドアを開けた。
「痛ッ!」
何かが、後頭部を直撃した。
振り向くと、先ほど放り投げたはずの黒い種が踊り場の床の上にころころと転がっていた。
僕は踊り場から顔を出し、下を見回した。
けれど、そこには人影すら無かった。しかし、可能性として考えられるのは、やはり、あの男以外にはなかった。
少しばかり憤慨した僕は、男を捕まえて懲らしめてやろうと思った。
その種を拾い上げると、僕は階段を駆け降りた。
エントランスから道路へ出た。
「あの野郎どこ行った!」と呟きつつ、僕は男を探した。
交差点の角にあるコンビニに来たときだった。
ジーンズのポケットに入れた携帯が鳴った。
それを取り出そうと、ポケットに手を突っ込もうとした。
不意に、手の中から黒い物体が道路へ転がり落ちた。
それを見て、あっ、と思った。しかし、それだけだった。それよりは、携帯の着信に出ることの方が大事だった。
着信は、由佳からだった。
通話ボタンを押した。
「もしもし。」僕は言った。
「ねぇ、どういうこと?」
赤信号。
こう言って切り出して来るときの由佳はヤバかった。
「と、おっしゃいますと?」
「トボケないでよ。」
「な、何を?」
「康平から聞いたわよ。」
あのバカ、と僕は心の中で呟いた。
「康平が何だって?」
由佳は康平から合コンの話をすべて聞いて知っていた。
もう次から、あいつはメンバーに入れないことにしよう。そう思った。
「だからさ、誤解だって。」と僕は言った。
もちろん、言い訳だった。 僕の言い訳を見透かすように、彼女は冷静に、的確に質問をぶつけて来た。
「だからさ、誤解だって。」
僕は少しうんざりした。
「サイテー。」
彼女のその言葉を最後に、通話が切れた。
携帯の終了ボタンを僕は押した。
「暫く許してもらえないな。」
そう呟いて地面を蹴った。
何かが爪先に弾かれて、電柱に当たった。次の瞬間、それは僕の胸元にぶつかり、ぽとりと地面に落ちた。
僕はそれを見た。
あの種だった。
「チッ。」
舌打ちをした。
屈み込んで、種を拾い上げた。
人差し指で小突くようにそれを転がしてみた。
「何だかツイてねぇな。お前のせいだぞ。」
テカテカとつや光りした歪な肌が、なんとも恨めしく思えた。
僕は男を探すことを諦めた。
ネルシャツの胸ポケットにそれを入れ、部屋へと戻った。
その夜だった。
とても風変わりな夢を見た。
本棚にしまったホルヘ・ルイス・ボルヘスの本の陰から、アフロ・ヘアの男の小人が現れた。
男性の親指ほどの身長だった。
小人は真っ白な作業ツナギに、靴はアディダスの真っ赤なウルトラスターという格好だった。
身軽とみえて、飛んだり跳ねたり、ぶら下がったりしながら、そいつは器用に本棚から降りてきた。
ちょうど隣の机と同じ高さのところまで来ると、それに飛び移った。
スタンドランプのスイッチを右足で軽く踏んで入れた。
机の上のデスクマットが、ステージのように浮かび上がった。小人はその上で、ジェームス・ブラウンのように歌って、踊りはじめた。
一曲歌い終わると、小人は無造作に机の上に置かれた種に歩み寄った。
「お前ぇさんには勿体ねぇな。」
種に飛び乗って、小人が僕に言った。
「これが何だか、お前ぇさん知ってんのか?」
僕は首を振った。
「だろうな。お前ぇさんみたいなボンクラ野郎に解かる代物じゃねぇってこった」
口の悪い小人だった。
「ま、オレっちも意地は悪くねぇからよ、貰うもんだけ貰っても気が咎めるから教えといてやるぜ。コイツは、魂玉だ。」
「コンヨク?」と僕は訊いた。僕は自分の犯したミスには気づいてなかった。
「バーカ!」と小人は言った。「頭が悪ぃかと思ったら、耳まで悪ぃみてぇだな。混浴じゃねぇぜ。魂の玉と書いて<コンギョク>と読むんだ。」
僕はふーんと、あまり興味も湧かずに空返事をした。
「で、何かいいことあんの?」
「あるに決まってんだろう。」
そう言って、小人はにやりと笑った。
「どんなこと?」
僕は少し身を乗り出した。
「お、少しは興味が湧いたか? 男はそうじゃなくちゃいけねぇな。この玉にはな、持ち主の願い事を叶えてくれる神通力が備わってるのさ」
小人はそう言って、笑うように口元を歪めた。
「何でも? その願いは何でもいいの?」
「あたぼうよ。何でも叶えてくれるぜ。お前さんが望むこと、何でもな。」
「じゃ、世界の平和だな。」
「思ってもいねぇこと言うんじゃねぇよ。」
小人は笑った。
「じゃ、世界征服。」
僕も笑った。
「いいぜ。もしもお前さんがそれを望むなら、それを強く思って具体的に行動しはじめるこった。そうすりゃ、お前さんの願い通りに事が運びはじめる。そして、途中で力を試されるだろうが、諦めなけりゃ世界がお前さんの足元にひれ伏す日がやって来るだろうよ。」
「諦めなければってさ、諦めると願い事は叶わないっつーこと?」
「願い事も叶わねぇな。」
小人は笑って答えた。
「も? 何か変なことも起きるとか?」と、僕は訊いた。
「下手すると、命を落とすこともあるな。」
「命を盗られるなら、そんなの要らないよ。」
「違ぇねぇ。お前さん、ちっとは頭がいいみてぇだな。だけどな、俺っちも何千年と生きてきてるから経験則で解かるんだが、お前さんみてぇな臆病者の方が願い事を叶えられる確率が高ぇんだ。自分を過信しねぇからな。一つずつ駒を詰めていく。」
「コイツは人を不幸にする樹の実だと思ってたよ。」
「何でそう思った?」
「隣に住んでた男がこれを置いていってから、あんま良いことないしね。」
「彼女にフラれたってか?」
そう言うと、小人はゲラゲラと腹を抱えて笑い始めた。
「知ってたのかよ? それに、笑い過ぎ。他人事だと思って、そんなに笑うなよ。」
