76.事件のあと
ジャガイモカフェの店長が見つかったと聞いて、ほんの少しだけ安心した翌日。
リーナがいつものようにフィリウスの執務室でユスティナのレッスンを受けていると、コンコンコンと扉がノックされる。
カールが開けに行ったのを横目にノートを取り続けていると、聞こえてきたのはリーナがよく知っている声だった。
「フィリウス殿下、アルトです。陛下のお言葉を伝えに参りました」
「わかった。聞こう」
リーナに言われたわけではないのに、思わずペンを走らせていた手が止まる。
フィリウスが席を立って扉の方に向かったので──つまりリーナの座っている場所から聞こえる距離ではないので、何の話をしているのか気になってしまったのだ。
けれど、カールはわりと大きな声で伝えてくれたので、その内容はリーナの耳まではっきりと届いた。
「妃殿下と共に陛下個人の執務室に来るように、と」
というわけで、リーナはレッスンを中断してフィリウスと共にベネディクトの執務室へと向かうことになった。
部屋に到着すれば、中にはすでにベネディクトとカールがソファに腰を下ろしている様子が目に入る。
「待っていたぞフィリウス」
「陛下、どうせ昨日の一件についてですよね。早く終わらせましょう」
「お前はいつになったら父上と呼んでくれるのか……」
二人のやり取りに、思わずこの城にやって来たあの日のことを思い出す。
もしフィリウスとの関係が「白い結婚」でなく普通の結婚だったら──と考えかけて、首を振る。
「リーナ? 大丈夫か?」
「は、はい」
自分に言い聞かせるようにフィリウスの質問に頷く。
ふと先に座っていたレックスの方を見れば、彼は笑いをこらえているようだった。
「馬鹿兄、私のリーナのことを笑っているのではないだろうな?」
「まさか。僕が笑っているのは君だよフィリウス」
「儂、そろそろ本題に入りたいのだが……」
豪華な椅子に座っているのに小さくなっていて、なんだかかわいい。
どこかフィリウスに似ているような気がするのは、親子だからだろうか。
「フィリウスさま」
「ああ。早く終わらせようか」
フィリウスが座ったすぐ隣の席に腰を下ろす。
ベネディクトに言われてお茶を準備してくれた使用人たちが退出していくと、部屋の中は四人だけになった。
「リーナ、すまんかった」
「えっと、その……。謝らないでくださいっ」
突然頭を下げるベネディクト。
けれど、リーナには国王陛下から頭を下げられるような理由なんて、一つも心当たりがない。
「そもそも、どうして謝るんですか?」
「君にも関わりのあることなのに、何も言わず儂らだけですべて終わらせようとしたことじゃ」
姿勢を元通りにしたベネディクトの言いたいことは、少し考えただけでいくつか思い浮かんだ。
それでも、国王の彼に頭を下げられるのは心臓に悪いので、すぐにやめてくれたのは助かった。
「関わりのある、とは?」
「君は領地でジャガイモを育てておったじゃろ?」
ベネディクトの言葉に背筋が伸びる。
そこまで知られていた上に、その事実を直接伝えられるとなると、ちょっと恥ずかしいものがある。
「そ、その通りです」
「それがこの城の調理場から見つかったのじゃが……。君のジャガイモであることが判明してから一夜にして全て消えてしまっての」
ああ、やっぱり。
あの箱の中のジャガイモがリーナの育てたものだというのは、たぶん一番リーナがしっくりきていると思う。
中から出てきたのは、リーナが領地にいた頃に着ていたワンピースなのだから。
「まったく……。アルトが調理場の料理人たちとすぐ打ち解けたと思ったが、まさかあんなことをしでかすとは思わんかったわい」
「やっぱり、アルトは調理場の──」
「あやつは君が育てた、しかし誰とも知れぬ者から献上という形で持ち込まれたジャガイモを食べよったんじゃ。いや、君の育てたものだと教えてくれたのは他ならぬアルトなんじゃが」
「あのっ、陛下はアルトと」
「直接は会っておらぬが──彼の上司でもある宰相のヴィカリー公爵からそう聞いた」
