90.隣の国の王太子夫妻
「本当に大丈夫か? 何分急なことだ。眠れないほど体調が悪いなら出席する必要はないのだぞ」
「ほ、本当に大丈夫ですからっ。昨日はそこまで夜遅くまで起きていませんでしたし」
なんとなく、眠りが浅かった記憶はあるけれど一昨日よりは眠れたので心配しないでほしい。
先ほどまで着ていた農作業しやすい丈の短いワンピースから、ジュリアにきちんとした正装に着替えさせてもらったリーナの目の前にいるのは、顎に手をあてているフィリウスだ。
一緒に過ごしてきたリーナの体感として、フィリウスが顎に手をあてている時は、何かに納得していない時が大体だったと思う。
「いや、むしろ奴に君を見せたくない」
「……どなたですか? い、いえ。その方がどのような方でも、わたしが出席した方がフィリウスさまのお役に立つのでしょう?」
フィリウスの口から「奴」だなんて言い方が出てきたことにちょっとびっくりしてしまったけれど、きちんと言えてよかった。
彼は「白い結婚」をやめたいと言っていたけれど、同時にリーナと一緒にいたいと言ってくれているのだ。そしてリーナは彼の隣にいたい。
ということは本当の風邪ではないのに休むなんて、フィリウスのためにならないことをするよりも彼と一緒にいた方がずっとよいのではないだろうか。
「そもそも、出なくても私の役に立つことはできるし、それ以前に役に立つとか立たないとか、考えなくても大丈夫だ。奴には見せたくないが……それでも君が私の隣に立ってくれるというのであれば、こんなに頼もしいことはない」
「……っ! 頑張りますっ」
そう言えばなぜかフィリウスからぽんぽんと優しく頭を撫でられてしまう。
思わず頬が上気してしまいそうになったので抗議の視線を向けたのだけれど、フィリウスの表情は穏やかになるばかりでいたたまれなかった。
♢♢♢
会場だという謁見用のホール──リーナがはじめて国王のベネディクトと対面した場所──までは先ほどまでと違い、フィリウスと一緒に歩いてたどり着いた。
リーナたちが到着した時には、すでに他の皆は集まっていた。
妃教育で「身分の低い方から会場に入るべき」だと聞かされていたので、これはフィリウスと別れるように言われても仕方がないのかもしれない。
何を言われるかわからなくて、今の状況がこわい。
そんな震えが伝わってしまったのだろう。
昨日の夜会の時のように玉座の斜め後ろまでフィリウスと向かう途中、フィリウスから声がかけられてしまった。
「寒いか? 今からでも遅くない。やはり君だけでも部屋に戻って──」
「それだけはだめなのです……」
「……分かった。だが今夜はゆっくりと休むのだぞ」
「はいっ……。ご迷惑をおかけします」
「迷惑などではない。先ほども言ったが、君が隣に立ってくれているだけでも頼もしいのだ」
リーナとしてはフィリウスが隣にいてくれる方が頼もしいと思うのだけれど、それは今言うべきではない気がしたので心にとどめておくことにした。
そうして無言に包まれたホール。
けれど、静かになっていた時間はそう長くなかった。部屋の入口に立つ衛兵がシャタール王国から王太子夫妻の到着を高らかに伝えると、大きな扉がゆっくりと開かれていく。
入室してきたのはリーナより少し年上の若い男女だった。
炎のように燃えるような赤色の髪を後ろに撫でつけている、黄色の瞳の男性。フィリウスよりもほんの少しだけ背の低い彼がシャタール王国の王太子──ヴォクス・シャタリー──なのだろう。
一瞬、リーナと合った彼の視線は熱を帯びていたような気がして。
思わず昨日のことを思い出して身震いしてしまったけれど、もう一度見た時には彼の視線はフィリウスに向けられているようだったので、「大丈夫」だと自分に必死に言い聞かせる。
彼が隣に伴っている女性が彼の妻のノマ・シャタリー王太子妃なのだろう。
ハーフアップにした髪の色はリーナより少し黄色みがかった茶色といったところだろうか。瞳の色はフィリウスほどではないけれど薄い紫色をしていて、ほんの少しだけうらやましい。
そうして玉座の前までやって来た二人は、国家間の交流の際に使われる礼をそれぞれに披露した。
二人が顔を上げると、まず口を開いたのは国王のベネディクトだった。
「遠路はるばるようこそレーゲ王国へ。もう少し早く聞いておれば……」
「いえ、お気遣いなく。むしろこちらの都合なのにこうしてお集まりいただき申し訳ございません」
そんなふうに二人が話している間に、ふとヴォクスの隣にいるノマの様子を見れば、彼女はフィリウスの方を見ているようだった。
