「政略結婚なんだから少しの浮気くらい大目にみろよ」って空気感、出すのやめてもらっていいですか?
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【1.愛しているからついていく】
美しい初夏の昼下がりのことだった。
ヒラリーは友人のマデレーンに誘われて、王立公園に隣接する静かなカフェでお茶をしていた。
テラス席には暖かい日差しがさんさんと降り注ぎ、整備された石畳がきらきらと光っていた。
ゆったりした時間が流れている。
二人とも洗練されたデザインのドレスに身を包み、流行りのヘアスタイルに結い上げているが、若いキャピキャピした娘というよりは、全体的に落ち着いた雰囲気を醸し出している。
道ゆく人は、こなれた感のある二人に目が留まると、「どちらのご婦人だろう、素敵な方だ」と思わずにはいられなかった。
しかし、当の本人たちはといえば、いくら見てくれは素敵に整えても、まだまだ自分のことで精一杯の若輩者なのだった。
「ねえ、マデレーン。オトナって難しくない?」
ヒラリーがもったいぶって首をかしげながら言うので、マデレーンは笑った。
「なんで? 何かあった?」
「こないだウェズリー侯爵夫人のサロンの方へお呼ばれしたのよね。なかなか性格がキツイ方って噂を聞いてたんだけど、お呼ばれしちゃ行くしかないじゃない? それで行ってみたら、まったく噂通りでね。私が自己紹介するだけでさ、『あなたの甲高い声が耳障りで嫌いだ』『背筋が丸まってますよ。おや、今度は伸ばしすぎ。ちょうどいいって言葉を知らないのね』『要領を得ない自己紹介だこと。そんなんじゃ私はあなたに興味持てないわ』とかダメ出しが止まらないわけよ」
「あら。年配の方とはいえだいぶ言いたい放題ね。今どき珍しい」
「ね。ちょっと言い方ヤバめでしょ? でも、サロンにお呼ばれしてる立場ってのもあるし、相手は侯爵夫人だし。……とにかく波風立てたくないじゃない? だから、私もさ、内心勘弁してよと思いつつ、猫かぶって『はいっ!』て言うこと聞いてたわけ」
「分かる!」
マデレーンは自分でもそうするとばかりに頷いた。
「そしたらさ、不思議なことに気付いたの。サロンの周りのご婦人方が、最初は静かにしてたのに、なんだかどんどんイキイキしてくるよのね。私がダメ出しされてんのに」
「どゆこと? ダメ出しされてる人見て喜んでるの? それともヒラリーがよっぽと情けない顔してたから面白がってるの?」
「私、不快になっちゃってさ。でも、ひとまず自己紹介だけはウェズリー侯爵夫人のお気に召すまでちゃんとやったの。そんで、そのあとは『とにかくおとなしくしとこう!』って黙ってたのね。だってもう怒られるのは勘弁してほしかったし」
「ヒラリーらしい」
「それなのに、ウェズリー侯爵夫人が何か尋ねるたびに、周囲のご婦人方が私を名指しするわけよ。『ヒラリーさんはどう?』って。『まじでー? 今私の名前言いましたー? 私存在感ゼロ目指してるんですけどー! 私のことはいないと思ってくださーい!』って叫びたかったわ。でも、『そうよ、あなたよ。ねえ、ヒラリーさん』って何度も何度も名前呼ばれてね」
「地獄かな?」
「あはは、もう途中から猫かぶってる余裕なくなっちゃって。話題は、公式行事での男性のエスコートの簡略化についてだったんだけど――最近ちゃんとやってる男少ないよねって感じのやつね――、私超めんどくさくなっちゃって、『逆に、女はこうあるべき!とか型にはまれ!とか言ってくる男、マジでいらないです』みたいなこと乱暴に言ってしまったの」
「え、大丈夫それ? 言いすぎてない? 『こうあるべき』って、ヒラリーの自己紹介のときのウェズリー侯爵夫人じゃん」
「そう、それなの! 言ってから『ヤバっ』『しまったーっ!』『終わったーっ!』って猛省したけど後の祭りよ。冷や汗ダラダラ。足はガクガク。ウェズリー侯爵夫人の顔は怖くて見れなかったわね」
「で、どうなったの?」
「でもそれがね、すごい空気になるかと思いきや、周囲のご婦人たちが、何を堪えきれなくなったのか、いきなり大爆笑はじめてね。は?って思ってたら……、後でこっそり聞いたわ。周囲のご婦人方はね、ウェズリー侯爵夫人への悪口でお茶するのが一番の楽しみなんですって。今日は、私に対するウェズリー侯爵夫人のダメ出しがひどすぎて、悪口に精が出るわって。おいしいお茶をありがとうって感謝されちゃった」
「は? 何それ、ご婦人方、歪んでない?」
マデレーンは呆れた顔をした。
「なんか、ウェズリー侯爵夫人のサロンが数年前に始まったとき、ご婦人方はウェズリー侯爵夫人のことがストレス過ぎて、髪の毛抜けたり体重落ちたりしたそうよ。辞めたいけど辞めたらどんな嫌がらせがあるか分からない。夫の出世にも響くかもしれないから辞められない。つらかったんですって。でも、秘密のお茶会でウェズリー侯爵夫人の悪口を言い合ったらね、思いのほかスッキリしたんですって。これなら続けられるか?ってなって、続いてるそうよ。サロンは一応見かけ上は盛況だし、ウェズリー侯爵夫人の面子も保たれてるってわけ」
「そんなシステム……。それってアリなの? で、今回の生贄がヒラリーだったってことね。でも、ヒラリーはそんなウェズリー侯爵夫人下げの話で納得してる場合じゃないんじゃない? 最近『ヒラリー・オブライン伯爵令嬢はズケズケ言う人だ』みたいな噂が私のとこまで回ってきたわよ」
「え、何それ! そんな噂出てんの!? 恥ずっ!」
ヒラリーは手で口元を覆ってのけ反った。
「まあ、ズケズケなんて、今更だけどね」
あははっとマデレーンは笑ったので、ヒラリーは、
「今更って何よ。何のこと言ってるのかしら」
と、じとっとした目でマデレーンの顔を見た。
マデレーンがまた笑う。
そんなとき、マデレーンが唐突に、
「ところでね。うちもたいへんなのよ。うちの夫の事業が失敗しちゃって、来月末から遠い外国に行くことになったの」
と言い出したので、ヒラリーはびっくりした。
外国?
来月?
あまりに深刻な話だ。それを急に!
馬車で屋敷からここまで一緒に来たのに、そんなことは一言も言ってなった!
っていうか、外国って何?
私たち離れ離れになるってこと?
うすうす事業がうまくいってなさそうだという話は、これまでもマデレーンから聞いていた。しかし、「いろいろ頑張ってるんだけどねー。やんなっちゃうよねー」みたいな言い方だったから、なんとなく大丈夫だろうと勝手に思っていたのだ。それが、外国に行く話にまでなっているなんて!?
