第三話 「修行」
『蝶』。魔力を元に蝶を生成する魔法だ。それは正真正銘の「生物」であり、自由意志と生殖能力を持つ。また使用者──つまるところ私の意思で自由に操作することができる。
私がオオビノ村に来て6年が経過した。始めて魔法を使えたあの日からも、訓練は欠かさない。朝起きたら蝶を作り、ご飯を食べたら蝶を作り、眠る前に蝶を作り……そんな生活をしていると、少なからず進歩はあるものだ。
まず、サイズが大きく変化した。当時は、指先に乗るような蝶を一匹作るのにも体中の魔力を消費したが、現在では違う。
より少ない魔力で同じサイズのものを作れるようになった。当時の必要魔力量を10とするならば、現在は3くらいだ。そして、私もまた魔力総量が100くらいにまで増えている。つまり、全魔力を注げばもっと大きなものも作れるということだ。
「『蝶』」
そう唱えると、紫色に輝く粒子が指先から放出され、やがて虫のシルエットを成した。腹部から脚、胸部、頭部、羽。そうして出来上がった蝶は、私一人なら優に乗せられるであろうサイズになった。が……
私の部屋がある二階の屋根を、驚くほど簡単に羽が貫いてしまった。その長さはナノ二人分くらいだろうか。
(どうしようどうしよう……)
「ファブリエル、大丈夫!?」
大きな音を聞きつけたアリエがそこにいた。なくなってしまった壁を、なんとか蝶の羽で覆い隠そうとする。
とりあえず、話題を逸らすことにした。
「お母様。こちらをご覧ください!」
「これは……ファブリエルの魔法?」
「はい、そうです! ところで……」
「?」
「人というものは、星々に憧れをもつ生き物ですよね」
「それで?」
「そして、私も人です。つまり……」
「それに乗って空を飛びたいわけね」
「その通りです」
考えてもみてほしい。そもそも蝶という生き物は空を羽ばたいてこその蝶であって、その生き方を否定することは誰にもできないのだ。つまりこれから私がすることは蝶を自由にすることであって、なにも悪いことではない。
決して、せっかく二階から飛べるならそっちのほうがいいな、などとは思っていない。
そんな言い訳が顔に出ていたのだろう。アリエは短くため息をついて、私と目線を合わせて言った。
「……怪我だけはしないようにね」
「ありがとうございます!!」
蝶が羽を畳むと、外から来た暖かな春風が私の前髪を揺らした。背に跨り、しっかり掴まる。視界良好、風速よし。前方、左右、異常なし。
「発進!!」
口から飛び出たその言葉を皮切りに、私を乗せ蝶は見切り発車で羽ばたき始める。そしてだんだんと床から離れ──ついに私は空へと浮かんだ。
「やった……! よし!」
正確ではないが、高度は凡そ二階建てのフロントライン邸を縦に二軒重ねた程度だろうか。蝶が羽ばたく度に、サファイアのような鱗粉が仄かに舞った。
私の意思に従って蝶は前へと進む。だいたい私の歩くスピードの3倍くらい。といっても、6歳児の歩行速度の3倍なので、せいぜい大人のジョキングくらいだろう。しかし私の活動範囲が大きく広がったことに変わりはない。
勿論、乗り心地は最悪だ。上下に動きながら進むせいで、胃の中の昼食が喉元を行ったり来たりする。怪鳥に襲われ、食べられそうにもなった。
しかし、そんなものはどうでもいい。空は我が物となり、私は夢中で飛び続けた。手をいっぱいに広げれば、どこからかやってきた風が春の薫りを運ぶ。下を覗くと、碧色の海が陽光に照らされ、ところどころ銀色に輝いていた。
この世で最も自由なのは私だろう。そう確信した。
その後、浮島に激突して運動エネルギーを直に体験するのだが、それはまた別の話である。
──ファブリエルが空で遊んでいるとき、フロントライン夫妻は会議を開いていた。その議題は様々で、最近上がり続ける物価のこと、森の様子が少々おかしいこと。そして、娘のこと。
窓から空を眺めながら、ふとナノが呟いた。
「ファブリエルは元気だね。まさかあの、魔法が使えずに泣いていたあの子が空を飛んだなんて」
「そうね、あの子は本当に頑張りやさんだわ。二階の壁が壊れるような努力はやめてほしいのだけれど」
「ははっ、それくらいな僕が修理するから大丈夫だよ」
沈黙が流れた。ナノは返答を間違えたかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。アリエが意を決して口を開いた。
「ねえ、ナノ……やっぱり、あの子は変なんじゃないかしら」
「どうしてだい?」
「やっぱり、賢すぎると思うの。言葉もすぐに覚えたし……魔法は多少苦労したようだけど、10歳になるまでに習得したのよ」
そう言うアリエの表情は曇っていた。目線の落ちる先の机の木目が、歪んだ笑みを返す。
「僕の弟にもそんなふうだったよ。僕より賢くて、魔法だってすぐに使いこなしてた凄いやつさ」
