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8.鏡に映る姿

「お加減はどうですか?」

「とても心地いいわ。ありがとうジュリア」


 壁の穴からのかけ流しのお湯が目一杯に張られた浴槽。その縁に用意されたタオルに頭をあずけたリーナは、ジュリアに髪を流してもらっていた。


 行きもこの宿──の下の方の階──に泊まったジュリアによると、ここはアグリア辺境伯領最大の温泉街一の高級宿というだけはあり、上層階の部屋にはすべてこのような浴室があるのだという。


 数年間まともに洗わせてもらえていなかった髪。

 けれどジュリアによると仕事で城に上がった一般的な平民よりは綺麗な方なのだとか。いちおうアルトが持ってきてくれたお湯に布を浸して髪を拭いていたからだろうか?


「それではお着替えをご用意いたしますので、リーナ様はどうぞごゆっくり」

「ありがとう」


 ジュリアが浴室を出て行くと、リーナは再び一人になった。

 静かにお湯が流れる音だけが聞こえる室内で、小さくついたはずの溜め息はよく響いた。


「今朝まではこんなことになるだなんて思っていなかったわ。それも、第二王子のフィリウス殿下の婚約者……。わたしに務まるのかしら」


 そこまで言って、俯いて弱気になっている自分に気づく。


「ダメダメ。殿下はわたしを選んでくださった……のだから」


 けれど次の瞬間にはフィリウスに「マシ」と言われたことを思い出してしまう。

 他の令嬢でもいいと言われているような気がしてしまったのだ。


「……いいえ。他のどの令嬢よりもマシと言われたのだから、これからも頑張ればきっと希望が見えてくるはずよ」


 ポジティブに考えよう。マシはマシでも、フィリウスが言っていた「マシ」は「今のところ一番かそれに近い」ということではないだろうか。

 ということは必死に努力をしていけば、問題でも何でもないのでは?


