紅の魔女の怪異譚 人ならざる者
新しい引越し先は、私鉄の駅から徒歩八分の五階建てマンションだった。
今度の後見人は遠縁の叔父で、顔を合わせたのはその日が初めてだ。四十代の会社員らしく、要するに「引き取れとは言われたが関わりたくはない」という態度がありありと滲んでいた。まあ、毎回そんなものだ。荷物の少ない私をエレベーターで四階まで送り届けると、「生活費は月初めに振り込む、困ったことがあれば連絡しろ」とだけ言い残してさっさと帰っていった。連絡するつもりは今のところない。
部屋は六畳一間のワンルームで、ベランダから隣の敷地が丸見えになっていた。
大きな白い建物だった。
三階建てかそこらの、やや古びた施設で、正面には大きな看板が出ている。
「光明真照会・○○支部」
と書かれている。
施設の周囲には白い服を着た人間がちらほらと歩いていて、全員が一様に穏やかな表情をしていた。
私は一秒でため息をついた。
「……またですか」
誰に言うわけでもない独り言だ。だってこれで何度目か。
カルト施設の隣。宗教二世の私にとって、これほど当たりたくない引越し先の条件もそうそうない。こういう時、私の人運の悪さには芸術的なものさえ感じる。
叔父が選んだのか、手配した業者が選んだのか知らないが、どちらにせよ事前に調べる気がなかったのは確かだろう。家賃が安い物件は何かしらある、というのは大人も知っているはずなのに。
荷物を箪笥に押し込みながら、マンション内の気配を確認した。
廊下ですれ違った住人が二人いたが、どちらも白い服を着ていた。つまりマンションの住人の多くがあの施設の関係者ということだ。まあ、施設の隣に住んでいるのだから当然といえば当然か。信者向けに部屋を安く貸している、というパターンも珍しくはない。
問題は、こういう場所では住人同士の監視が機能していることだ。引越してきた見知らぬ子どもは当然マークされる。しばらくは静かにしておいた方がいい。そう判断して、私はその日の夕食を手早く済ませて早めに眠った。
◇ ◇ ◇
翌日の土曜日、私は近所のスーパーへの道を確認するため外に出た。
マンションのエントランスを出たところで、それと鉢合わせた。
五歳か、それぐらいの女の子だった。
白い服を着て、マンションのエントランスのわずかな日陰にぽつんと立っていた。それだけなら単なる子どもだ。しかし、私は三歩手前で足を止めた。
美しい、という言葉しか出てこなかった。
容姿が整っているという話ではない。もっと根本的な部分で、この子どもは「美しさ」の密度が人間のそれとかけ離れていた。
光の当たり方が周囲とわずかにずれているような、重力の感じ方が微妙に違うような、そういう種類の「ずれ」が全身から滲んでいる。
女の子はこちらを見上げて、言った。
「あなた、逃げないの?」「何から」「ここ。あの建物」
女の子は施設の方向へ視線をやった。
「あそこ、危ないよ」
「あなたは危なくないんですか」
女の子は少し考えるような顔をして、首を傾けた。
「私は人間じゃないから大丈夫。でも人間はだめ。あそこに引き込まれたら、戻れなくなる」
私は改めてその女の子を見た。確認するように。
ペンダントが、かすかに温度を上げた。
「……名前は?」「ない。みんなからは神様とか、神の子とか呼ばれてる」「じゃあ何と呼べばいいですか」
女の子はまた少し考えて、「なんでもいい」
と言った。
私は一瞬迷って、「シロ」
と言った。白い服を着ているから、という以外に理由はない。
女の子は特に反応せず、ただ、「ふうん」
と言った。
◇
◇
◇
その日の夕方から、私は情報収集を始めた。
光明真照会については、インターネットで検索すると相応の情報が出てきた。設立は十数年前、現代の新興宗教としては若い部類だ。
