86.毒にも薬にも
フィリウスの膝の上でクロケットを食べるなんていう恥ずかしいことをしてしまった翌朝。
いても立ってもいられずに早起きして早めに朝食を取って。フィリウスやジュリアと一緒に三人で向かったのは、王城内の薬学室だ。
扉を開けば、部屋の中から漂ってきたのはツンとしたにおい。
けれど到着した室内は、早朝だからかまだ誰もいなかった。
三人で部屋の中を一通り見て回った後、ジュリアは廊下で医者を待つと言って出ていったので今はフィリウスと二人きりだ。
今は入口のすぐ側に置かれた数人がけのソファを二人で隣どうしになって座っている。
「やっぱり今日もお休みなのではありませんか?」
「彼のことだから、君が体調不良になったと伝えたらすぐ来るだろうな」
「た、体調不良ではありませんからね! 昨夜は眠れましたし!」
「そう伝えていないから、結果的に君を待たせるような形になってしまった、が」
「それならよいのですけれど……」
見慣れない液体の入ったビンの並んだ室内をぼうっと眺めながら返事する。
リーナのためだけに早く来てもらうなんてことをされた日には、もっと申し訳ない気分になっていたと思う。
鼻につくにおいもしたし、たくさんのビンの中に入っているのはやっぱり薬なのだろうか。
緑色のジャガイモを食べてもお腹が痛くならない薬があれば、どんなジャガイモも食べられるようになるのに。
そんなことを考えながら、なにげなくフィリウスの方を向けば、彼の眉は申し訳なさそうに下がっていた。
「……パーティーの時はずっと一緒にいられなかったな。すまない」
「気にしないでくださいっ。あれはわたしのかわりにワインを」
「気にする必要はないのは君の方だ。本当は零れないようにするのが一番だったのだが。それに、」
フィリウスも後悔しているみたいだった。
でもあの状況でワインを零れないようにするなんて、それこそ無理な話なのではないだろうか。
少なくともリーナにはどうすればあの状況でそんなことができるのか、見当もつかない。
「過ぎたことですから気にしないでください。助けてくださって、ありがとうございます」
「……君が浴びるぐらいなら、私が浴びた方がマシだ」
気まずそうに視線を逸らすフィリウス。
リーナとしては本当に気にしなくていいと思うのだけれど、そう伝えてもフィリウスは気にしてしまうのだろう。
「私もまだまだだな。あの馬鹿兄がいなければ君を守れないのだから」
「そんなことはないですっ。この前のジャガイモカフェの時、助けてくださいましたし」
突然男たちが乗り込んできた真っ暗なカフェの中。
足手まといでしかなかったから王城にリーナをおいていったはずなのに、フィリウスはのこのこと向かってしまったリーナのことをきちんと守ってくれた。
それだけでなく、リーナがまた行きたいと思っていたジャガイモカフェの店主のことまで救ってくれたのだ。
フィリウスはリーナにとって命の恩人ではあるのだけれど、それよりもずっとたくさんの、一生かかっても返しきれないほどの恩を受けている自覚がある。
「そうか。……ありがとう、リーナ」
「それはわたしの言葉です……っ。ありがとうございます、フィリウスさま」
「さまはいらない」
「フィ、フィリウ」
「──さま、入っても大丈夫でしょうか」
そのとき。外からジュリアの声が聞こえた。
一瞬恥ずかしくなりかけたけれど、今の状況はそこまで気まずくない。
リーナとしてはまったく問題ない。フィリウスの目を見れば、彼も無言で首肯したので大丈夫だろう。
「ええ。大丈夫よ」
そういうわけで入室を促せば、ジュリアの「失礼いたします」という言葉と共に扉が開かれる。
入ってきたのはジュリアともうひとり、白髪の男性だった。腰は曲がっていないけれど、かなりお年を召していそうだ。
曲がっていない腰のあたりからは、ぶら下がっている鍵たちが歩くごとにじゃらりと触れ合っている。
けれどそれよりも目を引くのは、左耳に挟まれた羽なしペンだ。ペンにそんな使い道があったなんて知らなかった。
「お久しぶりですな、フィリウス坊ちゃん」
「もうそんな歳ではない。坊ちゃんはやめろ」
「ジュリア嬢ちゃんも本当に久しぶりじゃのう」
「大叔父様、わたしももう子供ではありませんわ!」
二人の抗議交じりの言葉に、フォフォフォと好々爺然とした笑みを浮かべるおじいさん。