何がそんなに面白いのか、小人は仰け反って大笑いした。しかし、罰とはあたるもんだ。小人は魂玉から滑り落ちた。
「痛てぇっ!」
「他人のことを笑うからだよ。」と僕は言った。
「これが笑わずにいられるかってぇの。何が不幸だったんだよ? 不幸とか、幸せとかって言うが、そもそも、そりゃ何だ? 彼女にフラれちまったことか? ありゃ、お前さんが望んだことだったろうが。」
小人の言葉に、僕はハッとした。
「あの時点からスターしてたの?」
小人は起き上がると、首を横に振った。
「正確には、お前さんが玄関先で、こいつを拾い上げた時からだ。」
「マジで?」
小人は頷いた。
「な、すべてお前さんが望んだことだったろ? 誰かさんの頭に当たったのも、彼女が消えたのも、みんなお前さんが望んだことだったよな?」
僕はうな垂れて、舌打ちをした。
「やっぱ、こんなの要らね」
僕は重大なミスに気づくべきだった。
「要らなけりゃ、誰かにくれてやりな。世の中にはこいつを欲しがる輩は星の数ほどいるからな。今のお前さんが持ってても、宝の持ち腐れなだけだ。持ち主次第で、この魂玉は如何ようにも変化するからな。お前さんじゃ、使いこなせねぇかもな」
「うるせぇよ。何だ、その上から目線。俺次第なんだろう? 解かったよ。良くしてやるよ。俺の力でこの世の中を変えてやるよ」
「ほう、こいつは頼もしいね。で、どうするつもりだ?」
「出家して良い魂で皆を救う。それって凄くね?」
小人は鼻で嗤って言った。
「悪ぃ事は言わねぇから、よしときな。オレっちは、そんな奴を腐るほど見てきたぜ。何も変えられずに失望した奴。誰も救えずに失望した奴。変えられないのはそういう風に仕組んでいる輩がいるからだと、戦争をおっ始めた奴。本当に色々いたな」
「何だか、やらないうちから無理とか言われるのって、ちょっとムカつく」
「ムカつくか。ちったぁ骨があるみてぇだな。なら、やってみな。オレっちは止めないぜ。でもよ、泣き言は言うなよ。自分で選んだ道だ。お前さんが望んだことだからよ」
「そう言われると、どんどんへこむんだけど」
「へこんでる間があったら、頭と身体を、目いっぱい使うこった」
そう言うと、小人はスタンドランプのスイッチを右足で切った。
明かりが消えると、小人の姿も消えた。
ふと目が覚めた僕は、ベッドに寝たまま机に視線を向けた。
魂玉がカーテンの隙間から差し込む月明かりに照らし出され、闇の中に浮かび上がっているように見えた。
次の日は晴れから曇りに変わった。
僕はポケットに魂玉をしのばせて、中山競馬場へ出かけた。
駅から競馬場に向かうバスの中で、小雨が降り始めた。
何レースか見学し、試しにG2の第十一レースを買ってみた。
小人の言うことを信じた訳ではなかった。それでも、当たりそうな予感と言うか、ドキドキと昂ぶるものがあった。
ファンファーレが、めそめそと泣いている空に響いた。
各馬がゲートに入った。
当たれ! 心の中で強く念じた。
ゲートが開いた。
馬がどっと飛び出した。
混戦。
最終コーナーを周ったあたりで、内側から馬が飛び出してきた。
来るか!? 来たか!?
来た、来た!
ゴール板の前を馬が駆け抜けていった。
当たった。四万五千円ちょっとになった。
花見の軍資金が出来た。そう思った。
最終レースも買うことにした。
まだ僕としては小人の言葉については半信半疑だった。
ただの、まぐれ。そう思っていた。
それでも、当ててやるという意気込みだけは強かった。
三連単で、もう一度千円買った。
最終レース。
涙雨にはならない。もう既に潤沢に利益を稼いだ。
これは、魂玉を試してみるだけのお遊びなのだ。
蹄の音が近づいてきた。
地鳴りのようだった。
ゴール前の直線。
馬がゴールへ飛び込んだ。
信じられなかった。
払戻金が四十二万円弱になった。
手足の震えが止まらなかった。
投票券を交換するとき、ポケットの中の魂玉に触れた。
「どうだ。信じる気になったか?」
小人の声が聞こえた気がした。
札束を財布に入れながら、僕は首を横に振った。
「まさかな。怖すぎるだろう」
僕は口の中で、その言葉を反芻した。
僕の財布は、今まで見たことがないほど厚くなった。バックポケットにそれを入れると、ジーンズがぱつん、ぱつんになった。
携帯を取り出し、由佳に電話した。
電話しながらも、僕は尻に手を当てたままだった。
何回目かのコールで、女性の声が聴こえた。
それは、由佳の声ではなかった。電波の届かない場所にいるか、電源が入っていないか、それを告げる合成音声だった。
「あいつ、まだ怒ってんのかよ」
競馬場の出口へ向かった。雨に濡れてくたくたになったハズレ券がアスファルトの路面に力無げに貼りついていた。
西船橋駅に着く頃には、雨は小降りになった。しかし、夕暮れとともに気温も下がり、吐く息も白くなった。電車を待つ間、阿佐ヶ谷へ戻ったらレアのステーキを食べよう、そう考えていた。
上りのホームで、由佳にもう一度電話してみた。
驕るからステーキを一緒に食べよう、と言うつもりだった。
でも、電話はつながらなかった。
電車がホームに滑り込んできた。
ドアが開いた。
僕はそれに乗り込んだ。
相当怒らせてしまったのだろう。しかし、あんなことは遊びの延長で、大したことではないように思われた。
誰かと寝たわけでもなかった。
誰かを妊娠させてしまったわけでもなかった。
由佳よりもフィーリングが合って、可愛くて、話しているだけでワクワクするような楽しい女の子だったら、僕もどうなっていたか解からない。でも、結果的には由佳を一番だと思っている。
それでいいだろ? それではダメなの?
