88.高らかに鍬を掲げて
レーゲ王国の冬は寒い。
──もっといえば、外は建物の中よりもずっと寒い。
青空の下、ぴんと張るように冷たい空気。
にもかかわらず、その中をジュリアとキルクと一緒に厚着で歩いているリーナの心の中はとってもほくほくだった。というのも。
「二人とも、わがままを言ってしまってごめんなさいね」
「いえ、大叔父様とゆっくりとお話できましたし、リーナ様のお部屋を掃除する以外の予定もありませんでしたから」
「実は自分も予定がなく。ですから実は妃殿下はそこまで気になさる必要はないのです」
「二人ともありがとう。──見えてきたわ!」
「それ」が見えただけなのだけれど、リーナは思わず笑顔になってしまう。
リーナたちが向かう先にあるのは、庭園への来訪者によい見晴らしをくれる、大きな池。
けれど、今日リーナがここにやってきた目的はまったく別のところにあった。
リーナの視線の先にあるのは、茶色の楽園。
思わず釘付けになってしまったリーナには、そこに立っている金色の髪をした、自身と同じ年頃の少女がきつい視線を向けていることなど眼中になかった。
「──ちょっと! あんた、せっかくこのあたしがこんな寒いところで待っておいてあげたのに一言もな──」
あと少しというところまで来たリーナの足取りはどんどん軽くなっていく。
そして「そこ」まで到着するとしゃがみこんで、土の様子を確認する。
「──この前見た時は硬そうだったのに、ふわふわの土を用意してくださったなんて……! さすがはフィリウスさまね。あとで感謝しないと」
「ちょっと、聞いてるの!?」
「ごめんなさい。今からジャガイモを植えるから、あとでいいかしら?」
そう言ってジャガイモを探して周りを見回せば、そこには大きなずたぶくろがふたつ。
中を開ければ、そこには種芋がたっぷりとつまっていた。その中からひとつ取り出してみたけれど「早く埋めて埋めて」という声が今にも聞こえてきそうだ。
「ちょっと! 無視しないでよ」
「そうなのね。どこもふかふかだけれど、どこがいいかしら?」
「それを運んできたのあたしよ!」
「えっ!」
ジャガイモを運んできてくれたなんて。
そんなことも知らず「あとで」だなんて無礼なことを言ってしまったのは、たとえ王子妃だとしても人としてあるまじき振る舞いがすぎてしまった。
「ご、ごめんなさい。後でだなんて言ってしまったけれど、貴女が持ってきてくれたのね」
「そ、そうよ。このあたしが運んであげたのだから感謝なさい」
「ありがとうございますっ」
彼女の言う通り、それが人として正しいことなのだ。
というかむしろリーナの方から感謝の言葉を伝えたすぎて、立場とか何もかもを忘れて頭を下げた。
それでも感謝の気持ちを伝えるには足りない気がする。
どうすれば今のこの気持ちが彼女に伝わるのだろう。
種芋を袋に戻して立ち上がったリーナは、種芋を運んできてくれたという彼女の顔を見れば。
「お名前をお伺いしてもよろ」
「──リーナ様、ご無事ですか!?」
けれどちょうどそのとき。
息を切らしながら走ってきたジュリアから聞こえてきた言葉は、リーナにとって意味不明なものだった。
ジュリアは何かを誤解しているのではないだろうか。
「え、ええ。ご無事も何も、命の危険なんて──」
けれどジュリアの向ける視線が真剣だから、それ以上の言葉を続けられない。
今ここにいるのはリーナとジュリアと遅れて到着したキルクに、ジャガイモの種芋を運んできてくれた女性の四人なのだ。
どこに命の危険があるのだろう。でもジュリアの表情が険しいので、もしかしたらリーナが気づいていないだけで、他に誰かいるのだろうか。
そんなふうに戸惑っていたリーナが状況を理解したのは、ジュリアが告げた名前だった。
「エーデリア、貴女がどうしてここにいるの?」
「えっ?」
「えっ、て何よ! どうしてあんたが一番驚いているのよ!」
次の瞬間、目の前にいたらしいエーデリアの姿が消えていた。
周囲を見回せば、そこには畑の上でジャガイモより一足先に寝転がっている──というか、キルクに頭を押さえつけられて寝かされている彼女の姿があった。
「離しなさいよ!」
「実は、貴女は貴族ですらない平民で、リーナ妃殿下は王族なのでそのような言葉遣いは許されないものですよ」
「キルク! 離してあげて」
「ですが」
「そこはジャガイモたちの特等席だもの。あ、離してあげてというより起こしてあげてと言うべきだったかもしれないわ」
そうお願いすれば、キルクは怪訝そうな表情を浮かべながらも、エーデリアを立ち上がらせてくれた。
「実は、フィリウス殿下から彼女がリーナ妃殿下に危害を加えないかをよく見ておくように、とも聞いておりまして」
「大体のことはわかったわ。でも、もう大丈夫だから、ね」
けれどリーナがどんなに説得しようとしても、エーデリアがきつい視線でリーナを睨むものだから、キルクやジュリアに緊張感が走ってしまう。
