78.控えの部屋で
年末の夜は、城内の静けさがいつにも増して感じられる。
リーナはフィリウスにエスコートされながら、彼の補佐をしているカールと三人で会場までの廊下を歩いていた。
今夜は全国から貴族たちが一堂に会し、年を跨ぐパーティーが開かれるのだ。
王城の文官や侍女たちはほとんどが貴族階級で、今日はこのパーティーに参加するために準備をしないといけないので、残って作業をしている人も見当たらない。
ジュリアもリーナの着替えを手伝うのを終えると、自分の部屋に戻って着替えてから会場に向かうようだった。
そんな静かな廊下で三人が今話題にしていたのは。
「あの、アリス殿下とは一体どのようなお方なのですか?」
アリス・レーゲンス。ついこの間まで夫でフィリウスの兄でもあるレックスと共に南西の国に行っていたとリーナは聞いている。
以前、一度名前を聞いて以来気にはなっていたけれど、これまで聞くタイミングがなかった。
今日は一緒に出ることになるので、最低限の人となりを知っておくため──みたいな理由で聞くのも不自然ではないはずだ。
「ある意味母上に似ている。国王陛下といい馬鹿兄上といい、血は争えないのかもしれないな」
「そ、そうなのですね」
「心配する必要はありませんよ。フィリウス殿下なら何があっても妃殿下をお守りしようとするでしょうし。私としては非常に不本意ではありますが」
「それはどういう意味だ」
こんな時でも表情をむすっとさせるフィリウスがかわいい。
一方のカールは軽く睨まれてもまったく気にしていないようで、そんな二人の信頼関係がいつにも増して羨ましく思えてしまう。
「殿下が倒れたら妃殿下が心配しますよ。ですよね?」
「は、はい! 今も、いつおやすみになられているのか心配で」
「ブハッ」
正直な気持ちを口にしたのに、カールに軽く笑われてしまった。
次の瞬間には廊下に「イテッ」という声が響いた気がしたけれど、声の主のカールの方を見ても普段通りの表情をしていたので、たぶん気のせいだ。
彼はルークとは違って、叩かれる理由もないはずなのだから。
そんな話で盛り上がっていると、控え室までの時間はあっという間だった。
「ここだ。中は暗いから気をつけてくれ」
カールが扉をノックして「第二王子殿下夫妻のご到着です」と告げると、中から入室を許可する声が聞こえてくる。
内側から扉が開かれて入室すると、中はフィリウスの言っていた通り明かりが廊下よりも一段と少なくなっていた。
奥の窓から入ってくる月明かりが幻想的に感じられる。
けれど同時に、どこからか賑やかな声がするかと思えば、部屋の右の方は手すりがついていて、大階段を降りれば直接会場の煌びやかなホールへと繋がる構造になっているようだった。
「早いな、公爵」
「ごきげん麗しゅうございます、両殿下。これが仕事ですゆえ。リーナ妃殿下とも仲がよろしいようで何よりです」
「ヴィカリー公爵、ごきげんよう」
挨拶をしていると、後ろからいくつかの足音が響いてくる。
気になって顔だけ振り返れば、そこには波打つ豊かな黒いロングヘアの女性をともなったレックスの姿があった。
「義姉上、お久しぶりです」
「あら。聞いてはいたけれど本当に婚約したのね。おめでとう」
「婚約ではありません。結婚です」
フィリウスは本当のことを言っているだけなのに嬉しい。
いつもと違って人前なせいで「白い結婚」と言えないからそう感じられたのだろうか。
「フィルが丁寧な挨拶を──! 迷路で会った時は全然変わっていないと思っていたし、先週町に行った時もまだまだ子供だと思っていたけれど、ものすごく成長していたんだね!」
「馬鹿兄上ではなく義姉上に挨拶をしただけです。私が挨拶をしないと決めているのは馬鹿兄上ぐらいのものですので」
「つまりそれってトクベツ扱いってことだよね? すごく嬉しいよ」
フィリウスの肩をバンバン叩くレックスにはリーナも苦笑するしかない。
庭の迷路で会った時はものすごく剣呑な雰囲気を放っていたけれど、実はものすごく仲がいいのだろうか。
カールといいレックスといい、リーナももっと幼い頃から彼と一緒にいたら、彼との関係も違ったものになっていたのかもしれない。
「リーナ殿下?」
「あっ、アリス殿下。はじめまして」
とっさに淑女の礼をする。
姿勢をもとに戻せば、そこにいたのは黒髪に金色の瞳をした文字通りの「淑女」を体現したような女性だった。
「畏まらなくても大丈夫よ。わたくしたち、姉妹でしょう?」