江戸川に架かる橋を渡りながら、遠くにゆっくりと流れていく明かりの群れを僕はぼんやりと眺めていた。
阿佐ヶ谷駅に着いた。
北口に出た。
雨は少しばかり強くなっていた。
吐く息が白い。
冷たい空気が流れ込んできたのだろう。3月の初旬に逆戻りだ。
僕も逆戻りするように新宿方面へと向かった。
ヘリーハンセンの紺色のウィンドブレーカー。ポケットに手を突っ込んだまま路地を歩いた。
花屋のところの三叉路を左に入った。
すぐに店はあった。
カントリー風の店。
ドアを開け、中に入った。
店の中は暖かかった。
5、6人の客がいた。
アルバイトの女の子が席に案内してくれた。
一番奥。
席に座ると、僕はウィンドブレーカーを脱いだ。
冷水を注いだグラスがテーブルの上に置かれた。
女の子に僕は言った。
「サーロインの四〇〇g」
女の子はエプロンのポケットからオーダー票を出した。注文を復唱しながら油性ボールポイントペンでさらさらとそれを書きとめた。
「焼き方はいかかがしますか?」
僕は少し考えてから言った。
「もちろん、レアで」
笑顔を残し、彼女は厨房へと向かっていった。
僕はグラスを手にし、それを口元へ近づけた。
歓喜と極度の緊張で喉はカラカラだった。
唇にグラスが触れたときだった。
「あっ!」僕は言った。
僕はグラスをテーブルに戻した。そして、女の子を呼び止めた。
「よく冷えたビールもね! すぐに」
女の子は振り返った。
「ビールですね? 生ビール、中ジョッキでよろしいですか?」笑顔でそう訊いた。
僕は頷き、にっこりと笑った。
エプロンの前ポケットから先ほどのオーダー票を出すと、彼女はそれを追加した。
彼女は小首をかしげるようにして笑顔でお辞儀をした。そして、踵を返し厨房の中へと消えていった。
すぐにジョッキに注がれたビールが運ばれてきた。
「生ビールの中ジョッキでございます」
女の子はそう言いながら、それをテーブルに置いた。
泡立ちのキメ細かさが嬉しかった。
僕は女の子にお礼を言うと、ジョッキの取手を掴んだ。
口元へとそれを運んだ。
ガラスの無機質な冷淡さが乾いた唇を刺激した。
ぐっと呷った。ビールが喉で踊り、胃の中へと流れ込んだ。
黄金の幸福感で満たされた気がした。
僕は唸った。
もちろん独り言だった。
視線を落とした。
ビールの泡。空気に触れて、プチプチと弾けていた。
脱いだウインドブレーカーのポケットから携帯電話を取り出した。
電話帳のフォルダ。
由佳の電話番号。
通話ボタンを押した。
番号が点滅した。
電源が入っていない云々を告げる女性の声。
切断ボタンを押した。
受信メールのフォルダを開いた。
二日前。午後一〇時二三分。
由佳
:Re
その日はムリm(__)m
今、ちょっと忙しいからまたメールする(^0^)/
三日前。午後一四時〇六分。
由佳
:Re
どーしようかなぁ(^^。
ちょっと待ってて。
またメールするね(^^)/
3つ目のメールを眺めているとき、ステーキが運ばれてきた。
朦々と湯気を立てる分厚い肉の塊。
表面はこんがりと良い焼き色だ。空腹感を狂気へと駆り立てる馨しい香り。
抑えがたい欲望が胃袋の底から湧き上がってきた。
ナイフを入れた。
吸い込まれるように、すぅっと切れた。
切り込みの線が面としての広がりを見せた。
芳醇ではあるけれど鮮やかな赤。
てらてらと切れ目の表面を汁が滴った。
フォークを刺し、それを一切れ口へと運んだ。
しっとりとして、柔らかな肉が舌の上に載って来た。
体温で脂が蕩けるのだろうか。舌の味蕾の突起を撫でるように、それが纏わりついてきた。味雷がヒクヒクと痙攣した。そして分泌された物質は脳内のニューロンを痺れさせた。
そうなると理性がとろんとしてきて、もう止まらなかった。
3杯目のジョッキが空になった。女の子が近づいてきた。
今度はテンダーロインの三〇〇gとビールを注文した。
女の子は笑顔でオーダー票に書き込んだ。
ビールはすぐに来た。
付け合わせのニンジンを食べているときだった。テンダーロインが運ばれてきた。
先に運ばれてきていたビールと一緒に、それを一気に平らげた。世界は恍惚という物質で満たされているような感覚だった。
伝票を持って席を立った。そして帳場へ向かった。ビールが全部で4杯、牛肉が700g。すべて、僕の胃の中に納まっていた。財布から紙幣を出し、勘定を済ませた。
恍惚という物質はまだ世界を満たしていた。
財布をしまいながら、もう少し飲みたいと思った。
康平に電話をかけた。コール1回。
ドアを開けた。雨は小降りになってきていた。
三十回目のコールで、僕は電話を切った。
寝ているのだろうか。それとも留守なのだろうか。しかし、そんなことはもうどうでもよかった。僕は 既に康平の住むマンションへと向かってしまっていた。
途中の酒屋でワインを2本とオープナーを買った。
ワインの瓶は褐色のラベルが印象的だった。
『レ・ザマン・ドュ・シャトーモンペラ』
なかなか良い赤ワインだと言いながら店の主人はそれを茶色い紙袋に入れ、僕に手渡した。
僕はそれを受け取り、店を出た。
早稲田通りに出ると、僕は中野に向かって歩いた。
街路灯や車のヘッドライトが濡れた夜の底を白く浮かび上がらせた。
ウィンド・ブレーカーも抱えた紙袋もすっかり濡れていた。
最初は肩の辺りくらいしか冷たくなかった。でも今は、背中も胸も冷たかった。
紙袋の中の瓶がカチカチと音を立てて震えた。
僕は歩道に跪くようにして座り、紙袋を路面に置いた。
その茶色い袋はグズグズになっていて、そこかしこが破れていた。
袋の破れ目から出た1本の瓶に手を伸ばした。
僕は何かの中毒患者のように震えていた。傍目からだと、禁断症状を抑えきれない若者にでも見えるだろうか。そんなことを考えながら、コルクの栓を開けようとした。だが、左手で持った瓶も右手で持ったオープナーも同極の磁石のように互いを遠ざけてしまった。
僕は手で開けることを止めた。
震えつつ、深呼吸した。そして路面に瓶を置くと、それを両膝の間に挟んだ。
オープナーを掴んだ右手は少しばかり振幅と速さを増していた。仕方なく左手を添えた。
狙いは相変わらず定まらなかった。それが僕自身には堪らなく滑稽だった。あまりの可笑しさに耐えきれなくなって噴出し笑をすると余計に狙いが外れ、自らのうちに更なる笑を誘った。
良いのか悪いのか、ぐるぐる廻るメリーゴーランドようだった。
可笑しさのピークを少しばかり超えたところだった。ようやく震える両手を制御することができるようになった。
ど真ん中ではないにしろ、コルクにオープナーを刺すことができた。
時計回りにそれを捻った。
栓を引き抜いた。朗らかで軽い音がした。
コルクが付いたままのオープナーをウィンド・ブレーカーのポケットにしまった。
右手で開けた瓶を掴んだ。そして直に口で飲んだ。
瓶を口から離し、息をついた。口元を手の甲で拭った。
胃の中が少し温かくなってきた。