「二人とも。そんなに怖い顔をしないであげて」
「何よ! 自分が全部手に入れたからって……!」
エーデリアが何を言っているかリーナにはよくわからない。
それでも、せめて勘違いで硬くなっているジュリアやキルクの表情はほぐしてあげたい。
「種芋を運んできてくれたのだもの。種芋を運ぶ人に悪い人はいないわ……!」
「おおよそリーナ様のお考えはわかりました」
盛大にため息をこぼしたジュリア。
リーナとしても、何がわかったのかわからない。
けれどわかるのは、こんな寒い中でジャガイモたちを土の中に埋めてあげないのは人としてどうかということだ。
「キルク、ジュリア。鍬はどこにあるのかわかる?」
二人に尋ねてみたけれど、リーナの疑問に答えてくれたのは。
「……そこに置いといてあげたけれど」
「えっ、エーデリア、さん?」
エーデリアがスタスタと城の壁に歩き出したかと思えば、その先にはきれいな新品の鍬が二本立てかけられていた。
早歩きのエーデリアを見るのははじめてだけれど、リーナには理由がわかる。鍬もふたつあるのも、リーナの考えが正しいことを教えてくれている。
「これよ。あたしが持ってきてあげたのだから感謝しなさいよね」
「っ! エーデリアさんの一緒にジャガイモを植えたいという気持ち、ものすごく伝わってきました!」
「はぁ? どうして新年早々あたしまであんたと一緒に──」
「ジャガイモを植えたいから……ではなくて! 罰をきちんと受けないとと思って鍬を二本用意してくれたんですよね! でも大丈夫です。ジャガイモを植えることは罰なんかではなくて、とても楽しいことですから!」
「あ、あんたは何を言っているの……?」
エーデリアは困惑を装っているようだけれど、きっと楽しみな気持ちを隠しているのだろう。
というわけで畑に戻ったリーナは、数ヶ月ぶりに高らかに鍬を掲げた。
銀に負けず劣らず、陽光をきらりと反射させる真新しいそれを上から下にまっすぐと振り下ろせば、ざくりと幸せの音がする。
こんな幸せを独り占めしてよいのだろうか。そんなわけはないと思う。
「さあ、エーデリアさんも一緒にっ」
「ああもうわかったわ! 耕せばよいのでしょう耕せば!」
そう言ってしばらくの間はリーナの様子を観察していたらしいエーデリアだったけれど、リーナの動きを見よう見まねで畑に鍬を入れていく。
リーナ一人だけではなく、みんなでジャガイモを植えられるだなんて。
こんな幸せな日が来ることなんて、アグリア領にいた頃のリーナには想像もできなかった。
けれど、そこまで考えてリーナははたと思い至ってしまった。
隣で一緒に畑を耕しているエーデリア。以前フィリウスに伝えた時は「エーデリアへの罰になるから」といった理由で畑仕事を提案した気がするのだけれど。
──もしかして、これでは罰になっていないのではないだろうか。
一度そう思うと、さっと血の気が引いていく。
思わず、畑を耕す手も止まってしまった。そんなリーナに声をかけたのは、少し離れた場所からリーナたちの様子を見守っていたジュリアやキルクではなく、隣にいたエーデリアだった。
「あんた、どうしたの? 畑仕事が楽しいというふりをしていたけれど、先ほどの言葉はやっぱり嘘だったのね。──って青くなるのやめて! あたしがあんたを傷つけた訳ではなくてもあたしのせいにされるからやめて!」
エーデリアの表情がこわばっているところを見るのはリーナもはじめてのことだった。
だから一瞬動揺してしまったけれど、彼女が悪いわけではないのだ。
「その、ごめんなさい。フィリウスさまに貴女の罰になるから、と一緒に耕してもらっていたのだけれど、これでは罰になっていないわよね!?」
「はあ!? 十分なってるわよ!」
「よかった……」
エーデリアの言葉に一安心する。
少なくとも耕している本人は心の底から「罰になる」と思っているように聞こえたのだから、問題はないはずだ。
仮にフィリウスから聞かれても大丈夫だと思う。もう彼の口から「極刑」だなんて言葉が飛び出すことはないだろう。
「やっぱりフィリウスさまにお願いして、エーデリアさんと一緒にジャガイモを育てることができてよかったです!」
「それ、もしかして惚気のつもり?」
「いえ。それに眠れないわたしに眠り薬を」
「それが惚気よ。無自覚に惚気るのはやめて」
「そう言うお前は手を怠けさせているようだな。農作業だというのに、王子妃よりも怠けている罪人とは──」
リーナがエーデリアの言い分に首をかしげていると、ふいに手に温かな感覚を覚えた。
隣を向けば、そこにいたのは「ここにいるはずのない人」だった。
「フィリウス、さま……?」
「……そういえばここには私たち以外もいるのだったな」
リーナが触れている温かな手とは対照的に、彼の紫水晶の瞳は冷めた視線をまっすぐ射貫くようにエーデリアへと向ける。
「私の妻に何をした?」
その瞬間、自身が何かしらの間違いをおかしているらしいことに気づいたリーナは、一瞬で血の気が引いた。