フィリウスが素敵な人で見とれてしまうのはわかるのだけれど、彼のことばかり見つめられていると何だか落ち着かない。
「二人はどのくらい滞在するつもりかの?」
「妻の療養のための滞在でして。どのくらいかはお伝えできず申し訳ございませんが、お手を煩わせるわけにはいきませんので、宿をお借りする予定です」
「問題ない。部屋は用意させておるから、気が済むまでゆっくりしていっておくれ」
一見にこやかな談笑が行われているようにみえる。
でも、言葉にすることは難しいけれど、リーナは心なしか不安を感じてしまうのだ。
「陛下の寛大なお心遣い、恐悦至極に存じます」
「近日中に小さな舞踏会も開くからぜひ参加しておくれ」
「舞踏会」という言葉が聞こえた途端、隣に立っていたフィリウスの周りの空気がちょっと冷たくなった気がするのはリーナの気のせいだろうか。
そんなことを考えている間にも挨拶は終わったらしく、ヴォクスたちが退出していく。
扉が閉じられてしばらくすると、フィリウスの手がリーナの腰へと回された。
「戻るぞ」
「は、はい」
「待つのだフィリウス」
けれどフィリウスが数歩進んだところで、ベネディクトから待ったがかかる。
振り返ったフィリウスにあわせて、リーナもまたベネディクトの方へと向き直った。
「陛下、いかがしましたか? 私は一刻も早くリーナを部屋に送らねばならないので、手短にお願いできますか?」
「お前はまだ儂のことを陛下と……。先ほど言った舞踏会にはきちんと出席するのだぞ」
「リーナ、帰るぞ」
「あ、あの。さすがに舞踏会には出席した方がいいと思いますっ」
フィリウスの方を見てそう伝えると、フィリウスは少し驚いたような表情を浮かべる。
「君の着飾った姿をあの男に見せたくない」
「も、もう見せてしまっていますよ?」
「昼と夜ではドレスが違うだろう。それに、今しがたの謁見の時に比べてずっと長い時間を過ごすことになる」
この様子だと、フィリウスは本気でそう思っているらしい。
でもリーナとしては、今回の舞踏会はフィリウスと一緒に出席しないというのではいけない気がするのだ。
「それではわたし一人でも参加しますっ」
リーナがそう宣言すると、場の空気が凍った。
女性が婚約者も夫も、親戚の男性も連れずに一人で舞踏会に参加することはできないのだ。けれど。
「……分かった。君がそこまで言うのであれば私も参加しよう」
「参加したくないなら」
「君の隣にいるのは私だ」
フィリウスから返ってきた答えは、リーナが何となく思っていた通りのものだった。
それだけに、心がちょっと痛んでしまう。
そういうわけで、謝罪の気持ちを込めながら感謝の言葉をフィリウスに伝えると、彼は眼鏡を軽く持ち上げた。
「君が参加したいと言うのであれば、私も同行しよう。君は止めても行ってしまうのだろう?」
「あはははは……」
これでもし「一人で行くように」とフィリウスから言われてしまっていたら、リーナは耐えられなかったかもしれない。
昨晩の一件で、今のところ急にフィリウスから離縁を言い渡されることはなさそうだということは何となく理解できた。
けれど、それでも今のリーナがどう生きることになるのかは、すべてフィリウスの手にかかってしまっていることに変わりはないわけで。
そんなことを考えていると、ベネディクトが突然リーナに向かって頭を下げた。
「ありがとう、リーナ嬢」
「あ、頭を上げてくださいっ」
以前もこんなことがあった気がするのだけれど、ものすごく心臓に悪い。
リーナはベネディクトから感謝されるようなことは何もしていない。それどころか、むしろフィリウスを困らせてしまっているのだ。
けれど、リーナがどう答えるべきか迷っているのを見かねたのか、パトリシアが助け船を出してくれた。
「旦那様、リーナが困っていますわ」
「うむ……」
ベネディクトが顔を上げてくれたことにほっとする。
けれど、フィリウスとしては長居したくないのか「行くぞ」と促された。
「フィルも変わったな」
「馬鹿兄上、煩い」
「兄として感動しているんだよ。──僕からも感謝を。ありがとう、リーナちゃん」
「い、いえっ。それほどでもないですから」
扉が開かれ、謁見の間を後にしたリーナは、フィリウスにエスコートされるまま部屋に戻る。
けれどその途中、(先ほどフィリウスさまはよいと言ってくださったけれど、本当に大丈夫なのかしら……?)と心配で心配で、仕方がなかった。