「どういうこと?」
かすれた声でそう尋ねた。
「負債が溜まりすぎて事業をたたむことになったの。それで親戚中にお金の件で頭を下げに行ったら、義母の本家筋にあたるコルベル侯爵家が外国事業の担い手を探していてね。うちもお金が必要だからお願いしてみたの。事業に失敗した身分だし、うちの夫じゃ信用ならないと最初は断られたんだけど、義伯父とかが口添えしてくれて、なんとかやらせてもらえることになったのよ。あんまりいいお金は出せないと言われたけど」
「どこの国なの? 長いこと行くの?」
「モスグレイシア」
「え! だいぶ北の方……田舎の貧しい国よね?」
「そう。でも田舎だなんて言い方悪いわよ。自然豊かって言ってくれる?」
マデレーンが笑いながら言うので、ヒラリーは失礼な言い方を反省しつつ、それでも心配そうな顔で言った。
「だって『豊か』じゃないでしょ、寒さが厳しい国でしょう? 貧しくて王都ですら漁師町のようだと聞いたことがあるわ。それに暖を取るのに薪がいるから、きこりばっかりだって。大丈夫なの?」
「あはは、きこりばっかりって適当過ぎない? その話が本当かは知らないけど、大丈夫でしょ。その国にだって生きてる人がいるんだから、生きることくらいはできるはずよ」
「でもその人たちはその国で生まれてその国しか知らない人たちでしょう? 他の国を知らないから、そういうものだと思って生きてる。だけど、マデレーンは違うじゃない! 暖かくて栄えた国で、着飾った優美な社交界を知ってる。急に貧しい国なんかに行ったら、つらく感じるんじゃ……」
「心配ありがと! でも行くしかないし」
マデレーンはとっくに覚悟を決めているように笑って言った。
ヒラリーはその笑顔に余計に不安になる。
幼い頃から仲の良いマデレーン。似たような家柄で気も合う二人は社交界でもプライベートでもたいてい一緒にいた。珍しいお茶菓子を取り寄せてはしょっちゅうお茶をしたし、高級レースをふんだんにあしらったお揃いのドレスを作って一緒に観劇も行ったし、同じ音楽の先生にピアノも習った。作曲もやっている、有名どころの先生だった。
マデレーンが結婚してから、そういうのはめっきり減ったけど、それでもよくお茶をしたし、夜会にも一緒に参加したりした。
マデレーンといるといつも笑顔でいられた。彼女は芯が強くて優しくて、ヒラリーを包み込んでくれた。
ヒラリーはマデレーンに行ってほしくなかった。
ヒラリーは伏し目がちに聞いた。
「その……。言いたくないけど……。離婚するっていう手はないの? 事業の失敗はジェームズのせいでしょう? あなたまで行くことないじゃないの。政略結婚だったんでしょ? 事業の失敗ともなれば、マデレーンのお父様やお母様も離縁して帰っておいでと言うのでは?」
マデレーンはにこっと笑った。
「政略とはいえ、ジェームズと結婚するときにね、最終的に『この人』と決めたのは私自身なの。だからこれくらいの理由じゃ離縁はしないわ。モスグレイシアだろうとついていくわ」
はっきりした物言いだった。
ヒラリーはズキッと胸が痛んだ。
呼吸が少し速くなり、こめかみがキリキリとしてきた。
ああ、そうか。そうだよね。
言いようのない感情が込み上がってくる。羨ましさに似た――。
「ごめん。しっかりした夫婦だったね。めちゃくちゃ失礼なことを言った。謝るね。そこまでの覚悟なら、私には何も言うことはないよね」
ヒラリーは心から謝った。
マデレーンは困ったように笑って、
「謝らなくていいのよ。心配してくれてるのは分かってる。もともとは家の決めた結婚だったのだし、没落した以上離縁しても変じゃない状況なのもよく分かってる。そんな過酷な土地にわざわざ行くなんてバカだなあと自分でも思う。離縁してこっちに留まった方がラクで豊かな暮らしができる。でも愛してるんだ。もうこればっかりは仕方ないから」
と言った。
ヒラリーは、マデレーン自身がうっすら「ババを引いている」と思っているのを察して、それを吹き飛ばすように、
「最愛の夫と人生を分かち合えるのは何よりもすごいことよ。私はあなたを誇りに思うわ! 私にできることは何でもするし、マデレーンが幸せであることをずっと祈るわ!」
と力を込めて言った。
苦労を一緒に乗り越えられる相手を見つけたマデレーン。それは本当に、本当に、美しいことのように思えた。
すると、マデレーンはヒラリーの気持ちに気づいたようで、何やら遠慮がちな顔になった。
「ありがとう。でもあなたにはこんな苦労はしてもらいたくないから、お願いだから、しっかりしたいい旦那さん見つけてね!」
そして、カフェのテーブル越しに、ヒラリーの手をぎゅっと握った。
【2.一緒に暮らしていれば?】
その晩、母がヒラリーを自室に呼びつけた。
「縁談の話が来ているのだけど」
ヒラリーはぐっと身構えた。
この歳にもなればこの話題は避けて通れまい。
とはいえ、ヒラリーにとってみれば、あまり嬉しい話題でもないのだ。
これまでヒラリーは、婚活の話題が出るたびに、「最近ちょっと太っちゃったので、ダイエットしてから婚活します」とか「髪の毛切りすぎちゃったので、伸びてから婚活します」とか言って、のらりくらりやり過ごしてきたのだ。
「こちらも万全の準備で臨んだ方がいい縁談がくるはずですわ、お母さま。安売りしない方がいいと思いますの」と言いくるめ、とにかく先延ばしにしてきたのだった。
しかも、今日はマデレーン夫婦の選択を聞かされたばかりだ。
「結婚とは」と深く考えを巡らせようとしていた矢先に望まぬ縁談の話など。いつにも増してありがたくなかった。
さて今日はどんな言い訳をしよう?
ヒラリーは頭をフル回転させようとした。
しかし、母はヒラリーの気の乗らない態度など慣れっこだったし、「今度こそは」と妙に気合が入っていた。婚活押し付けの気迫がすごい勢いで上り立っている。
「釣書を御覧なさい。レーマン侯爵家のご令息デニース殿よ。うちからしたらだいぶ格上よ。歳も近いし、すごくいいお話でしょ! もうそろそろ相手を決めてもらわないと!」
今回ばっかりはよほど条件が良いのか、ヒラリーの気持ちなどどうでもいいとばかりに、ぐいぐいと推してくる。
「レーマン侯爵家だなんて名前だけうっすら聞いたことある程度で分かりませんわ。だいたい、格上の家から売れ残りの私に縁談なんて、なんか変じゃありませんか?」
案の定ヒラリーは釣書を開きもせず、口をとがらせている。
「この母の苦労を『変』の一言で片づけるんじゃありませんよ。あっちこっちあっちこっち、独身男性がいると聞けば話を持って行っているのですからね。そりゃあもう『ダメ元』で! たまにはこういう当たりが残ってるものです。それをあなたは不満げに……」
「独身男性に片っ端から? やめてください、そんなみっともないこと!」
「いつまでも独身のみっともない娘がいると、仕方がないのよ」
母が冷静な声で言い返す。
みっともない自覚はあるためヒラリーが「うっ」と押し黙ると、母は釣書をさっと手に取りヒラリーの方にぐいっと押し付けてきた。
その問答無用の勢いに押されて、ヒラリーはしぶしぶ釣書を開く。そして、がっくり項垂れた。
「ホワイトアスパラみたいな顔……」
「ホワイトアスパラですって!? あなた、自分の顔を棚に上げてなんて失礼なことを言っているの! 母はこちらのご本人に会いましたけどね、とても穏やかで素敵な方ですよ。顔の好みで男を量るなんて大間違いです!」
「男を顔で量ったりしてませんわ!」
「じゃあ何が不満だというのです?」
「釣書とかじゃなくて、もっと大事なものがあるでしょう!?」
「大事なものって何なの。恋心とか? そんなもの必要ありませんよ。結婚して一緒に暮らしていたら情くらい湧きます」
母は毅然とした態度でビシッと言った。目が吊り上がっている。
ヒラリーはムッとした。
「一緒に暮らしていたら情くらい湧く、ですって?」
怒りがふつふつと沸いてきた。ぎゅっと握ったこぶしが震える。
何なのその理論! そんなのがまかり通っているから!
しかし、母はヒラリーの怒りに気づいていなかった。
「結婚には生活を共にする信頼関係があれば十分です。レーマン侯爵家と縁続きになれるのは、我が家にとってすごく有意なことなのよ。お父様の出世につながります。こんな縁ができるなんてとてもありがたいわ!」
「どこまでも政略結婚なのですね……」
ヒラリーがあきれたように呟くと、
「そうよ。少しは考えなさい。家を維持していくのは大変なのよ」
と母はぴしゃりと言った。
ヒラリーはこれ以上は耐えられないと、すっくと立ちあがり、無言のまま大股で部屋を出て行った。
「ちょっと、ヒラリー!」
母が後ろで叫んでいるが、振り返る気にもならない。
一緒に暮らしていたら情くらい湧く、ですって?
ヒラリーは、怒りと悲しみに胸が張り裂ける思いになりながら、カツカツと大きな音を立てて一刻も早く立ち去ろうとしていた。
頭でさっきの言葉を反芻する。
一緒に暮らしていたら――……?
「一緒に暮らしてたらそのうち忘れるよ」
昔、あの男はそう言った。
「たった一回の浮気じゃないか。ムキになるなよ」
女ナメんなよ!
ヒラリーはそのときそう思った。
一緒に暮らしていたら何だというの?
一緒に暮らしていたら情も湧くし、浮気も許せるの?
そもそも一緒に暮らすという選択肢があり得ないのよ!
だから、あの男との婚約はきれいさっぱり解消した。
政略結婚の類ではあった。しかし、ヒラリーは彼のことが好きだった。彼もヒラリーのことを大事にしてくれると思っていた。周囲の人も皆この婚約を祝福してくれていた。
結婚すると信じていたし、そのように振舞っていた。政略結婚なりに幸せなんだろうと思っていた。
――浮気のことを知るまでは。
「たった一度」というけれど、その一度の裏切りをヒラリーは許せない。
「一緒に暮らしていたら」というけれど、なぜそんな男と一緒に暮らさなきゃならないのか、ヒラリーには受け入れられない。
頭ではわかっている。『政略結婚なんだから少しくらい目をつぶれよ』
でも気持ちが全力で拒否する。
あの婚約破棄のことを思い出すと、ヒラリーの胸の内はぐちゃぐちゃになる。
何が正解か分からないままに、とにかく整理のつかない気持ちでいっぱいになるのだ。
政略結婚というものにあきらめを持ち、たった一度という裏切りにあきらめを持ち、それで情が湧いたり浮気を忘れたりする人生の方が幸せだというのか?
今でもあの男に縛られてるなんてバカバカしい。さっさとあの男のことを忘れて次の相手を見つけたら、こんなことでモヤモヤしなくてもいいのだろうと思う。
新しい恋がすべてを解決してくれるというのに。そんなことは分かっているのに!