もう一本の瓶を左手でつかみ、僕はゆっくりと立ち上がった。
ワインを呷る。
弱々しい雨が顔にかかった。
左の袖口で顔を拭った。しかし、あまり変わらなかった。
再び僕は歩き出した。
ワインのせいなのか、足元は覚束なかった。
疲労感。
20億光年くらいはありそうな途轍もなく孤独な道のりを延々と歩き続けたみたいだった。
身体が泥のように重たかった。
青信号。
横断歩道を渡り、大和陸橋下に入った。そこだけ空気が乾いていた。
浮島だな、と僕は思った。
点滅。赤信号。
立ち止まった。
一本目のワインの残りを飲み干した。そして、信号が変わるまで口笛を吹いた。大滝詠一の『カナリア諸島にて』だった。
信号が青に変わった。
再び雨の中へと踏み出した。
横断歩道を渡りきった。
交差点角。
コンビニエンス・ストア。
入り口の脇にトラッシュボックスがあった。そこへ空き瓶を捨てた。
身体が寒さで震えた。
闇に降る雨。弱くなってきたかと思うと、また少し粒の大きさを増した。
頭痛。低体温のせいなのか。
悴んだ意識。
警察大学校の跡地。どこをどうやって歩いてきたのか思い出せなかったが、そこだけは解った。
康平の住むマンションはすぐそこだ。
闇の中に暖かそうな光を帯びてぼんやり浮かび上がって見えた。
グレーのタイル張りの6階建てのマンション。
走った。
よろめいてた。酔いのせいだ、そう思った。
駐車場の出入り口。やっと辿り着いた。
康平の部屋がある辺りを見上げた。5階。点いていた灯りが消えた。
僕は時計を見た。
午前1時20分。
いつもの4倍。不思議だった。でも、ワインのせいだ、そう思った。
「おいおい、まだ寝ないでくれよ」と僕は呟いた。
エントランスのドアを開け、エレベーター・ホールへと向かった。
靴の中にたまった水が、歩くたびにぐしゃぐしゃと音を立てた。
エレベーターの扉。二つ並んでいた。
上階へ行くボタンを押した。
袖口から水が滴り、床を濡らした。
右側のランプは5階で止まった。左側のランプは迷わずここまで降りてきた。
ドアが開いた。静かに乗り込んだ。
キッチンのシンクのような無機質な函。
オフィスビルや大学のそれよりもずっと狭かった。映画で観る余所の国の遺体保管庫のようだと、いつも乗るたびに思った。
『5』のボタンを押した。
ドアが静かに閉まった。
エレベーターが静かに上昇し始めた。
ふと、僕は考えた。例えば、この上昇速度が光の速さを超えたらどうなるのだろうと。
1階から2階へ行く途中でどんどん加速する。2階から3階へと行く段階では光の速度を超える。3階から4階へは超光速を維持。そして4階から5階への過程で減速。5階へ到着。何事も無かったようにドアが開く。そのとき、僕はどんな光景を目にするのだろう。
ドアが静かに開いた。
蛍光灯の青白い光。踊り場のを冷たく照らしていた。
コンクリート製の高欄の向こう側に目を遣った。さっきと変わらない夜の闇が広がっていた。
蛍光灯の洩れ出た灯かりに照らされた雨が、幾筋かの青白い線になっていた。
時間が進んだ様子はなかった。もっとも、こんな近距離を光の速度を超えて移動したからといって、それほど遠い未来に行けるはずも無いだろう。
濡れた着衣や靴の不快さが気になった。しかし、踊り場を進んだ。
非常階段に面した東側の角。康平の部屋だった。
チャイムを押した。
反応は無かった。
もう一度押した。
やはり、同じだった。
「おい」とドアに向かって言った。「寝てるのか、康平!?」
酔っ払った頭でも近所迷惑なことくらいは認識できた。声を出して呼ぶのは一度きりで止めた。
三度チャイムを押した。静寂さが冷えた身体に沁みた。
入り口の脇にシャトー・モンペラを置くと、高欄にすがるように寄りかかった。
駐車場をぼんやり眺めた。
光。庭園灯だった。植栽に等間隔に配置されていた。
人影。
黄緑色のレイン・ウエア。
見覚えがあった。
<モンベル>
その後姿の記憶が脳細胞の中で照合された。それはアルコールで弛緩し、寒さで萎縮していたが、信頼して良い結果だった。
名前を叫ぼうとした。しかし、止めた。僕の脳はまだ理性を失っていなかった。
通路の突き当たりにある非常口の鋼鉄の扉を押し開けた。
それは生気を失ってしまった人間のように冷たく、重かった。
一段ずつ階段を下りた。
身体はやはり凍えて、悴んでいた。
自分自身がノロマで鈍重な動物のように感じられた。
歯痒さに、僕は舌打ちをした。
似たことが以前にもあった。
去年の夏だ。
あの時も、身体はたっぷりと水を吸い込んだ海綿みたいに重く、皮膚は麻酔の注射液が誤ってかかってしまった舌のように痺れて鈍かった。
甘かったのだ。それは、はっきりと言える。山を、自然を舐めてかかっていた。
* * *
標高1600メートル。日帰りのハイキング。そんな気軽さが、僕の中にはあった。しかし、そんな見識の甘さを現実世界は嘲り笑った。
山頂へ到達したのは、午後1時をとうに回っていた。
予定を大幅に過ぎていた。
原因は、ルート変更だった。
当初は尾根伝いに山を登るはずだった。
登り始めると出くわすのだ、甘く妖しい危険な香りに。
「こっちへ行ってみないか?」
言い出したのは康平だった。
美しい山ほど、そういうものなのかもしれない。
フラフラと男心が誘惑されてしまうのだ。
「いいねぇ」と僕も抗いきれず、つい乗っかってしまった訳である。
まさか途中の断崖絶壁で、足元も見えないほどの濃い霧に巻かれて立ち往生するなどということは、微塵も想像しなかった。
山頂に到着して、僕と康平は遅めの昼食を摂った。クリームチーズとコンビーフをプレーンのクラッカーで挟んだものを食べながら、僕はビールのプルタブに指をかけた。
「天気が良かったら、コイツ、もっと旨かったろうなぁ」
そう言って、僕はビールを飲み、クラッカーサンドを胃に流し込んだ。
「天気予報は晴れって言ってたのにな」と空を見上げつつ、康平は言った。「まぁ、こんな日もあらぁね」
クラッカーサンドを食べ終わると、僕はまったりとした気分になった。
座っている平たい岩の上でゴロリと横にでもなるつもりで両手を頭の後ろへ組もうとしたのだが、最後のクラッカーを食べているときにクリームチーズが右手の親指と人差し指に付着したようで少し気になった。
親指、人差し指と、それらを交互に口に含んだ。
物欲しそうな甘えん坊のような姿だったかもしれない。
雷鳴。
甘えた僕を一喝するかのようだった。
「ヤバいな」康平が言った。「早いとこ、山を下ったほうが良さそうだ」
まったり、のんびりとした気分などその辺に放り投げるようにして僕はすっと立ち上がった。
カリマーの20リットルザックに荷物をそそくさと詰め込んだ。
手際よく、片付けは完了した。
靴の紐を結びなおし、ザックを背負おうとした。
雷鳴。
空を見上げた。
何かが、おでこの上で弾けた。
雨粒だった。それは、僕の意識を鋭利な刃物のエッジのように覚醒させる冷涼さを帯びていた。