一方、ナノは落ち着いていた。こんなことは以前に幾つもあった、という具合に。
「私は母親としてしっかりやれてるかしら」
「もしアリエがそうじゃないというのなら、僕は父親を名乗れないよ」
「あなたはファブリエルに尊敬されてるじゃない」
「アリエだって……」
「あなたが初めてあの子の前で『強駆』を使ったときのこと、覚えてる? あの子ったら、目を宝石みたいにキラキラさせてたわ」
アリエは笑っていた。自分の心と体が一致しないような感覚の中で、必死に考えを巡らせていた。ファブリエルと過ごした、かけがえのない6年間。その日々を裏切るようなことは考えたくなかった。考えたくなかったからこそ、この言葉が零れた。
「私は怖いの……もしもあの子が魔帝の──」
「アリエ」
ナノはアリエにそっと寄り、手を包みながら目を見て言った。諭すような優しい声で。
「僕たちにできることは娘を見守ることだけだ。どんな妹でも立派に育てるって、彼女と誓ったじゃないか」
「そう……ね」
空間の密度が増す。二人の指は机をなぞることしかできなかった。二人が思い出す“彼女”はもういない。死んでしまった娘はもう、帰ってくることはない。
───────
ファブリエルを拾う数カ月前、アリエのお腹には新たな命が宿っていた。キュキュと名付けられたその子は、大層可愛がられながらスクスクと成長した。日に日に大きくなるお腹を見るたびに、二人は得も言われぬ幸せに満ちた。
ある夜のことだった。嵐の酷い夜だった。
「はぁ……はぁ……」
「アリエ、大丈夫かい?」
アリエが流行り病により酷い熱を出したのだ。息を絶え絶えにしながら、呼吸するのも精一杯な様子だった。医者に行こうにも、嵐のせいで行けない。ナノは少ない知識と経験を総動員して、必死に看病をした。布巾を濡らし、汗を拭い、手を握る。それくらいのことしかできなかった。
嵐が去り夜が明けるとアリエの容体は回復した。回復したが一つ異変が残った。その異変とは、大きく、凄惨で、残酷なものだった。
「ナ……ナノ」
「どうした!」
アリエは泣き崩れ、絶望しながら言った。
「キュキュが……お腹蹴らないの……」
ナノはアリエを背中に乗せ、全速力で医者へと向かった。診させた。町医者が言うには、流行り病で母体に負担がかかりすぎた結果、キュキュもダメージを負ってしまったという。そして……
「残念ですが、お子さんは──」
「なんとか! なんとかなりませんか!? 僕とアリエの初めての子どもなんです! どうか……どうか……お願いします」
「しかし……」
ナノは額を地面に擦り付けながら医者に、神に懇願した。捧げられるものは全て捧げる。魔王や魔神にだって魂を売る。だからどうか娘を助けてほしい。そう願った。
しかし、娘が生き返ることはなかった。
後日、キュキュの体がアリエから自然に出てきた。産まれてくる前に死んでしまった我が子を、アリエとナノは泣きじゃくって抱きしめた。
「ごめん……ごめんな……キュキュ」
「ナノが謝ることないわよ。全部私がしっかりできなかったから──」
「そんなことない!」
「アリエは頑張ってくれたよ。頑張ってくれたのに……こんなのなんて……!!」
しばらくして、キュキュをの墓を建てるため、二人は小高い丘へ出かけた。夏の微風が二人の悲しみをほんの少しだけ爽やかな気持ちにさせたとき、聞こえたのだ。どこからか、赤子の泣き声が。
「ナノ、聞いた?」
「……僕もキュキュの声が聞こえた気がしたんだ」
二人は最初、何かを聞き間違えたと思った。しかし、アリエは籠の中の、シルクに包まれた赤子を発見したのだ。その子は困惑した様子だったが、こちらへ必死に手を伸ばしていた。
「ナノ! こっち!」
「これは……どうしてこんなところに赤ん坊が?」
「捨て子……よね」
「ねえナノ。この子、うちで育てちゃ駄目かしら」
「……」
「私たちが子どもを見捨てることは、きっと許されないわ」
「そう、だね……」
二人は、その赤子を連れて帰った。キュキュにあげるはずだった母乳も、おもちゃも全部をファブリエルの自由にさせた。きっとキュキュなら、これを望むと思ったから。
───────
「お母様、お父様、ただいま帰りました!」
「あらおかえりなさ……その傷どうしたの!?」
「いやぁ……島に頭をぶつけてしまいまして……」
悲しい空気を入れ替えるかのように、ファブリエルがドアを開けて帰ってきた。屈託のない笑顔は、土汚れと傷で彩られていた。
ナノとアリエは思わず笑みが零れた。今日も娘が元気に、無事に生きてくれていて良かった。そう思った。
「まあ、子どもは元気に生きなきゃだからね」
「そうね。さ、こっちに来なさい。手当してあげるわ」
キュキュが経験できなかった全てを、ファブリエルにはさせてあげよう。二人は言葉も交わすことなく同じ思いを抱いていた。
次回:第一部 第四話
「そろそろ世界を知りたい」