「そ、そうかもしれません?」
「かもしれません、ではなくて実際そうなのよ。フィリウス殿下だって『義姉上』と呼んでくれるのだから、貴女もお義姉さまと呼んでちょうだい?」
ものすごい圧力を感じる。
パトリシアといいユスティナといい、どうして王家に嫁いできたり王族だったりした女性はこうも圧が強いのだろうか。
フィリウスは「血は争えない」と言っていた。でも、自己評価にはなってしまうけれどリーナだけは三人とは違うと思うのだ。
もしかしたら、フィリウスは王家の血を引いていないとか──? そんな不敬な考えが思い浮かんでしまったので、それを打ち消すために首を横に振る。
「リーナ。首を振ってどうしたの? もしかしてお義姉さまと呼ぶのは嫌?」
「い、いえ! そうではないんです」
「それならよかったわ。今回は残念だったけれど、また来年お茶会に招待してね?」
「は、はいっ!」
そこで言葉を切ったアリスはスタスタとリーナの背中側に回り込んだ。
「あの……何かついていました?」
「いえ。貴女がつけている香水、ラベンダーじゃない?」
「そ、そうですけれどどうしてわかるんですか?」
優しくて、それでも刺激的な香り。
あの花を見た時にフィリウスのことを思い出してしまった自分は正直どうかしていると思ったけれど、思い出してしまったのだから仕方がない。
「だって──」
「義姉上。茶会の場所選びの時に夏の花の温室で、リーナがこの花を気に入ったようだったから贈ったまでです」
「ふーん。ラベンダーって紫色よね。それに、ドレスも紫色で、銀糸まで使われているなんてね。もしかして無自覚なのかしら?」
「! 違う。ドレスはたしかに伝統に則り意図的に私の瞳や髪の色を選んだ。だが香水は彼女が見とれていた花がたまたま紫のラベンダーだっただけで──」
「違う」とは何のことを言っているのだろう。
そして、他人が慌てているのを見ていると自分は落ち着くと言ったのは誰なのだろうか。
リーナにしてみればまったくの逆で、心が休まらない。体温が急速に上昇していて、のぼせてしまいそうだ。
「でも、ラベンダーの色は貴方の瞳に似ているでしょう? ねえ」
「リーナを虐めるのであればたとえ義姉上だろうと」
けれどアリスはどこ吹く風で、扇で口元を隠している。
間違いなくこの状況を一番楽しんでいると思う。
そんな部屋に、またいくつかの足音が聞こえてくる。
「おお! 皆集まっておったか」
「ご覧の通りですよ、陛下」
「フィリウス……お前はこんなめでたい場でも私のことを父上と呼んではくれぬのか……」
最後に入室してきたのは国王陛下夫妻だった。
アリスに続いてパトリシアからもものすごい視線を向けられたような気がする。
国王のベネディクトはといえば、入室してきた時の明るさはどこへやら。
けれど、そんな落ち込んだ様子を見たおかげかリーナの心も少しは落ち着いてきて助かったので、申し訳ないなと思いつつも心の中でひっそりと感謝をささげた。
フィリウスから訝しげな視線を向けられたけれど、こういう時は笑ってごまかすに限る。
ヴィカリー公爵──オクシリオの咳払いが聞こえたので、もう大丈夫だろう。
「それでは私は先に下の階に参ります」
「頼んだぞ、オクシリオ。其方の甥にもよろしくな」
「勿論。彼の立場もまた第二王子妃殿下同様に、不当に奪われたのですから」
ヴィカリー公爵にも甥がいるらしい。
彼にとってリーナと同じような立ち位置の人が他にもいるのは知らなかったけれど、貴族なら普通のことなのかもしれない。
彼は階段から直接会場に下りるわけではないらしく、一度部屋を出ていった。
それにしても、と室内を見回す。
今日は新年を祝うために開かれるパーティーだと聞いていた。
けれど、ここにいるリーナ以外の全員がどこかしらピリピリしていると感じてしまうのは、リーナの気のせいではないと思う。
特にフィリウスたちは先週、襲われたばかりなのだから。
そんな回想に思いふけっていたからか、いつの間にか手袋越しに伝わってくる熱があったことに気がつくのが遅れてしまった。
「リーナが緊張しているようだ。少々バルコニーに出てもよいだろうか」
「よいが、もうすぐ時間だからあまり長くならぬようにな」
「陛下、感謝する」
「そこは父上と呼んでくれてよいところだろう……。ううっ」
涙目になりそうなベネディクトをはじめとした皆に見送られながら、リーナはフィリウスと共に備え付けられたバルコニーへと出た。