明日に向かって
春の風はまだ少し冷たく、駅前のバス停には受験帰りの高校生たちが並んでいた。松村梓は、少し乱れた長い髪を耳にかけながら、白い息を吐いた。
「梓、今日の補講、やっぱり行くんだ?」
友人の沙耶が、笑い混じりに声をかける。
「うん。英語の長文、ぜんぜん解けないし」
梓は苦笑し、プリントの端をぎゅっと握った。
その日、補講の教室に入ると、見慣れない男子が机に向かっていた。綺麗な中性的な顔立ち。目元は涼しく、それでいてどこか人を寄せつけない空気をまとっている。
「この人、佐伯くん。うちのクラスじゃないけど、学年一位なんだよ」
沙耶がひそひそ声で紹介してきた。
佐伯貴也は、軽く会釈をして席に戻った。その仕草は丁寧で、けれど目は教科書から離れない。
補講が終わる頃、沙耶が言った。
「ねえ、梓。佐伯くん、数学もすごくできるんだって。教えてもらえば?」
半信半疑で近づくと、彼は淡々とした声で言った。
「どこがわからないの?」
梓はプリントを差し出す。
「二次関数の最大値…どこで間違えてるのか分からなくて」
「ここ、平方完成の途中で符号を間違えてる」
貴也は鉛筆を走らせ、数式をきれいに変形して見せた。
「あ……ほんとだ」
「パズルみたいなもんだよ。慣れればすぐできる」
梓はその説明の分かりやすさに驚いた。教室の外には春の光が差し込み、窓枠に小さな埃がきらきらと舞っていた。
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夏が来ると、補講はなくなったが、梓と貴也は自然に図書館で会うようになった。
冷房の効いた館内には、本と紙の乾いた匂いが漂い、静かな機械音だけが時を刻む。
「ほら、ここ」
貴也は英語の長文プリントを指差した。
「'despite' は '〜にもかかわらず' だって覚えてる?」
「覚えてる。…けど、すぐ忘れちゃう」
「忘れたら、また教えるから」
貴也の声は淡々としているのに、不思議と安心できた。
勉強が終わると、図書館横の自販機で冷たいお茶を買うのが二人の習慣になった。
紙カップから立ちのぼるほのかな麦の香りに、梓はひと息つく。
「この前のお礼」
梓がバッグから小さな包みを取り出す。
「手作りのガトーショコラ。ちゃんと味見したから大丈夫」
「…ありがとう」
貴也は少し照れたように、しかし真剣に受け取った。
その表情を見て、梓の胸は熱くなる。
ある日、勉強の帰りに駅前を歩いていると、梓がぽつりと言った。
「貴也って、なんでそんなに頑張るの?」
「頑張らないと、置いていかれる気がするから」
「誰に?」
「…さあ」
夕暮れの光が彼の横顔を染めた。その影のような答えに、梓は何も言えなかった。
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秋風が涼しさを増した頃、梓はある日ぽつりと言った。
「ねえ、今度の休みに水族館行かない?」
砂浜のすぐそばにある、古びたガラス張りの建物。小さい頃に家族で行ったことがあるらしい。
「いいけど、受験勉強は?」
「たまにはいいでしょ。息抜きしないと」
日曜の午前、海沿いの道を歩くと潮の匂いが強くなり、風が二人の髪を揺らした。
水族館の入口は、潮風に焼かれた看板が色あせている。
館内に入ると、暗い水槽の向こうに群れ泳ぐイワシが、光を反射して銀色の帯を作っていた。
「きれい…」梓が小声で呟く。
クラゲの水槽前では、白い傘のような触手がゆっくりと脈打ち、淡い光を放っている。
「なんか、時間がゆっくりになるね」
「うん…」貴也も目を離せない様子だった。
ペンギンのコーナーで、梓が無邪気に指を差す。
「見て、あの子転んだ」
「おまえもよく転ぶよな」
「失礼!」
笑い声が響き、周りの空気までやわらかくなる。
帰り道、夕日が海を朱に染める中、梓が言った。
「今日、すごく楽しかった」
「…俺も」
その短い返事の裏に、まだうまく言葉にできない感情があった。
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高校を卒業した春、二人はそれぞれの進路に進んだ。
梓は地元でプログラミングを学び、そのまま小さなIT企業に就職。新人エンジニアとして働き始めた。
貴也は東京の大学へ。
それでも距離を縮めるように、二人は小さなアパートで暮らし始めた。
冬の朝、六畳の部屋はまだ薄暗く、ガスファンヒーターの低い唸りが空気を温めていく。
外からはパン屋の焼き立ての香りと、近くの通りを走るバスのエンジン音が届く。
梓はノートPCを開き、出社前にコードを確認していた。画面には黒地に緑の文字が流れている。
「今日、リリースあるから遅くなるかも」
「了解。夕飯は俺が作っておく」
「ありがとう、助かる」
夜、貴也が大学から帰ると、梓はソファでノートPCを膝に乗せ、キーボードを叩いていた。
テーブルの上には、彼女が好きなチョコレートの包み紙が転がっている。
「また甘いの食べたの?」
「集中しすぎると糖分ほしくなるんだよ」
笑いながらそう答える梓の頬は、暖房のせいか少し赤い。
休日は二人で駅前の大型電気店に行き、最新のガジェットを見て回った。
帰り道、コンビニで肉まんを半分こして食べ、小さな台所で肩をぶつけながら料理を作る。
食後は洗い物の順番でふざけ合い、シンクから水が飛び散って笑い声が重なった。
窓の外で雪が舞った夜、梓は毛布にくるまりながら言った。
「なんか、夢みたいだね」
「そうだな」
けれど、貴也の胸の奥には、まだ形にならない不安がわずかに芽を出し始めていた。