表向きは「心の浄化」と「共同体の形成」を掲げており、穏健な印象を演出している。しかし少し掘ると、脱会が困難であること、構成員が財産を教団に預ける慣習があること、脱会者からの証言として「幹部からの心理的統制が強く、外部との連絡を制限された」という記述がいくつも見つかった。
加えて、気になる記述があった。
「幹部の一人が行う『浄化の儀式』に参加した後から、人格が変わったように従順になった」
という証言が複数存在した。
単なる心理的洗脳ではなく、何らかの「術」が介在している可能性が高い。
私はペンダントに問いかけた。
今度は珍しく、返答が言葉に近い形で来た。いつもは熱の強弱で示してくるのに、今回ははっきりと温度が三段階に跳ね上がった。
「……知ってるんですね、あそこのことを」
熱が増した。
「つぶせ、ということですか」
またさらに熱くなった。
「あの、確認なんですが、私の意志も少しは尊重してもらえますか」
熱は変わらなかった。
私はため息をついた。この神様は時々、こちらの都合をまったく考えない。
まあ、神様というのは概してそういうものだということは経験上知っているが、もう少し配慮があっても罰は当たらないと思う。
ふと思って、握ったままのペンダントに問いかける。
「『あれ』がかかわっていますか?」
ペンダントは火傷しそうなほどの熱を放った。
それはまるで怒っているような反応だった。
どうやら当たりらしい。
ともあれ。神様からの勅命は絶対だ。
施設を潰す方法を考え始めた。
◇
◇
◇
問題を整理するとこういうことになる。
カルト教団を「つぶす」方法として、武力による直接行動は最悪手だ。こちらは中学生で、証拠隠滅もままならない。
警察を動かすのが最も後腐れがないが、そのためには「術」の存在を客観的に証明する必要があり、これが難しい。
となると、内部から崩す方法を取るのが現実的だ。
翌日、私はシロのところへ行った。
シロはまた同じ場所に立っていた。
「あなたは施設の中に入れますか」
「入れるよ。みんな気づかないから」「幹部が儀式を行う場所が分かりますか」
シロは少し首を傾けた。
「分かる。においがするから。あそこは変なにおいがする」
「どんなにおい」「腐ったにおい。人のにおいじゃないにおい」
やはり怪異が絡んでいる。「案内してもらえますか」「いいよ」
シロはあっさり答えた。
「でも、なんでつぶすの?
あなたに関係ないのに」
私は少し考えた。
正直に言えば、関係はない。私がここに来たのは偶然で、巻き込まれる前に引っ越すことも選択肢にある。
しかし、ペンダントの熱は引っ越しを許してくれそうになかったし、もう一つ、もっと個人的な理由があった。
「嫌いなんです、カルトが」
シロはしばらくこちらを見てから、小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
施設に入ったのは、その夜だった。
シロの言う通り、シロと一緒にいると施設の人間はこちらに気づかなかった。完全な不可視ではなく、「見ていても意識に引っかからない」という類の力のようだ。何かに集中していれば見破られる可能性はあるが、幸い夜間は人が少ない。
一度だけ気づかれた。
一人の老人に、「100万の恵まれたる者よ、どうなされた」
と声をかけられたのだ。
女の子は驚いていた。あとで聞くと、あまりここに来ない人らしかった。
「この人を案内しています」
そう言うと、老人は特に表情も変えず、「そうですか」とだけ言ってその場を去った。
「あの人、どんな人なの?」
私がそう聞くと、女の子は、
「わかんない。周りからは老子様って言われてるし、えらい人たちは外部協力者といってた」
と答えた。
特にこれ以上かかわってくる様子もなかったので、それ以上考えることはなかった。
シロはその後も迷いなく廊下を進んでいった。
施設の内部は清潔で、壁には穏やかな風景画が飾られていた。いかにも「安心できる場所です」という演出だ。
しかし廊下の奥に進むほど、空気の質が変わってくるのが分かった。湿度ではなく、重さが変わる感じだ。