一昨日のパーティーで会ったヴァスタム伯爵とは大違いだ。
「リーナ、紹介しよう。彼がこの城の最高医療責任者のクラウスだ」
「はじめましてじゃのう、お嬢ちゃんの噂はかねがね」
「噂の」と言われて思わず首をかしげてしまう。
一体この城でどんな噂が広まっているのか気になって仕方がない。
でもフィリウスのことを「坊ちゃん」と呼ぶ、それもジュリアの祖父の弟だというならリーナのことを知っていても不自然ではない気がする。
そこまで考えて、まだフィリウスに紹介されただけで自分からはきちんと名乗っていなかったことを思い出す。
「リーナです。よろしくお願いします」
「よろしくお願いいたします、第二王子妃殿下」
「かしこまらなくても大丈夫ですっ」
「……という堅苦しい挨拶はこれぐらいにしておこうかの。……してフィリウス坊ちゃん、今日はどうしたのかえ?」
「ここ数日、妻がほとんど眠れなかったようでして」
フィリウスの答えに「ふむ」、としれっと耳にかけていたペンを手に取って回し始めたクラウス。
とても「昨日はちょっとだけど眠れました」なんて言えそうな雰囲気ではない。
「そうじゃの」と腰から下げた鍵を鳴らしながら部屋の奥へと向かったクラウスは戸棚を開錠すると、中から瓶を取り出した。
再び鍵をかけたクラウスはそのままリーナたちのもとへと戻ってくる。
よく見てみれば、中には指先でちょこんと挟めるぐらいの大きさをした茶色い粒がたくさん入っているようだった。
クラウスは瓶を机の上に置いて蓋を開けると、その中からいくつかをひと回り小さな空の瓶へと移す。
「クラウスさま。その……」
「クラウスで結構ですぞ」
「えっと……クラウス、さん。そちらは?」
「分かりやすく言えば眠り薬ですな」
小瓶がいっぱいになるまで詰め込むと、クラウスは瓶の蓋を閉じた。
そうして大きな方をもとあった棚へと戻しにいく。
「ですが難点がありましてな。この薬は一度に過剰に摂取すると死に至る場合もあるのです」
「そ、そんなものを……大丈夫なのですか?」
「眠る前に一粒お飲みくださる分には何の問題もございませんから、そこはご安心を。それにこの量でしたら、嬢ちゃんぐらいの年であれば万が一全部飲んでしまったとしても問題はございませんぞ」
そういうものなのだろうか。そう思ってフィリウスとジュリアを見れば、フィリウスは何かを考えるように、ジュリアは不安そうな表情でクラウスの方を見つめていた。
クラウスが薬を戻してこちらを振り返ると、ジュリアが口を開いた。
「大叔父様、命に関わらないとはいえ、こちらはリーナ様にお飲みいただくにはお味が──」
「ジュリアお嬢ちゃんは薬が苦手じゃったもんな。じゃが安心せい。これは研究の末にチョコレートのような風味に仕上げたんじゃ」
「チョコレートですか?」
気になって思わず口を挟んでしまった。
でも、どうして薬の味がチョコレートのものにできるのだろう。そんな疑問にクラウスはすぐに答えてくれた。
「昔はかなり味に難があったのですが、異国の植物のおかげでかなり飲みやすくなっておりますぞ」
「つまり多量の摂取が必要とはいえ、怪しまれないようにチョコレートに混ぜて暗殺を謀ることも可能ということか」
フィリウスの指摘にはっとする。
たしかに彼の言う通り、おいしいということは気づかれずにこっそりと混ぜてしまっても気づかれにくいということではないだろうか。
「じゃから、この棚はきちんと施錠しておるのじゃ。……この薬はそういう代物じゃからの」
やっぱり使い方を間違えると危険らしい。
こんなものを受け取ってしまって大丈夫なのだろうか? そんなことを疑問に思いフィリウスの表情をうかがうと。
「……どのような薬も使い道を誤れば毒になるものだ。特段この薬に限った話ではない」
「そう、なのですね」
「言ったであろう。気にする必要はない、と」
フィリウスの言葉に心が軽くなる。
クラウスには失礼になってしまうけれど、やっぱりリーナにとって一番の「お医者さま」はフィリウスなのだ。
クラウスからガラス瓶を受け取り感謝の言葉を告げたリーナは、フィリウスと共に部屋をあとにする。
ジュリアはもう少しクラウスと話してから戻ると言って二人で去っていった。
というわけで、リーナはクラウスからもらった薬の入ったビンをぎゅっと抱えながら、フィリウスと二人で部屋に戻ったのだった。