「降ってきやがった」僕はそう言った。
背負いかけていたザックを、康平は再び岩の上に置いた。
ジップを開け、黄緑色をした化学繊維の袋を取り出した。ゴアテックスのレイン・ギアだった。
マムートの登山靴を脱ぐと、黒っぽいレインパンツを穿き、鮮やかな黄緑色のレインジャケットの袖に腕を通しながら、康平は僕に訊いた。
「お前、レイン・ギアは?」
「持ってこなかった」と僕は答えた。
「マジで? なんで?」
「要らないと思ったからさ。天気も良さそうだったし、荷物になるものは極力省こうと思ったんだ。まさか、雷雲にすっぽりと飲み込まれて山を登ることになるなんて、思ってもみなかったからさ」
「甘かったな」
その言葉に、僕はロバート・デ・ニーロがするように肩を竦めて見せた。そして、「天からのシャワーに、洗い清めてもらうことにするよ」と強がった。
「好きにするさ」
靴紐を結びなおしながら、康平は静かに言った。
身支度を整え終わると、僕らは無口に尾根伝いの道を下り始めた。
視界は、午前よりも悪くはなかった。
その分、雷の閃光が、これ見よがしに僕らの視界の中で明滅した。
雨粒が激しく落ちてきた。
半袖から露出した皮膚にそれらが当たると、ちょっとした小石の直撃弾を受けたみたいに痛かった。
「なんだよ、集中砲火かよ」と僕は呟き、力なく笑った。
冷徹で正確な狙撃手の冷淡な直撃弾が、僕の体の上で弾け続けた。
視界が、冷たい滴りで遮られた。
僕は手で顔を拭った。
回復した視界で自分を見ると、身体じゅうズブ濡れだった。
再び、顔を雨が伝い流れた。また、それを掌で拭った。
岩が点在している山道は、あっという間に小川になって水が流れ始めた。
ゴアテックスの登山靴も、脚から伝う雨で、中はすっかり濡れていた。
雨で、急激に気温が下がったためだろうか、吐く息が白くなっていった。
雨と言い、冷気と言い、それら僕を取り巻くものが容赦なく僕から体温を奪い去っていった。
歯がカチカチと音をたてた。
寒いとは、口が裂けても言えなかった。
それは、僕が守るべき最終の防衛線のように思われたからだ。
今はただ粛々と、この黄緑色の背中を見つめながら山道を下る以外ない。そうするより外に、この惨めに凍える状況から脱出する術は無いのだ。
軽い頭痛が襲ってきた。低体温症の兆しかなと、ぼんやりした頭で思った。
激しい閃光。
目の前が白くなり、視界が奪われた。
僕たちはその場に片膝をついて屈んだ。
雷鳴のために、地面が振動していた。
顔を起こした。
真横に稲妻が走っていく。まるで、巨大な龍のようであった。
それを見つめる僕は激しく震えていた。
恐怖のためではなかった。
「寒いのか?」康平が僕を見て訊いてきた。
「少しな」と僕は答えた。
軽く唇を噛んだ。
「そんなに震えて少しってことは無いだろう」
そう言うと、康平は背負ったザックを降ろすと、レインカヴァーを外し、サイドポケットから黒と銀の何かをそれぞれ取り出した。
それはウェインガーのアーミー・ナイフと黒いポリのゴミ袋だった。
康平はポリ袋を広げると、その口からそこに向かってナイフを突き入れた。
鋭く光った刃先が、袋の継ぎ目からぬっと出た。
表面張力で無数の水玉となった雨粒が、幾筋もの流れとなって、無機質なつるりとした黒い袋の肌を転がり落ちていった。
ナイフの刃は、何の躊躇いもないように一直線を描いて見せた。
三十センチほどの極めて短い区間ではあったけれど、幾何学的に非常に美しい直線であった。
「これを被るといい」
康平は、そのポリ袋を僕に差し出した。
「ありがてぇ」そう言ってそれを受け取ると、僕は頭からすっぽりと被った。
水滴がぽろぽろと転がり落ちていった。
「手のところ、穴、開けるか?」と康平が訊いた。
僕が頷くと、康平はナイフで両腕が出せるくらいの穴を開けた。
手を出してみた。格段に動き易くなった。
「いいですねぇ、これ。神様、仏様、康平様。ナ~ム~」
僕は両手を合わせて、彼を拝んだ。
「よせよ!」そう言って、康平は笑った。
「成仏しろよ!」と、僕も笑った。
「勝手に殺すな!」彼は笑い続けた。
凍えきった空気に、少しだけ温もりが戻った。
「もっと早く作ってくれれば、濡れずにすんだものを」
「悪りぃ」そう言って、康平は頭を掻いた。
そして、またザックから何やら取り出した。
「ほら!」と、目の前に差し出されたのは、その日の朝、キオスクで康平が買ったスポーツ新聞だった。
「服と肌の間に入れると温かいぜ。特に、エロ記事のところを肌に密着させると、ぬくぬくして気持ちいいぞ」
康平は笑った。
僕は言われた通り、風俗記事の面を腹と背中に当てるようにしてポロシャツの中へ入れた。
「おおっ! 何という温もり」僕は笑いつつ言った。「でも、本物の方がもっと温かいな」
「確かにな」康平も笑った。
ザックを背負うと、僕らは再び歩き出した。
頭痛と倦怠感はあったが、意識的に身体を大きく動かすようにして、体温上昇を図った。
その間、僕はずっと前を見て歩いた。
黄緑色のレイン・ジャケットを視界の中に捉えながら。
* * *
1階の扉を開け、駐車場に出た。
黄緑色のレインジャケットの背中は何処にも見えなかった。
道路へと出た。
右。いない。
左。常夜灯。
何かが見えたというわけではなかった。しかし、その灯りに吸い寄せられるようにして、僕はそこへと向かっていった。
自分が思い描くように走れなかったが、なんとか常夜灯まで来た。
T字路だった。
早稲田通りへと向かう道と、警察大学校跡地のコンクリート塀の方へと向かう道。
前者はところどころ灯りが見えたが、後者の方には漆黒の闇が無理やり押し込まれたように充満しているだけだった。否、今いる場所が明るいためか、そう見えただけかもしれない。
以前、昼の明るい時間に由佳とこの道を通ったことがあった。
奥は迷路のように入り組んでいたような気がした。
Y字路、T字路、十字路、鍵手の曲がり道、袋小路。
それらは、この城壁のようなコンクリート塀を巡るように家々が後から後から津波となって押し寄せて来た結果なのだと、そのときの僕には感じられた。
僕は、一歩、迷路へと踏み出した。
僕は重い足を引き摺るようにして、深遠な闇へと進んでいった。
漆黒に包まれながら、僕は或るイメージに囚われ始めていた。
それはノロノロとした全力疾走を続けながら、僕自身の中身を何処か遠い場所へと置き去りにしてきてしまったような抽象的なものだった。
やがて、それは具体性有して闇に中に浮かび上がってきた。
チェーンの外れた自転車を何も疑うことなく漕ぎ続ける道化師。
一生懸命漕ぎ続ける、そんな滑稽な存在。
そして、彼はいつかセルバンテスの荒唐無稽な物語のように、怪物に向かって突進して行くかもしれない。
そう考えると、腹の底の方に生真面目な戯れのような静謐さが沸騰を始めるように感じられるのだった。
ニヤニヤと笑いながら歩く僕の前に、コンクリート塀が目の前に現れた。
