96.シャタールの「白い結婚」
シャタール王国からやって来た二人を歓迎するためのパーティーが開かれた翌朝。
今日も今日とて、リーナはフィリウスの執務室でユスティナから妃教育を受けていた。
場所はいつも通りフィリウスの執務室なのだけれど、そこに部屋の主の姿はない。
「あら、今日はいらっしゃらないのですね」
「フィリウスさまなら、朝食の席でシャタール王国からヴォクス殿下とノマ殿下がお越しになったから今日は一緒にいられないとおっしゃっていたのですが……」
いつもはフィリウスが使っている大きな執務机の席はぽっかりと穴が開いたように感じられる。
かわりにその端の方に座っているのはカールだ。部屋に着いた時に尋ねてみたのだけれど、今日は彼の権限だけで進められる執務をこなしているらしい。
「王族とはえてして忙しいものです。リーナ妃殿下も一人前と認められれば、今わたくしから受けている教育がかわいいものだったと気づくことになるかもしれませんわ」
「あはははは……」
思わず苦笑いをこぼしてしまった。
けれどユスティナから笑顔を向けられると、すぐにもとの表情に戻る。
「急なことにはなってしまいましたが、本日はシャタール王国について勉強しましょうか。他に妃殿下が勉強してみたいことがございましたら、そちらでも構いませんけれど」
「その、今日のお勉強はシャタール王国のことなのはものすごく助かるのですけれど……。それとは別でお聞きしたいことがあるのですが、いいですか?」
「? どうぞ」
「ノマ様がわたしがお茶会を開くことをご存知だったという話をしたら、フィリウスさまが王族開くのお茶会の予定は国家機密だとおっしゃっていたのですが、そうなのですか?」
昨夜のフィリウスの言葉は、リーナの中でかなり引っかかっているのだ。
ユスティナは元王族だから答えを知っていると思ったのだけれど。
「そうですわね……。親密な交流のある友人などにはこっそり伝えておくこともありますけれど、そうではない相手には伝えておりませんでした。ですが、法的には国家機密とはなっていなかったと思いますわ」
自分の思っていたことが的外れではなかったことに安堵する。
けれど、ユスティナの顔が少し憂いを帯びているのが、ちょっと不安だ。
「どうかしましたか?」
「そうですね……妃殿下にであれば、お伝えしておいた方がよいのかもしれません」
向かいに座るユスティナの視線が、まっすぐリーナに向けられる。
思わず背筋も伸びてしまった。
「友好国の王太子夫妻について表立って言うことではありませんが……。お二方にはあまりよい噂を聞きません。お気をつけて」
「そうなのですか? たしかにフィリウスさまが昨日、ノマさまと二人きりにはならないようにとおっしゃっていたのですが……。どのような噂なのですか?」
リーナの質問に、ユスティナは目を伏せてため息をもらす。
じっと答えを待っていると、「そうですね」と続きを口にした。
「わたくしの口からは何とも……」
「ということはやっぱりお茶会にご招待するしかないのでしょうか」
「それが手っ取り早いですけれど、フィリウス殿下のおっしゃる通り、必ず他の誰かもお招きするのですよ?」
ユスティナのアドバイスにこくこくと頷く。
二人きりにならない。フィリウスにも注意されたことなのでしっかり守らないと。
「ではそろそろ今日の授業を始めましょうか。シャタール王国はレーゲ王国の南西に位置する半島国家で、レーゲ王国第一の友好国です」
「そうなのですか?」
「先日、我が国の王太子殿下夫妻が数ヶ月ほど滞在していたでしょう?」
ユスティナの言葉に納得してしまい、思わずこくこくと首肯する。
ずっとアグリア領にある本邸の畑の側の木造りの小屋で生きてきたリーナはまったく知らなかったけれど、どうやら両国の関係はリーナが思っていた以上に深いらしい。
「ですが今回、シャタール王国から王太子夫妻は突然やって来ています。これは外交において本来の手順を踏んでいない、非公式な滞在となります」
「非公式な滞在だと、何か問題があるのですか?」
リーナが気になったことを質問すれば、リーナの向かい側に立つユスティナは「そうですね」と少し考えるそぶりを見せて、再びリーナの方に向き直った。