それなのに、ふとしたときにあの男の裏切りが思い出されて、ヒラリーの未来を冷たく重く希望のないものに変えていくのだった。
マデレーンが羨ましい。
愛しているとまっすぐに言える相手、困難を一緒に乗り越える相手を見つけたのだ。
現実が過酷でもよっぽど幸せではないだろうか。
ヒラリーにはそう思えてならないのだった。
【3.精一杯の優しさ】
それから2週間くらいたった頃。
ヒラリーは、マデレーンに誘われてある夜会に出席していた。
相変わらず、華美ではないがこなれた雰囲気のドレスを纏い、ダークブラウンを差し色にしたお揃いのメイクをしている。
マデレーンは「まずは親しい友達に、国を離れる挨拶をしなくちゃね」と寂しそうな笑顔で言った。「夫婦の堅苦しい挨拶は最後よ。出立の直前でいいわ。それまでは、女友達と騒ぐことにする。残り時間は短いもの。まずはアデラを探しに行きましょうよ」
最初の挨拶がアデラ・ベントレー子爵夫人というのは、とってもいい考えだ!
アデラは明るくて甘えん坊で、ちょっと考えが足りないところはあるが、情に篤くて盛り上げ上手なのだ。
子どもが生まれたばかりだが、マデレーンの『栄転』の話を聞けば、全力でお別れまでの日々をサポートしてくれるはずだ。
ヒラリーとマデレーンが腕を組んで、出席しているはずのアデラを探しに、大広間を出ようとしたところ。
「あっ」
ヒラリーは悲鳴に似た声を小さくあげた。
マデレーンもその人を見てギョッとする。
ちょうど大広間に入ってこようとしたのは、アルベルト――ヒラリーの元婚約者だった、アルベルト・フィーシャだった。
アルベルトの方もヒラリーに気付き、一瞬気まずそうな顔をした。
しかし、婚約は2年前に破棄され、その後彼なりに少しは社会的地位を確立しつつあるアルベルトである。いつまでも子どもじみた対応をしていてはいけないと思い直したらしい。加えて、自分の後ろに一歩下がって立つ女性のことをはっと思い出し、自分を奮い立たせると、努めて冷静を装い、大人な顔をして、ヒラリーに挨拶をした。
「やあ。ヒラリー。2年ぶりかな。元気にしてた? 紹介しよう、こちらは僕の妻のマリアだ。一年ほど前に結婚した。僕と君の間にあんなことがあったとはいえ、もう二年も経って無視するのも大人気ないから、ちゃんと紹介しておくよ」
「そう。噂で結婚したことは聞いていたわ。わざわざどうもー」
ヒラリーも大人ぶって丁寧に、麗しーくお辞儀をして見せる。
少し大人っぽいドレスを選んでおいて良かったわ。アクセサリーも大ぶりダイヤにして正解ね。急にこんな風にこいつと対峙することになるなんて。
「ああ、あとね。父はまだ現役なんだけど、僕の方も国王陛下によく覚えてもらってね。最近男爵の地位を賜ったんだ。そのうち父の事業も継ぐだろうし。頑張っているよ」
若くして国王陛下直々に男爵の地位を賜ったのは彼なりに誇りなのだろう。さらさらの金髪をかきあげてふっと笑った。少し得意げな響きがあった。
「おめでとう。すごいわね!」
ヒラリーは何を聞かされているのかと内心嫌な気持ちになりながら、貼り付けた笑顔に優美な仕草で朗らかにポンッと手を打ってみせた。
「君の方こそ一段と綺麗になったね。内面も成熟した証だろうか。結婚は? 噂は聞かないけど、さぞいい話があるんだろうね?」
軽口をたたきながらも、アルベルトの口調にはそれとなく『僕を振っておいて』という響きが滲む。
ヒラリーは、少しも進展した縁談などない状況に「むぐぅっ」と喉の奥で呻きながら、同時に「浮気したのは誰だよ」と心の中で毒づく。
ここで、「私にだって縁談くらいあるし」と張り合うか、それとも同じ土俵に乗るのを拒否して「いやいや、いい話がなくてね」と謙遜するか。
ヒラリーは、浮気しやがった裏切り野郎に少しは嫌味を言ってやりたくなって、前者を取ろうとした。
それで、
「実はかなーり良いお話が来てまして……」
と言いかけたところ、それまで隣で大人しくしていたアルベルトの妻マリアが、
「オブライン伯爵夫人が、独身男性に片っ端から声かけて回ってるという噂を聞きましたわ。なりふり構わずといったところですかね? この調子なら、そのうち縁談も決まるんじゃありませんこと?」
と言った。マリアは悪いことを言った自覚があるのか、ヒラリーからは視線を外したままだ。
ヒラリーは意外な毒舌キャラの登場に「は?」となり、驚いてマリアの方を見た。アルベルトの一歩後ろに控え、堅いデザインのドレスを着た、地味な女性だった。家庭を守る妻としての立場を大事にするような女性に見える。そんな人が、鈴のような可愛らしい声でなかなかのことを正面切って言う。
(ああ、元婚約者の私が気に入らないのね。そりゃそーか)
そして次の瞬間、母が釣書を持って社交界を駆けずり回っているのがしっかりバレていることに気づいた。
「つーか、恥ずっ!」
かなりみっともない噂が流れているもんである。
すると、アルベルトが心底楽しそうに「はははっ」と笑った。
「そうだったの、ヒラリー! 言ってくれれば良い男紹介するのに! ま、僕ほどの男はいないだろうけど」
「あー。あなたは願い下げなんで結構です。あなたのお友達じゃ知れてるでしょうし」
「そんな強がるなよ。本当は僕と婚約破棄したこと後悔してるんじゃないのかい?」
するとゴホンッとマリアの咳払いが聞こえた。
「あなたの妻は私です、アルベルト。元婚約者にそんな絡みはなさらぬよう。それから、ヒラリーさん。『願い下げ』ですって? アルベルトのどこがダメだと言うの。私はあなた方の婚約破棄の直接の原因を聞かされていないんです。彼に文句があるなら、ここで言ってしまってくれませんこと?」
なるほど、とヒラリーは思った。
婚約破棄のとき、アルベルトの浮気のことは公表しなかった。アルベルト側のフィーシャ伯爵家は当然の如く公表を嫌がったし、ヒラリー側のオブライン伯爵家も娘が浮気されたなどとスキャンダルで語られるのを好ましからず思い、本当の理由は公表しないまま婚約破棄をした。「フィーシャ伯爵家側の重大な過失」とただ発表するのみで。
だから、マリアもアルベルトの浮気の件は知らないのだ。
とはいえ、アルベルトに何度も浮気するような浮気グセがあったわけではないので、過去に一度の浮気を、ここで無闇にマリアにバラすのがいいことだとも思えなかった。マリアが浮気を笑い飛ばすのか、自分の身に置き換えて疑り深くなるのか、それはヒラリーには分からないが。余計な火種を生むのは避けるべきだと思った。
浮気をばらされるのかと不安そうな顔をしているアルベルトを横目に、これは私の精一杯の優しさよ、とヒラリーは思う。
「別に。タイプじゃないだけ」
ヒラリーは素っ気なくマリアに答えた。
それを聞くとアルベルトは露骨にホッとした顔をしたので、ヒラリーはその顔にはかなりイラッとした。
自慢はするくせに、自分に都合の悪いことは隠そうとするのね! やっぱりバラしてやろうか!
あの日、浮気がバレて開き直ったあなたは、なんて言ったか覚えてるの!?
『一緒に暮らしてたらそのうち忘れるよ』
『たった一回の浮気じゃないか。ムキになるなよ』
そんなこと言う男だって、このマリアって奥さんの前でバラしてやろうか!
私は一生この言葉は許さないんだからね……!
しかし、感情に任せて喧嘩を売っても碌なことにならないのは、よく分かっている。こういうのは適当にやり過ごして、積極的に関わらないのが一番いいのだ。
ヒラリーは怒りをぐっと呑み込むと、笑顔を作り、
「もう失礼するわ。予定があるので」
とやんわり言い、マデレーンの腕を引っ張るようにして、その場を離れたのだった。
【4.適当には結婚相手決めないでしょ】
「あいつ、頭おかしいんじゃないの」
と、それまでわざと黙っていたマデレーンが、抑えきれないようにそう言うと、
「あいつってどっち」
と、同感のニュアンスを込めてヒラリーも聞く。
マデレーンがハッとして即座に答えた。
「あ、どっちもか」
ヒラリーとマデレーンは顔を見合わせ、呆れたようにふうっとため息をついた。
「ヒラリー優しすぎだよ、あんな男に。婚約破棄以来初めての再会とかでしょ? 殴ってやりゃよかったのに」
「殴んないでしょ。話し合いと書面と慰謝料で婚約破棄! それで手仕舞いにしてんだから」
「大人ぶってる」
「ぶってない」
「いーや、大人ぶってる」
マデレーンはそう言って、ヒラリーのほっぺたをむにっと摘んだ。
それから、まだ納得いってないように、
「ヒラリー。せめて浮気のこと、あの奥さんにちくってやればよかったのに。そしたらまだスッキリするのにな」
とマデレーンが言うので、ヒラリーは苦笑した。
「そんな子供っぽいことはしませーん」
「あ、また大人ぶってる」
「ぶってませーん。分別がちゃーんとあるだけ、です」
ヒラリーがわざと演技がかった調子で言うので、マデレーンは笑った。
それから少しトーンを落として、マデレーンは言った。
「そうは言ってもさ、彼にはまだ、引っかかるところはあるんでしょう?」
引っかかる?