ようやくすべてが腑に落ちた。
アルトはリーナの刺繡した服のことを知っている。当然彼はリーナがジャガイモを育てていたことも知っているので、すぐに結びついたのだろう。
リーナに送られてきたという──リーナが育てたジャガイモが本当に安全なのか、確認してくれたのだ。
自分が食中毒になるかもしれないというか、実際なってしまったのに。
リーナが心の中で申し訳ない気持ちになっていると、隣に座っていたフィリウスから声が上がる。
「やはりアルトではなく私が毒味をすべきだったようだ。私たち王族は幼い頃から毒に気づけるように定期的に服毒してい──」
「! 冗談でもそんなことを言うのは絶っっっ対にやめてくださいっ!」
「リーナ……」
フィリウスが目を大きく見開く。
けれど、彼の表情はすぐに不服そうなものに変わった。どう考えても納得していなさそうな顔だ。
「フィリウスさまが死んでしまったら私はどうすればいいんですか! あの小屋になんて帰りたくありませんし、でもフィリウスさまの妻でなくなったらわたしにはここにいる資格なんて──」
気がついたら手に涙が落ちてきていた。そんな表情をフィリウスに見られたくなくて、俯く。
どうして。これまで何度も口にしてから後悔したのに、どうして同じことを繰り返してしまうのだろう。
この城に来てから、一週間に少なくとも五回ぐらいは同じことをくよくよと考えてしまっている。
他の誰と話していても自身の発言に後悔したことはないのに、フィリウスと一緒にいると余計なことを言ってしまうのはどうにかしないといけないのに、治せない。
けれど、フィリウスはいつも通り優しくて。
いつの間にか少し部屋の中が暗くなったな、と思ったら、感じたのはいつものぬくもり。
正面からだけでなく、背中をポンポンとされたのはおとついのと変わらず子供扱いなのかもしれないけれど、嫌な感じはしなかった。
「落ち着いたか?」
「はい。いつも急にご迷惑をおかけしてしまって、ごめんなさい」
「君が謝る必要などない。いつもそう言っているだろう? 今回だってそうだ。君は誰かを苦しめるためにわざとジャガイモに毒を入れたのか?」
「そんなことはしませんっ!」
「君は罪を犯していないのだから、私が先に死んだころで君が追い出されるようなことはない。もっとも、君をのこして先に死ぬつもりは一切ないがな」
「つもり」。未来なんて分からないものなのに、フィリウスが言うと不思議とどんなことでも本当になる気がする。
そんなふうに少しだけ前向きな気持ちになれたところで、ベネディクトから声がかかる。
「落ち着いたようじゃの。話を続けてもよいかの?」
「はい。お騒がせしましたっ」
再びリーナがソファに座ると、同じようにフィリウスもすぐ隣に腰を下ろす。
レックスが軽く口笛を吹くと、フィリウスは彼に視線を送っているようだった。
けれど、斜め後ろからでは彼がどんな視線を送っているのかまでは、うかがい知ることはできなかった。
「では続けるぞ。アルトがジャガイモを食べたのはじゃな──」
ベネディクトによると、アルトが新米料理人に言ってジャガイモを食べたのは深夜のことらしい。
翌朝はまだ何もなかったけれど、昼前には症状が出て寮に戻ったのだという。
「父上。つまり、アルトが食べてからフィルたちが確認するまでの半日ぐらいの間にジャガイモはあのカフェまで運び出されたってことですよね?」
「ああ。じゃがそうなると──」
「協力者がいる。それも、城の中のあらゆる場所に自在に人を送り込むことができるぐらいの大物だ」
声が聞こえた方に顔を向ければ、フィリウスは紅茶を口にしていた。
「あのっそもそもなんですけれど。協力者というのは一体──」
誰の協力者なのだろうか。そう思ってフィリウスに尋ねようとすれば、言い終わるよりも速く彼から答えが返ってくる。
「反現王家派、といったところだろうか」
沈黙に包まれた部屋に、ティーカップとソーサーが触れ合う音だけがやけにうるさく響いた。