98.「訂正してください!」
朝食に出された、味のしないクロケットサンドを水で流し込んだリーナは、白い吐息をはきながら、長い廊下をひとり早足で歩いていた。
向かう先はもちろん、フィリウスの執務室だ。
部屋を出てすぐに、隣の部屋をノックしたのだけれど、鍵もかかっていて彼は不在のようだった。
あらためて考えるとお互いの寝室は扉一枚を隔てているだけなのに、一日中会わなかったし、リーナが起きている間には物音もしなかったのだ。
今朝は書き出しの挨拶を考えていたので、フィリウスはそれよりも早い時間に、すでに部屋からいなくなっていたということなのだろう。
すれ違う文官たちは、お辞儀をしながらもリーナの様子を不思議そうに見ていた。
たぶんリーナの思い違いではないと思う。それでも、たとえ怪訝に思われたとしても、今のリーナにはしなければならないことがある。
そんなことを考えながら、執務室までの最後の曲がり角を曲がろうとしたちょうどそのとき。
聞こえてきたのは、聞き覚えのある女性の声だった。手を壁につけてほんの少しだけ顔を出せば、視線の先に見えたのは、執務室の前で何かを話し合っているフィリウスと。
──シャタール王国の王太子妃の、ノマの後ろ姿だった。
声で何となくは分かっていたけれど、思わず息を呑む。
二人とも話に夢中で、リーナのことには気づいていないみたいだった。
フィリウスに気づいてほしいという気持ちがないわけではない。けれど、それ以上に早くノマに去っていってほしいという思いが強かった。
昨日は一日じゅうフィリウスに会えなかったのだ。
そんな彼と先に会話を交わしているノマを見てしまっただけに、何ともいえない気持ちになってしまう。
リーナは「白い結婚」とはいえ、フィリウスの妻なのだ。
だから、少しぐらい聞き耳を立てても許されるのではないだろうか。
「いけません、妃殿下」
「どうしてですの? わたくしは貴方のことを聞かせていただきたいだけですのに」
何か聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がする。
同時に、ノマに対する何ともいえない感情が湧き上がってきたちょうどそのとき。リーナはフィリウスとばっちり目が合ってしまった。
「フィリウス殿下、いかがなさいました?」
「おはようございます、フィリウスさま。ノマさまもいらっしゃったのですね」
だから、リーナは思い切って壁から姿を現してみた。
大きな声を上げるのははしたないと分かっているつもりだけれど、少し離れたところにいるフィリウスに聞こえるようにと思ったからか、自然と大きくなってしまっていた。
背中側から声をかける形になってしまったけれど、ノマもすぐにリーナの存在に気づいたらしかった。
ゆったりとした、それでいて洗練された動きでリーナの方を振り返った彼女に、やっぱり格の違いを見せつけられているような気分になってしまう。
二人の近くまでリーナが歩いていくと、遠くから声をかけたのにようやく気づいたといった様子のノマから声がかかった。
「あら、ごきげんよう。フィリウス殿下とはうまくいっておりますの?」
「うまく、ですか?」
執務室の中から暖気が届いているはずなのに、心なしかリーナが先ほど聞き耳を立てていた場所よりも冷えて感じられる。
突然ノマから質問されたけれど、どう答えるのが正しいのかよく分からない。
「白い結婚」としてうまく成立しているのかは怪しいけれど、彼との関係は良好なのだ。
「うーん」と頭の中で悩んでいると、ノマはリーナに耳打ちした。
「それはもちろん、夜伽ですわよ」
「よとぎ?」
ノマから告げられた知らない言葉。思わず繰り返してしまった。
すると、先ほどまで穏やかだったはずのフィリウスが顔をしかめる。
「リーナ、気にする必要はない」
「ということはうまくいっていないのですか?」
今度はフィリウスの方を振り返り、冗談交じりといった声色とにこやかな表情で尋ねるノマ。