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桜が咲き、川沿いの遊歩道を歩く人の数が増え始めたころ。
梓は相変わらず忙しい日々を送っていた。プロジェクトの納期が迫ると、夜遅くまで会社に残り、帰宅すると目の下には薄い影が落ちていた。
ある週末、貴也の大学の友人たちがアパートに遊びに来た。
リビングには笑い声が満ち、空き缶がテーブルに並ぶ。
梓はキッチンで簡単なつまみを作りながら、時折会話に耳を傾けた。
「おい佐伯、この前の教授の真似してみろよ」
「いやいや、似てねぇって」
そう言いながらも、貴也は場の空気に押されて、軽口を叩いた。
「梓もさ、オタクっぽい俺に惚れるなんて珍しいだろ?」
笑いが起きた瞬間、梓の手が止まった。知らない人を見ているような感覚が胸に広がる。
友人たちが帰ったあと、梓はテーブルを片付けながら静かに言った。
「さっきの言い方、ちょっとびっくりした」
「ごめん、場の流れで……流された」
「そんな顔、初めて見たよ」
貴也は曖昧に笑い、話をそれ以上広げなかった。
それから、些細な違いが目に留まるようになった。
梓が疲れて帰ってきても、貴也はレポートに集中していて顔を上げない夜。
休日の予定も、以前のように自然に重ならなくなっていく。
春風が部屋に吹き込むたび、カーテンの影が壁を揺らす。
その揺れが、二人の心の距離を映しているように感じられた。
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夏の夕立が上がったあと、アスファルトから蒸気のような匂いが立ちのぼっていた。
窓を開けると湿った風が入り込み、カーテンが重たく揺れる。
その日、梓は仕事を早めに切り上げ、貴也に好物のガトーショコラを買って帰ろうとしていた。
ドアを開けた瞬間、ほのかに残るシャンプーの匂いが鼻をかすめる。
自分のではない。甘すぎず、どこか青さの残る香り。
リビングには、見慣れないマグカップがひとつ。
テーブルの端には、女性ものらしきヘアゴム。
冷蔵庫の扉に貼られた付箋には、丸みを帯びた文字で「ありがとう、またね」とだけ書かれていた。
「……これ、何?」
声が震えるのを抑えながら、梓は手に取った。
シャワーの音が止まり、バスルームから貴也が出てくる。タオルで髪を拭きながら、動きが一瞬だけ固まった。
「梓、それは……」
「誰?」
「ただの友達だよ」
「友達が平日の昼間にここでシャワー浴びる?」
返事がない。沈黙だけが二人の間に広がった。
その夜、梓は眠れなかった。
窓の外では虫の声が響き、時計の針が小さく刻む音がやけに耳に残る。
彼の寝息が聞こえないのは、ソファで横になっているからだと分かっていても、胸の奥に冷たい穴が空いたままだった。
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風が少し冷たくなり始めた夕暮れ。
ベランダから差し込む光は淡く、室内をゆっくりと灰色に染めていく。
テーブルには、温くなった紅茶と、手をつけられていないクッキー。
貴也はその前に座り、カップを指先で転がすようにしていた。
「梓……話がある」
その声は静かで、決意の影を含んでいた。
「……うん」
梓は膝の上で両手を握りしめた。冷えた指先に爪が食い込む。
「俺たち、このままじゃダメだと思う」
「……浮気のこと?」
「それも……ある」貴也は視線を落とす。「でも、それだけじゃない。価値観も、日々の感じ方も……もう合わない気がする」
「合わせようとは、思わなかったの?」
「思ったよ。でも、無理してもきっと長くは続かない」
梓は笑おうとしたが、うまく口角が上がらなかった。
「……じゃあ、終わりなんだ」
貴也は短く「ごめん」とだけ言った。
その声は穏やかすぎて、かえって胸を裂いた。
外では銀杏の葉が風に舞い、ひらひらと地面へ落ちていく。
あの頃、同じ未来を信じていた二人が、別々の道へ歩き出す音は、確かにその部屋に響いていた。
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別れた翌朝、目覚めても、部屋の空気は何も変わっていなかった。
カーテンの隙間から射し込む冬の光は淡く、白い壁をぼんやりと照らしている。
キッチンには、貴也が好きだったマグカップがまだ残っていた。取っ手を指でなぞると、金属的な冷たさが指先を刺す。
最初の一ヶ月は、ただ泣くだけの日々だった。
食事も睡眠も不規則になり、ふと街中で背格好の似た人を見かけると、息が詰まった。
夜、電気を消すと、会話の残響が耳の奥で繰り返された。
「ごめん」──あの短い言葉は、真冬の空気のように鋭く、何度も胸を刺した。
二ヶ月目、梓は少しずつ外に出るようになった。
近所のカフェに入り、カウンター席でノートパソコンを開く。
コーヒーの香りと低いBGM、窓の外を行き交う人々の足音。
その全てが「自分はまだここにいる」と教えてくれた。
四ヶ月目のある日、職場で新しいプロジェクトメンバーが紹介された。
「松村さんですよね。よろしくお願いします」
声をかけてきたのは、柔らかい笑顔の青年・高橋だった。
彼は梓が書いたコードを褒め、仕事終わりに「今度技術書のイベント、一緒に行きませんか?」と誘った。
半年が経つ頃には、あの日々の痛みは輪郭をぼかし、淡い色に変わっていた。
春の匂いが街を満たし、桜並木を歩く梓の足取りは少し軽い。
それでも、ふとした瞬間に、あの夏の空や冬の街灯を思い出す。
──盆の水が戻らないように、あの日々も戻らない。
けれど、あの恋があったから、今の自分がいるのだと、静かに受け入れられるようになっていた。