87.睡眠とストレスと
部屋に戻ってきたリーナは、フィリウスといっしょに先ほどまで座っていたソファに二人で、また同じように腰を下ろした。
廊下に出てからはしっかりと抱えて隠すようにしていた小瓶は、他の誰かが部屋の中に入ってきても大丈夫なように、念のために寝室の棚にしまっておいた。
「先ほどはありがとうございました。その、たまたま昨日だけ眠れなかっただけかもしれませんのに……」
「きちんと眠れなければ、生活に支障が出る。そうなったらせっかくのジャガイモ料理も残す羽目になるかもしれないぞ」
「それは嫌です!」
思わずもれてしまった本音に慌てて口元を隠してみたけれど、ものすごくいたたまれない。
フィリウスはジャガイモが好きだということを知っているけれど、それでも今の言い方を聞かれてしまったのは──などとリーナが一人で頭を抱えていると。
「ストレスが重なると、どうしても眠りは浅くなるそうだ。私も馬鹿兄上がシャタールに行っていた期間はその分も請け負っていたからか、ほとんど眠れなくてな」
フィリウスはどうやら、子供っぽい言い方をしてしまったリーナのことを気にしていないらしい。
それはそれで悲しい気がしてしまうのは、リーナがわがままだからなのだろうか。
……というのはさておき。今ものすごく聞き捨てならない話を聞いてしまった気がする。聞き間違いだったらいいと思ってしまうほどに、胸が痛む。
「それはお仕事が多くて眠れる時間が少なくなってしまったということではないのですか? もっとカールさんや他の皆さまにもお仕事を──」
「君もそう言うだろう? 私も君が眠れないと聞いて同じ気持ちになっていたと言えばわかるか?」
そう言われて気づく。フィリウスは心配してくれていただけなのだ。つまり、リーナのせいで彼は──。
「君は時々、他者の不幸の責任まで背負い込もうとする癖があるからな」
「し、知りませんでした」
あまりの気まずさに、話をそらしたくなってしまう。
そうして「えーと」とあいまいな言葉を挟んだリーナは思い出した。
「フィリウスも他の人にお仕事を分けるべきだと思うんです」
「君の言う通りだな。だがあの時は馬鹿兄上の部下の力を借りることはできたとはいえなかなか、な」
そう言われてふと思い出す。
フィリウスの補佐をしているのはカール一人だけだ。以前にも聞こうとした時は結局聞けずじまいだったけれど、今なら聞いても不自然ではないのではないだろうか。
「そういえばフィリウスの部屋にはどうしてカールさんしかいないのですか?」
「そろそろ君にも話してもよい頃合いか。──馬鹿兄上の部下の何人かは、私の部下としてつけられる予定だった者もいた」
「でも、今はカールさんだけですよね」
「スペアの私の部下となるよりも、馬鹿兄上についた方がいい。だからそう仕向けた」
「そう仕向けた」。きっとフィリウスのことだから、これ以上は教えてくれないのだろう。
最近はほんの少しだけ──彼のリーナに対する理解度には遠くおよばないだろうけれど──ではあるけれど、わかってきた気がする。
「フィリウスは優しいのですね」
「さすがに馬鹿兄上には見抜かれてしまったがな」
苦笑を浮かべるフィリウス。
でもそうなってくると、逆に気になることもあるわけで。
「ではどうしてカールさんだけはフィリウスさまの補佐をしているのですか?」
「……成り行きだな」
今度は間違いなく「これ以上は言えない」というパターンだ。
そういうわけでリーナもそれ以上追求するのはやめた。すると「そういえば」と今度はフィリウスが話題転換に入る。
「リーナ、最近忙しくて伝えられていなかったのだが……君から頼まれていたあれが届いた」
そう言われて何かフィリウスにおねだりしていただろうか。
そんなことを思ったのは一瞬のことで、「それ」のことを思い出したリーナは感情のままにソファからばっと立ち上がった。
「──本当ですかっ!?」
「ああ。店主から感謝の気持ちだと、そう言われてな」
思わず鼻歌を歌ってしまいそうだ。もしリーナが今の調子のままフィリウスが部屋を出て行ったら、じっさいに歌ってしまうと思うぐらいには嬉しい。
「ついにジャガイモを植えられるんですね! 何から何までありがとうございますっ」
「どういたしまして」
はやる気持ちを抑えてせいいっぱいの言葉で感謝の気持ちを伝えると、眼鏡をくっと持ち上げたフィリウスは、口角も普段よりいくらか上がっているようだった。