友好国の王族内の夫婦関係がよくないと聞いて、そんな顔をするのがいけないことだというのは、ユスティナからもアルトからも教わっていないけれど何となくわかる。
「我が国には我が国の事情がありますので。それよりも、妃殿下にも夫がいるでしょう。一人でこのような場にいては貴女自身の立場を悪くしてしまうだけです」
だから、それに対するフィリウスの声が冷ややかさを帯びたものだったことにほっとした。
じっさい、婚姻関係にない男女が二人きりでいるとあらぬ噂を立てられるということは、昔アルトから聞いた話からでも十分想像のつくことだ。
そんなふうに納得していたリーナだけれど、今度はノマが冷めた表情を浮かべた。
「貴方もヴォクス様はよくて、わたくしにはいけないとおっしゃるのですね。……殿方には狭量な方しかいらっしゃらないのかしら?」
「──ノマさま、お言葉ですが撤回していただけませんか?」
ノマの言葉に思わず口が出てしまってからはっと気づく。今度はリーナの声が冷たくなってしまっていた。
ちょっと失礼なことを言っていたかもしれないけれど、ノマは友好国の王太子妃なわけで。
今の言葉はただの王子妃、それも「白い結婚」なリーナが言うべきではなかったのかもしれない。それでも。
「フィリウスさまはとってもお優しい方なんですっ! 訂正してください!」
「リーナ……」
リーナが強く主張すると、ノマは突然雨に打たれたように目を丸くした。
けれど、どこから取り出したのか扇を広げると、小さな声で何かを早口で呟いた。
「本当なのかしらね? ──貴女たちの関係はそこまで進んでいるようには見えないのだけれど」
ノマがリーナに向ける視線は、どこか憂いを帯びたものに見えた。
けれどそれは一瞬のことで、再び彼女の顔を見ればにこやかで友好的な笑みを浮かべていたので、思わずリーナの見間違いだったかのように錯覚してしまう。
「ノマ殿、夫君は」
「安心してくださいな。ヴォクス様は寝ていらっしゃるだけですから。それではわたくしはこれで。少々外の空気でも吸ってまいりますわ」
自身の夫のことについて言及するノマは少し虚ろな表情を浮かべていたように見えた気がしたけれど、すぐに微笑みを取り戻した。
そのままノマはリーナたちに背中を向けて歩き出す。リーナはフィリウスと共に、そんな彼女の背中を見送る。
「!」
「どうした?」
けれど、彼女の言葉の意味を遅れて理解したリーナは、気がついたらすでに少し離れた場所に行ってしまっていた彼女のことを呼び止めてしまっていた。
「あの、ノマさまっ」
「? 何かしら」
リーナの方を振り返ったノマは少しうっとうしそうな表情を浮かべている。きっと早く外に行きたいのだろう。
けれど、リーナに言わせたら「外の空気を吸う」というのはちょっとまずいことがあるのだ。
「この国はシャタールよりも寒いですから、風邪をひかないように服装にだけはくれぐれもお気をつけくださいね」
リーナの言葉にノマは少しの間目をしばたたくと「ご心配痛み入ります、リーナ様」と言い残して去っていった。
ノマの足音が完全に聞こえなくなると、後に残されたのは執務室の中から聞こえてくるパチパチと燃える薪の音だけだ。
フィリウスがリーナの方に振り向いて早々、リーナは口を開いていた。
「お久しぶりですね、フィリウスさま」
「……ああ、元気にしていたか?」
思わず棘の生えたような言い方になってしまったことに後悔する。
けれどそれに対するフィリウスの返事が優しくて、つらい。
「外ほどではないが、ここにずっといては寒いだろう。入るといい」
「……ありがとうございます。今日のお仕事は?」
「城内でないとできない事もあるからな。今日は一日、中にいるつもりだ」
いつもより来るのが早かったからだろうか。フィリウスに促されるように入室した執務室は、ひんやりとした空気がまだちょっとだけ残っていた。
それからユスティナが来るまでの間、リーナが本に目を通していた室内には、フィリウスがペン先を走らせる音と、パチパチと爆ぜるたびに温かな空気をばら撒く暖炉の音だけが響いたのだった。