シロが立ち止まったのは地下への階段の前だった。「ここから下。においが強い」
階段を降りると、広い地下室があった。
中央に奇妙な祭壇が設えてあり、周囲には蝋燭が並んでいる。
祭壇の上には見慣れない形の像が置かれていた。人の形をしているが、どこか比率がおかしい。腕が長すぎる。
私はペンダントを出した。
炎が激しく上がった。ちょっと前髪が焦げたかもしれない。
「やっぱり」
これは人間が作った儀式に「何か」を呼び込んでいるパターンだ。
怪異の類が、カルトの組織と構造を利用して根を張っている。この祭壇を通じて信者たちに影響を与えているのだろう。
「浄化の儀式」の後から人格が変わるというのは、おそらく祭壇を通じた直接介入だ。
問題は、像そのものよりもそこに宿っているものの性質だ。
私はシロに聞いた。
「あれが腐ったにおいの元ですか」
「そう。でもあれは器だよ。本体はもっと深いところにいる」
「深いところ、というのは」
「あの像の下。地面の下。眠ってる」
眠っているものを呼び起こして儀式に使っている、ということか。
器である像を通じて影響を与えているが、本体は封印に近い状態で眠っている。
ならば像を破壊するか、像との接続を断てばいい。本体を起こす必要はない。
私は祭壇に近づき、像を調べた。
表面に細かい文様が彫られている。見覚えのある系統の文字列だ。
親が関わっていたカルトで散々見させられた類の、人為的に組まれた呪的な構造体。
つまりこれは怪異が自ら作ったものではなく、人間が怪異を呼び込むために作ったものだ。
それにしても高度すぎる。
これは『あれ』がかかわっているな。そりゃ神様が怒るわけだ。
それはそれとして、構造を崩せば接続は切れる。
私はペンダントを握り、像の文様に指を当てた。
一つ一つの文字列の意味を辿りながら、どこが中核になっているかを探す。
こういった人為的な呪的構造には必ず「要石」となる文字か紋様がある。そこを解除すれば、芋づる式に崩れる。
三分ほど探して、それを見つけた。
像の背面、ちょうど背骨に当たる位置に刻まれた一文字だ。
他と比べて線が深く、力が込められている。
「シロ、少し下がっていてください」「うん」
私は木の床に直接座り込み、像の前で目を閉じた。
ペンダントに力を求めると、今度は即座に応えてくれた。
流れ込んでくる熱を指先に集め、要石の文字に向けて解くように押し当てる。
抵抗があった。
これははっきりと意志を持った抵抗だ。向こうもこちらの行為に気づいている。
像の文様全体が微細に振動し始め、地下室の温度が下がった。蝋燭の炎が一斉に揺れる。
私は引かなかった。
こういう時に引いてはいけない、というのは経験で知っている。
怪異との力の押し引きで一度退くと、次は倍の力で押し返してくる。
押し続けることだ。
消耗しても押し続けることが、こういう局面では唯一正しい。
まあそれも、この手に持ったペンダントあっての力だけれど。
どれくらい経ったか。
突然、抵抗が消えた。
像が、内側から光を失うように暗くなった。
文様の輝きが消え、ただの石の塊になった。
同時に地下室全体の重さが、一段階軽くなった。
ペンダントが静かになった。
私は立ち上がり、額の汗を拭った。
「終わりましたか?」
とシロが聞いた。
「接続は切れました。ただ、これだけでは信者への影響がすぐに消えるわけではないです。時間はかかると思いますが、新たに操作されることはなくなります」
唯の人間じゃあの文様を書き直すのは無理でしょうし、と小さくつぶやく。
「じゃあ組織は?」
「それは人間がやります」
私はスマートフォンを取り出した。
◇ ◇ ◇
匿名の通報先はいくつかある。
宗教法人の不正を調査している週刊誌の記者のメールアドレス、消費者庁の窓口、そして脱会支援団体の相談フォームだ。