そこで道は弾かれたように左右に分裂していた。
「右へ行くべきか、左へ行くべきか、それが問題だ!」と僕は呟いた。
どちらの道を選ぶにせよ、それぞれの道は必ず早稲田通りへと出るのだ。仮に、僕が点Pだと仮定するなら、あいつは点Qで、運がよければPはQと交わることが出来るだろう。
そんなことを考えつつ、僕は右へと曲がった。
その道は奥に常夜灯の灯りが見えたが、とても暗く、そのうえ寂しい感じがした。
僕は常夜灯に向かった。
背後の暗闇の奥から誰かが僕を尾行してきているような奇妙な感覚に襲われた。
気のせいだと解かってはいるのだけれど、気になりだしたら得体の知れない不安が水槽に滴り落ちたミッドナイトブルーのインクのように僕の中に広がっていった。
自分を急かすようにして、どうにかこうにか常夜灯のある電柱まで来た。
そこはゴミの集積所になっていた。
壁際に堆く積まれたゴミ袋の山。
青白く冷たい蛍光灯の波長の短い光線に照らされて、雨に濡れた黒いポリ袋がてらてらと光っていた。 パンパンに膨れたそれらの一つ一つの中身は、僕たち人間が生きて行く中で廃棄した物だ。
それは何を食べ、何を買い、何を借りたかなどといったその人物に関する情報であるのと同時に、その人物がどのように生きたかという痕跡でもある。
僕らはいつも清浄でありたいと願う。しかし、その一方で不浄で悪辣であり、それを受け入れなければ生きていけないということもある。そうした両者ののっぴきならない鬩ぎ合いの過程でやむに止まれず苦しみあぐねての所産、それがこの黒光りした無機質な集合体の累々たる山なのかもしれない。そして、そのような死屍累々はこの街の至る所で見られる風景だった。頂上部分が陥没していることを除けば……。
雨で濡れて滑りやすくなった無機質な光沢の黒い斜面を登った。
何度も滑落しそうになったが、這うようにして無事頂上まで辿り着くことができた。
頂上を征服しての雑感めいたものは特になかった。
敢えて言うなら、僕はその頂の二番目の征服者であり、見上げるほど高かったコンクリート塀が胸より下の高さになったということくらいであろうか。
僕は身を屈めながら、電柱の陰に入った。そして顔だけ出すようにすると、塀の中の様子を窺った。
昼間だったら、おそらく僕の生首がコンクリート塀の上に載っているように見え、目撃した人は一瞬ぎょっとしたかもしれない。
しかし、今は夜である。
先ほど到達した陥没地点からこんな風に頭を出していたら、多分、バリ島の影絵のように僕の頭がひょこひょこと滑稽に動き回る様子が相手から容易に見てとれただろう。こうして電柱の陰に隠れたのも、相手にこちらを察知されないためである。
塀の中の暗澹を凝視した。
僕の虹彩はかつて無いほどに広がり、僅かな光を探した。
しかし、そこにはただ硯の海のようにとろりとした闇が沈殿しているだけだった。
僕は自由にならない身体で、コンクリート塀を乗り越えた。まるでボロ雑巾がずり落ちるようだ。
地面。
受身。
咄嗟に出た。
そのまま転がるようにして、僕はうつ伏せになった。
不思議なものだった。中学、高校と習った柔道の受身がまさかこんなところで無意識に発揮されるとは思ってもみなかった。
伏せた顔を上げ、暗澹たる沈殿を眺めた。
ダメだ。視覚はまるで役に立ちそうに無かった。
目を閉じた。
何処からも光が入ってこないことに変わりは無かった。
けれど、こうして目を閉じていると感じるのだ、あいつの“気配”のようなものを。
それは超心理学でいうテレパシーや単なる思い込みなどといった精神的作用といったものではなく、実に皮膚感覚に近いものではないかと思われてならない。
光の無い世界と言うのは頓知話の「闇夜のカラス」と同様に、墨一色で塗りつぶされた半紙のように均一でべったりとしたものであると思われがちである。
実際、目を閉じると先ず今まで自分を取り囲んでいた世界から僕たちは一旦切り離されてしまって、解かるものといえば足裏に伝わってくる自分の立つ地面の感蝕くらいなものである。
そのべったりした均一な感覚は、視覚を有していた人間の、自分を取り巻いていたあらゆる対象物からの距離感の喪失であるし、それに伴う方向の喪失でもある。
動かなければ一生そのまま距離も方向も無いまま、永遠の迷い子となるかもしれない。
しかし、少しばかり勇気を出して手を伸ばし、一歩足を踏み出せば、指先に電信柱を発見することができるだろうし、道路のアスファルトのひび割れや道路脇の側溝の蓋のガタツキを足裏に感じ取ることが出来るかもしれない。
それは僕の中の新たなデータとして変換され、まっ黒な画面に3次元座標となって浮かび上がるだろう。
ただし、そうした感覚は、視覚を有していた経験に基づく情報の上書きでしかない。
生まれつき視覚を持たなかった人間の降り立つであろう地平に、どう足掻いても僕は立つことができない。
それは僕自身の限界点にほかならない。
<存在しない>事物を想い描く事が出来ないという、僕の想像力が突破できない壁である。
いくらその壁の向こう側にそれ以上空間はないのだと再三再四説明を受けても<無い空間>を想像してしまうという、まるで幼いころ受けたBCGの接種痕のように僕の大脳新皮質からそれは離れようとしない。
目を瞑り続けた。
その“気配”を、次第にざらりとした皮膚感覚みたいに感じとることができるようになった。
それは硯の墨溜まりの海から陸へと水を書道墨で掬い取り、根気良く墨液を擦る作業のようだ。
墨液が十分濃い場所は陸と墨の摩擦は少なくぬるとりして浮いた感触であるのだが、薄い部分は十分濃くなるまでざらついた感じが抜けない。
そのことがこの暗闇の中で感じられるのだ。
ざらついた方へゆっくりと匍匐前進した。
拳を握り締め、両腕を伸ばし、胸元へ抱え込むように腕を引いてくる。
すると、ずりずり身体が引き摺られつつ前に進む。
1秒で10センチ。
今の僕なら上出来だ。
それに、このくらい速度の方が相手に気づかれないで済む。
50メートルは進んだろうか。
顔を上げた。
下から見上げるようにすると、厚い雨雲が大都会の不眠の煌びやかさ帯びているのが解かった。
それはくすんだ淡い紫色の蓄光塗料のようにぼんやりと発光しながら、トレース台として画像を浮かび上がらせた。
あいつは、いた。
動いている。
ヘッドランプが点いた。何かを確認しているのか。消えた。
また影法師が動き始めた。
僕は周囲をゆっくり見回した。
左斜め、時計で言えば10時の方向になる。
そこに、工事用の2階建てプレハブが見えた。
距離にして100メートルほどだ。
1000秒数えているうちには何とか到達できるだろう。もちろん、そこまで体力が持てばの話である。
僕は再びボロ雑巾の前進を開始した。
最初の300秒は頗る調子が良かった。
けれど、そこから一気に曲線は下降した。
400を超えた辺りから、数えるとという行為すら億劫になってきた。