 こうして、最終的に自身の気持ちを上向けたリーナが両頬をパチン、と手で叩いたちょうどそのとき。外からジュリアの呼びかける声が聞こえる。


「リーナ様。お着替えのご用意ができましたので、いつでもおっしゃってください」




 ♢♢♢




 浴室を出たリーナが一旦ジュリアにバスローブを着せてもらうと、続いて彼女が持ってきたのはラベンダー色のドレスだった。


「こちらでよろしいですか?」

「こんなに豪華なものをわたしが……?」

「リーナ様は殿下とご結婚なさるのですから当然です」

「……そうね。ありがとう」


 リーナの返事を受けたジュリアがテキパキと着替えさせてくれる。

 今まで一度も着替えを誰かに手伝ってもらうなんてことはなかった。フィリウスが来てくれて邸の外に出たことといい、今日ははじめてのことばかりだ。


「お化粧はどういたしましょう」

「お化粧、ですか……? すみません、よくわからなくて。派手になりすぎないようにお願いしてもよろしいですか?」

「派手になりすぎないぐらいですね? かしこまりました」


 リーナは化粧をしたことがない。したことはないけれど、セディカみたいなのは嫌だ。

 とはいえジュリアはアグリア邸に上がってきていなかったはずなので、曖昧な伝え方をすることしかできない。


 それはさておき。ジュリアに言われるまま鏡台の前に移動すれば、そこに映っていたのはラベンダー色のドレスに身を包んだ少女だ。


 よく見慣れた茶色の髪が。肖像画で見た父と同じ空色の瞳が。

 何よりリーナの動きに合わせて動く鏡像が、鏡の中に映っている少女が間違いなくリーナであると告げている。


 けれど、着ている服のせいか、それともジュリアに整えてもらった髪のせいか、そこに映っているのは自分のようで自分でないような気がした。


「殿下から聞きました。リーナ様は相当苦労なされたのですね」

「ええ、まあ」


 リーナ自身は表情を変えていないつもりなのに、鏡の中に映っている少女の顔は、時間が経つにつれて少しずつ明るくなっている。

 今日は魔法のようなことばかりが起こる日だ。


「終わりましたよ。いかがですか?」

「──っ! ありがとう、ジュリア」


 鏡の中の少女は、リーナの知っているリーナではなかった。

 腰から上だけでジュリアの方を向いて感謝の言葉を告げれば、ジュリアもまた笑顔になる。


 そのとき。部屋がノックされる。ジュリアが入口に向かい扉を開けると、聞こえてきたのは彼女が息を呑む声だ。


「ヒルミス嬢。リーナ嬢の様子は?」

「フィリウス殿下。こちらは宿の一室とはいえ、仮にもリーナ様のお部屋です。入る前に一言何かあるべきかと」

「其方の言う通りだな。次からは気をつけよう」


 二人の会話を聞いていて、ハタと自分とフィリウスとの関係を思い出したリーナは、椅子から立ち上がり部屋の入口にいる二人のもとへと向かう。

 きちんと淑女の礼を取ることも忘れない。


「フィリウス殿下、大変失礼いたしました」

「リーナ嬢。着替えは済ん──」


 礼をして下を向いていたリーナは、突然フィリウスの言葉が止まったせいで、思わず見上げてしまった。

 続いて、レンズの向こう側にある彼の神秘的な紫水晶の瞳が大きく見開かれている様子に、自分がしてしまったことに思い至った。


 リーナは礼をしている最中に顔を上げてしまったのだ。仮にも謝罪している最中に粗相を重ねてしまうなんて。

 けれど、リーナとて貴族令嬢の端くれ。そんなことに思い至ったとしても、顔には出すべきではないということはわかっている。


 失敗に気づいても、言わない方がいい場合もある。今回は間違いない。


 何より、今はジュリアが整えてくれたわけで。彼女のためにも、必要以上に卑下するわけにはいかない。

 それに、先ほど見た鏡の中のリーナはとても明るい少女だった。今明るくなれなかったら……と思うと、余計に意地になってしまう。


 リーナが黙っているとフィリウスが口を小さく動かした。


「……何でもない」


 急に頬が赤くなったかと思えば、そっぽを向いて咳をするフィリウス。

 風邪でもひいてしまったのだろうか。あるいはお風呂に浸かりすぎて身体が火照(ほて)ってしまったとか?


「殿下、お部屋に戻った方が」

「何故部屋に戻る必要がある? 私は君を迎えに来ただけだ」

「あの……どちらへ?」

「夕食だ。そろそろ頃合いだろう」


 そう言われて、リーナはようやく窓の外が茜色(あかねいろ)に染まっていることに気づく。


 そういえばマリアと叔父夫婦の三人は、夕日が沈んだ頃に夕食を取っているらしい。

 リーナがその輪の中にいたのは、幼い頃の話だ。


 「おねえさまのそれ、ちょうだい」と言われてマリアに食事を半分くらい取られた日。「おねえさまといっしょにたべたくない」と言われて、それ以来自室でパン一個に水一杯という寂しい二食生活を送ることになった日。

 そして、マリアの「おねえさまの部屋がほしい」という希望も()んだ誕生日祝いで、邸の外に住むことになった日。


 そういうわけで最終的には、アルトが三人と使用人が食べた後の、わずかな残りを持ってきてくれるだけになってしまった。


「リーナ嬢?」

「──っ。失礼、いたしました」

「手を」


 そう言って差し出されたフィリウスの手。

 リーナもまた彼に手を差し出せば、その手はフィリウスに握られる。


 リーナの手よりも一回り大きなそれは、リーナのものよりもちょっとごつごつとしていて、温かい。


「では行こうか」


 その言葉と共に、フィリウスのもう片方の腕がリーナの腰へと回される。

 手と腰。その両方から彼の熱が伝わってくるせいか、リーナの身体まで温かくなってきている気がした。


 もしかしたらおとうさまやおかあさまも生きていたら手を繋いでくれたのだろうか。

 そう考えかけて「ありえない」と首を振っていたら、フィリウスに怪訝な顔をされたので笑顔でごまかした。


 そういうわけで部屋を出て下の階へと向かう途中、まだきちんと馬車の中を汚した謝罪を受け入れてもらえていなかったことを思い出す。

 先ほどは軽く流されてしまったのだ。フィリウスはきちんと聞いていなかったのかもしれない。


 となれば今後のことを考えると、リーナに残された選択肢はひとつしかなくて。

 階段の踊り場にさしかかったところで、リーナはフィリウスに話を切り出した。


「殿下、お話があります」


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