ヒラリーは思う。
引っかかるとこばっかりだよ。
「……彼が結婚したのは聞いてたよ。もう関係ない人だからどうでもいいはずなんだけど、やっぱり引っかかるよね。あの人は幸せに暮らしてんだーみたいなね。じゃあアルベルトのこと好きなのって聞かれたら、絶対『好きじゃない!』って答えられる。それは間違いない。本心だもん。浮気で幻滅した。……だけど……、引っかかる」
「好きじゃないのに引っかかるって、なんとなく気持ち分かるけどさ……」
マデレーンはため息をついた。
「それはそれで置いといて、ヒラリーは前を向かなきゃ。アルベルトなんかに引っかかってる場合じゃないのよ。もう2年経つのよ」
「そりゃそうだけど。マデレーンの言うことはよく分かるんだけど。でもさ、引っかかってる場合じゃないって言うけど、私はやっぱりアルベルトの浮気のことは許せてないんだよ。浮気がなけりゃ結婚できたのに、大好きだったのにって、思っちゃう自分がいるんだよ」
「それはそうよね。浮気さえなけりゃ、ね。アルベルトはお調子者だけど頑張り屋さんだし。でもさ、もう、アルベルトのことは、いったん頭から消そ?」
マデレーンは言った。
「ヒラリーがいつまでもそんなんじゃ、私、外国行けないよ」
それを聞いて、ヒラリーはハッとした。
「行けるわよ! 大丈夫! そのうちいい人と結婚するから、心配しないで。私、マデレーンの足枷にはなりたくないんだからね。マデレーンが旦那様としっかり頑張ると決めたのに……」
「足枷だなんて思ってないわよ。ヒラリーがあちこちのサロンに呼ばれて知名度が上がってるって聞いて誇らしく思ってるもの。昔から勉強家で、私が教えてもらうことばっかりだったものね。でも、いつまでも前の婚約破棄引きずってるようじゃ……。いい結婚相手を見つけて欲しい」
「だから、大丈夫! あはは、ほら、うちの母がなりふり構わずやってるみたいだし。そのうち決まるでしょ、なんか、適当に。ははは……」
「適当には決めないでしょ、ヒラリーが。適当に決まるんだったら、今ごろアルベルトと結婚してるじゃない」
「なんでアルベルト……」
「政略結婚だって割り切れるようなら、アルベルトの浮気の一つくらい、とっくに割り切って許してるだろうってこと。でも、ヒラリーはアルベルトを許さなかったんだから、そういうことじゃない。今更適当には結婚相手決めないでしょ。適当に決まんないから心配してるんだよ、私は」
「それは……。まあ。めっちゃ適当には決めないかな……? 私の人生だし?」
マデレーンの言うことがもっともだったので、ヒラリーは少ししどろもどろになって、へへへと頭を掻いた。
その様子を見てマデレーンはため息をついた。
「でもさ、ヒラリー。私たちの結婚なんて、どうせ親が決めるものなのよ。ほら、うちの事業失敗だって見てごらんなさい。世間は甘くないのよ。家を維持するのは結構大変なことなの。そのために子どもの結婚が利用できるなら、私はした方がいいと思うわ」
「それって、マデレーン。あなたまで政略結婚を容認するの?」
「あら、私の結婚だって始まりは政略結婚よ? 知ってるでしょ」
「でも、結婚の当初から、マデレーンたちはお互い好き合っていたし、尊敬し合ってた……!」
「それはラッキーだっただけなの! 私はそもそも政略結婚に期待してなかったから、色々なことに寛容になれた。そして、ジェームズの人柄もそんなに悪くなかった。私だって当初は好きになる努力をしたし、彼もそうしてくれた。たったそれだけなのよ」
マデレーンは諭すように言った。
ヒラリーはそれを聞いて、固まった。
そして、ゆっくりと首を横に振る。
「……じゃあ、マデレーンは、アルベルトの浮気も、たった一度なんだから許せ、と言うのね……」
「そ、それは……」
マデレーンはたじろいだ。
ヒラリーは、マデレーン相手だというのに少し怒っていた。あの時のことを思い出しながら言う。
「確かにアルベルトは私に謝ったわよ! 跪いて謝ったわ。気の迷いだった、もう二度としないと誓う、って。あの謝罪が嘘だとは私も思わない。――政略結婚なんだから多少のことは大目に見てやれと言うんだったら、それはあの謝罪を受け入れろってことでしょ? でも、それは違うでしょ? あいつら頭おかしいって、さっきマデレーンだって言ってくれたじゃない!」
「言った、言ったわ!」
マデレーンは即座に肯定した。
「落ち着いて、ヒラリー。浮気を許せとは言ってないわよ。それは夫婦の信頼に関わることだから違うと、私も思うわよ!」
「本当は私だって分かってるよわよ、マデレーン。政略結婚なんだから多少は目をつぶらなきゃいけないこと……。それでもさ! 好きな人と結婚したいと思うのは、そんなに変なことなのかな!? ――アルベルトのことは好きでいられなくなったの。私は、マデレーンみたいに、好きな人と一緒になりたいの……。過酷な人生を一緒に乗り越えてもいいと思えるような……」
ヒラリーが腹から絞り出すように言ったので、マデレーンは黙った。
マデレーンみたいに……。
ヒラリーにそんな風に思わせていたなんて。軽はずみな自分の言葉を恥じた。
マデレーンは、自分が間違っているともヒラリーが正しいとも思わなかった。
ただ、結婚を拗らせてしまった大事な友人を救いたいと思った。
【5.被害者の会】
「なあに? 深刻な顔して、お二人さん?」
背後から、明るくて少し鼻声の、愛嬌のある声が聞こえてきた。
「アデラ!」
マデレーンは嬉しそうに声を上げた。
「ちょうどあなたを探していたところよ。頼みを聞いてくれない?」
「頼み?」
アデラが面倒見のいい顔で、身を乗り出して尋ね返すので、マデレーンは自身ののっぴきならない状況を手短かに説明した。
アデラの顔がどんどん曇る。
「ちょっと、そんなことになってるの……。あたしに力になれることはある?」
「あるわ。私これからど田舎に行くことになるからね。パーティとか美味しいものとか目一杯楽しんでおきたいのよ。私が出席できそうなパーティとか教えて欲しいの。とはいえ、散財はできないけど!」
「そういうことね! いいわ! お金かけずに楽しむ方法はあたしが一番よく知ってるわよ〜! 極貧から資産家子爵家に嫁いだシンデレラガールですもの! あたしに任せて!」
アデラは胸を張った。
見栄を気にする人が多い中、こんな風に明け透けに成り上がりを自慢するのはアデラくらいだ。おかげで、オーセンティックな高位貴族のご婦人からは好ましく思われていない。
だが、ヒラリーもマデレーンもこの気さくなアデラの人柄が大好きだった。今回もこうしてどーんと引き受けてくれる。頼もしく思った。
「旦那さんとは出席しないような、賑やかカジュアルパーティを見繕っとくわ。ヒラリーも出席するわよね?」
アデラがさも当然のように聞いてくる。
ヒラリーは大きく頷いて答えた。
「もちろんよ。私婚活中だから、独身イケメンが集まるようなパーティでお願いね」
「あらあ〜そうだったぁ〜」
アデラが曰くありの目で楽しそうにヒラリーを見るので、ヒラリーも笑った。
「本気で参加させていただきます!」
「本気って言ったわね? 覚悟しなさいよ。必ずあたしがあなたの恋人見つけてあげるからね〜」
アデラがふざけながら言うので、ヒラリーもふざけて美しいカーテシーを披露してみせた。
「あ、ところで」
アデラの口調がガラッと変わる。
「ヒラリー。あなた、ウェズリー侯爵夫人に何か失礼なこと言われた?」
「うぇっ!? い、言われた、かなあ〜? どうだったっけ、記憶にないなあ〜」
ヒラリーはしどろもどろになって、目を泳がせた。
言われたけど、しっかり言い返しているからなあ。自分の失礼っぷりはあんまりバレたくない。
しかも、ウェズリー侯爵夫人のサロンのご婦人たちの様子からすると、失礼なことを言われているのは自分だけではない。自分が余計なことを言って、今現在噂になっている渦中のご婦人に迷惑がかかるのであれば、いただけない。
アデラは疑り深そうな顔でヒラリーを眺めながら、
「あの人、国王陛下の従妹でしょ? 昔はやんごとないプリンセスだったせいか、公式な式典か自分のサロンくらいしか人前に出てこないじゃない。厳しい方という噂は回っているけど、本当のところは皆よく分かってないでしょ? それがさ、最近になって、一部のご婦人の中で『ウェズリー侯爵夫人被害者の会』ができるって聞いて。本当なら超面白いんだけど?」
