9.久々の食卓
「どうした?」
リーナの呼びかけに、共に階段を降りていたフィリウスが足を止める。
それと同時に、フィリウスの熱も離れていった。
食堂のある二階まであと少しという踊り場。
止まってもらう必要はなかったのに、と思いつつもそれは顔に出さず、リーナは話を続けた。
「馬車を汚してしまい、本当に」
「その話はいいと言っただろう? 私の話を聞いていたのか?」
「いえっ! これはわたしの気持ちの問題で……」
軽く流された。そう思ってしまっていた。
けれど、彼はきちんと聞いていて、リーナが深刻に思いこまないように軽く流しただけだったのだ。
「そうか。つまり、私が君の謝罪を受け入れれば君が落ち着くのだろうか?」
「はい、おそらく……」
いけない。せっかくジュリアが綺麗にしてくれたのに暗くなってしまった。
リーナはフィリウスに暗い顔を見せないように、再び笑顔を作った。
「……そこまで言うのなら、今回は君の謝罪を受け入れよう」
「ありがとう、ございます」
「やはり君は笑顔の方がいいな」
「そう、ですか」
リーナと向かい合ってそう言ったフィリウスは、紫水晶の瞳にこそ変化がないものの、口の端がわずかに上がった気がした。
──気がしたけれど、リーナがまばたきをすると彼の口角は特にそのような様子もなかったので、リーナの見間違いだったのかもしれない。
「落ち着いたか?」
フィリウスの質問に、失礼だとわかりながらもコクコクと頷いたリーナ。
再び大きな手が差し出される。それに手を載せれば、もう片方の腕は腰に回されて、あっという間に先ほどと同じようにフィリウスの熱が伝わってくる。
そして歩き出そうとして、思い出す。
「あの、殿下。アルトは」
「彼なら下で待っている。心配しなくても問題ない」
階段を二階まで降りれば、二人が案内されたのは階段から離れた一番奥の個室だった。
そこにはフィリウスが言っていた通り、リーナにとって見慣れた顔があった。
「アルト。貴方も着替えたのね」
「私はもうアグリア家の使用人ではありませんので。お嬢様も見違えましたね。特にそのドレス、大変似合っておりますよ」
「わたしの侍女となってくれたジュリアが選んでくれたのよ」
リーナたちは、互いの報告をして笑い合った。
アルトが我が家の使用人でなくなったのは少し寂しいけれど、これでもう彼がセディカやマリアに無理を強いられないと思うと嬉しい。
そんなことを考えていたリーナに聞こえてきたのは、フィリウスの咳払いだ。
「リーナ嬢。宿の方を待たせてしまう」
「巻き込んでしまってごめんなさい、アルト」
「ご心配なく。それでは殿下、お嬢様。お食事をお楽しみください」
アルトが礼をして壁際へと下がっていったのを合図に、どちらからともなく顔を合わせて頷いたリーナとフィリウス。
再び歩きだすと、フィリウスはリーナを席に案内して、椅子に座らせてくれた。
リーナが席についたのを確認したフィリウスもまた、リーナの向かい側の席に腰を下ろす。
「リーナ嬢は何か好きな料理があるか?」
「何か……そうですね。パン、でしょうか」
「パン? それはどのようなパンだ?」
「普通のパンですが」
「他にはないのか?」
「でしたらイモですね」
「イモ、か」
やっと納得したように頷いてくれたフィリウス。「パン」と答えて、一瞬不思議な顔をされた時にはどうしようかと思った。
リーナは小屋に移動して以来、パンとイモ以外に、ほとんど何も食べたことがないのだ。アルトが持ってきてくれた本館の皆の食事の残りと、畑で育てたイモ。そして水。
これがアグリア辺境伯家にいた頃のリーナの食事だった。
柔らかいパンが一番好きで、お腹を壊してしまうこともあったけれど、蒸したらおいしいイモが二番目。三番目が水。
本館の自室で寝ていた頃ならまだ他のものも食べていたけれど、当時は食事の中身に興味がなかったので、覚えていない。
「こちらが本日のメニューでございます」
リーナたちが席につくと、どこからともなくやって来た宿の従業員の方。
受け取ったのは、二つのコースが書かれた紙のメニュー表だ。文字は読めるけれど、どんな料理が出てくるのか想像もつかない。
「リーナ嬢、君が選べ」
「選べと言われましてもどのようなお料理なのかわからなくて。殿下はどちらがおすすめですか?」
「そうだな……どちらのコースにもパンとイモはついて来るが、上のコースであればイモが主役の料理も運ばれてくる」
「では、そちらで」
「私も同じものを頼もう。飲み物はぶどうジュースを二本」
「かしこまりました。ご用意いたしますので少々お待ちください」
深々と礼をした従業員の方が退出していく。
日が完全に沈んだのか、窓の外は真っ暗になっていた。しかし、リーナが気になっていたのは食事の時間などではなく。
「殿下。殿下はお酒が飲めないのですか?」
「リーナ嬢。君はまだ十八ではなかったな」
「十七です」
レーゲ王国では伝統的に十八歳の誕生日を迎えるまで、つまり成人するまではお酒を飲んではいけないことになっている。
一方、結婚自体は男女とも十六歳からできることになっていた。
どちらの話も伝統的な慣習としかアルトからは聞いていないので、くわしい理由はリーナも知らない。
「殿下。ご無礼を承知で申し上げます」
突然、リーナたちの会話に割って入ったのはアルトだ。
壁際に控えていた彼は先ほどのように礼をする。
「まだお二人は、ご婚約すらなさっていないのですから、無用なご心配かと」
「?」
「私が酒を飲むこと自体が問題ないというのは其方の言う通りだろう。だが陛下は婚姻を結ぶように、とのお達しだ」
「あれほどお嬢様のことを色々と言っておいて、どの口がおっしゃるのですか?」
お酒の話とどんな繋がりがあるのかわからないけれど、婚姻という言葉がやたらはっきりと聞こえた気がした。
婚姻。それはつまり、リーナはまだ今日出会ったばかりのフィリウスの妻になるということで。
いつかは求められることだとわかっているつもりだったし、今朝からフィリウスと結婚するという話は聞いていた。
けれど、リーナはまだ心の準備ができていない。
そもそも、今朝までは自分はあの小屋の中で生涯を終えるのではないかと思っていたぐらいなのだから。
「っ、リーナ嬢?」
「いいえ。何でもありません」
「何でもない? 本当のことを言え。これは王族命令だ」
リーナのことをまっすぐとフィリウスの紫水晶の視線が貫く。
まるで心の奥底まで見透かされたような気分になったリーナは、不敬だとわかっていながらも、自分の不安を口にしていた。
「そのっわたし、まだ殿下の妻になるという覚悟ができていなくて」
「……そんなことか」
「えっ」
目の前のフィリウスは、顎に手をあてて何かを考えているようだったけれど、しばらくすると再びその視線はリーナの方へと向けられる。
「であれば、婚約者のような関係から始めればいい」
「ですが陛下は結婚するようにとおっしゃったのでしょう?」
「リーナ嬢は『白い結婚』という言葉を知っているか?」