「リーナ妃殿下は、正式なお披露目がつい最近のパーティーでしたから、まだ夜会の招待状を受け取ったことはございませんよね?」
「そう、ですね」
「夜会というのは本来、何週間も前から準備するものです。そして、王族など重要な地位に着く人物が行き来する場合、歓迎のために夜会が開かれることも珍しくないのです」
「つまり、本当なら突然来られたら夜会が開けないということなのですね?」
「はい。ですから、昨夜のパーティーはかなり小さなものになってしまいました。それでも、レーゲ王国はシャタール王国からの急な来訪に対応したという実績にはなりますから、外交上のカードとなるわけです」
分かったような分からないような。
でもきっと、リーナも曲がりなりにも王族となったのだから、これは理解しておかなければならないことなのだろう。
何せ、フィリウスとリーナの関係は「白い結婚」だし、フィリウスは「白い結婚」をやめたいと言っているのだから。
──などということを考えていたからだろうか。
「……いらしたシャタール王国の王太子ですが、巷では『白い結婚』なのではないかと言われてい」
「ええっ!?」
「リーナ妃殿下?」
「ご、ごめんなさい。つい」
今のは我ながら過剰反応がすぎるのではないだろうか。
けれどじっさい、今のリーナは心臓がバクバクいっていて、すぐには落ち着いてくれそうもないのだ。
そんなふうに言い訳しつつも、リーナは冷静さを取り戻そうと何回か深呼吸する。
まさか彼らもリーナたちと同じ「白い結婚」だったなんて。
「僭越ながら、妃殿下。それではちっとも深呼吸にはなっておりませんよ」
「か、カール!? どうしてわたしが深呼吸しているとわかったのですか!?」
「感情を表出するのを不得手とする方を主に持つと、観察眼というものがどうしても鍛えられてしまうのですよ」
そう言って肩を竦める。
たしかに、フィリウスはたとえ辛いことがあっても、絶対に悟らせまいと普段と態度や表情を何も変えなさそうだ。……ではなくて。
「その、お二人が『白い結婚』というのは本当の話なのですか?」
「そうですね……。あくまで噂でしかありませんし、噂というのはえてして誇張され尾ひれ背びれがつくものです。ですが、結婚して一年にも満たないというお二人です。お会いしたわたくしが見る限りだと、そう見えるぐらいには関係が冷え込んでいるようでした」
ユスティナの説明を聞いていて、やっぱり腑に落ちないところがある。
関係性が冷え込んでいるのが「白い結婚」なら、今のリーナとフィリウスの関係は本当に「白い結婚」と呼べるのだろうか。
もし、今の彼との関係ですら冷え込んだものだったとしたら。
一体「白くない結婚」というのはどんなものなのだろう? そもそも関係が冷え込むというのがどういう状況なのか、ちょっとわからない。
「妃殿下、手が止まっておりますわ」
「すみません。わたしとフィリウスさまはどのように見えているのか気になってしまってつい」
「わたくしからはお似合いのお二人に見えますが」
「はえ?」
ユスティナから間髪入れず返ってきた答えが予想外すぎて、変な声が出てしまった。
思わず彼女の目をじっと見つめてしまったけれど、嘘をついている様子はない。
「王族は一般的に家族内での関係性が希薄になりがちですから」
「そう、なのですね。希薄というのはどの程度なのでしょう?」
「夜会や社交といったことを別にすれば、通常は晩餐と夜伽ぐらいですね」
「夜伽、ですか?」
「はい」
ユスティナが鷹揚に頷く。
夜伽が何なのかわからないけれど、同じ王族のフィリウスならきっと知っているはずだから、後で聞くことにした。
それに、そもそもリーナは木造りの小屋の中でずっと過ごしていたのだ。もとはアルトが時々様子を見にきてくれる以外、ずっと一人だったのだ。
ユスティナの言う「希薄」がどの程度のものなのかが全然想像もつかない。
けれど、彼女の様子からして今のリーナはフィリウスとある程度うまくやれているということではないだろうか。
そう思うとほっとしてしまった。
そのまま気を抜いてしまったからかぽん、と背もたれにあたってしまい、慌てて姿勢を正す。
「そろそろ授業を始めても?」
「よ、よろしくお願いしますっ」
そうして、今日も今日とて授業が始まった。