と教えてくれた。
「は? そんなものできるの? 誰がそんなの」
「王妃様の妹が発起人らしいわよ」
「そりゃまた……。生々しいところから出てくるのね」
「え! なにそれ。何か知ってる口ぶりだな〜。ヒラリー、こないだウェズリー侯爵夫人のサロンに顔出したって聞いたよ? 何か面白い話知ってるなら教えてよ」
アデラがずいっと身を乗り出してくるので、ヒラリーは困った。
するとマデレーンが庇うように横から口を挟んだ。
「一回サロンに顔出したくらいじゃ分かんないって。それより王妃様の妹って、エレシル公爵夫人だっけ? 何があったの?」
「こないだの王室パレード後の晩餐会で、ウェズリー侯爵夫人がエレシル公爵夫人に席順のことで文句言ったらしいわ。いつもと違ってウェズリー侯爵夫人の方が席順が後ろになってたんですって。ウェズリー侯爵夫人ったら『王族でもないくせに』と面と向かって言ったそうよ。席次は国王陛下側が決めることだから、エレシル公爵夫人には何の非もないのにね」
「うわあー」
「あらあー」
ヒラリーとマデレーンはドン引きの声を上げた。
「なんで席が変わったの?」
とマデレーンが聞くと、
「エレシル公爵が宰相に昇格するからよ」
とアデラが腕組みして答えた。
「あー」
「なるほど」
ヒラリーとマデレーンはまたしても納得の呻き声を上げる。
「それまでも、たびたび失礼な言動があったらしいわ。王妃様がたまに実家のやり方を王宮に持ち込むと――といっても、王子が幼い頃のおもちゃだとか、ご自身がお好きな本を取り寄せたとかよ――エレシル公爵夫人を呼びつけて、『民間のやり方はどうなっているの』と苦情を言うんですって。エレシル公爵夫人じゃなくて、王妃様本人に言えって感じよね。しかも、民間に嫁いで久しいウェズリー侯爵夫人が、よ」
アデラが聞き込んできた噂話を得意げに披露する。
エレシル公爵夫人は、さすがにウェズリー侯爵夫人への鬱積が溜まり溜まって、今回ついに爆発したのだろう。
「被害者の会って何をするの」
マデレーンが素朴な疑問をぶつけると、アデラは頷いた。
「ウェズリー侯爵夫人に何かされたり言われたりした人たちの駆け込み寺になるそうよ。問題の状況を精査して、明らかに理不尽な場合、本人に直接苦情を伝えるらしい」
「そんな団体を作るって公表するの、エレシル公爵夫人の本気の怒りが伝わってくるわね」
とヒラリーが言うと、
「そうよ。だから、ヒラリーも何か嫌な目に遭ったのだったら、エレシル公爵夫人に泣きついたらいいのよ」
とアデラは言った。
ヒラリーは、『被害者の会』ができるのなら、あの、ウェズリー侯爵夫人のサロンのご婦人たちはどうするのだろうとぼんやり考えた。
あのご婦人たちは、ウェズリー侯爵夫人への悪口をネタにお茶会を楽しんでいた。
あのご婦人たちは、エレシル公爵夫人の話に乗るのだろうか。エレシル公爵夫人の話に乗るのなら、ウェズリー侯爵夫人のサロンは内部分裂ということで、空中分解することになるだろう。
それとも、彼女たちはエレシル公爵夫人側にはつかず、独自の路線を貫くのだろうか。サロンを維持し、密かにウェズリー侯爵夫人を蔑み続けるのも可能なのだ。
ヒラリーは、ご婦人方の顔を思い浮かべながら、今まさに、彼女たちはエレシル公爵夫人の提案をネタにお茶会を企画しているだろうと思った。
エレシル公爵夫人の話に乗るか乗らないか、きゃっきゃしながら議論しているに違いない。
むしろ、このまま結論は出さないかもしれない。結論を出すための過程を楽しみ続けるだけで。
「何にせよ、夫のウェズリー侯爵は、今頃エレシル公爵夫人に謝罪するなり、話を収めようとしてるでしょうね。彼自身はおっとりした学者肌の法務官だし、エレシル公爵家と争うことは望まないはずよ。それ次第で『被害者の会』がどうかなるか変わるかもね」
アデラがそう付け加えたので、ヒラリーは尚のこと、サロンのご婦人方はいつまでもお茶会に勤しみ、自身らでは結論を出さない気がした。
そのとき、アデラが口調をガラッと変えて言った。
「さて、ウェズリー侯爵夫人の話はもういいわ! とりあえず、今日の夜会を楽しみましょうよ! 有名伯爵家の年イチの本気パーティ。洗練された殿方とのダンス。街一番の音楽家の美しい音色。贅を凝らしたお料理にワイン。夜は長いわ!」
ヒラリーとマデレーンはハッと夜会の本来の目的を思い出し、アデラに賛同した。3人で頭を寄せ合うと、「何から行く?」と楽しそうに相談を始めた。
【6.見たくないもの】
さて。
ヒラリーとマデレーンが、アデラに相談してから1週間後。
二人は、アデラが見つけてきたカジュアルなパーティに参加することにした。
資産家の地方男爵家が王都の貸し邸宅で主催するパーティで、流行最先端の娯楽文化を取り入れているという。堅苦しいしきたりや伝統文化には拘らず、音楽も料理も遊び企画も、楽しさを追求しているらしい。
商売で成り上がった主催者が、ビジネスのつながりを広げたいと言うことで大々的に催しているものである。しかし身分もあり、高位貴族はほとんど招待できずにいるということだが、全く高位貴族も参加しないわけではない。主旨的にも高位貴族は大歓迎なので、一応伯爵家に連なるヒラリーもマデレーンも問題なく飛び入り参加することが可能なのだった。
主催者に挨拶したあと、
「私、こういう変わったパーティー初めてよ」
と、マデレーンは興味津々の目をキラキラさせて、キョロキョロあたりを見回しながら、そういった。
ヒラリーもとてもワクワクしている。
「男性の雰囲気も全然違うわ。いつものパーティーのように肩苦しくかしこまってるのと違って、みんな自由におしゃれを楽しんでるじゃない。性格や好みが滲み出ていて分かりやすいわね!」
「身分が釣り合う人がそんなにたくさんいないかもしれないけど、逆にこのパーティに来るような男性はヒラリーとよく気が合うかもしれないわ。積極的に話をしてみたらいいわよ」
アデラは自信たっぷりに言う。
「とりあえず、会場いろいろ歩いてみましょうよ!」
と、マデレーンがうきうきしながら言うと、アデラが、
「あたしはちょっと別の知り合いに挨拶しに行くわ。後から合流するから! いい男見つけといてよ、ヒラリー」
と軽口を言って離れて行った。
それで、ヒラリーとマデレーンは、一先ず二人で会場を歩き回ってみることにした。
会場は邸宅を一つ貸し切っているとはいえ、参加者も多いため、どの広間も大賑わいだ。しかも、広間ごとに趣向が異なっていて、来場者もそれを楽しむためか広間の行き来も多い。
とにかく活気のあるパーティなのだった。
そのとき、ある広間を覗いて、マデレーンが急激に不快そうな様子になり、パッと足を止めた。
「どうしたの、マデレーン?」
「嫌なもの見たわ」
マデレーンの視線の先を見てみると、なんとそこには、マリアがいるではないか! マリアは、ヒラリーの元婚約者アルベルトの現在の妻で、ヒラリーに敵対心を剥き出しにしてきた女である。
先日の貞淑な妻スタイルはどこへやら、露出の高いドレスで派手に着飾っていた。
夫アルベルトの姿はどこにも見えない。
まあ、そこまではいい。
マデレーンだって、夫の許可をもらっているとはいえ、夫無しで参加している身だ。
しかし、目の前で繰り広げられている光景は、あまりにも目に余るものだった。
その広間は、南国風の開放的な趣向を凝らしてあり、音楽も情熱的で艶やかなものが流れていたし、中心的に振る舞われているお酒は、ワインの他にも度数の高い蒸留酒も取り揃えていた。ろうそくで煌々と照らし出されたダンスフロアでは、異国の音楽に合わせて、男女がいつもより密着したダンスを踊っている。
そんな会場の片隅で、マリアはお気に入りと思われる男性の膝の上に座り、その男性の首に腕を回して額を寄せ合っていたのだった。
最初は、ヒラリーもマデレーンも、マリアに似た別人かと思い直そうとした。しかし、よく見れば見るほど、それはアルベルトの妻マリアなのだった。
「まさか、キスしてる?」
「そう見えるわね? しかも、男性の手が、マリアの太腿からお尻の方を撫で回してるのは、かなり無しよねえ?」
ヒラリーとマデレーンはドン引きだった。
確かに伝統的な夜会ではないとはいえ、決して卑猥な空気を纏う夜会ではないのだ。どちらかといえば、商業的で、娯楽文化を堂々と楽しむスタイリッシュさを目指した夜会だった。