そして500にならないうちに数えることをやめた僕は、それからは漠然とした泥だらけのカオスをただひたすら這い回った。
どれほど時間が過ぎたのだろうか。
指先が厚さ3センチくらいの、何か硬質なものに触れた。
顔をどうにかこうにか上げた。
プレハブの建物周辺に整然と敷かれた鉄板だった。
辿り着いたのだ。
もうヘトヘトだった。
永遠に辿り着くことが出来ない、遥かなる残りの50メールが、ここでようやく終わったのだ。
全身が鉄板に載った。
身体を捻るようにして、ゴロリと仰向けになった。
頭から爪先まで泥だらけだった。
おそらく、傍目からは人間には見えないだろう。
得体の知れない怪物か、何かそれに類するものに違いない。
暫くそのままの姿勢で、体力が回復するのを待った。
顔に当たる雨粒が、時折泥流となって目じりを襲い、耳穴を塞いだ。
少しだけ体力が回復した感じがした。
首を上げ、さっきの影法師を探した。
どうやら死角に入っているらしく確認することはできなかった。
身体を捩りながら、再びうつ伏せになった。
肘、膝を立て、ゆっくりと立ち上がった。
低い姿勢をとり、プレハブ伝いに進んだ。
プロパンガスのボンベ。その先で建物は終わっていた。
隣には2メートルくらいの間隔を置いて、物置のようなユニットハウスが4、5棟整然と並んでいた。 隙間から、影法師の方を窺うと、そいつはまだ動いていた。
ハウスと建物の間をまた腹這いで進んだ。
相手が良く見えた。
こちらから良く見えるということは、相手からも良く見えるということだ。
どこか身を隠すものが欲しい。
ユニットハウスを抜けると、左手すぐ近くに、建設資材が腰ほどの高さで纏められた場所があった。
あそこまで行ければ、20メートルくらいまで距離が詰められそうだった。
そのままゆっくりと進んだ。
資材には青いシートがかぶせられていた。木材か何からしかった。
低い姿勢をとると、資材に沿って横へゆっくりと動いた。
青のシートが終わると、隣は鉄パイプだった。
資材の山と山の間には、やはり1メートルほどの通路が設けてあった。
そこから影法師の姿を探した。
しかし、見えなかった。死角になっているのだ。
通路を奥へと進んだ。
5、60センチほどの長さの鉄パイプが太い針金で束ねられたところで資材の山は終わっていた。
片膝をつくと、青いシートに隠れるように顔を出し、右側を見た。
影法師はまだ何やら動いていた。
道具を使っているのだろうか。
それで地面を何かしてるらしい。
影法師が止まった。
ヘッドランプの明かり。
黄緑のジャケットだ。
手にしているのはシャベルだった。
何を見ているのだろう。
消えた。
影法師が動き始めた。
土を動かしているのか。
僕はそのままの姿勢で、足元を探った。
角材の切れ端。
拾った。
肘くらいの長さだった。ちょうど良い。
ここから更にあいつに近づくのは限界だった。
こちらはあいつの正面だからだ。
近づくなら、背後ないし側面からだろう。
先ほどの見通しの良い通路へ戻った方が良さそうだった。
そう思って引き返そうとした時だった。
何者かが泥だらけになった僕のウィンドブレーカーの裾を引っ張った。
振り返った。
裾のドローコードが限界点で張り詰めていた。
「ヤバい!」
そう思ったときには、遅かった。
コードが抜けた瞬間、パイプの束がひしめきながら動いた。
僕は固まった。そして、手にした角材をぎゅっと握り締めた。
青いシートから顔半分を出すように影法師の方を窺った。
ヘッドランプが点き、こちらを照らしていた。
近づいてくる。シャベルを手にしたまま、こっちへ来る。
出るしかない、そう思った。
自分を鼓舞した。
「突撃っ!」
弾かれるようにして、シートの陰から僕は飛び出した。
立ちはだかった。
5メートル。
黄緑のレイン・ジャケットはびくりとした素振りで立ち止まった。
二人、じっと固まったまま動かなかった。
いや、正直に言おう。
僕の場合、緊張が上限規定値の限界線を超えてしまい、全身が痺れたように強張っていたので動かそうにも動かなかったのだ。
「あぁぁ……!」腹の底から搾り出した。
本当は「康平だろう?」と言いたかったのに、上手く言葉を発することが出来なかった。
ヘッドランプの明かり。
泥に目と口を付けただけの僕の顔を照らした。
黄緑色のジャケットは息を呑み、後ずさりした。
「あぁぁ……!」上手く喋れない。
ヘッドランプの光線が容赦なく僕に浴びせられた。
眩しい。
僕はそれを遮るように、角材を持った手を翳した。
「うぁぁっ」黄緑色のジャケットが言った「ゆ、赦してくれ」
どこかで聴いたことのある男の声だった。
男はシャベルを放ると、背を向けて駆け出した。
「ひぃっ」
転んだ。
雨のそぼ降る暗闇にヘッドランプが転がり、水溜りのところで死んだカエルみたいに動かなくなった。 男は何メートルか四つん這いで進み、滑りながらどうにか立ち上がると、再び走って逃げていった。
「あぁぁぁ……!!」
待ってくれよ、そう僕は叫んだつもりだった。
僕は追いかけた。
けれど男の走る速度には到底追いつけず、その背中は闇に紛れて見えなくなってしまった。
極限の緊張から解放されたためだろうか、僕はへなへなとその場に座り込んでしまった。
ヘッドランプの明かりが照らして浮かび上がった水溜りに、落ちて弾ける雨の様子を僕は暫くぼんやりと眺めていた。
人生最良の日だと思っていた。
思いがけないお小遣いも手に入った。
旨いステーキもお腹いっぱい食べた。
いい酒もたらふく飲んだ。
なのに、こんなに身体は冷えきって寒く、へとへとに疲れていた。
眠い。眠くなってきた。
疲れきって泥のように眠るというが、今の僕は眠るように泥になったといったところだろうか。
ふと、手を伸ばし、ヘッドランプを拾った。
白とライムグリーンのいペツル。
頭に装着した。
頭だけ動かすように僕の周りを見回した。
光に照らされた場所だけが、暗闇の底から静かに浮かび上がった。
そして、その光がまた別なところへ移動してしまうと、そこは再び闇の深淵へと音も無く沈んでいくのだった。
白いものが浮かび上がってきた。それは何かの骨ように思われたが、よく見ると男が放り出していったシャベルの柄だった。
僕はふらふらしつつ立ち上がり、その場所へ歩いて行くとそれを拾った。そして、あの男が泥を動かしていたと思われる場所へと向かった。
そこには、それほど太くない桜の木が1本あった。
周りの土は雨に洗われてしまっていて、何処をどう弄ったのか、見た目では解かりにくくなっていた。
何箇所か探るようにシャベルを地面に突き立てると、すぅっと抵抗無く刺さる場所が根元近くにあった。
僕はそこを掘った。
夢中で掘った。
疲労困憊でスカスカになった僕自身を、代わりにその掘った泥が満たしてくれるとでもいうように遮二無二掘った。
縦に掘っては横を広げ、そうやって1畳ほどの広さのところをどんどん深く掘っていくと、腰くらいまでの深さになったところで何か幕のようなものを突き破った感覚があった。