無数の経験の中から、それらの情報は自然に手元に入ってくる。こういう時に使うので、使えるものをまとめてある。
施設内で撮影した祭壇の写真、財産移転の実態を示すいくつかの文書の写し、そして脱会者証言をまとめたURLのリストを添付した文書を、三カ所に送信した。
怪異の接続が切れた組織は、内部から揺らぎ始める。
操作による従順さが薄れれば、疑問を持つ者が出てくる。
そこに外部からの圧力が加われば、組織の瓦解は時間の問題だ。
私はスマートフォンをポケットに戻した。
「行きましょう」
シロと並んで階段を上がり、施設を出た。
外の空気が冷たかった。
夜の空に薄く雲がかかっていて、月が透けて見えた。
◇ ◇ ◇
一週間後、件の施設についての報道が出始めた。
週刊誌が「新興宗教団体の財産搾取疑惑」として報じたのを皮切りに、複数のメディアが追いかけた。
元信者の証言が表に出始め、行政の調査も入ったようだ。
マンションの住人たちは施設との距離を少しずつ取り始め、廊下での白い服の人数が目に見えて減っていった。
完全な崩壊にはまだ時間がかかるだろうが、方向性は決まった。
私はベランダでそのニュースを読みながら、隣の施設を眺めた。
その横に、シロが並んで立っていた。
いつの間にかいる、というのがこの一週間で分かったシロの習性だ。気づいたらそこにいる。
「終わったね」
とシロが言った。
「とりあえずは」
「あなた、次はどこに行くの」「まだ分かりません。たらい回しにされるので」
シロはしばらく黙っていた。
そして少し困ったような、人の子のように戸惑った顔でこちらを見た。
「……私、どうすればいいかな」
「どういう意味ですか」
「あそこがなくなったら、私もここにいる理由がない。でも、行くところもない」
シロは視線を足元に落とした。
「人間じゃないから、一人でいても平気なはずなんだけど。でも、なんか」
言葉を探している。
「なんか、あなたがいなくなると、寂しい気がする」
私は少し考えた。
シロが何者かは、まだ正確には分かっていない。
怪異の類であることは確かだが、その性質も目的も曖昧なままだ。
一緒にいると何が起きるかも分からない。
しかし。
私の周りにいる人間は、大抵ろくでもない。
他責思考か、無責任か、私を道具として見るか、そのどれかだ。
対してシロは、少なくとも「危ないから逃げろ」と教えてくれた。
損得でも義務でもなく。
それだけで、知り合いのほとんどを上回っている。
「じゃあ、一緒に来ればいい」
シロが顔を上げた。
「……いいの?」
「ダメな理由がないので」
シロは少しの間こちらを見ていて、それからゆっくりと頷いた。
表情は相変わらず静かだったが、どこかわずかに緩んだように見えた。
私はベランダの手すりから離れて部屋に戻った。
荷物の整理を始める。
こういう場所に長くいても仕方ないし、これだけ騒ぎになれば叔父から連絡も来るだろう。
来る前に次を決めておいた方がいい。
「荷物、少ないね」
シロが部屋に入りながら言った。
「いつでも出られるようにしてるので」「ふうん」
シロはきょろきょろと部屋を見回した。
「私、荷物ないよ」
「それはそれで身軽でいいです」
シロはまた、「ふうん」と言った。
私はバッグのファスナーを閉め、ペンダントを確認した。
熱はない。
今のところ、次の指令はなさそうだ。
玄関を出て、エレベーターを待ちながら、隣に立つシロを横目で見た。
白い服を着た五歳ぐらいの子どもが、たぶん人間ではない。
同行者として適切かどうかは分からないが、まあ、今まで適切な環境に置かれたことも一度もなかった。
今更だ。
エレベーターの扉が開いた。
二人で乗り込んで、一階のボタンを押した。
シロがこちらの手を握ってきた。
小さくて、体温が少し低い手だった。
人間の子どもより少し冷たい。
でも、握り返せないほどではなかった。
扉が閉まり、エレベーターが降り始めた。
外はまだ、昼の光の中だった。END