自由さがある分、男女も開放的になり、口説いたり密着度高めな様子はちらほら見かけたが、しかし場を弁えない人はいなかった。
そんな中で、周囲の冷たい視線を気にせず、片隅で二人の世界を作っているのは? 頭がおかしいんじゃないだろうか。
「アルベルトは知ってると思う?」
「絶対知らないでしょ。どう見ても不貞だと思う」
「どうする?」
「どうするって、どういう意味? マリアに注意しに行くって意味? それともアルベルトに教えるって意味?」
「……。そうやって言われてみると、そんなことする義理はないわね?」
「でも、ほっとくのはありなの?」
ヒラリーとマデレーンは呆れた様子で顔を見合わせた。
「アレは忘れて、夜会を楽しむのが一番だよね……」
「うんうん、マデレーンはこのことはもう忘れて! 出国までもうそんなに機会がないのよ! 楽しまなきゃ!」
「いや、でも、ヒラリーは無理でしょ? 絶対もやもやするでしょ? だってアルベルトとは浮気が原因で婚約破棄したんだし……」
「あ、ううん! 気にしないわ! そうよ、アルベルトは浮気しくさったクソ野郎よ。奥さんに浮気されたところで、ざまあみろとしか思わないわ! 関係ない、関係ない! 夜会を楽しみましょ、いい男見つけるんだから!」
ヒラリーがまるで自分に言い聞かせるように必死でそう言うので、マデレーンは困った顔をした。
「……。納得できてないでしょ、ヒラリー?」
「とりあえず、この広間を出ましょうよ、マデレーン。他回って、とにかく楽しむ努力をしましょ」
ヒラリーは、まだ動揺の抜け切らない顔のまま、それでも気を取り直そうとしてそう言った。
マデレーンもその意見には異論はなく、二人は釈然としない表情で逃げるようにその場を離れた。
なんで自分たちが逃げるような態度になっているのか、うまく説明できないけれど。
一先ず、別の広間に移り、そこで声をかけられたおしゃれな二人組の男性と一曲ダンスを踊ってみた。相手は落ち着いた既婚者で、下心など特になく健全なダンスの相手を探していたらしい。
ヒラリーとマデレーンも、まるで頭の中から嫌なものを追い出すように、見知らぬ人との新鮮なダンスを楽しもうとした。
ダンスは実際楽しかった。
男性たちは、ヒラリーが普段行くような夜会ではやらない方法で女性をエスコートし、ダンスも一味違った雰囲気だった。ヒラリーはダンスの間は、少なくともマリアのことは忘れていた。
しかし、ダンスを一曲終えてマデレーンと合流すると、マデレーンの方が微妙な顔をしていた。やはり何か思うところがあるらしい。
「ねえ。アルベルトの浮気のこと、ヒラリーは知らなきゃよかったって思ったことはある?」
と聞いてきた。
「結婚前だもの、知っといて良かったと強く思ってるよ。でも、何?」
「私は、うちの旦那が、浮気してたとして、知りたいかな」
とマデレーンがぽつんと言った。
マデレーンは、アルベルトの立場を、自分の身に置き換えて考えてしまっているらしい。
知り合いの生々しい浮気現場は、やはり相当ショックだったのだ。
「夫を愛しているの。浮気なんか知ったら、普通になんて生きていけないわ。知らなければ、幸せなまま生活していけるんじゃないかしら」
マデレーンは深刻な表情で言う。
「でも、ジェームズが浮気していたら、モスグレイシアにはついて行かないでしょう? 今までの豊かな生活を捨ててまで、裏切り夫について行く?」
「ああ、それは……」
「浮気を許せるなら、知らない方がいいんでしょうけど。許せないなら……その事実でマデレーンの今後の選択肢が変わるなら、知っておいた方がいいんじゃないかしら」
「そう、そうね……。浮気を知ったら、どこまでもついて行くとは言えないかもしれないわ」
「じゃあやっぱり、知っておくべきことなのかもね。知りたくなくても。人生もかかっているんだから」
「そうか……」
マデレーンは、土気色の顔で呟くように答えた。
それから、悲痛な声で言った。
「じゃあ、アルベルトにも知らせてあげた方が親切なのかな?」
ヒラリーはビクッとなった。
「そ、それは……。私から教えてあげる義理はないわよ。それに、浮気された側の私がチクッたら、まるで『アルベルト夫妻が不幸に陥るのを望んでる人』みたいにならない? きっとアルベルトだって、真実を素直には受け取れないわよ」
「そうか……。じゃあやめとくか」
マデレーンは腑に落ちない様子だったが、とりあえずそう言った。
その後も、二人は色々な人と会話したりワインを楽しもうとしたけれども、結局マリアのふしだらな光景が脳裏に焼き付いて、心から夜会を楽しむことはできなかった。
そうして、不完全燃焼のまま、夜も浅いうちに、ヒラリーとマデレーンは帰宅してしまった。
【7.懺悔】
数日後、ヒラリーの元に、とんでもない噂が舞い込んできた。
アルベルトが行方不明になったというのだ。
その情報は、アルベルトの実家、フィーシャ伯爵家の方からもたらされた。ヒラリーは、両親と共に、フィーシャ伯爵家の使者からその話を聞いた。
使者は神妙な面持ちで、「婚約破棄したオブライン家の方にまで聞くのは筋が違うかとも思った。しかし、行方不明になってから2晩経ち、捜索が長期化しそうな様相を帯びてきたので、僅かでよいから心当たりがないかお聞かせ願えないだろうか。 ――婚約破棄の件ではこちらが加害者であるのに、被害者であるオブライン家に助けを請うとは、だいぶ都合の良い話ではあるけれども……」といったことを述べた。
「自らいなくなったんですか? それとも何かの事件に巻き込まれて?」
ヒラリーは聞いた。脳裏には、あの夜会でのマリアの醜態が浮かんでいる。マリアの浮気絡みだろうか。
すると、使者は、
「2日前王宮に出仕して、それから予定時間より少し遅く帰宅なさったそうです。だいぶ浮かない顔をしていたと。それから、昼間だと言うのに強いお酒を望まれまして……。しばらくしたら、姿が見えなくなっていたそうです。お気に入りの馬が一頭いなくなっていましたので、遠乗りかと思ったのですが、夜になっても帰宅されなかったようで。おかしいぞということで、実家であるフィーシャ伯爵家の方にも連絡が来ました」
「王宮で何かあったのかしら。誰と話していたとか、何か聞いていて?」
「王宮での執務のことは通常通りだったそうなのですが、アルベルト様がたいへん厳しい顔で、アデラ・ベントレー子爵夫人と長いこと話されていたという噂は聞いてります」
アデラ!
ヒラリーは飛び上がった。
絶対にマリアの件だ!
そうか、あの夜会。
アデラのことをすっかり忘れていた。
きっとアデラも見たのだ、マリアのふしだらな現場を。
そして、ただ噂好きなアデラのこと。深く考えずに、親切心の延長で、アルベルトに見たこと全てを素直に伝えたのだ。
アルベルトは深く傷ついたに違いない。
自身も浮気したことがあるとはいえ、跪いて謝罪するくらい、一応は浮気容認派ではないのだ。
マリアは貞淑な妻として振る舞っていたし、アルベルトを愛しているようにも見えた。アルベルトも、マリアが家庭を支えてくれていたから、王宮での出世に勤しむことができたのだろう。マリアの裏切りは「まさか」という気持ちだったに違いない。
「そう……。言ってしまったのね、アデラ……」
ヒラリーはつぶやいた。
「何をです?」
怪訝そうに使者は聞き返した。
しかし、ヒラリーはそれには答えなかった。
「アルベルトの奥様は家に?」
とだけ聞く。
「はい。たいへんな騒ぎの中、一人で家を仕切っていらっしゃいます」
「奥様は何か心当たりは?」
「ないようでございます」
なるほど、とヒラリーは思う。
アルベルトはマリアに問いただしはしなかったのだ。
だから、マリアも、まさか浮気がバレているとは露にも思っていないのだろう。
マリアに問いただしもせずに家を飛び出す状況とは? もしや、マリアの浮気相手に決闘を申し込みに行った?
否、それなら、アルベルトの性格上、まずは状況を正確に確認しようとするだろう。マリアにも、どういうつもりでそんなことになったのか、問い詰めるはずだ。
アホなクズ男ではあるが、真面目な頑張り屋さんでもあるので、マリアの浮気が本気の恋愛なのか遊びなのか……つまり、自分が決闘するに値するかどうかくらいは、きちんと状況を見極めてから行動すると思われた。
そうなると?
ヒラリーの知り得る限りだが、アルベルトの性格上あり得るのは……?