シャベルを穴の壁に立てかけ、その場所の土砂を手で除けた。
ポリ袋か何かだろうか。
落ちてくる雨粒と流入してくる水のために、土は捏ねられて直ぐにドロドロになってしまったが、遺跡発掘作業をする考古学者のように丁寧に掘り出し、穴の外へと袋を出した。
黒いポリ袋だった。
大小、合わせて6つ。
しっかりと固く、口は結ばれていた。
そのうちの一つの前に片膝をついて屈むと、僕は口を開けようとした。
しかし、指が悴んでしまっていて、それを解くことが出来なかった。
そこで、シャベルで穴を開けてしまった袋を手前に寄せた。
その穴に指を入れ、裂いて広げてみた。
すると、更にその中には同じようなポリ袋が入っていた。
果実の皮を剥くようにしてそれを取り出し、また穴を開けてみると中から同じように袋が出てきた。
まるで、マトリョーシカ人形だ。
どこまでもつづく無限のスパイラル。
取り出した袋を開けようかどうか、僕は迷った。
このまま永遠に袋を破っては取り出す作業を続けていくことを想像すると、気が遠くなってしまう思いだった。
でも、これで終わりであれば、一つ自分の中で区切りが出来るというのもあった。
だから、少し勇気を出して袋を開けることにした。
人差し指を突きたてるとポリフィルムの一点に力が集中し、ゆっくり沈み込むように伸びると限界点を超えたところでブスリと穴が開いた。
第一関節に掛けるようにして引っ張った。
指は痛かったが、メリメリとポリ袋は裂けた。
ボトッと、ドス黒い何かが大きく開いた裂け目から転がり出た。
ヘッドランプでそれを追った。
そのドス黒いものは堆積した泥の山の斜面を転がり、桜の樹に当たって根元に凭れるように止まった。
近づいて、それをライトで照らした。
赤黒く光ったりして、ボーリング球みたいだった。
僕はぬるりとしたそれを両手に持ち、時計回りに90度回転させたところで呼吸が止まった。
由佳だった。
僕は声も出なかった。彼女は目を閉じたまま、クリムゾンの油絵の具で塗り固められたようになっていた。
僕は彼女を両腕で胸に抱えるようにして、水溜りのある場所へ行った。
そして、水溜りの真ん中へ座り込み彼女の頭を左手で支えると、顔にべったり付着した赤黒い塊を掌に掬い取った水で洗い落とした。
掌でそっと拭ってやるのだが、白桃の果汁のように甘く芳しい透明感を持っていた肌は、もはや廃油のようにくすんで濁り、蝋人形のように青白かった。
「誰がお前をこんな目に遭わせたんだ?」僕は呟いた。「康平か?」
「康平だって?」闇の奥から声が聴こえた。
僕はその声のした方へ視線を向けた。
闇の隙間から、赤いウルトラスターがぬっと出てきた。
「そんなジョークじゃ笑えねぇなぁ」
顔がばっと現れた。
アフロヘアの小人だった。
いや、もう今は小人ではなかった。
身長は優に2メートルを超える大男になっていた。
大男はニヤりと笑いながら、脱皮するように闇から抜け出てきた。
シミ一つ無い白のツナギが目に痛いほど眩しかった。
「康平が犯人じゃないの?」
大男はニヤニヤしながら首を振った。
そして、残り5つのポリ袋から無作為にという感じで一つ選ぶと、口笛でキラー・ジョーを吹きながらその固く結ばれた口を器用に解いていった。
そして何かを鷲掴みにして中から取り出すと、「ほれ」と言ってそれを僕の目の前に突き出して見せた。
僕は身体を仰け反らせた。
康平の首だった。
由佳と同じだった。
目を閉じて、赤黒に塗れていた。
大男は笑った。
「な? いくら康平が器用でも、彼女をバラした後でテメェをバラせるわけねぇんでさ。第三者が二人をバラしちまったって考えるのが、極々自然だろうな」
「じゃぁ、誰が一体」僕は言った。「まさか、あんた!?」
大男は僕に近づくと、僕を抱き起こすようにして馴れ馴れしく僕と肩を組んだ。
「オレっちはそういうジョーク、嫌いじゃねぇぜ。ま、あんまり変な詮索はしないことだ。それがオレっちとお前ェのためだ」大男は耳打ちするように言った。「もう魂玉の用は済んだろ? 忘れたい記憶もあるもんな」
「えっ!?」
「悪ぃが、もうコイツは返してもらうぜ」
そう言うと、男は僕のジーンズのポケットに手を突っ込んで魂玉を掠め取った。
僕たち二人は肩を組みながら――と言っても、僕の頭は大男の胸くらいだったのだが―、桜の所まで歩いた。ぽっかり空いた穴の前まで来ると、僕たちは立ち止まって桜を見上げた。
「いいねぇ、桜は」大男は言った。「散り際が実にいい」
僕は桜を愛でる気分ではなかった。
「ところでよ、お前ぇさんに言っておかねぇと、どうしてもオレっちの気が咎めてならねぇことが一つあるんだがよ」大男はニヤリと笑った。「お前ぇさん、覚えてっかな。オレっちがちょっと口滑らせちまってよ、貰うもん貰っちまったからって言ったことがあるんだが、覚えてるかい?」
「さぁ、覚えてないな」僕は言った。
「そうかい。ならいいや。」大男は言った。
「何だよ、気になるよ」僕は言った。「貰うものって、由佳と康平のことだったの?」
「いいや、そうじゃねぇんだ」大男は首を大きく横に振った。
「じゃぁ、何だったのさ?」僕は訊いた。
「そんなに知りたいかい?」
そう言いかけたところで大男は組んだ肩を振りほどき、僕の背中を力いっぱい突いた。
僕は不意打ちを食らってバランスを崩した。
無防備な雛みたいによちよちとよろめきつつ、前のめりで穴の縁まで自分の意思とは無関係に歩いて来てしまった。
羽をバタつかせるように両手を回しながら元の体勢に戻そうとしたが、重心は既に穴の方へと傾いていた。
僕は身体を捻り、大男を見た。そいつは大口を開けて笑っていた。
身体がどんどん穴の中へと傾いていった。スローモーモーションの映像となって大男が遠ざかっていく。
男は左手を差し出した。
掌には、魂玉が載っていた。
「それはな、お前ぇさんの魂さ」そう言うと、大男は甲高く笑った。
「ふざけるなぁぁぁ!!!!!」僕は叫んだ。
穴に落ちつつ、僕はバタつかせた両手を手刀のようにし、大男の左手首を狙って振り下ろした。
魂玉が弾け飛んだ。
それは僕の股下をすり抜け、穴の中に落ちていった。
僕はそれを追いかけるように穴に落ちていった。
深い深い穴だ。桜が星のようになって遠ざかっていく。
「覚えてろよぉ!」
闇の中に、大男の声がこだました。
僕は闇に包まれていた。
ベッドから飛び起きた。
なんだか嫌な気分だった。
ひどく寝汗もかいていた。
夢見が悪かったのかもしれない。
けれど、内容は全く思い出せなかった。
そんな夢の中にあって、僕の逃れられない業なのか、ペニスはいきり立っていた。
それを解放するため、僕はトイレへ向かった。
放尿とともに、僕は等身大になっていった。
深い溜息を僕は吐いた。
目覚めの悪い朝だった。
部屋のチャイムが鳴った。
僕は玄関へ行くと、ドアスコープから外の様子を窺った。
魚眼レンズの向こうに、印象の薄い男が立っていた。
(了)