――ヒラリーと婚約していたときも、一度だけあった。
厭世的になり、何もかもから逃げ出そうとしていたことが……。
それは、アルベルトが、親友と思っていた男友達に悪い評判を流されていたときだ。
アルベルトはひどく傷ついて、いなくなろうとした。
ヒラリーは、たまたま、本当に偶然、屋敷を馬でふらふらと抜け出すアルベルトを見かけたので、不審に思い、慌てて家来に後をつけさせたのだ。
後ほど、後を追った家来の報告で、ヒラリーが大急ぎでアルベルトのところへ行くと、アルベルトはヒラリーに縋り付くようにして咽び泣いた。
10年ほど一番仲の良かった男友達だったらしく、それまで青春と思っていたものが全て嘘に思えて、とてもつらいと言った。
そして、アルベルトは、取り留めなく長いことヒラリーと話した後、気持ちの落ち着いたようで、ヒラリーと共に帰宅した。
一晩の無言の外泊だったが、ヒラリーはどこに行っていたのかフィーシャ伯爵家の人には誰にも話さなかった。
フィーシャ伯爵家の方も、アルベルトがヒラリーのオブライン伯爵家の者と一緒だったことから、特に問題にしなかった。
だから、フィーシャ伯爵家の者は知らないのだ。ひどく傷ついたとき、アルベルトがどこに行こうとするのか。
今回家を空けてから2晩経つというので、まだそこにいるかわからないが、ヒラリーは「心当たりがあるから行ってみる」とフィーシャ伯爵家の使者に伝えた。
使者は「どこへ?」と聞いたが、ヒラリーは「間違っているかもしれないから」と詳しくは答えなかった。
ヒラリーは供の者を何人か引き連れて、馬車に足の速い馬を繋ぎ急いで出かけて行った。
オブライン伯爵家の者は、以前もそんなことがあったなとなんとなく覚えていたので、今回も同じだろうとヒラリーを止めることはしなかった。
ヒラリーは、馬車が通るのがやっとな山道を、できるだけ馬を急がせて登って行く。
ここは王都の北の防壁となる山地で、いくつか山が連なっている。嫌なのは、そのうちのいくつかの山は切り立っていて、上の方まで登れば故意に落ちることも可能だということだった。
アルベルトが以前向かったのも、そのうちの一つ、切り立った崖の近くにある粗末な小屋だった。
ヒラリーは嫌な予感を振り払いながら向かう。
同時に、いったいどんな感情で自分はアルベルトを迎えに行くのか、自問自答していた。
同情?
自分を裏切った男に?
まさか!
ヒラリーはアルベルトを許していない。それははっきりと宣言できる! 愛情だって消え去った。
だが、放っておくには――何かモヤモヤしたものが残るのだ……。
要するに、私はどこかお人よしなんだわ、たぶん。
ヒラリーはそう思った。
見かけばっかり大人じみて、素敵だ、こなれてるだの言われることは多いけど、中身は迷いっからかして、周りの状況に右往左往してるだけの若輩者。
まだまだね、とヒラリーは思った。
そう思うと、ヒラリーはすーっと気持ちが軽くなるのを感じた。
まだまだ。そう、まだまだ!
未熟者なんだから、意味もわからず、自分を裏切った元婚約者の一人くらい救いに行くでしょ。
案の定、以前と同じ、薄暗い小屋にアルベルトはいた。
ヒラリーが訪れると、アルベルトは小屋の椅子に腰掛けたまま虚ろな目を向けた。
「もう少し遅かったら危なかったな」とヒラリーは思った。だいぶ正気の薄れた目だった。
3日同じ服のまま、髭も伸びていたし、自慢の金髪もボサボサだった。
正常な判断はできそうになかった。何か簡単な間違いで、切り立った崖から落ちることができそうな目だった。
すると、アルベルトはゆらりと立ち上がり、ヒラリーに縋るように腕を差し伸べてきた。
ヒラリーはぞっとして後退りする。ここで抱きしめてやれるほどヒラリーは優しくなれなかった。
拒まれてアルベルトがハッとする。少し我に帰ったようだった。
それから大粒の涙を一つこぼした。
「すまなかった、すまなかった、すまなかった!」
アルベルトはの口から出たのは謝罪の言葉だった。
「何を謝っているの。こうして迎えに来てもらったこと? それとも、あの日の浮気のこと?」
ヒラリーは薄気味悪さを感じながら、低い声で聞いた。
「信頼していたマリアに裏切られて、とんでもない絶望に陥った。……僕たちは、そろそろ子どもを作ろうと相談してたんだ。どんな名前にするかとか、どんな教育を施すかとか、たくさん話していたよ。マリアとの間に子どもを心底願ったんだ。すごく真面目に考えてた。だが、浮気されたと聞いて、マリアとの間に子どもを作らなくてよかったと思ってしまった。浮気する女とどんな顔して一緒に子どもを育てていけるのか、まったく想像できなくなってしまった。本当に、本当に、思い描いていた未来から色がなくなってしまったよ」
アルベルトは打ちひしがれた目で、自分の苦しみを吐露する。
ヒラリーは『何をいまさら』と思った。
「あなた、あのゆきずりの浮気の後、私になんて言ったか覚えてる? 『一緒に暮らしていれば、そのうち忘れるよ』って言ったのよ。――浮気されてどう? 一緒に暮らせば何とかなりそう? ならないでしょ?」
気づけば、ヒラリーは残酷な目でアルベルトを睨みつけていた。
ここで、思いの丈を全部言ってしまうのだと思った。
「私に対して、政略結婚なんだから少しくらい大丈夫だって、たかを括っていたんでしょう? でも、私が、自分の人生を、浮気したあなたに預けられると本気で思ったの? 女舐めすぎじゃない?」
アルベルトは、項垂れた。
「ああ……そうか――そうだったんだな。僕の裏切り……は、君の未来をめちゃくちゃにしたんだな。僕がマリアと一緒に子どもを育てる未来を想像できなくなってしまったように――今気づいたよ……」
アルベルトは背を丸めて頭を抱えた。
「心から申し訳なかった。浮気を軽く考えていたよ。ゆきずりの相手だからいいだろうとか、そんなふうに思っていたかもしれない。――僕は信頼する人からの裏切りのつらさを、知っていたはずなのに」
ヒラリーは、アルベルトの言葉に本当の懺悔を感じた。
ようやく、長いモヤモヤが終わる気がした。
「屋敷へ帰りなさいよ。みんな心配してる。マリアとのこともどうするか、自分でどうにかしなさいよ。自分の人生でしょ、自分でやりなよ」
「そうだな」
アルベルトは頷いた。
「私も帰るけど、あなたと一緒の馬車に乗る気はないわ。だから2台で来た。少し下にもう1台の馬車を待たせてる。あなたはそっちに乗って」
とヒラリーは素っ気なく言った。
そして、連れてきたお供の一人にアルベルトを任せると、振り返らずに馬車に乗り込み、さっさと山道を引き返していったのだった。
【8.希望ある婚活パーティー】
アルベルト・フィーシャ男爵が最愛の妻と離婚したという噂は、一瞬で王宮を駆け巡った。
それまでは、ウェズリー侯爵夫人がエレシル公爵夫人に泣きながら公開謝罪をした、という噂で持ちきりだったのに、人々の興味の移ろいは早いものである。
マリアは最後まで「浮気なんてしてないわ!」と頑固に言い張っていたらしい。
マリアが貞淑な妻の雰囲気を纏っていたため、最初は世間も「まさかマリアは浮気しないだろう」「誰かがマリアを陥れようとしたんじゃない」とか同情的だったが、浮気目撃情報が多方面からぽろぽろ出てきたり、噂の発信元の一人アデラが相手男性を特定したり、浮気相手の一人(なんと浮気相手は一人じゃなかった!)がフラれた腹いせに暴露したりしたので、世間はすっかりマリアを悪者認定した。
しかも、貞淑な妻と世間を欺いていたわけだから、マリアのイメージは地に落ちた。
親しい人も皆マリアから離れ、マリアは今、出戻った実家で泣きながら引きこもっているらしい。
ちなみに、この件に関連して、マデレーンのモスグレイシア行きは無くなった。
自殺しかねない状況のアルベルトを、ヒラリーが救い出したことで、アルベルトの実家フィーシャ伯爵家が、ヒラリーに何かお礼をしたいと申し出たのだ。
ヒラリーは、ダメ元で国内にマデレーン夫妻ができそうないいビジネスはないかと聞いた。すると、ヒラリーの実家のオブライン伯爵家と一緒に、事業を一つ立ち上げてくれることになったのだった。
マデレーンは「そんな話、甘えられない」と固く辞退しようとしたが、フィーシャ伯爵家の方もオブライン伯爵家にこれまでの借りを全部返したいという思惑もあり、『ヒラリー嬢の一番の望みなので』と全力サポートするといって譲らなかった。
そして、このフィーシャ伯爵家とオブライン伯爵家の他に、マデレーンの嫁ぎ先ギャストン伯爵家と、マデレーンの義母の実家筋にあたるコルベル侯爵家が集い、建設的な話し合いが持たれた。結果、マデレーン夫妻のモスグレイシア行きはなくなり、フィーシャ伯爵家の提案する事業をすることになった。
ヒラリーは大喜びである!
そんなとき、アデラがヒラリーを夜会に招待した。
「あたしが主催すんのよ。マデレーンが企画ね。カジュアルな会だけど、いい独身男いっぱい用意しておくから、ヒラリーはおめかししてきてちょうだい」
「マジ? 行く行く!」
ヒラリーは前のめりで参加を約束した。
さて。
アデラ主催の夜会は、彼女の嫁ぎ先ベントレー子爵邸の離れで、こぢんまりと開催された。
規模は小さかったが、さすが成金子爵家。会場は華やかに飾り付けられ、豪華な燭台がいくつもいくつも煌々と灯り、管弦楽奏者たちが有名作曲家の新作を自信たっぷりに披露していた。たっぷりお金がかけてあるのが見てとれる。
「さすがアデラね。私たち友達に最高のおもてなしをしてくれる気だわ」
ヒラリーは感嘆の声を上げた。
会場で待っていたマデレーンが、ヒラリーの姿を見ると嬉しそうに急いで駆け寄ってくる。
「今日こそは楽しみましょうね! いつぞやのパーティーのリベンジよ」
「マデレーン、旦那さん放っておいていいの? ベントレー子爵家のパーティーなら、旦那さんも来てるんでしょう?」
「ええ。来てるわ。でもいいの。今日は特別だから」
そう言ってマデレーンは、含みのある目で楽しそうにウィンクした。
アデラの挨拶が始まった。
「さてみなさん! 本日はお集まりくださりありがとうございます! このパーティーの主旨は、我が親愛なる友人ヒラリー・オブライン嬢のお婿さん探しです。我こそはと思う方はじゃんじゃんヒラリー嬢にアピールしてくださいね!」
「は?」
ヒラリーはぽかんとした。
マデレーンがイタズラっぽい目でもう一度ウィンクした。
アデラも、ヒラリーの呆気に取られた顔を見て笑い転げる寸前だ。
「さ、主役のヒラリー、こっちへ。わあ、相変わらず落ち着いた色味にモードをピリリと効かせた素敵なドレスね! おっしゃれ〜」
マデレーンは、新事業のことでヒラリーにお礼をしたくて、ヒラリーの恋人探しに全面協力することを思いついたのだ。
いつも「婚活は一人でぼちぼちやるから大丈夫よ」と言っていたヒラリーだったが。この言葉には信憑性のかけらもない。
アデラに相談すると、楽しい話が大好きな彼女のこと。二つ返事で賛成した。ちょうど親しい人だけの夜会をしようと思っていたところだったので、その企画とマデレーンの企画を合わせて開催することにしたのだった。
マデレーンによってヒラリーが前に引っ張り出されてくると、聴衆の目が一斉にヒラリーに注がれた。
仲の良い知り合いたちはもちろんのこと、見目のそこそこ良い男性もたくさん集められている。
なるほど、婚活目的パーティーだ!
「ってゆか、知り合いの前で、こんな大っぴらげに婚活すんの? 恥ずっ!」
ヒラリーは呻いた。
「では、皆様しばしご歓談を!」
アデラの挨拶で、夜会が始まった。
婚活として参加した独身男性陣は、ヒラリーにどのタイミングで話しかけるべきか、ヒラリーの様子をちらちら窺っている。
そんな中、一人の背の高いイケメン男性が、躊躇いなく大股で近づいてきた。
ヒラリーが「え、さっそく?」と驚くと、その男性はもっと驚くことを言った。
「私との縁談断っておいて、婚活パーティー? ずいぶんひどくない?」
ヒラリーはポカンとする。
「は? あなた誰?」
「ホワイトアスパラですけど」
それを聞いてヒラリーは飛び上がった。つい最近母が持ってきた縁談相手だ!
「ホワイトアスパラ!? もーっ、お母さんなんで本人にそんなあだ名まで伝えちゃってんの。ってゆか、釣書に寄せられてた似顔絵と違くない? 全然気づかなかった!」
「そうですか? あれは角度が悪かったかな」
「そうよ。実物はあまりホワイトアスパラっぽくないのね。シュッとして、どっちかっていうとグリーンアスパラだわ」
「……。アスパラからは昇格しないんだ……」
その男性は、少しの間のあと笑い出した。
「あ、ごめんなさい! イメージの話よ。実物はとてもイケメンと思います……」
「いや、もう、謝らなくていいよ。しょせんアスパラなんでしょ。でも、結婚相手に2回目立候補するよ」
「えっ!?」
ヒラリーは目を見張った。
「縁談断っておいてアスパラとかあだ名つける、失礼な女なのに?」
ヒラリーはそう言いながら、頭の中で必死で釣書の名前を思い出そうとする。
何て名前だっけ? お母様が、良縁だ、当たりだ、と騒いでいたわね。あっ、そうだ、デニース・レーマン侯爵令息だ!
「そうだね。なかなか失礼だ。でも、そもそも失礼さに惹かれて縁談を申し込んだんだしね。いまさらだよ。大丈夫」
デニースが爽やかな笑顔で言うので、ヒラリーは困惑した。
「失礼に惹かれてって……以前どこかでお会いしましたっけ?」
「お会いしましたよ、ウェズリー侯爵夫人のサロンで。あなたは覚えてらっしゃらないかもしれませんが」
それを聞いて、ヒラリーはもっと困惑した。
「あのサロンの出席者!?」
恥ずかしすぎて顔から火が出るかと思った。
あの席で、ウェズリー侯爵夫人に喧嘩売ったんだよ、私は!
「ってゆか、あなたはあのサロンの常連? よくあんなサロンに通い続けていられましたね」
ヒラリーが呆れたように聞くと、デニースは笑った。
「私はウェズリー侯爵から夫人の動向を見守るよう頼まれていたんでね――ウェズリー侯爵夫人の物言いに問題があるのはウェズリー侯爵もよくご存知でしたから。かといって、一応は王族の血を引く夫人のプライドもあるのでサロンは成功させてやりたいとのこと。私は、サロンに出ている他のご婦人方のメンタルをこっそりチェックしながら、ギリギリのところでサロンをなんとか維持できるよう画策してました」
「あら、それはさぞ大変だったでしょう……。そういえば、ウェズリー侯爵夫人はエレシル公爵夫人に公開謝罪をしたと聞きましたわ。サロンはどうなるの?」
「もちろん閉鎖ですよ。ウェズリー侯爵家としては、エレシル公爵家にこれ以上睨まれたくありませんから」
「では、サロンの他のご婦人方は?」
「ええ。もう出席しなくていいのでね。喜んでいることでしょう」
「喜んでって……。あなた、そこまでご存知だったの?」
「もちろん。ああ、でも、ご安心を。彼女たちは今もお茶会を楽しんでいますよ。話題のターゲットはウェズリー侯爵夫人だけじゃなくなったでしょうけど。結局、陰口を楽しむのが趣味な人たちだったってことです」
デニースは苦笑しながら言った。
「ええーと。それに関しちゃ私は何も言えませんわ……」
ヒラリーは恥ずかしそうに頭を掻いた。
ウェズリー侯爵夫人に面と向かって暴言吐いたのだから。
するとデニースはニコッとした。
「陰口のご婦人方ばかりの中で、あなたははっきりものを言うので面白いなと思ったんです。興味をひかれていろいろ話を集めてみたら、普段取り澄ました格好をしているのに、中身はわりとお人よしで、周囲に振り回されがちの方だと知りました。親近感がぐっと湧きましたよ。ホワイトアスパラは……少々不本意でしたが……」
ヒラリーは赤面した。
デニースは続ける。
「そういうわけで、もう一度立候補します。これから何度かデートに誘いますので、最初は食わず嫌いせず、少し付き合ってください。何度かご一緒して、それでもやっぱりダメだというのなら、そのときこそ諦めますから」
デニースの瞳は、真剣に真っ直ぐヒラリーの目に注がれていた。
ヒラリーは胸の辺りがくすぐったくなって、そわそわした。
「わ、分かりました。そういうことでしたら……私も前向きに考えさせていただきます……」
気づけば、ヒラリーとデニースの周りで、ほかの独身男性たちがじとーっとした目を向けている。
抜け駆けしたデニースにムッとしているのだ。
彼らは、頭の中で、自分はどういうふうにヒラリーにアピールしようか考えている。
ヒラリーは、嫁き遅れとはいえ、オブライン伯爵家のご令嬢。見た目だって落ち着いたオシャレでキメているし、中身は気さく。変な噂は立ちがちだが、それを込みにしても悪い条件ではないのだ。
ヒラリーの本当の意味での婚活は、今始まろうとしているところだった。
(終わり)
最後までお読みくださいまして、ありがとうございました!
一年ぶりくらいの投稿です。
書き込みたいことを詰め込んだら、長め短編になってしまいました。こーゆーとこよな。
そして、ちょこちょこなろうのシステムが変わっててドキドキ。
もし少しでも面白いと思ってくださいましたら、
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